44話 辺境伯夫妻、王都の舞踏会へ — 鉄壁の絆と精霊の祝福
分けると中途半端になるのでかなり他の話と比べると長いです。
王都は、ローゼンベルク辺境伯の快気を祝うという名目で、大規模な王城舞踏会を催した。
だが、その華やかな帳の裏では、第一王子アルフレッドによる卑劣な離間工作が静かに進行していた。
会場の扉が開いた瞬間、場内は静まり返り、次の瞬間には割れんばかりのざわめきに包まれた。
そこには、純白に近い白銀の正装に身を包み、鋭い黒曜石の瞳を光らせるカイルと、夜の闇を溶かしたような漆黒のドレスを纏い、赤紫からピンクへと移ろう幻想的な瞳を輝かせるアリアが立っていた。
玉座に座る国王ヘンリックは、完全なる復活を果たしたカイルを前に、はっきりとした危機感を覚えていた。
もはや辺境の守護者ではない。もし敵に回れば、王国そのものを揺るがしかねない存在――。
王としての理性が、冷たく警鐘を鳴らしていた。
また、アルフレッドの婚約者として控えるアリアの妹リリアも、姉の未知の輝きに圧倒され、祝福と嫉妬が入り混じった複雑な心境で唇を噛んでいた。
アルフレッドは、自分の目を疑った。かつて蕾のまま枯れたと嘲笑ったあの少女はどこにもいない。そこに立つのは、かつての儚さを脱ぎ捨て、内側から静かな生命の輝きを放つ、神々しいまでの美女だった。
(……あの一節は、こういう意味だったのか?
聖女の力が満ちれば、姿すらも作り変えられるというのか……!)
自分が手放したものの価値の大きさに、アルフレッドの心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
気づけば、足が動いていた。
リリアを伴っていることすら忘れ、アルフレッド王子は一人、二人のもとへ歩み寄っていた。
アルフレッドはゆっくりと歩み寄り、目を細めた。
「……見違えたよ、アリア」
まるで信じられないものを見るような声音だった。
「王宮にいた頃より、ずっと美しくなった」
視線が執着を帯びる。
「どうかな。一度こちらへ戻ってきては。
王宮には――君のための席を、いつでも用意してある」
支配欲の滲む視線を、カイルが静かに遮った。
「殿下。――アリアは私の妻です。ローゼンベルク辺境伯夫人と。」
一瞬、空気が凍りつく。
「我が妻の居場所は、私の隣以外あり得ません」
仮にも王族へ向けるにはあまりにも明確な拒絶。
周囲の貴族たちは息を呑んだ。
アルフレッドは燃え滾る怒りを内側へ押し込める。ここで事を荒立てれば自分が不利だ。
「相変わらずだな」
形だけの笑みを浮かべ、引く。
だがその瞳だけは、冷たく燃えていた。
(今に見ていろ……これからが見ものだ)
「失礼する」
カイルは慇懃に会話を打ち切った。
カイルは視線を柔らかく戻すと、アリアへ手を差し出した。
「行こうか、アリア」
「はい。カイル様」
指先が重なった瞬間、二人の間にだけ流れる呼吸が揃う。
それは他者の入り込めない、完成した絆だった。
ゆるやかに音楽へ溶け込むように、二人は最初の一歩を踏み出す。
――その刹那。
奇跡が、王都の夜を塗り替えた。
窓の外から、壁や床の隙間から、淡く輝く無数の光の粒が溢れ出した。
ローゼンベルク城での再来。精霊や妖精たちの祝福の光は、うねるような輝きの奔流となり、舞踏会場全体を幻想的な白銀の世界へと変えていく。
シャンデリアに仕込まれた魔石が、二人の奏でるダンスのステップに合わせて激しく共鳴した。
だが、映し出されたのはカイルの醜い澱みなどではなかった。二人の魂が溶け合う完璧な白の輝きだった。
偽りの真実を強要しようとした魔石は、その眩しさに耐えかねたように、悲鳴を上げて粉々に砕け散った。アルフレッドの卑劣な目論見が、二人の真実の絆によって物理的に打ち砕かれた瞬間だった。
◇
ダンスが一段落し、カイルには挨拶を求める貴族たちが次々と集まってきた。
辺境伯の快気を祝う名目もあり、その輪は自然と大きくなっていく。
気づけば、アリアとの間には人の壁ができていた。
しばらくのあいだ、社交辞令と祝辞が絶え間なく続く。
人垣の向こうには、穏やかに微笑むアリアの姿が見えていた。
ほんの少し離れているだけ――そう思っていた。
その隙を突くように、公爵令嬢セシリア・ヴァレンティーヌがしなやかな足取りで近づいた。
「辺境伯様、本日はお見事でしたわ。あれほどの光景、初めて拝見しました」
セシリアは柔らかな笑みを浮かべる。
「……ところで、奥方様のお姿が見えませんけれど。
先ほど少しお疲れのご様子で、侍女が休める部屋へお連れしたと伺いましたの」
「よろしければ、わたくしがご案内いたしましょうか」
アリアの姿が見えないことは、確かにカイルも気にしていた。
カイルの眉がわずかに動く。
先ほどまで、確かに広間の端にその姿を確認していたはずだ。
「……そうか」
わずかな違和感はあった。
だが――妻を案じる気持ちが、それを上回る。
カイルは短く頷いた。
「頼む」
セシリアは優雅に微笑み、静かな廊下へと歩き出した。
◇
人の気配が遠のき、客室の並ぶ静かな一角へ辿り着く。
セシリアは静かな廊下の奥にある一室の前で立ち止まった。
「こちらですわ」
扉が開かれる。
カイルは一歩中へ足を踏み入れ、室内を素早く見渡した。
――誰もいない。
その瞬間。
背後で、かすかな金属音。
カチリ。
鍵が掛けられる音だった。
カイルはゆっくりと振り返る。
黒曜石の瞳から、すっと温度が抜けていく。
「……どういうつもりだ」
セシリアは扉の前で微笑んでいた。
先ほどまでの社交的な仮面とは違う、熱を含んだ笑み。
甘く濃密な香りが室内に漂う。
魔力を乱す香油――。
「辺境伯様ほどのお方を、ほんの少しだけ独り占めしてみたくなりましたの」
カイルの視線は揺れない。
「――アリアは、どこだ」
その声音は低く、感情を削ぎ落としたものだった。
セシリアは肩をすくめ、艶やかに笑う。
「奥方様のことばかり。……でも、少しはご自身のこともお考えになってはいかが?」
ゆっくりと距離を詰める。
「その強大なお力を、ずっとお一人で抱えていらっしゃるのでしょう?
あの眩しすぎる聖女様では、貴方の内なる渇きを癒やすことなど――」
一歩。
「私なら、その重荷を極上の悦楽へ変えて差し上げられますわ」
指先が伸びる。
その刹那。
「――触れるな」
空気が凍りついた。
次の瞬間、氷点下の拒絶とともに魔力が衝撃波となって放たれる。
「あ……っ!?」
セシリアは触れることさえ叶わず、床へ弾き飛ばされるように尻餅をついた。
カイルの瞳はただ静かだった。
怒りはない。
ただ、完全なる拒絶だけがそこにある。
「公爵令嬢。私を癒やせるのは世界でただ一人、アリアだけだ」
低く、鋼のような声。
「貴様のまやかしなど、取るに足らない雑音に過ぎない」
一瞥もくれず、カイルは踵を返す。
「待って! 待ちなさい、カイル・ローゼンベルク!」
背後で悲鳴のような声が響く。
だが彼は足を止めない。
すでに意識は、ただ一人アリアの気配だけを探していた。
◇
一方、一人残されたアリアの前には、王都一の美男子と名高いレオンハルト・クラインが歩み寄っていた。
当初、彼は王子の命に従うだけのつもりだった。
だが――間近で見たアリアの姿に、思考は一瞬で塗り替えられる。
白銀の髪。
深い熱を宿したグラデーションの瞳。
触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、それでいて目を離せない存在感。
(……なんて神々しく、可憐な方なんだ)
心臓が跳ねる。
(殿下のおっしゃる通りだ。あんな怪物の隣にいるべき方ではない)
(私こそが、この美しい花を救い出さなければ)
レオンハルトは完璧な微笑を浮かべ、自然な距離で歩み寄る。
「レディ、少しお疲れではありませんか。今宵はどなたも貴女に目を奪われています」
「……ありがとうございます。でも、私は――」
「ほんの少しだけ、息をつける場所へご案内しましょう」
柔らかな声。押しつけはない。
それでいて断る隙を与えない流麗さ。
「外の風は心地よいですよ。ここは少し熱気がこもりすぎている」
アリアはわずかに眉を寄せた。
――妙だ。
言葉は丁寧。
距離も礼儀の範囲。
それなのに、どこか落ち着かない。
視線を巡らせる。
カイルの姿は人垣の向こうに埋もれて見えない。
(……早く戻らなくては)
そう思いながらも、無下に断る理由が見つからない。
「すぐ戻れるのなら……」
小さく頷く。
「もちろんです。ほんの少しだけ」
柔らかな微笑。
けれど、その笑みがなぜか冷たく感じられた。
気づけば、人波から離れた回廊を歩いていた。
「……こちらでよろしいのですか?」
今度ははっきりと警戒の色が滲む。
「ええ。誰にも邪魔されません」
その言葉が、逆に胸をざわつかせた。
やがて辿り着いたのは、人気のないテラス。
月明かりの下、レオンハルトは静かに歩みを止める。
そして――逃げ場を奪うように、両手を壁に突いた。
その手には、禁忌の魔薬『忘却と陶酔の雫』を忍ばせたワイングラスがあった。グラスの中で揺れる液体は、飲む者の精神を汚染し、最初に目にした者へ深い依存心を抱かせるどろりとした術式が混じり合っている。
「卿、離してくださいませ。夫が参ります」
「……いいえ、行かせません。あんな怪物の影で、貴女の清らかな心が悲鳴を上げている。……私が、その呪縛を解いて差し上げましょう」
アリアが拒絶しようとしたその瞬間、レオンハルトはグラスを自らの唇に当て、狂信的な瞳で顔を寄せた。
「……拒まれるというのなら。では……口移しで差し上げましょうか」
そのまま強引に唇を奪おうとした刹那、背後から世界を押し潰すような凄まじい魔圧が爆発した。
「――何をしている」
低く、地を這うような声。
振り向く間もなく、鋼鉄のような力がレオンハルトの手首を掴む。ミシリ、と不穏な音が響いた。
だが、その恐怖こそがレオンハルトの狂気をさらに強める。
(やはりそうだ……! この禍々しい力に、この方は囚われているのか!)
カイルはレオンハルトの手首を捻り上げると、その手にあったグラスを奪い取り、床に叩きつけた。粉々に砕けたグラスからは、術式の残滓が淡く揺らめき、すぐに霧散した。
「不愉快だ。――我が剣の錆になりたくなければ、二度とその姿を見せるな」
カイルはレオンハルトをゴミのように突き放し、すぐさまアリアの腰を愛おしそうに引き寄せた。
「……すまない、アリー。一人にして不快な思いをさせた」
「いいえ、カイル様。……信じていましたから」
二人の絆を目の当たりにしたアルフレッドは屈辱に顔を歪め、惨めに這いつくばるレオンハルトの瞳には、より暗い執着が宿った。
社交辞令の皮を被った激しい攻防戦は幕を閉じた。
だが、王都に生まれた執念は、静かに、より深い闇へと沈んでいった。




