26話 愛称へのステップ:アリアの願い
それから数週間、二人は名前で呼び合う努力を続けていた。
だが、そこにはアリアならではの、切実な悩みがあった。
カイルは約束通り「アリア」と呼んでくれる。
しかしアリアは、どうしてもカイルを「カイル」と呼び捨てにすることができなかったのだ。
何度試みても、喉が震え、言葉が詰まる。
命を救われ、居場所をくれた彼を呼び捨てにすることなど、彼女の深すぎる敬愛の念が許さなかったのである。
ある晩、カイルが執務で疲れているのを見て、アリアはそっとお茶を淹れて執務室を訪ねた。
「……あの、少し休んでください。あまり根を詰めすぎては、お身体に障ります」
カイルは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、アリア。貴女の淹れてくれたお茶は、何よりも私の疲れを癒してくれる」
アリアはその言葉を嬉しく思いながらも、意を決して、ずっと胸につかえていた願いを口にした。
「……あの方、一つ、お願いがあるのです」
「なんだ? 貴女の願いなら、私は何でも叶えたい。遠慮なく言え」
アリアは俯き、ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
「前回の誓いで……お互いに名前で呼び合おうと決めました。でも、私にはどうしても……貴方を呼び捨てにすることなんて、できません」
彼女は潤んだ瞳を上げ、必死な表情でカイルを見つめた。
「貴方は私の夫である前に、私の命を救い、全てを与えてくださった尊い方です。呼び捨てにするなんて、私の心が許さないのです。……どうか、カイル様と呼ばせていただけませんか?」
それは、距離を置きたいという拒絶ではなく、あまりにも巨大な愛と尊敬ゆえの懇願だった。
対等な友人のような呼び方よりも、敬意を込めた様付けこそが、アリアにとっては最高の愛情表現なのだ。
カイルは、アリアのそのあまりに健気で純粋な想いに、胸を打たれた。
彼女は、形だけの対等さよりも、彼女なりの愛の形を大切にしたいと願っているのだ。
カイルは優しく微笑み、そっとアリアの髪を撫でた。
「……わかった。貴女がそこまで想ってくれているのなら、無理に呼び捨てにする必要はない。貴女の心地よい呼び方で、私を呼んでくれ」
「はい……! ありがとうございます、カイル様!」
アリアの顔が、花が咲いたようにぱあっと輝いた。
その響きには、呼び捨ての時とは比べものにならないほどの、深い親愛と喜びが満ちていた。
「ふふ……。では、私だけが『様』付けでは不公平だな。私も貴女を、特別な愛称で呼ぶことにしよう」
カイルは悪戯っぽく、しかし愛おしげに目を細めた。
「貴女は、私にとっての光だ。……これからはアリーと呼ばせてくれないか?」
「アリー……」
その可愛らしい響きに、アリアは林檎のように頬を赤く染め、恥ずかしさと喜びでカイルの胸に顔を埋めた。
「はい……嬉しいです。……大好きです、貴方」
感極まって自然と零れた、妻としての呼び名。
敬意を込めたカイル様と、愛を込めた貴方。
その二つを大切な宝物のように抱きしめ、二人は互いの温もりを感じながら、これまでになく穏やかで満ち足りた時間を過ごすのだった。




