71話 カイルの回想
アーサー次期国王からの親書を読み終えた後。
カイルは安らかな寝息を立てるアリアの身体に毛布をかけ直し、寝室に隣接する自身の書斎へと移動した。
ここは公式な政務を行う執務室とは異なり、カイルが独りで思考に耽り、あるいはアリアと静かに語らうためだけに設えられた私的な空間である。
暖炉の火を熾し、一人で静かにワイングラスを傾けていると、先ほど読んだ書簡の内容が、今は義妹となったリリア・リーゼンバーグと過ごした、冷え切った過去を呼び起こす。
アリアと出会う、わずか一年前のことだ。カイルが二十二歳、リリアが十五歳の頃。
聖女判定で強力な聖女の力を宿し、王都の期待を一身に集めていたリリアは、カイルの呪いを鎮める聖女の候補として、形式的な婚約者に選ばれていた時期があった。
当時のカイルにとって、彼女は自分を怪物から人間に留めておくためのいわば最後の手立てに過ぎなかった。そしてリリアにとっても、恐るべき辺境伯との婚約は、侯爵家の名誉のために受け入れざるを得なかった、、年若い身にはあまりにも重い役割だった。
「リリア・リーゼンバーグ……」
カイルが記憶しているのは、彼女の圧倒的な聖女としての力。そして、その並外れた能力をもってしても、受け止め、溶かし、循環させることができなかったという失望の事実だけだ。
リリアの聖女の力は、カイルの魔力と同調し、高め合うことはできても、調和させて静めることができない。彼女の輝きはカイルの闇を照らし出すにはあまりに強すぎ、反発し合ってしまう。彼女は、カイルを救う聖女にはなれなかったのだ。
それは、完璧な聖女として振る舞わねばならなかった彼女が、誰にも言えず胸の奥底に秘めていた静かな挫折でもあった
。
そんな折、王都ではアルフレッドが浅慮な野心を燃やしていた。彼はリリアの稀有な力を王家の私物にするため、辺境伯との盟約など意に介さず、強引な画策をもって彼女を王都へと引き戻したのだ。
結果、カイルと彼女の婚約は、わずか一年前という直近に解消という形で幕を閉じた。
カイルはその時、「最強と謳われる聖女ですら、私を救うことは叶わなかった」と、それまで以上に深い諦念を抱いたのを覚えている。
あの絶望の淵にいた一年前の自分は、その直後に現れたアリア――
魔力を持たず、ただ“受け入れ、巡らせる”無色の聖女である彼女こそが、自分を救う唯一の真実になるとは、夢にも思っていなかった。
しかし、カイルの脳裏には、解消後の舞踏会で目撃した、ある一瞬の光景が蘇った。
怪物として忌避されていたカイルは、会場の隅で独りワインを飲んでいた。
その傍らで、リリアはアルフレッドと華やかに談笑し、衆目を集めていた。
その時、カイルは捉えたのだ。
公務の合間に会場を巡っていた王太子アーサーが、ほんの一瞬だけ、王太子としての仮面を失い、痛切なまでの切なさを湛えた目でリリアを見つめていたのを。
(あの時の、アーサーの目だ……)
当時のアーサーは、王家の腐敗と弟の野心に対し、孤独な戦いを続けていた。
国の基盤を守るという重責を背負った彼は、私的な情愛をすべて切り捨てる必要があったのだろう。
リリアが「王都の星」に据えられたとき、アーサーは己の立場ゆえに、彼女への感情を自ら封じ込める選択をしたのではないか。
「アーサーの初恋は、リリアだったのかもしれないな……」
カイルは、アーサーの責任感という冷たい壁が、二人の感情を長年引き裂き、すれ違わせていたのだと今になって悟った。
カイルは、書斎と繋がった寝室の扉へ目を向けた。その先には、彼が守り抜くと誓った最愛の妻が眠っている。
リリアの強大な聖女の力でさえ成し得なかった調和を、アリアの無色の力が成し遂げた。
それは力の優劣ではなく、在り方の違いだった。
リリアとの婚約解消から、アリアとの運命的な出会い。すべては、この平穏へ辿り着くための、必然の巡り合わせだったのだ。
カイルは、残りのワインを飲み干すと、書斎の明かりを落として再び寝室へと戻った。
ベッドに横たわるアリアの柔らかな頬に、そっと指先で触れる。
「……王都を照らす眩い星ではなく、辺境の片隅で静かに光るこの温もりが、私にとっての真の救済だった。そして、アーサーの愛も、ようやく正しい場所を見つけたのだろう」
カイルはアリアの温もりを隣に感じながら、自身の世界のすべてがここにあることを再確認し、静かに目を閉じた。




