40話 拾われた「子犬」とカイルの不満
ある雨の日、アリアは城の敷地内で、泥まみれで震えている小さな動物を見つけた。
その姿を、アリアは手放せないほど哀れに思い、手負いの子犬だと思い込んで城へ連れ帰った。
しかし、その正体は子犬などではなかった。
それは辺境の深部に生息し、成長すれば山をも崩すと言われる強力な魔獣シャドウファングの幼獣だった。
毛並みは漆黒、瞳は燃えるような金色。
だが、その幼獣はアリアの放つ無色の光に瞬時に絆され、手当てを受ける間もクゥンクゥンと甘えた声を出し、彼女の足元から一瞬たりとも離れようとしなかった。
(ふふっ なんだかカイル様に似ているわね)
この状況に、誰よりも激しい不満を抱いたのはカイルだった。
「アリー! なぜそのような毛玉を城に入れるのだ! あれはどう見ても魔獣だろう!」
「カイル様、ですが、この子はまだ幼く傷ついています。それに、この子の魔力はとても純粋で、悪意はありませんよ」
アリアは幼獣を抱き上げ、優しく撫でる。
魔獣の子は、カイルを警戒するように金色の瞳で威嚇するが、アリアの腕の中では安心しきって懐いている。
カイルは、アリアの膝の上で安穏とするその毛玉を見て、激しく舌打ちをした。
アリアが休憩のためにソファに座り、魔獣の子を床に降ろしたとき、事件は起きた。
魔獣の子は嬉しそうにソファへ飛び上がると、アリアの顔に乗り上げ、あろうことか彼女の頬や唇を熱心にペロペロと舐め始めたのだ。
「きゃっ、くすぐったいですよ。良い子だからやめなさい……ふふっ」
アリアが笑いながら宥めるその光景に、カイルの黒曜石の瞳は激しい嫉妬の炎を宿した。
「そこまでだ、魔獣め……!」
ブワッと、制御を忘れたカイルの強大な魔力が膨れ上がる。
部屋の空気が一瞬にして重くなり、魔獣の子は本能的な恐怖に震え上がり、ソファの下へと逃げ込んだ。
カイルは大股で詰め寄ると、ソファに座るアリアの腰にギュッとしがみついた。
その引き締まった強靭な身体も、研ぎ澄まされた魔力も、今はただ幼児のように拗ねた感情に支配されている。
「アリー! なぜあんな毛玉に君の唇を許すのだ! そこに触れていいのは、私だけだろう!」
カイルは大きな頭をアリアの膝に押し付け、必死にすり寄る。
「カイル様、一体どうされたのですか。まるで、拗ねた子どものようですよ?」
「そうだ、私は拗ねている! アリーは私との愛の交換だけで、そのすべてを満たされるべきだ。あんな魔獣に君の注意を奪われるなど、断じて我慢ならん!」
威厳ある辺境伯の姿からは想像もできないほど甘えた声。カイルはアリアを離さず、駄々をこねて膝枕を強請った。
「アリー、膝枕をしてくれ。そしてあいつを拾ってきた罰として、今日一日は私のことだけを見て、何度も愛していると囁き続けてくれ」
自分の膝に乗る重みのある頭と、まるで大きな子犬のように縋り付いてくる夫。アリアはその姿を心底愛おしく思い、艶やかな漆黒の髪を優しく撫でた。
「ふふ、わかりました、カイル様。貴方が世界で一番です。私にとっても、貴方様への愛情は、この子への同情とは比べ物にならないほど強いものですよ?」
アリアが機嫌を取るように顔を近づけ、カイルに口づけを落とすと、彼はようやく満足げに表情を緩めた。
張り詰めていた嫉妬の魔力は急速に安定し、再び深い愛のエネルギーへと昇華されていく。
(くそ、あんな獣一匹に、私はここまで理性をかき乱されるのか。だが……アリーが私だけに夢中になってくれるなら、これもありか……)
カイルは、魔獣に嫉妬することでアリアの愛を再確認し、それによって魔力がより一層調和されるという、特殊な愛の循環サイクルを確立してしまった。
「……アリー、もう一度。今度はもっと、長く……」
「はいはい、カイル様」
(ふふっ 困ったお人。でもとっても可愛らしいなんて言ったら怒るかしら?)
魔獣がソファの下で震える中、辺境伯夫妻の部屋には、以前よりも増して甘い独占欲に満ちた空気が満ちていった。




