9話 辺境伯の目覚め
翌朝。カイルは目覚めると同時に、信じがたい異変に気づいた。
「なんだ……この軽さは?」
ベッドから身を起こす動作が、驚くほどスムーズだった。何年も彼を苦しめてきた、皮膚が内側から破裂しそうなほどの圧迫感が消え失せている。全身の細胞を焼き焦がしていた異常な高熱も引き、体温は正常な範囲まで下がっていた。
過剰な魔力を抱え込んだ身体は常に重く、筋肉までもが緊張を強いられていたが、今は見事に緩和されていた。
鏡を見れば、脂肪に覆われた体躯はそのままであるものの、淀んでいた顔色は驚くほど良くなっている。
「執事! 昨晩、この屋敷で何か変わったことはなかったか!」
カイルは勢いよく執務室のドアを開けた。立ち上がりの容易さに、彼自身が最も驚愕していた。駆けつけた執事は不思議そうに首を傾げた。
「特に異状はございません。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「夜が明けてから、庭の草木が一夜にして勢いを増したように見えます。さらに、領民が使う井戸水が今までになく清らかになったと報告がありました。まるで、何十年も澱んでいたものが一掃されたかのようです」
執事の報告を聞きながら、カイルの頭の中で点と線が繋がった。
(あの女だ。昨日、私の魔力を受け止めたあの無色の女が、何かをした……!)
カイルはすぐさま、アリアの私室へと向かった。厳重に監視させていたはずだが、兵士たちの報告では「一晩中静かに休まれていた」という。
アリアの部屋へ入ると、彼女は窓辺で静かに本を読んでいた。
その小柄で痩せた姿は、まるでそこに存在しないかのように静謐で、相変わらず一切の魔力を感じさせない。
カイルは彼女の前に立ち、巨大な影を落とした。
「貴様、昨晩何をした」
アリアは静かに本を閉じ、ゆっくりと彼を見上げた。
「辺境伯様。昨晩、貴方様の体調が優れないご様子でしたので……微力ながら、私にできることをさせていただきました」
(精霊に教えてもらったなんて、言えるわけがないわ……どうしましょう)
アリアが内心で焦るのも構わず、カイルは激しい勢いで問い詰める。
「微力だと!? 貴様のせいで、私の魔力の暴走が収まったのだぞ! 魔物討伐や戦場ですら得られなかったこの安定感を、貴様は一体どうやって……!」
「……領地の水脈と空気の循環を、少しだけお手伝いさせていただきました。あなたの魔力が、外へ流れる道を作ったのです」
(執務室の裏にある井戸を使ったことも、今はまだ内緒にしておかないと……)
カイルは興奮に大きな手を震わせた。
アリアがただのできそこないなどではないこと。そして、彼女の「魔力なし(無色)」という特質こそが、自分にとって唯一無二の命綱であることを確信したのだ。
「貴様は、私を助けた。……なぜだ? 婚約破棄され、生贄のようにこの地へ嫁がされてきたというのに」
アリアは、揺るぎない瞳でカイルを見つめた。
「私は、辺境伯様の苦しみが理解できました。そして、貴方様の命は、この領地と領民の命そのものです。貴方様がお健やかであることが、私の役割だと思ったまでです」
その言葉に、カイルは初めてアリアに対する真の好奇心と、かすかな信頼を抱いた。彼は彼女を単なる番の候補ではなく、自分の闇を救い得る救済者として見始めた。
「……わかった。当面、私の身体の安定を、引き続き貴様に任せる。その代わり、領地の水脈や土壌を使うことを許そう。ただし、監視は続けるぞ……」
アリアの元を去り、執務室へ戻ってからカイルは自分の思考を整理していた。
(確かにあの女のなんらかが作用したことには違いなさそうだが…まだ簡単に信用するのは危険だ。)
ー「……領地の水脈と空気の循環を、少しだけお手伝いさせていただきました。あなたの魔力が、外へ流れる道を作ったのです」ー
(それが真実であれば、あの場所へ連れて行くのは一番妥当と言えるだろう。万一不審な動きを見せた際にも、即座に自らの魔力で封じ込めることができる――)
それから数日後、考えのまとまったカイルはアリアを井戸のさらに下、領地の心臓部ともいえる普段は封印されているその場所へ案内した。
そこには、城の地下深くへと続く急峻な石造りの階段があった。
薄暗く、湿り気を帯びた階段の入り口で、カイルは足を止めた。彼は無言のまま、大きな右手をアリアの方へと差し出した。
アリアが戸惑いを見せると、カイルはわずかに視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「足元が悪い。……ここで貴様に転んで怪我をされては、私の治療に障る。困るのは私だ」
(こんなに痩せっぽちで小さいと危なっかしくてかなわない)
あくまで自分のためだと言い張るその言葉の裏側を、アリアは鋭く察した。彼女は微笑みを浮かべ、カイルの手に遠慮がちに、そっと手を預けた。
「ありがとうございます、辺境伯様」
カイルは思いのほか軽い感触に、カイルは一瞬だけ意識を向けたがすぐに気を引き締めるように彼女の手をしっかりと支え、一歩ずつ地下へと導いていった。
やがて階段を下りきり、カイルが重厚な扉を開くと、そこには広大な地底湖が広がっていた。
カイルの魔力の影響で、水面は鏡のように硬くこわばり、冷たい静寂が支配している。美しくはあるが、命の脈動が止まった凍てついた水源だった。
「ここはローゼンベルク領の水源だ。領地の水脈や土壌を使うことを許すとは言ったが決して一人でなにかを行うことも行くことも禁ずる」
「はい。」
(それはそうよね。気をつけましょう)
アリアは、冷たく静止した湖のほとりに跪いた。
彼女がそっと、その指先を水面に浸した
次の瞬間、地底湖は爆発的な光に包まれた。
こわばっていた水面が震えて解け、透き通った水底から、溜まっていた魔力の淀みが浄化された証である青白い光の粒が、蛍のように無数に沸き上がったのである。
「……っ、なんだ、これは……」
カイルは思わず目を細め、その神々しい光景に圧倒された。
暗闇に閉ざされていた地下空間は、今やアリアの力によって、神秘的な輝きを放つクリスタルの洞窟のような姿へと変貌を遂げていた。
これには当人のアリア自身も驚いた。
(なに?なにが起こってるの?だけど辺境伯様は大分と楽になっているはず…)
「辺境伯様、体調などおかわりはありませんか?貴方様の魔力がかなり落ち着いて軽くなっているかと」
(なぜわかる?)
カイルは、眼前に広がる圧倒的な光の恩恵と、彼女の異質さに、恐怖に近い衝撃を覚えた。だが、それと同時に、長年彼を苛んでいた心の渇きが、目の前の清冽な水によって癒やされていくのを感じていた。
「……ああ。そうだな。ただ、これほど派手な真似をして倒れられても困る。……戻るぞ」
突き放すような言葉とは裏腹に、カイルがアリアを支える手には、先ほどよりも確かな力がこもっていた。窓のない執務室へと戻る彼の足取りは、羽が生えたかのように軽く、城の地下に溜まっていた重苦しい気配は、この地底湖の変化によって完全に消え去っていた。




