20
判った。判ったから泣くな……結局ロファーはジゼルに勝てない。
嬉しそうな笑顔を見せるジゼルを胸に抱いて、温めてしまう。そしてジゼルを、なんて小さいと思い、なんて柔らかいんだと感じる。守ってやるしかないと、心のどこかで決意する。
ジゼルは少し育ちすぎているが、自分に子どもが出来れば、こんな気持ちなんだろうと思った。
(だけど、俺は子どもなんて持てるのだろうか?)
女性に心を時めかせたことがないわけではない。でも、そこまでだ。
付き合いたいと思ったこともなければ、好きだと思ったこともない。あってもせいぜい『好ましい』程度だ。友だちの枠を出たことがない。
もちろん女性に興味がないわけではない。ただ、気持ちが付いて行かない。
幼馴染のリルに誘われ、一時は付き合ってみようかと思ったこともある。リルとだったら所帯を持ってもいいかもしれないと思った。あれから二年近くが経っている。
だけど巧く行かなかった。ベッドに誘ってきたリルに応じようとしたのに、身体に痛みが走り、リルから離れた。驚いたリルがロファーの肩に触れた時、さらに強い痛みを感じ、突き飛ばしてしまった。そして、頭の中に『死にたいのか』と怒鳴り声が響いた。
それきり気まずくなって、リルは別の男と一緒になった。街の噂ではもうすぐ子どもが生まれるらしい。
そんな事があって以来、女性にそう言った意味で触れたことはない。オーギュが言うように、誘いはいくらもあったけれど、のらりくらりと避けてきた。
身体に走った痛みに怖気付いたわけじゃないと自分では思っている。気に入った相手がいないからだと、自分に言い訳している。だけど、本当にそうだろうか?
グレインやジュードが心配して、誰か紹介しようかと言ってくる。それを、理由を付けていつも断る。
もし、本当に心の底から誰かを好きになり、愛し合いたいとたがいに望み、そしてその時、また同じことが起きたら、俺はどうすればいいんだ? 自分だけじゃない、相手をも傷付ける事は目に見えている。そして思う。俺は今のままでも充分幸せだ。だからこのままでいい……いつしかロファーも眠りについた。
――勝手口を叩く音がして、ロファーが目を覚ます。窓から差し込む陽光が眩しい。そして飛び起きる。マーシャがミルクを配達してきたのだ。
「おはよう、ロファー」
「おはよう、マーシャ」
眠い目を擦っているとマーシャが
「昨日は魔導士様、ご活躍だったそうね」
と言ってくる。
「もう話が広まっているんだ?」
「オーギュが昨夜、グレインでわんわん泣きながら話していたそうよ」
苦笑するしかないロファーだ。
「お陰で魔導士様はお疲れで、まだ起きてこない」
「代わりにロファーが起きてくれたから、わたしは助かった」
ニッコリとマーシャが笑顔を見せる。
「ロファーも大変だったわね。結局泊まり込みになってしまったのでしょ?」
泊まり込みと言われて、あぁ、そうか、と今更思う。次から次にいろいろあって、なんだか日常がどこかに飛んでしまっていた。昨日予定していた仕事が全く熟せていない。
マーシャが帰ったあと、馬小屋と鶏小屋の世話をした。サッフォがやっぱり馬面を撫でろと強請り、シンザンはロファーを見て歯をむき出して威嚇する。昨日の恐怖がまだ抜けないのだろう。
鶏はロファーの予測に反して卵を産んでいた。掃除をし、卵を拾うために小屋に入っても、逃げ回る様子もなく、コッココッコと元気がいい。
シスが厳選してくれたお陰だろう。拾った卵をキッチンにおいて、さて、どうしよう、とロファーは思う。
ジゼルの様子を見に行くと、まだ起きる気配がない。帰りたいが何も言わずに帰れば、また泣かせそうで帰れない。やることも思いつかないので、ベッド際に椅子を引き寄せ腰かける。
そして
(やっぱり、子どもだな)
ジゼルの顔を眺めながら思う。
なんでこんな子どもを危険に曝して街を守らせるのだろう。なんでこんな子どもがあんなに身体が弱ってしまうほど頑張るのだろう。
あぁ、そうか、とロファーは思う。あの時、ジゼルが冷え切ってぐったりしているのを見たあの時、俺はそれが悲しくて泣いてしまったんだ。
何故そこまでおまえは頑張るんだ? そう問う代わりに涙が溢れてきたんだ。その必死さが切なかったんだ。やっぱりシスの言う通りだ。
両親を亡くした十三の俺は店を守ることを決めた。それからは、他のことを考える暇なんかなかった。必死に仕事を覚え、働いた。寂しいとか辛いとか、考える余裕はない。裏を返せば、必死に働いたからこそ、孤独にも不安にも耐えられた。
勿論、仕事を終え床に就けば、いろいろな思いが込み上げて、わけもわからず泣く時もあった。ジゼルも一人の夜に泣いているのだろうか?
ジゼル、おまえはどうなんだ? その必死さはどこからくる? 魔導士の誓約だけで、そんなに頑張れるのか? 本当におまえは、今までいったいどんな生き方をしてきたんだ?
『寂しい』って気持がよく判らないと言うおまえに、孤独で泣き出す夜は本当にないのか?――幼さが残るジゼルの顔から目が離せない。
無意識のうちに頬に触れる。滑らかで柔らかな感触に、もう冷たさはない。
ほっとしていると微かに睫毛が揺れて、ジゼルが目を覚ました。
「どうだ? 具合の悪い所はないか?」
ロファーの問いに、にっこりと微笑む。
「あるよ。お腹がぺこぺこ」
そしてパッと跳ねるように起き上がり、ロファーの首に抱き付いてくる。
「帰ってしまうんじゃないかと心配してた。良かった、いてくれて」
おいおい、と苦笑しながら、それでもロファーはジゼルを抱きとめる。
不思議と抵抗を感じない。昨日の今頃は適度な距離を置けと説教していた。
胸の中からジゼルがロファーを見上げる。深い緑色の瞳が煌めいて、ロファーの目を覗きこんでくる。
「抱き付かれて困ってる?」
「そうだね、このままでは食事の用意ができないかな」
困っているとは言えなかった。事実、困ってなどいなかった。
ロファーの言葉にジゼルがロファーから離れる。少し寂しさを感じながらロファーもジゼルを放す。
「ね、お腹空いた。何か作って」
パンは昨夜オーギュが焼いてくれたのがある。何か簡単なスープと、卵が四つあるから目玉焼きにするか、とロファーが考えていると、着替えたジゼルがキッチンに顔を見せた。
「そうだ、鶏が卵を産んだ。目玉焼きでいいか?」
「へぇ、コッコさんたち、頑張ったんだね。回復術を使っておいてよかった」
ジゼルがニンマリする。
なんだ、そういうことかと、少し興ざめしたがロファーは口にも顔にも出さなかった。
湯が沸いたケトルをどけて、ミルクを温め始め、別の鍋でほうれん草を湯がく。ケトルの湯をティーポットに注いでいるうちにホウレン草は茹で上がり、水に晒した。
ほうれん草を茹でていた鍋に水を張り火に掛けて、沸騰する間にタマネギを刻み、鍋に放り込み、すっかり出切った紅茶に茶漉しを掛けてミルクを加えて出来上がったミルクティーをテーブルに運んだ。
水に晒したホウレン草を固く絞り、バターでソテーし、皿に移し、そのフライパンに卵を割り入れ蓋をする。
たまねぎが煮えた鍋に塩コショウを振り入れてスープ皿に、ホウレン草を入れた皿に出来上がった目玉焼きを乗せる。
その間ジゼルはロファーの側で、キャッキャと声を挙げ眺めている。それでも、ミルクティーが入れば、テーブルにカップを用意したり、パンのバスケットをテーブルに運んだり、思いつけば動いているようだ。
「コッコさん、て、なんだ?」
ほうれん草を突きながらロファーが笑う。
「幾らなんでも幼児語を使うのは恥ずかしいぞ」
「幼児語? コッコさんて名前だよ。雄鶏の名前がコッコ。本人、うーーん、本鶏が言うんだから間違いない」
事も無げにジゼルが言う。本気なのか、それともやっぱり可怪しいのか? またもロファーが迷い始める。
「鶏と話せるのか? って、卵を産むのは雌鶏だぞ?」
「雄鶏が雌鶏に卵を産んでくれって上から頼むと、雌鶏は卵を産むんだ、ってコッコさんは言ってたよ?」
ひょっとしたら、ジゼルは雄鶏の言葉を何かを誤解しているんじゃないかとロファーが思うような返事がくる。
そしてジゼルが続ける。
「話せるさ。わたしの場合は、鳥類全般に哺乳類なら多分どれでも。出会ったことのない動物とは試してみなければ判らない。あとドラゴン。ドラゴン語は魔導士の嗜みと言われている」
「嗜みですか……」
最早ロファーに返す言葉はない。
「そう言えばさ、昨日の隣街の事件だけど……当事者は犯人以外みんな死んでいるのに、どうして事情が判ったんだろう?」
あぁ、とやっぱり事も無げにジゼルが答える。
「誰かが記憶の巻き戻しをしたんじゃないかな。大地の記憶を巻き戻せば、そこで起こった事は大抵わかる」
ホムテクトは回避術を掛ける賢さがなかったか、掛ける必要がないと判断したんだろうね。
「そんな事ができるんだ?」
ある期待を持ってロファーが尋ねる。
「うん、事が起こったその日の内なら大抵できる。時間と共に大地の記憶も薄れていくからね」
そうか、と答えながら、少しガッカリしたロファーだ。
それができるなら、両親の命が奪われた場面を再現できないかと期待した……だが、遅かったようだ。あの時、街に魔導士がいたら、事態は違っていたかもしれない。
「ほかにも気になった事があるんだけど」
「気になった? どんなこと?」
「ほら、宙から出てきた魔導士が、巧く隠したって言ったのは、俺の事だよね?」
「うん……そうだろうね」
この質問は訊かれたくなかったのか、ジゼルがイヤそうな顔をする。
「で、言葉だけで守る力、とか、この力を攻撃にも使えって、あの魔導士が言っていたけど、どういうこと?」
「うーーーん」
ジゼルが唸る。
「さすがに他人が考えたことは判らない」
惚けている、そう思ったが、追及したところでジゼルが本当のことを言うとは思えない。
「あの魔導士って、知らない人なんだ?」
「あれが西の魔女ドウカルネス。魔女が何者かについては何も聞くな」
はいはい、とロファーは苦笑する。昨日から、何回言われただろう。
―― 魔女の事は、常人のロファーには話せない。
「おまえの父親とやり合いたくないって言っていたね」
「ああ、言っていたね」
「おまえの父親ってやっぱり魔導士なんだろう? あの魔導士と敵対関係なんだ?」
「ん、まぁ、ね。魔導界は今、二分されているからね」
「ところで兄弟がいるんだね。なんとかって魔導士に伝言を頼んでいた」
口元にパンを運んでいたジゼルの手が止まる。慌ててロファーが付け加える。
「言いたくなければ答えなくていい」
両親とは離れ離れでも、ひょっとしたら兄弟とは一緒だったかもしれない。だったら少しは救われる、そう思ったロファーだった。
「母親の違う兄だ」
そう言ってジゼルはパンを口に入れた。
「そうか……」
もう訊くのはやめた方がよさそうだ、とロファーが思っていると、
「母親が兄と同じ姉もいる。兄とは互いの関係を知らず知り合い、姉はわたしを知っていて向こうから近づいた。魔導士学校で、飛び級をした兄が卒業の年、姉が入学した時の年だ。わたしはまだ、学生ではなかった」
「うん、ジゼルの家族関係が複雑なのは判った。もういいよ、話さなくて」
ジゼルが辛いだろうと思うと同時に、聞かされるロファーも辛かった。ジゼルの表情は硬い。いい感情をその二人に持っていないのだと感じた。
ところが
「姉は、昨日、ロファーに友達かと訊かれた人だ」
ロファーの予測にも、意にも反してジゼルが話を続ける。
「兄はわたしとの関係を知った時、まぁ、同時にわたしも知ったのだが、父への憎しみをわたしにぶつけた」
「父親を憎んでいた?」
「父は、わたしの母と言う妻がいながら、兄の母親と関係を持った。ま、そんな話はよくあるが、父は兄の母の存在を妻に知られると、あっさり兄の母親を捨てた」
捨てたと言っても、囲った屋敷で『奥さま』と、使用人や街人たちに傅かれる生活を保障した。だが、訪れることはなくなった。
「兄の母は最初からの約束だかたと言って、父を責める言葉を口にしたことがないそうだ。幼な子が父親を恋しがって泣くと、いつも、『母さんが悪かった』と謝っていたと聞く。だが、物心つくと兄は猶更、自分たちを捨てた父親を恨んでいったらしい」
姉が生まれたのは父が兄の母親を捨てた後だった。姉は父親の顔を魔導士学校に入学するまで知らなかったと言っていた。
「兄と知り合ったのは魔導士学校の奥にある深い緑の沼だった」
鹿が角を木の枝に引掛けて取れなくて困っていると、鳥たちが騒ぎ、わたしに助けを求めた。
わたしは森の、行ったことのない奥へと足を踏みいれた。助けられた鹿は喜んで森へ帰って行き、それを目で追うと木立の向こうに沼が見え、その畔に立つ人がいた。それがわたしの兄だった。
「バターブロンドの髪に琥珀色の瞳、ロファー、彼はあなたに少し似ている」
彼はそこで絵を描いていた。画家として暮らせたらいいのに、と遠い目で言い、周囲がそれを許さないと、嘆いた。
いつも話すのは彼で、わたしは何も言わず彼の話を聞いた。その頃のわたしは誰が相手でも、話すという事をしなかった。
わたしに近づいてきた、あとで私の姉とわかる彼女にも、わたしはなかなか言葉を発しなかった。
それでも、兄と姉は、なぜかわたしに語ることを疎まずにいた。他者と心を通わせる喜びを、二人はそれと知らずわたしに教えてくれたのだと、今では判る。
「夜、ここから見る星空は素晴らしいものだよ、と彼は言った」
星を映して沼も煌めく。空と沼に宝石が散りばめられたようにとても美しい。いつか一緒に眺めよう……と、わたしを誘った。
キミに見せてあげたいと彼は言った。そして一生二人でいないか、とわたしを見詰めた。いつか結婚しようと言った。
「わたしは女でも男でもない。どちらになるかまだ決めていない。だから結婚の約束はできない、そう答えたわたしの声が、初めて彼が聞くわたしの声だった」
そんなわたしを彼は笑った。それなら、キミが女の子になるのを待っているよ、と笑った。
わたしは今より更に子どもで、恋という言葉も、愛の意味も、まして結婚がなんであるかも知らなかった。今でもそれらの事は、わたしにはよく判らない。判らないままわたしは彼がなぜそう言ったのかを考える事もしなかった。けれど、その出来事はわたしの心に重く、とても大切なことなのだと感じていた。
「わたしはその出来事を、まだ姉とは知らなかったが、姉にした。誰かに聞いて貰いたくて、そしてわたしの話し相手は彼女しかいなかった」
わたしと兄は互いの名を知らなかった。姉に、相手は誰と訊かれても答えられない。
名前も知らないのに、しかもまだジゼルはプロポーズを受けるような歳じゃないのに、プロポーズする図々しいヤツの顔が見たいというので、わたしは姉を沼に連れて行った。誰もつれてくるな、とは言われていなかった。
「そして、わたしと兄は互いの関係を姉から知らされた。相談した相手は姉なのだと同時に知った」
兄は怒りに震えていたのだと思う。水面が波立ち、木々が大きく揺れた。彼は二度と自分の前に姿を現すな、とわたしに言った。姉がわたしの手を引いて、気にすることはないと、その場から離れた。
もう二度と会ってはいけない、姉はわたしにそう言った。わたしはジゼルの事が好きだとも言ってくれた。だけど彼はもう違う。会うのは二人にとって良くない。
そんな姉の忠告を聞かず、会いたくなったわたしは沼に出かけてしまった。彼を傷つけたのは判っていた。謝りたかったんだ。
彼はいつもの場所にいて、だけど、もう絵は描いていなくて、わたしを見ると腕を掴み、何しに来た? と怖い声で言った。わたしに答える暇を与えず、僕を笑いに来たのかと罵った。
違う、と言いたいのに声が出なくて、わたしは何度も首を振った。違う、そうじゃない、わたしは、あなたに謝りたいだけ……
何がどうしてこうなったのか……やっとわたしが言ったのは
「ごめんなさい」
の一言だった。
その時のわたしは、その言葉がさらに彼のプライドを傷つけると知らなかった。彼はあからさまな敵意をわたしに向け、わたしを押し倒した。
おまえの父親が僕の母にしたように、僕がおまえを慰んだら、おまえの父親はどう思うだろうな。
「そしてわたしたちはもつれ合ったまま、沼に滑り落ち、そして沈んでいった」
沼の中は暖かく、そして青い空が見えた。
わたしの服を剥ぎ取ろうとする彼に逆らうこともせず、わたしは緑色の水を通して空を見ていた。そして、いつか彼が話してくれた物語を思い出していた。
この沼の水が緑色に輝くのは、沼に住む金色の魚が空に浮かぶ月に恋をして、流した涙が緑色だったからだ。月は太陽の恋人、金色の魚は届かぬ愛を嘆いて泣き続けた――
抵抗しないわたしを不審に思ったのか、彼はわたしを覗きこんだ。彼の瞳はわたしに、『逃げていいんだよ』と言っているようだった。
「すると、不意に彼の姿が消え、そこにいたのは黄金色に輝く大きな魚だった」
金色の魚は暫くわたしの周りをまわり、そして沼の中に消えて行った。
残されたわたしは兄を探したが見つけられなかった。どうしていいか判らず、だが、助けが必要だと感じ、びしょ濡れのまま、わたしは魔導士学校の寮にいき、姉を頼った。
わたしの話を聞いた姉は青ざめ、友人を頼った。魔導士学校の片隅、藪に囲まれた人目に付かないベンチで、姉と友人たちは対策を練ろうとした。
そこに校長が来た。ただならぬ気配を感じて飛んできたんだ。そして、おまえたちは学校に戻れ、と、一人で沼に向かった。
「笑い話だ。わたしが初めて使った力は、自分の兄を魚に変えた。しかも、自分で気が付かないうちに」
そこでジゼルは話を切った。なんといっていいか判らないロファーが、言葉を探す代わりにジゼルの手をそっと包んだ。ジゼルがロファーを見る。
「その日の内に、わたしは魔導士学校から逃げ出した。一人の人間を魚に変えた自分が恐ろしかったし、その制裁も怖かった」




