8話 誰にも知られぬ癒やしの時間
アリアは精霊たちの導きに従い、夜の静寂の中で行動を開始した。
目指したのは、カイルの執務室の裏手——強固な石造りの壁の先に鎮座する、領地で最も深く、古き理を宿した井戸の傍だった。
近年のカイルは、魔力過多がもたらす熱病のような高熱と倦怠感に、昼夜問わず苛まれていた。特にこの数日は症状が重く、意識が朦朧とする深夜にしか眠りにつけない。アリアはその夜更けを狙った。
本来なら近寄ることすら許されない場所だが、今夜は精霊たちが味方だった。彼らが監視の兵士たちの意識をそっと逸らし、影を濃くして死角を作る。その隙に、アリアは一人、深い闇を湛えた井戸の縁に立つことができた。
(精霊さん、お願い……。彼の苦しみを、この水脈へ。そして、この冷えた領地の土へ分けてあげて)
アリアが井戸の縁にそっと手をかざし、目を閉じて精霊たちに語りかける。
無色の聖女で魔力なしと蔑まれてきた彼女の身体は、精霊との対話によって、この瞬間、不純物を一切含まない極めて純粋な導管へと変質した。
刹那、空気が震えた。
窓のない執務室から、目に見えない黒い魔力の奔流が、壁を透過してアリアの元へと流れ始めたのだ。それは、カイルの巨躯に収まりきらず、絶えず彼を内側から焼き、溢れ出ていた過剰なエネルギーそのものだった。
「……っ!」
アリアは思わず息を詰めた。
魔力が水脈へと解き放たれるにつれ、凍てついていた大地が、わずかに息を吹き返したような感覚があった。
それは破壊の力ではなく、静かに巡り、土地を支える守護の循環。
アリアは、精霊たちの光に包まれながら、その流れが安定したことを確かめる。
「……これで、いいのよね」
精霊たちは答える代わりに、やさしく光を揺らした。
アリアは自分の胸に手を当てる。
身体に劇的な変化が起きたわけではない。
けれど、自分の内側にあった空白が、初めて意味を持ったような、不思議な静けさが残っていた。
——何も持たないのではない。
——ただ、乱れたものを乱さずに受け止める場所なのだ。
アリアはその感覚を胸に刻み、誰にも気づかれることなく、その場を後にした。
これはまだ、誰にも知られていない癒やしの時間。
辺境伯と聖女、そしてこの領地の運命が、静かに結び始めた夜だった。




