60話 初恋の錯覚と茫然自失 — 届かなかった純情
王太子として、常に完璧な国の象徴であることを求められてきたアーサーにとって、心の中に唯一許された自由。それは、侯爵令嬢リリアへの長年の恋慕であった。
アーサーは、公務の合間に見かけるリリアの姿を、誰にも気づかれぬよう密かに瞳に焼き付けていた。
聖女として真摯に学び、祈りを捧げる横顔。そして、時折ふとした瞬間に、侍女や幼い子供たちへ向ける素直で柔らかな優しさ。彼女のその光は、権謀術数が渦巻く冷え切った王宮で戦うアーサーにとって、明日を照らす唯一の希望となっていたのだ。
「いつか……この公務の重圧から解放され、この国の基盤が整った暁には……」
王太子という立場ゆえ、感情を面に出すことは許されなかった。だが、リリアもまた、アーサーと視線が合うたびに頬を染め、恥じらうように目を伏せる。そのささやかな反応に、アーサーは「彼女も私を憎からず想ってくれているのではないか」という密かな自負を抱いていた。
しかし、その淡い夢は、残酷な王命によって一度目の崩壊を迎える。
カイルへの生贄として、リリアと辺境伯の婚約が内定したという知らせだった。
アーサーは愕然としたが、親友カイルへの友情と、国を守るための王家の決断を前に、自らの恋心を押し殺そうと必死に耐えた。
「カイルであれば、リリア嬢を不幸にはしないはずだ。それが国のためならば、私は……」
血を吐くような思いで身を引く覚悟を決めたアーサー。だが、事態は彼の想像もしない歪な形へと変貌した。
アリアがリリアの身代わりとして辺境へ嫁ぎ、そして弟アルフレッドがリリアを自らの婚約者として迎え入れたという知らせが届いた時、アーサーは言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「なぜだ……。なぜ、リリア嬢がアルフレッドと……?」
アルフレッドがリリアを権力の道具としてしか見ていないことを、アーサーはよく知っていた。そして何より、リリア自身がその婚約を喜んで受け入れたという報告が、アーサーの心を鋭く突き刺した。
(リリアは……初めから、アルフレッドを愛していたのか……!)
アーサーが大切に守り続けてきた、あの微笑みも、恥じらいも。それらすべては自分ではなく、より華やかで野心的な弟に向けられたものだったのではないか。かつて自分が「彼女も私を想っている」と感じたあの日々は、ただの独りよがりな幻想だったのではないか。
「よりによって……なぜ、あいつなんだ……」
アーサーは深い絶望に包まれ、茫然自失となった。
信じていた絆も、秘めていた純情も、すべてが砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
自分がこの国の未来を案じ、カイルのために泥を被りながら孤独に戦っている間、最愛の女性は、自分を道具としか見なさない弟の腕の中に、自ら飛び込んでいったのだ。
その夜、アーサーは明かりも点けぬ執務室で、一人闇を見つめ続けた。
彼の心に灯っていた最後の光が、今、静かに、そして残酷に消えようとしていた。




