初めての御朱印
目が覚めたとき、窓の外はまだ淡い灰色だった。
カーテンのすき間から差し込む光は弱くて、朝というより夜明け前という感じがする。
スマホの画面には、まだ「5:32」の数字。
普段の休日なら、絶対に見ていない時間だ。
「……眠い」
声に出した途端、まぶたが余計に重くなる。
布団に潜り込みたい気持ちを、私はぐっとこらえた。
今日は、旅の初日だ。
私とななみと、そして――
『湖の神社からスタートね』
あの日、風間神社でゆいが言った言葉が、頭の中によみがえる。
千歳から受け取ったメモ用紙は、今も机の上に大事に挟んである。
その中から選んだのが、今日行く予定の湖と神社だった。
名前を声に出して読むと、なんだか本当に旅に出るんだ、という実感が少しだけ増す。
洗面所で顔を洗って、歯を磨く。
冷たい水が肌に当たって、ようやく頭がはっきりしてきた。
キッチンに降りると、母がもう起きていた。
「早いわね、ななみ。
もう出かける支度?」
「うん。
電車、時間早いから」
母は私の顔をちらっと見て、ふわっと笑った。
「高校生のうちに、たくさん行ってらっしゃい。
日帰りなんだし、楽しんでおいで」
「……うん」
あの日、旅に行きたいと切り出したとき、母は少し驚いた顔をした。
私が自分からそんなことを言い出すのは、めずらしかったのだと思う。
でも、行き先が神社だと知ると、逆に安心したらしい。
『変なところじゃないなら、いいと思うよ。
ななみ、あんまり外に出ないし』
そう言われてしまうと、少し複雑な気持ちになる。
けれど、反論できない程度には、事実だった。
テーブルの上には、おにぎりが二つ並んでいた。
ラップに包まれたそれは、まだほんのりあたたかい。
「お昼に食べなさい。
外で何か買ってもいいけど、足りないと困るしね」
「ありがとう」
母の手作りのおにぎりは、少しだけ塩が強い。
でも、そのしょっぱさが、私は好きだった。
おにぎりをリュックに入れて、財布とハンカチと、御朱印帳を確認する。
新品の小さな御朱印帳は、まだ真っ白だ。
最初の一枚目を、今日の神社にしてもらうのだと思うと、胸の奥がそわそわする。
「ななみ」
玄関で靴を履いていると、父が顔を出した。
寝起きなのか、髪が少しだけ跳ねている。
「ちゃんと連絡は取りなさいよ。
電車、乗り過ごさないように」
「大丈夫だよ。
ゆいも一緒だし」
「望月さんか。
なら安心だな」
父はそう言って、私の頭をぽんと軽く叩いた。
子ども扱いされているような気もするけれど、その手の重みは、少しだけ心強かった。
玄関を出ると、朝の空気はひやりとしていた。
でも、頬をかすめる風は冷たいだけじゃない。
どこか、ちょっと甘い匂いが混じっている。
遠くで鳥の声がした。
風間町の朝は、いつも静かだ。
駅までの道を歩きながら、私は何度もポケットの中のスマホを確かめた。
ゆいからのメッセージは、すでに届いている。
『起きてる?
駅に6:10集合ね』
時刻は、まだ少しだけ余裕がある。
でも、足は自然と急いでしまう。
風間町の駅は、小さなホームが二つあるだけの、簡素な駅だ。
朝の時間帯でも、人はまばらだった。
「ななみー!」
改札の前でキョロキョロしていると、ホーム側から大きな声が飛んできた。
声の方向を見ると、ゆいが片手をぶんぶん振っていた。
今日は、いつもの制服ではなく、私服だ。
薄いベージュのパーカーに、デニムのスカート。
首からは、小さなカメラがぶら下がっている。
「おはよ。
ちゃんと起きられたね」
「なんとか」
私がそう答えると、ゆいは私の全身をじろじろ眺めた。
「いいじゃん、その服。
ななみ、淡い色似合うよ」
「普通のシャツとカーディガンだよ」
「それがいいの。
ほら、今日のテーマは『ゆる旅』だからね」
ゆいは勝手にテーマを決めて、うんうんと頷いている。
その様子に、思わず笑ってしまった。
「切符、もう買った?」
「まだ」
「じゃあ一緒に買お」
券売機の前に並びながら、ゆいがスマホを取り出す。
画面には、今日のルートが表示されていた。
「風間町から、まずはこの駅まで出て。
そこで乗り換えて、湖の最寄り駅まで。
そこからバスで神社の近くまで行く感じ」
「けっこう乗り換え、あるんだね」
「まあね。
でも、そこが旅っぽくていいでしょ」
電車のアイコンが線路の上をちょこちょこ動いていく地図を見ていると、今自分がいる場所が、急にちっぽけに感じられた。
世界は、想像していたよりずっと広い。
その当たり前のことが、今になってじわじわと実感に変わる。
切符を買ってホームに上がると、ちょうど電車が入ってくるところだった。
朝の光を反射して、車体がきらりと光る。
「よし、記念すべき旅の1本目」
ゆいが、カメラを構えた。
「ななみ、ここ立って。
電車と一緒に撮るから」
「そんなにちゃんとした写真、いらないよ」
「いるの。
『旅は駅から始まる』って、なんかそれっぽいじゃん」
渋々、ホームの端に立つ。
電車が減速していく音が近づいてくる。
シャッター音が、カタン、と控えめに鳴った。
電車に乗り込むと、車内は思ったより空いていた。
窓際の席に並んで座ると、じわりとシートの冷たさが伝わってくる。
電車が動き出すと同時に、風間町の景色がゆっくりと後ろに流れていった。
「なんかさ」
ゆいが、窓の外を見ながら言った。
「いつもと同じ線路を走ってるのに、今日は全然違う感じがする」
「うん」
私も、窓の外を眺める。
いつも見慣れているはずの風景が、少しだけよそ行きの顔をしていた。
手前の畑、その向こうの川、遠くの山。
全部が、今日だけは「ここから離れていく場所」になっている。
「ななみ、緊張してる?」
「ちょっとだけ」
「やっぱり?」
ゆいは笑って、私の肩を軽く小突いた。
「大丈夫。
日帰りだし。
何かあったら、すぐ帰ってこれる距離だよ」
「……そうだね」
そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。
しばらくは、車内に流れるアナウンスと、線路の継ぎ目を越える音だけが耳に届いた。
ガタン、ゴトン、と一定のリズムが続く。
そのリズムに合わせるように、私の心臓の鼓動も少しずつ落ち着いていった。
「そういえばさ」
ゆいが、思い出したように言う。
「千歳さんに、旅の相談しに行くって言ってたじゃん。
あれから、風間神社に行った?」
「ううん。
まだ」
あの日以来、私は風間神社に行っていなかった。
行こうと思えばいつでも行ける距離なのに、なぜか足が向かなかった。
「絵馬のこと、言われたから?」
「……それもあるかも」
自分でも忘れていた願い事を、あんなふうに読み上げられて。
恥ずかしいやら、嬉しいやら、よく分からない気持ちになって。
でも、それだけじゃない。
「なんか、ちゃんと動き出さないと、行きにくいっていうか」
「動き出さない?」
「うん。
言うだけ言って、何もしないのって、なんかずるい気がして」
自分で口にしてみて、ようやくその感覚の正体に気づいた。
『日本中の神様の空気を吸ってみたい』。
あの言葉は、私の中の小さなわがままだ。
それを本気にしてくれた人がいるなら、私も少しは本気を見せたい。
「だから、まずは自分でちゃんと行ってみて。
それから、また風間神社に行こうかなって」
「なるほどね」
ゆいは、どこか感心したように頷いた。
「そういうところ、ななみっぽい」
「どういう意味」
「ちゃんと、筋を通そうとするところ」
筋なんて、大げさなものじゃない。
ただ、誰かの前で恥ずかしくない自分でいたいだけだ。
そんなことを思っていると、車内アナウンスが次の駅の名前を告げた。
乗り換え駅までは、あと少しだ。
電車を乗り継いでいくうちに、外の景色はどんどん変わっていった。
山のかたちがゆるやかになり、川幅が少しずつ広がっていく。
やがて、大きな駅に着いた。
人の数が増え、ざわざわとした空気がホームを満たす。
「ここで乗り換えだよ」
ゆいの後ろについて歩きながら、私は人の波にのまれないように気をつける。
知らない駅の知らないホームは、それだけで冒険みたいだった。
次の電車は、さっきよりも乗客が多かった。
席は空いていなくて、私たちはドアの近くに立つことにした。
窓の外には、だんだんと大きな湖が見え始める。
陽の光を受けて、水面がきらきらと光っていた。
「わあ……」
思わず、声が漏れる。
山に囲まれた湖は、まるで巨大な鏡みたいだった。
空の色も、雲のかたちも、そのままそこに映し込まれている。
「写真、撮りたい」
ゆいが、カメラを構えようとして、困ったように笑った。
「でも、電車のガラス、ちょっと汚いね」
「現実ってそんなものだよ」
それでも、シャッター音は何度も鳴った。
ガラス越しでも、今この瞬間を切り取っておきたかったのだろう。
湖のそばの駅に着くと、空気の匂いが変わった。
少し湿った、でも冷たすぎない、柔らかい匂い。
駅前から出ているバスに乗り込むと、乗客は私たちを含めて数人だけだった。
バスはゆっくりと湖沿いの道を走っていく。
窓から見える湖は、電車から見たときよりも、ずっと大きく、ずっと近く感じた。
「ここから、どのくらいで着くんだっけ」
「神社の最寄りの停留所まで、20分くらいかな」
「20分かあ」
数字にすると、たいしたことはないのに、その20分が、やけに長く感じられた。
バスは小さな集落をいくつか通り過ぎ、やがて「◯◯神社前」と書かれた停留所で止まった。
私たち以外の乗客は、みんな途中で降りてしまっていて、最後に降りたのは、私とななみだけだった。
バスが去っていくと、急に世界が静かになる。
エンジン音が遠ざかり、代わりに、湖面をなでる風の音が耳に届いた。
「……すごいね」
思わずそうつぶやく。
目の前には、湖と、その向こうに広がる山があった。
空は高くて、雲は白くて、太陽はまぶしい。
そして、少し離れた場所に、小さな鳥居が見える。
「たぶん、あれが今日の神社だね」
ゆいが指さした先には、湖に背を向けるようにして建つ赤い鳥居があった。
その奥には、木々の影に隠れるように、小さな社が見える。
風が吹いて、木の葉がざわざわと揺れた。
私は無意識に、リュックの中の御朱印帳を確かめていた。
ここから始まるのだ。
私の、日本の神様をめぐる旅が。
胸の中で、そっとそう言葉にしてみる。
鳥居の向こうに続く石段は、それほど長くはなかった。
でも、一段一段が、いつもよりも少し重く感じられた。
足を踏み出すたびに、心の奥の何かが、小さく震える。
「行こ」
ゆいの声に押されて、私は一歩目を踏み出した。
鳥居の下をくぐる瞬間、ふっと、肩に風が触れた気がした。
それはまるで、「いらっしゃい」と言われたみたいな、やさしい風だった。




