72話 次期国王のお忍び視察 ―重なり合う二つの光―
国王の座を継ぐことが決まった王太子アーサーと、王妃教育を終えたリリアは、正式な即位を前に辺境伯領へのお忍び視察へと向かった。
馬車から見渡す辺境は、かつての陰鬱な記憶を塗り替えるほど、生命力に溢れていた。窓の外には、地平線まで続く黄金色の麦畑が秋風にさざ波を立て、たわわに実った果樹園からは甘い香りが漂ってくる
かつて婚約者としてこの地を訪れたリリアにとって、それは信じがたいほどの変貌だった。これこそ、カイルの安定した魔力と、アリアの無色の聖女としての調和が巡らせた結果。
アーサーは、親友カイルが真に救われ、領民に愛される領主として立つ姿を目の当たりにし、深い感慨に浸っていた。
城の門前でカイルが二人を出迎える。王宮舞踏会でその真の姿を披露した時以上の、内面から滲み出るような威厳と穏やかさを湛えたカイルを見て、アーサーは微笑んだ。
「カイル、改めて……君がこの地で真の安らぎを得たことを、心から祝福するよ。あの舞踏会で見た時よりも、ずっといい顔をしている」
「ああ。アーサー、そしてリリア殿。遠路はるばるよく来てくれた。歓迎しよう」
カイルは黒曜石の瞳に友愛を宿し、アーサーの手を握った。かつて王都で、互いの孤独を分かち合った戦友としての絆が、そこには確かに流れていた。
その夜。広々とした談話室では、大きな暖炉に火が入り、薪のはぜる音が心地よく響いていた。
部屋の中ほどでは、アリアとリリアが隣り合って座り、静かに語らっていた。
二人は侯爵家にいた頃から、冷酷な両親の目を盗んでは、隠しておいたお菓子を分け合ったり、他愛のない話をしたりする仲の良い姉妹だった。
「……辺境が、こんなに優しい光に満ちた場所になるなんて。お姉様がこの地の冷たさを溶かしてしまったのね」
リリアがアリアの手をぎゅっと握りしめた。
「私、お姉様がここへ嫁ぐと決まった時、本当はあのご両親から引き離せて良かったと思っていたの。でも、送り出すときには冷たい言葉しかかけられなかった。……ようやく、あの家の一員ではなく本当に“お姉様の妹”としてここに来られたわ」
リリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。アリアは、リリアを優しく抱き寄せた。
「わかっていたわ、リリア。貴女が時々、隠れて私の部屋に来てくれたこと……。貴女のその清らかな優しさがあったから、私はあの家で孤独にならずに済んだのよ。貴女も、完璧な聖女として、自分を押し殺しながら戦っていたのでしょう?」」
「お姉様……っ、大好きよ、お姉様……!」
リリアはアリアの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。聖女としての清らかな魂を持つ彼女が、長年背負ってきた完璧という名の鎧を脱ぎ捨て、ただの妹に戻れた瞬間だった。
そんな彼女たちの邪魔をしないよう、カイルとアーサーは少し離れた窓際のソファで、静かにワインを傾けていた。
「……すまなかった、カイル。あの舞踏会で君の姿を見た時、私はただ驚くばかりで。君を救えなかった過去を、どう詫びればいいか分からなかったんだ」
アーサーが、手元のグラスを見つめたまま低く呟いた。
「気にするな。あの絶望があったからこそ、私はアリアに出会えたのだから。……それに、アーサー。リリア殿も同じだろう。彼女もまた、あの歪な家で孤独にお前を待ち続けていた一人だ」
アーサーは驚いたようにカイルを見た。カイルは淡く微笑み、続けた。
「お前が彼女をどんな目で見つめていたか、私はずっと知っていたぞ。これからは、王太子としての責任だけでなく、彼女の隣にいる一人の男として、その手を離さないでやってくれ」
アーサーは苦笑し、観念したように息を吐いた。
「……カイル、君には敵わないな。ああ、そうだ。私は彼女が背負わされている重荷を、今度は共に歩くことで軽くしていくと決めたんだ。カイル、君がアリア殿に救われたように、私もリリアに救われた」
アーサーは窓の外、収穫を待つ静かな実りの領土を見渡した。 月明かりに照らされた黄金の海は、これから始まる二人の、そして王国の明るい未来を象徴しているようだった。
「この国は変わる。君と私が、そしてあの清らかな魂を持つ姉妹が手を取り合えば、二度と思い通りにならない悲劇に泣く者は出さない」
「ああ。約束しよう、アーサー」
二人の男は、暖炉の温もりに包まれながら、静かに、しかし固い握手を交わした。
室内には、ようやく泣き止んだ姉妹の、穏やかで明るい笑い声が静かに広がっていった。




