25話 辺境伯様とアリア嬢
カイルとアリアは、結魂の儀式以降、毎夜のように魂の調和を重ね、
もはや誰も割って入れぬ二人となっていた。
それほど深く、命の深淵で繋がりながらも、二人は互いを依然としてよそよそしい呼び名で呼び続けていた。
カイルは「アリア嬢」と呼び、アリアは「辺境伯様」と返す。
それは、彼らが元々、政略結婚の駒として出会い、儀礼と身分を重んじる世界で生きてきたがゆえに、無意識のうちに作られてしまった壁と、拭いきれない気恥ずかしさからくるものだった。
ある日、カイルが本来の姿を取り戻し、体調も万全となってから数日後のこと。
アリアは庭園の木陰で、周囲に集う精霊たちの気配を感じながら、穏やかな時間を過ごしていた。
彼女がアルカディアス王国最北のこのローゼンベルク領に来て以来、その清らかな生命エネルギーは水脈を通じて領地全体に行き渡り、精霊たちはかつてないほど活気に満ちている。
その静かな後ろ姿を、少し離れた場所からカイルは見つめていた。
そのとき、アリアの肩や指先に戯れていた精霊たちが、彼女にそっと囁いた。
『ねえ、アリア。あの男は、まだあなたを「役割」で見ているのかしら?』
『本当の愛なら、役目ではなく、あなた自身の名前を呼ぶはずよ』
ふと、アリアは独り言のように、その言葉を呟いた。
「……名前」
背後でその呟きを耳にしたカイルは、はっと息を呑んだ。
彼は心の中では、何度も何度も彼女の名を呼んでいた。
だが口にするのは、いつも「アリア嬢」だった。
それは彼女を、辺境伯夫人としては敬っていても、一人の女性として、名を呼んで迎え入れていないことになるのではないか――。
そんな思いが、胸に鋭く突き刺さった。
その日の夜。
カイルはアリアを自室に招き、珍しく硬い表情で向き合った。
「……私は、貴女を心から愛している」
そう切り出し、彼は一度言葉を探すように視線を逸らす。
「だが……私は、未だに貴女を“アリア嬢”としか呼んでいない。結魂の儀式も終え……気持ちも、確かに通じ合ったはずなのに……だ」
照れと緊張に、言葉が少し途切れた。
「ああ……その……こう呼び続けるのは、どうなのだろうかと思ってな」
そう言って、カイルはアリアの左手をそっと取ると、その場に静かに片膝をついた。
それはまるで、女神に忠誠を誓う騎士のような、優雅で厳粛な礼だった。
彼はアリアの薬指の甲に、誓いの口づけを恭しく落とすと、真っ直ぐに彼女を見上げた。
「私は、貴女を正式な名で呼びたい。……そして、貴女にも私の名で呼んでほしい」
その瞳には、揺るぎない愛の光が宿っていた。
「これは、貴女を私の人生のすべてを分かち合う伴侶として受け入れる、私の誓いだ」
アリアの瞳に、じわりと涙が滲んだ。
彼女もまた、彼を「辺境伯様」という役割でしか呼べないことに、言葉にできない寂しさを感じていたのだ。
王都で、誰にも名を呼ばれず、存在を認められなかった日々。
彼女にとって名前とは、一人の人間として受け入れられる証だった。
アリアは、自身の左手を包み込むカイルの大きな手に、空いている右手をそっと重ねて、強く握り返した。
「辺境伯様……いえ、カイル」
その名を口にする声は、少し震えていた。
「貴方は、私に居場所と命をくれた人です。……カイルと呼べて、貴方が私の名を呼んでくださるなんて、とても嬉しいです」
その瞬間、カイルの胸に、魔力の安定とはまったく別の、温かく強い感情の震えが走った。
(愛しい人に名を呼ばれるというのは……こんなにも胸を満たすものなのか)
「……アリア」
彼女の名を呼んだ瞬間、彼女が自分の人生において、何にも代えがたい存在であることを、改めて深く実感した。
二人は静かに抱き合った。
名前を呼び合うことで、彼らの間にあった最後の壁は、音もなく取り払われたのだった。




