帰る先と、出発点
電車を降りて、風間町の駅に戻ってきたときには、空の色が少しだけオレンジに傾き始めていた。
湖のきらきらした光は、まだ目の奥に残っているのに、足元には見慣れたホームの黄色い線がある。
現実に帰ってきたようで、でもどこか現実じゃない場所にいるような、不思議な感じがした。
「ななみ、顔がぼーっとしてる」
ゆいが私の顔を覗き込む。
カメラは首から下げたままで、今日撮った写真の重みがレンズに宿っているみたいだった。
「そんなにぼーっとしてる?」
「してる。旅の後遺症だね」
言いながら、ゆいも同じような顔をしている気がする。
電車のドアが閉まり、ホームから離れていく。
「このまま帰る?」
ゆいの問いに、私は少しだけ迷った。
家に帰って、お風呂に入って、母のおにぎりの残りを食べて、今日は終わり。
それはそれで、いつもの休日の終わり方だ。
でも、胸の奥に小さなひっかかりが残っている。
「……風間神社、寄っていかない?」
自分の口から出た声に、自分で驚いた。
ゆいも目を丸くする。
「お、やっと行く気になった?」
からかうように言いながら、嬉しそうだ。
私自身、なぜ今このタイミングでそう言ったのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、湖の神社で感じた、足元がふわりと浮くような感覚。
あのとき聞いた巫女さんの言葉が、まだ胸の中で静かに響いている。
『風の神様って、縛るより、ほどく神様だから』
だったら、ちゃんと今の気持ちを持って、風間神社に行きたい。
旅を始める前の私じゃなくて、今日の私で。
「行こ。
千歳さんにも、湖のこと話したいし」
ゆいが言う。
私は小さく頷いた。
駅から風間神社までは、歩いて15分くらいだ。
いつもの通学路の途中で角を曲がり、少し急な坂道をのぼる。
夕方の風は、朝よりも柔らかかった。
どこか土の匂いが混ざっていて、町全体がゆっくりと一日を閉じていく準備をしているみたいだ。
「なんかさ」
坂道の途中で、ゆいがふと言った。
「同じ道なのに、行きと帰りで景色が違って見えるね」
「うん。
今日、湖を見たからかも」
「たしかに。
世界がちょっとだけ広がった感じ」
ゆいの言葉に、私は胸の中で同意した。
自分の町の外側に、違う空気を持った場所がちゃんとあって、そこへ自分の足で行って帰ってこられた。
それだけのことなのに、世界の輪郭が少しだけはっきりした気がする。
風間神社の鳥居が見えてきた。
夕焼けの光を受けて、いつもより少し赤く見える。
境内に入ると、風鈴がやわらかく鳴った。
昼間とは違う、少し湿ったような、夜の匂いが混ざった風の音。
「ただいま、って感じ」
ゆいが小さくつぶやく。
その言葉に、私はくすっと笑った。
「ここ、私の家じゃないけどね」
「心の実家みたいなもんでしょ」
たしかに、そうかもしれない。
家とは違うけれど、安心する場所。
学校とも違うけれど、落ち着ける場所。
二礼、二拍手、一礼。
目を閉じる。
さっき湖の神社で感じた静けさよりも、もう少しだけ土っぽい静けさ。
どこか、人の生活に近い匂い。
目を開けると、拝殿の横に、人影が見えた。
「お帰りなさい」
千歳だった。
白い作務衣に、薄いグレーの羽織を重ねている。
朝見たときよりも、少しだけ柔らかい雰囲気に見えた。
「ただいま、って言う場所なのかな、ここ」
思わず出たゆいの言葉に、千歳は少しだけ目を細めた。
「ここからどこかへ出かけた人にとっては、多分そうなんだと思いますよ」
ゆいが私を見る。
私も、千歳を見る。
「……あの」
少しだけ緊張しながら、私は口を開いた。
「今日、教えてもらった湖の神社に、行ってきました」
千歳の目が、静かに見開かれる。
「そうですか。
どうでした?」
どう、だったか。
言葉にしようとすると、胸の中の感覚がほどけていく。
湖の匂い。
石段の感触。
巫女さんの笑顔。
御朱印帳に落ちていく墨の色。
「……すごく、静かで。
でも、怖い静けさじゃなくて。
息をしててもいいんだな、って思える感じで」
自分でもうまく言えている自信はなかった。
でも、千歳はじっと最後まで聞いてくれる。
「足元が、ふわっと浮くみたいに感じる瞬間があって。
それがちょっとだけ、こわくて、でも……気持ちよくて」
話しながら、さっきの感覚がまた少しよみがえる。
「なるほど」
千歳は、静かに頷いた。
「湖の神様は、境目が好きなんですよ」
「境目?」
「水と陸の境目。
空と水面の境目。
ここから向こうへ行く、その境目にいる人の気持ちを、少しだけ軽くしてくれるんです」
「だから、足が浮くみたいに感じるんですか?」
私が聞くと、千歳は肩をすくめる。
「かもしれませんし、ただの錯覚かもしれません。
そういうふうに感じるような場所なんだ、と言ったほうが近いのかもしれないですね」
断定しない言い方に、風間神社らしさを感じる。
何かを信じこませようとしない。
でも、全部を切り捨てもしない。
「御朱印、いただきました」
私はリュックから御朱印帳を取り出した。
最初のページに、さっきの神社の名前と、墨の文字と朱印が並んでいる。
千歳は、その紙面をしばらく眺めた。
「……いいですね。
初めての一枚」
その言い方が、なんだかとても丁寧で、私は少しだけ背筋を伸ばした。
「日本中の神様の空気を吸ってみたい、って願ってたんですって」
ゆいが、横からさらっと暴露する。
私は思わず彼女の腕をつついた。
「言わなくていいから」
「いいじゃん。
もう半分くらいバレてるでしょ」
千歳は、少しだけ笑った。
「いい願いだと思いますよ。
世界を変えたいとか、何か大きなことをしたいとか、そういう願いじゃなくて」
そこで言葉を区切って、続ける。
「自分の中の空気を、少しずつ変えていきたい、っていう願いに聞こえます」
自分の中の空気。
そんなふうに考えたことはなかった。
でも、言われてみれば、その通りかもしれない。
誰かに何かを証明したいわけじゃない。
ただ、自分の中にこもっている空気を、少しずつ入れ替えていきたい。
そう思ったから、旅をしたいと思ったのだ。
「……千歳さんは、旅、したことありますか?」
自分でも予想していなかった質問が、口からこぼれた。
千歳は少しだけ驚いた顔をして、それから視線を空に向けた。
「昔、少しだけ。
ここを離れていた時期がありました」
「神社を離れて?」
「ええ。
外の世界を見てみたくて。
でも、戻ってきました」
「どうして?」
ゆいが身を乗り出す。
私も、息を飲んだ。
千歳は、少しだけ考えるように間を置いてから、答えた。
「外の空気も悪くなかったけれど、ここで吸う空気のほうが、自分には合っていたから、ですかね」
「かっこいい言い方」
ゆいが感心したように言う。
私はその言葉の裏側を考えていた。
「でも、外を見なかったら、そう思えなかったかもしれません」
千歳が続けた。
「だから、出て行くことも、戻ってくることも、きっと同じくらい大事なんだと思います」
出て行くことと、戻ってくること。
今日、湖へ行って、こうして風間神社に戻ってきた私たちの足取りが、少しだけ意味を持った気がした。
「また、どこか行きたいと思いましたか?」
「……はい」
```
迷いながらも、私ははっきりと言った。
```
「まだよく分からないけど。
さっきの神社も、また行きたいし。
他の神社の空気も、吸ってみたいなって」
「じゃあ、風間神社は、その途中の寄り道ですね」
「寄り道?」
「出発前に立ち寄る場所であり、帰り道にふらっと寄る場所でもある。
家と駅の間にある、小さなベンチみたいな」
その例えが妙にしっくりきて、私は思わず笑ってしまった。
「ベンチ神社」
ゆいが、小さな声でそうつぶやく。
千歳も、少しだけ肩を揺らした。
「悪くないですね」
境内に、風鈴の音が一つだけ鳴った。
夕暮れの光が、鈴のガラスに反射して、ちらりと光る。
「そういえば」
千歳がふと思い出したように言った。
「湖の神社の巫女さん、何か言っていましたか?」
「風の神様って、縛るより、ほどく神様だって」
私が答えると、千歳は「ああ」と小さく頷いた。
「彼女らしいですね」
「知り合いなんですか?」
「少しだけ。
うちの神社と、あの神社は、昔から縁があるんですよ。
風と水は、切り離せないので」
風と水。
さっき感じた足元の揺れと、ここで感じる風の音が、一本の線でつながった気がした。
「これからも、旅を続けるつもりなら」
千歳が、少し真面目な顔になる。
「一つだけ、お願いがあります」
「お願い?」
なんだろう、と胸が少し固くなる。
「どこへ行ってもいいし、どれだけ遠くへ行ってもいいので」
そこで、千歳はにこりと笑った。
「できれば、ときどきでいいので、ここに旅の話をしに来てください」
思っていたよりずっと優しいお願いだった。
肩の力が、すとんと抜ける。
「それって、報告会?」
ゆいが笑う。
千歳は「そうですね」と頷いた。
「神様は、遠くのことを全部知っているわけじゃありませんから。
誰かが話してくれないと、知らないことも多いんです」
「神様、意外と情報弱者」
ゆいの一言に、私は吹き出しそうになった。
千歳も、困ったような、それでも楽しそうな顔をしている。
「だから、教えてください。
どんな景色を見てきたのか。
どんな空気を吸ってきたのか」
その言葉に、胸の中がじんわりとあたたかくなる。
「……はい。
また来ます」
自然とそう答えていた。
約束というほど大げさではない。
でも、心のどこかに小さな印がついたような感じがした。
境内を出る頃には、空はすっかりオレンジから群青色に変わりつつあった。
鳥居をくぐるとき、風がまた背中を押す。
「ねえ、ななみ」
坂道を下りながら、ゆいが言った。
「次、どこ行く?」
「え、もう次の話?」
「当たり前でしょ。
旅の計画は、旅の帰り道に立てるのが一番楽しいんだから」
そんなルール、初めて聞いた。
でも、間違っている気はしなかった。
「……じゃあ、次は山の神社とか」
「お、いいね。
風の次は山ね」
「山は、最初からいるけどね」
風間町の周りをぐるりと囲んでいる山々を見上げる。
その向こうにも、まだ知らない場所がたくさんある。
スマホの画面に、今日の写真が小さく並んでいるのがちらりと見えた。
湖、鳥居、御朱印、りんごジャムおやき。
全部が、今日の「旅」の証拠だ。
「写真、後で送るね」
ゆいが言う。
私は頷いた。
「ありがとう。
でも、全部は送らなくていいよ」
「なんで?」
「なんとなく。
全部残しちゃうと、なんか、今じゃなくなっちゃう気がして」
自分でもうまく説明できない。
でも、言葉にしてみると、少しだけ自分の中で整理されていく。
「ふーん。
じゃあ、選りすぐりを送ってあげる」
「それはそれで、ちょっと緊張する」
二人で笑いながら、坂道を下る。
風が、前からも後ろからも吹いてきて、髪を揺らした。
今日吸った空気は、今日だけのものだ。
でも、その一部は、たぶんずっと私の中に残る。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと家への道を歩いた。




