風が絵馬を落とすとき
山からの帰り道は、行きよりも短く感じた。
同じ道を歩いているはずなのに、足取りが軽いのか、景色の重さに慣れたのか、自分でもよく分からない。
駅にたどり着いて電車に乗り込むと、シートの硬さが妙に安心した。
ガタン、ゴトンという音が、さっきまで聞いていた土の音とは違うリズムで体に響いてくる。
「ななみ」
隣の席で、ゆいが小さな声で呼んだ。
「うん」
「さっき撮った写真、まだ見ないでおくね」
「え?」
「電車の中で確認するとさ、頭の中の山の空気が、画面に上書きされちゃいそうで」
ゆいはカメラを抱きしめるようにして、胸の前に置いた。
その仕草が、少しだけいとおしく見えた。
「家に帰って、落ち着いてから見る。
なんか今日は、そうしたい気分」
「うん、そのほうがいいかも」
私も同じ気持ちだった。
今はまだ、目を閉じれば、霧の向こうの社殿の輪郭が浮かんでくる。
その記憶を、もう少し胸の中だけに置いておきたかった。
電車を乗り継ぎ、風間町の駅に戻る頃には、空はすっかり夕方の色になっていた。
橙色と藍色が混じり合っていて、その境目に、細い雲が一本だけ伸びている。
「今日は、風間神社寄る?」
改札を出たところでゆいに聞かれて、私は少しだけ考えた。
「……今日はやめておこうかな」
「意外」
「なんとなく、山の空気がまだ体に残ってるから。
ちょっと落ち着かせてから、報告しに行きたい」
「そっか。
じゃあ、明日か明後日あたり?」
「うん、そのくらい」
ゆいは「了解」と言って、笑った。
「じゃあ今日は各自、家で反芻タイムね」
「反芻って」
「今日の空気を、もぐもぐ思い出す時間」
よく分からないようで、なんとなく分かる説明だった。
家に帰ると、母が台所で夕食の支度をしていた。
「おかえり、ななみ。
どうだった?山のほうの神社は」
「うん……すごかった」
言葉がそれしか出てこない。
母は私の顔を見て、ふわりと笑った。
「すごかった顔してるから、分かるよ」
そう言って、テーブルの上に置かれた鍋の蓋を開ける。
湯気と一緒に、だしの香りが広がった。
「今日は山菜のお味噌汁。
山に行ったって聞いたら、なんとなく作りたくなっちゃって」
「山菜?」
「スーパーにあったからね。
山帰りっぽいでしょ」
私が笑うと、母も笑った。
山の匂いとだしの匂いが混ざって、胸の奥まで温かくなる。
夕食のあと、部屋に戻って、机の上に御朱印帳を広げた。
湖の神社のページの次に、今日の雲見神社の朱印がある。
太い線と、重い墨。
紙の上に刻まれた山の気配。
「……ただいま」
誰にともなく、そうつぶやいてしまった。
自分で言って、自分で少し恥ずかしくなる。
スマホが震えた。
画面には、ゆいからのメッセージ。
『まだ見てない。
でも、さっきからカメラ抱きしめてる』
その一文に吹き出しそうになる。
『山、どうだった?』
そう聞かれて、少し考える。
いろんな言葉が浮かんで、全部途中で溶けていく。
『重くて、静かで、深かった』
結局、そんな短い返事しかできなかった。
でも、送信ボタンを押したあとで、胸の奥が少し軽くなった気がした。
* * *
風間神社に行ったのは、それから二日後の放課後だった。
「報告会、山編!」
ゆいが勝手にタイトルをつける。
風間町の空は青くて、雲がいくつかゆっくり流れていた。
鳥居をくぐると、風鈴がひとつだけ鳴った。
ほかの鈴は静かなままなのに、そのひとつだけが、風に呼ばれたみたいに小さく揺れていた。
「……あれ、前からあんな鳴りかたしてたっけ」
「風の気まぐれでしょ」
ゆいはあまり気にしていない様子だ。
私は少しだけ振り返って、鈴を見上げた。
金色の小さな鈴が、光を受けてきらりと光った。
まるで、「おかえり」と言っているみたいだと思った。
拝殿の前で手を合わせてから、社務所のほうを見る。
千歳は、いつものように掃除をしていた。
「こんにちは。
雲見神社に、行ってきました」
声をかけると、千歳はほうきを止めて、こちらを向いた。
「おかえりなさい。
山の神様は、どうでしたか」
「重くて、静かで、深かったです」
思わず、メッセージで送ったのと同じ言葉が出てきた。
「なるほど。
良い顔をしています」
千歳は、私たちの顔を見比べて、ふっと笑った。
「座りましょうか。
山の話は、立ったままするには少しもったいないので」
三人で、例のベンチに座る。
ここに座るたびに、「ベンチ神社」という言葉を思い出して少し笑いそうになる。
「写真、見ますか?」
ゆいがカメラをそっと持ち上げた。
千歳は頷く。
「見せてもらえるなら、うれしいです」
再生ボタンを押すと、小さな画面に山の風景が次々と映し出された。
霧の道、濡れた木の幹、苔のついた石段。
どれも、私の記憶の中の景色と重なっているのに、どこか違う。
ゆいの目を通ると、山は少しだけ柔らかくなっている。
怖さよりも、静けさのほうが強調されている気がした。
「これが、霧が一気に流れ込んできたときの写真」
ゆいが画面を止める。
白い霧が、社殿の半分を覆っていた。
「全部見えてないのに、“いる”って感じがして」
「ええ。
全部見えないからこそ、“いる”ように感じるんです」
千歳は画面を見つめながら言った。
「山の神様は、姿がはっきりしているときよりも、隠れているときのほうが、存在を強く感じさせます」
「隠れているほうが?」
「はい。
人は、見えないものを埋めようとしますから」
その言葉に、私は御朱印帳のページを思い出した。
太い線と、重い墨。
全部は書かれていないのに、そこに山の気配を感じる理由が、少し分かった気がした。
「……もう一枚、変な写真があって」
ゆいが、少しだけ表情を曇らせる。
「変な?」
「変というか、説明しづらいんですけど」
画面が切り替わる。
そこには、帰り道の木々の間から差し込む光が写っていた。
普通の森の写真に見える。
でも、中心あたりに、わずかに光の筋が濃くなっている部分があった。
「ここ。
拡大すると、なんか……細い人が立ってるみたいに見えて」
ズームすると、確かに、光の筋が人の輪郭のように見えた。
「わ、ちょっと怖い」
「でしょ?」
ゆいが不安そうに笑う。
でも目は、どこか期待しているようでもあった。
「どう思います?」
千歳はしばらく画面を見つめていた。
光と影の境目。
木々の隙間。
偶然が重なれば、たしかにそう見えるかもしれない。
「……人の形に見えるように、“あなたが”撮ったんですよ」
「え?」
「この光の筋は、木の隙間と、霧の名残と、太陽の角度がたまたま重なったものです。
でも、“人に見えるように撮ろう”とした人の目が、その重なりを選んだ」
ゆいは息を飲んだ。
「つまり、これは“山の神様”の写真というより、“あなたの目が捉えたもの”の写真ですね」
「私の、目……」
「山に“誰かがいるかもしれない”と思っていたから、“誰かいる”ように見える光を無意識に選んだ。
そういうことだと思います」
「じゃあ、怖い写真じゃないってことですか?」
「怖がる必要はないと思います。
少なくとも、この写真を見ている限りでは」
千歳は静かに笑った。
「むしろこれは、山が“誰かに見られている”ことを喜んでいるようにも見えます」
その言葉に、ゆいの表情が少し和らいだ。
「……山が、喜ぶ?」
「はい。
誰もいないと思われている場所で、“誰かいるかもしれない”と感じてもらえるのは、きっと山にとってうれしいことです」
そんなふうに考えたことはなかった。
私の中で、山はいつもただそこにあるだけの、大きな存在だったから。
「だから、この写真は消さなくていいですよ」
「消そうか、正直ちょっと迷ってたんです」
「迷いが写っているからこそ、良い写真です」
ゆいは、ほっとしたようにカメラを胸に抱えた。
「よかった……」
その瞬間、風がふっと吹いた。
風鈴が、さっきよりはっきりと鳴る。
同時に、拝殿の横の絵馬掛けから、ひとつの絵馬がカランと落ちた。
「わっ」
私たちは思わず振り向いた。
千歳は立ち上がって、落ちた絵馬を拾いに行く。
「風……ですかね」
ゆいが小さく言う。
千歳は絵馬を拾い上げ、その文字を見て、少しだけ目を見開いた。
「どうかしました?」
私が尋ねると、千歳は絵馬をこちらに向けた。
そこには、少し前に見たことのある文字があった。
『日本中の神様の空気を吸ってみたい』
日付は、去年の夏の日付。
名前の欄には、静かな筆跡で「静海ななみ」と書かれている。
「……これ」
顔が一気に熱くなる。
自分が書いたことを、すっかり忘れていたわけではない。
でも、こうして改めて目の前に突きつけられると、妙な気恥ずかしさでいっぱいになる。
「風で落ちたのかもしれませんし、たまたまかもしれません」
千歳はそう言いながら、どこか楽しそうだった。
「でも、願いが少しずつ叶い始めている人の絵馬が、今こうして目の前に現れたのは……個人的には、好きな偶然です」
私は何も言えなくて、ただ唇をかんだ。
湖の神社。
山の神社。
たしかに、私は日本中の神様の空気を吸いに、一歩踏み出しているのかもしれない。
「……次は、どこに行きますか」
千歳の問いかけに、ゆいがすぐ反応する。
「まだ決めてないけど、ななみ的には?」
「うーん……」
湖と山。
次は、どんな空気がいいだろう。
「海とか……」
ぽろっとこぼれた言葉に、自分で驚いた。
「お、いいね。
水の次のバリエーション」
「海の神社は、風の質が違いますよ」
千歳が静かに言う。
「山よりも軽くて、でもときどき荒っぽい。
遠くの国から来た空気も混ざっています」
「遠くの国……」
想像しただけで、胸がざわざわする。
「まだ先でもいいです。
でもいつか、海の神様にも会いに行ってみてください」
「はい」
気がつけば、自然とそう返事をしていた。
絵馬は、元の場所に戻された。
でも、さっきまでとは違う位置にかかっている。
風が吹いて、鈴が鳴る。
音が、少しだけ長く尾を引いた。
日本中の神様の空気を吸ってみたい。
あの日、何気なく書いた願い事は、思っていた以上に、ちゃんと届いていたのかもしれない。
胸の奥で、何かがまたひとつ、ほどけたような気がした。




