42話 老侍女エミリアの祝福
亡き両親の私室で母の手記を見つけてから数日後。カイルはアリアを伴い、城の敷地内にある隠居所を訪れた。
そこには、母アンジェリカに長年仕え、カイルの成長を一番近くで見守ってきた老侍女エミリアが静かに暮らしていた。
カイルの姿を認めるなり、エミリアは枯れた瞳に涙を溜め、震える声で呟いた。
「カイル坊ちゃま……。ああ、失礼いたしました。カイル様……アンジェリカ奥様がご覧になったら、どれほどお喜びになったことか。あの頃の、優しすぎる、そのままの貴方様にお戻りになられたのですね」
再会を涙ながらに喜んだエミリアは、次に傍らに立つアリアへと向き直った。その目は、単なる礼儀を超えた、深い敬慕の念に満ちていた。
「そして……貴女様がアリア様ですね。よくぞ、よくぞいらしてくださいました。ローゼンベルクの地へ、そしてカイル様の元へ。アンジェリカ奥様に代わり、心より歓迎申し上げます」
エミリアは、アリアの白銀の髪と、その清らかな瞳を慈しむように見つめた。
「アリア様。貴女様がこの地を歩まれる姿を見て、領民たちは『白銀の女神様が微笑んでくださった』と噂しておりますよ。奥様も生前、いつかカイル様を救いに現れるお方は、貴女様のような清らかな光を纏った方だろうと、常々仰っておりました」
「私のことを……そのように仰ってくださっていたのですか?」
驚くアリアに、エミリアは優しく頷いた。そして、アンジェリカから「いつかあの子が、その方を連れてきたら渡してほしい」と託されていた、表紙の擦り切れた古い一冊の本を差し出した。
それは、ローゼンベルク領の子供なら誰もが知る古い逸話集、『銀の錨と黒い海』だった。
「カイル様。奥様はこの物語をただの童話ではないと仰っていました。この一節こそが、ローゼンベルクの血筋が抱える宿命を説く鍵なのだと」
エミリアが示したページには、アンジェリカの細い筆跡で、ある一節に線が引かれていた。
『漆黒の海のごとき魔力持つ者、その波濤を鎮めるのは、無色の輝きを放つ白銀の錨なり』
「奥様は、カイル様の強すぎる力を跳ね返すのではなく、ただ深く、すべてを受け止めてくれる白銀の魂を持つ女性――そんな方が、いつか必ず現れると信じておいででした。アリア様、貴女様こそが、亡き奥様が夢にまで見た『救いの錨』に他なりません」
エミリアの語る母の確信と、老侍女の温かな歓迎を胸に、二人は静かに隠居所を後にした。
帰り道、城へと続く木漏れ陽のさす小道で、カイルはふと足を止めた。
手には、先ほど受け取った古い逸話集が握られている。
カイルは、アリアの白銀の髪と、その清らかな瞳を見つめた。
10歳を過ぎて魔力が制御不能となり、かつてはその奔流によって女性の命を奪ってしまった過去。自分は愛してはいけない人間なのだと、自分を責め続けてきた日々。
だが、母が遺したこの本は、アリアこそが壊れない存在であることを、古の伝承と母の直感をもって示していた。
カイルは、大切に保管されていたその絵本を愛おしそうに撫で、ある頁を開いた。
そこには、王宮の禁書が『器の欠落』と書き換え、歪めて封じた言葉の、真実の姿が刻まれている。
「……無色とは、器の欠落にあらず。万色を呑み込み、真実の姿へ還す凪の証なり。其が真の力を放つは、熱き盾の者とまみえし時のみ。漆黒の夜は無色の空を抱きて、初めて真実の夜明けを知る」
「……そうか。私はずっと、独りでこの禍々しい力と戦っているつもりだった。だが、母上は、私がアリーという救いに出会うことを、最初から信じて導いてくださっていたのだな」
カイルの声には、長年の重圧から解放されたような安堵が混じっていた。彼はアリアの両手をそっと、けれど壊れ物を扱うような慎重さで包み込んだ。
「アリー。私は……自分のこの力が、そして君を求めて止まないこの執着が、いつか君をも壊してしまうのではないかと、そればかりを恐れていた。だが、もう恐れない。母上が、そしてこの地が待ち望んでいた君という錨を信じて……私は、君を一生かけて愛し抜く」
カイルの言葉を聞いた瞬間、アリアの目から大粒の涙が溢れ出した。
王都でできそこないと蔑まれ、役立たずの烙印を押された無色の力。それは価値がない証だと言われ続けてきたけれど、カイルの母にとっては、愛する息子を救える唯一の光だったのだ。
「……っ、カイル様、ああ……っ! 私……っ、私は、このために……っ、このために生まれてきたのですね……!生きててよかった」
アリアは激しい嗚咽を漏らし、その場に崩れ落ちそうになった。自分を否定し続けてきたこれまでの人生が、たった一行の古の言葉によって、温かな祝福へと塗り替えられていく。
「アリー!」
カイルはすぐさま彼女を力強く抱き寄せた。彼女の白銀の髪に顔を埋め、その震えをすべて自分の胸で受け止める。
アリアの身体に触れるたび、荒れ狂っていたカイルの魔力が、嘘のように静かな光へと溶けていく。それは奪われる感覚ではなく、自分のすべてが肯定され、満たされていくような、かつてない調和の心地よさだった。
「君が無色でいてくれたからこそ、私の荒ぶる力は、ようやく還るべき場所を見つけられた気がする。……君がアリアで、本当によかった。この無色こそが、私を救う唯一の光だったんだな」
「う……っ、ひぐっ……カイル様……っ、ありがとうございます……っ」
アリアはカイルの衣を強く掴み、子供のように声を上げて泣き続けた。カイルは彼女が落ち着くまで、何度もその背を撫で、慈しむように抱きしめ続けた。
世間から疎まれた漆黒の魔力と無色の聖女。
その二つの特性は、お互いを補い合うために用意された、完璧なパズルのピースだった。
木漏れ陽の中で重なり合う二人の姿は、ようやく正しい場所に収まった錨と、その錨によって安らぎを得た海そのものだった。母アンジェリカが託した物語は、今、二人の真実の愛として、新たな一ページを刻み始めたのである。




