水面の先
あの池には、怪しい何かが出る。ずっと昔から、そう言われているのだそうだ。
あの池の水は、どんな日照りでも枯れることがない。だが、あの池には何かがいる。形容は難しいが、しかしあきらかに生き物のように見える何かが浮かぶことがあるというのだ。
その見た目は、人間でもなければ、普通の獣のたぐいでもないものとして伝えられている。色の表現も全体的に黒っぽい、いや赤だ、緑だ、青だと様々なので、一個体ではないのだろう。
その何者かが水面に現れるのは、決まってよく晴れて波のないような穏やかな日で、それからしばらくの間、村は一滴の雨も降らないような、酷い日照りとなるのだという。
ゆっくりと水面に現れ、低い不気味な音を発し続け、やがて静かに沈んでいくそれは、日照りを呼び村に苦しみを齎す不吉の象徴として扱われている。
それが現れた時には、何もせず、目を合わさず、ただ水の中に去るのを待つのが最善であるとされる。
村の人々は、それのことを、昔話としても伝承している。
――むかし、むかし。
不用意に近づいてはいけないと言われていた池で、度胸試しを行っていた若者三人がそれを目撃した。異様なまでに鮮やかに赤く、まるで皮膚が溶けたかのようにどろりとしたもので覆われたそれは、目の前に現れた若者たちにまったく気づいた素振りもないまま、池の中央に浮いていた。大きさが大人の男性の倍ほどもあるそれには目らしき器官が三つあり、徐々に開かれようとしている最中だった。
居合わせた若者たちはいずれも腕に覚えがある者達だったが、そのうちの一人が弓を持っていた。度胸試しとはいえ、本当に何かがいるとは彼ら自身も思っていなかったので、池に来る鴨でも捕えて晩飯にしようと考えていたのだ。
水面に浮く大きな何かは、幸いにして動きが鈍い。目がすべて開く前にと放たれた矢は三つの目の間に深々と刺さり、それは大きな音を立てた。地を這うように低い、断末魔のような世にも恐ろしい音であった。
あまりの恐ろしさに、三人の若者は這う這うの体で逃げ出したが、その晩から熱を出してうなされ、十日ほどで皆死んでしまった。
そして、若者たちがそれを見た日から一年間、一滴の雨も降らない日が続いた。
一年ぶりの雨の翌日、村に僅かに残った人々は、池に人柱を立てることにした。
雨が降らないまま作物は枯れ、森の実りすら満足に採れず、村から去った人間がたくさんいた。村の外、山を越えた別の村や町まで出れば問題がないらしいとわかったからだ。
残ったのは村の長とその家族、それと伝手のない老人や孤児たちばかりだったが、その中で村の長の長女が志願して人柱となった。
娘は生きたまま池に沈められ、その後池からそれが現れることはなく、村が酷い日照りに襲われることも無くなったのである。
ただ、池に近寄って見ていると、風もないのに水面が波打つことがある。
そんな時はいつも、どこからともなく、すすり泣きのような悲し気な女の声が聞こえるのである。
――伝わっているのはこんな内容の、各地で類例がいくらでも挙げられるような怪談話だ。それでも、地元の人々はただの眉唾物の創作話とは思っていないようである。
村だった地域の人口は増え、農地と野山だった土地の開発も進んだが、池の周囲は特に拓かれることもないままに、かつての姿を伝えている。
伝承を知る地元の人は、今でも滅多に近寄ることはないという。
◇
フィイたちの住む村には、池がある。
「あの池はね、見えてるより広くてあぶないし、よくないものが出てくるから近寄っちゃいけないって、ホユくんちのおばさんが前に言ってたよ」
「あー、なんか言ってたな。かーちゃんの従兄弟だかがあそこで死んだって」
「ダセぇなあ。怖いならおかあちゃんに甘えてろよホユ」
「怖いってわけじゃねぇけど……」
言い淀むホユをクシュホが煽る。
クシュホは良くないと思うけど、ホユも、もうちょっとはっきりダメだって言ったほうがいいとフィイは思っている。でも、幼なじみとはいえ、年上のお兄ちゃん達に面と向かっては言いにくい。
池は村で四番目に広い家の敷地ぐらいの大きさがあって、水面が時々光っているのが見える。
周囲には視界を遮るように草が長く伸びていて、肝試しにはうってつけの雰囲気ではある。そのせいか、村の男の子たちは近くまで遊びに行くことがある、というのはフィイだって知っている。でも、そういうのはみんな、遠巻きに恐々と見ながら、誰が一番近寄れるかを競っているだけなのだ。すぐに大人に見つかって怒鳴られて解散する程度の、お馬鹿な男子たちのたわいないお遊びだ。
今、クシュホがホユに持ち掛けているのは、そんないつもの戯れではなさそうだった。どうやら、みんなが寝静まった時間に、見つからないようにこっそり池まで行って、水面を触って戻ってくる、という本格的に肝試しらしいことをするようだ。
普段のお遊びよりも良くないことのように思えて、居合わせて話を知ってしまったフィイとしては出来れば止めておきたい。嫌な感じがするし、知ってて止めなかったのは何故だと怒られそうな気がする。
フィイが口を挟む隙がないまま、話はクシュホ主導でどんどん進んでいく。
救いを探したフィイが周囲に目を向けると、ちょうどよくホユの母親がこちらに来るのが見えた。美しい赤い髪を持ち、すらっとして気っ風がいい彼女のことが、フィイは大好きだ。
「おばちゃん」
寄ってきたフィイに気がついたおばちゃんは、立ち止まって機嫌よく笑った。
「こんにちはフィイちゃん。ホユに頼みたいことがあったんだけど、なんか盛り上がってる感じかね?」
「池に肝試しに行くってクシュホが言ってて」
「……そりゃあ良くないねえ」
「近寄っちゃいけないんだよって言ったんだけど、クシュホは聞いてくれなくて……」
「教えてくれてありがとう。ちょっと話したいから、フィイちゃんも来てくれるかい」
怖い顔でずんずんと迫る自らの母親に気が付いたホユが、バツの悪そうな表情で口を噤む。こまめにホユを煽りつつも小声で計画を話していたクシュホも、さすがに黙った。フィイはそれを、おばちゃんの背に隠れながら見遣る。
告げ口をしたようで心苦しいけれど、悪いのは男子たちのほうだ。
おばちゃんはそのままホユの家に戻ると、連れて来た三人に座るよう促した。
「あの池はね、異界に通じてんのさ」
「『異界』?」
「私らが住んでるこことは、全然違うルールで成り立ってる世界のことだよ」
てっきりそのままお叱りを受けるのかと思ったが、思ったよりも普通の調子で変な話が始まった。フィイ以外の二人も予想外だったようで、目を瞬かせている。
「ピンとこないって顔してるけど、とりあえずそういうもんだと思って聞いとくれ」
子供たち三人の顔を順番に見たおばちゃんは、苦笑して話を続けた。
「あたしも聞いた話だし、ちゃんと知ってる訳じゃあないんだけど、時間の流れる早さがまず違うらしいよ。あの池には生き物がいて、そこがもう変なんだけど、大きい生き物もいるけど言葉なんか全然通じないし、何考えてんのかわかんないようなのしかいないんだってさ。あの水面の先はもうあっち側で、顔なんか突っ込んだら、もう向こうのルールで物事が進んじまう。あたしらは向こうじゃまともに息もできないし、無力なもんだよ。向こうの生き物にバレたらあっけなく殺されておしまい」
「かーちゃん、それ」
「そう。そうやって殺された馬鹿があたしの従兄弟だね。馬鹿はホキカって名前だったんだけどね、赤が鮮やかな美男子って言われててさ、腕っぷしも強くてさ、そんなだから調子こいてたんだろうね。一緒に行った奴らの話だと、池に入ってすぐ殺されたみたいだね。酷い叫び声はあたしも聞いたよ」
反抗的な態度を隠さなかったクシュホが、気まずそうに目を逸らした。
「殺されたホキカは水面に浮かんでたんだけど、何でやられたのかもよくわかんないし、不用意に近づくのも危ないってんで一か月以上そのままにされてね。死んだあと膨らんでたのが萎んで、水面がよく見えるようになってから引っ張ったんだけど、その時にはもう髪と骨だけになってたってさ。あたしはその頃まだ子供だったから、見ちゃいけないって言われてて直接は知らないんだけどね」
ホユの従伯父が池に行って死んだ、というのは、フィイにとってはそれだけだとどこか遠くで知らない人が死んだ、ぐらいの話にしか思えないものだった。あの池だって、変わっているというのは知識として知ってはいたけどそれだけで、なんとなく怖いとか、そういう程度の認識だった。
でも、よく知っている近所のおばちゃんが体験したこととして語られた途端に、おはなしに過ぎなかったものが急に現実味を帯びてきて、今はあの池がとても怖い。ホユも同じだったようで、顔色が悪くなっていた。
「問題はその後でさ。浮いてたホキカを回収してすぐに、池から向こうの生き物が生きたまんま出てきたんだ」
「えっ」
「向こうの生き物もこっちでは息ができないらしくてね、すぐ死んだよ。でもそれが異様でさ。最初は静かに出てきたんだけど、一回息を吐き出した後はどんどん形相が変わって酷くもがいたそうでね。よっぽど苦しかったらしくて、最後は恨みの靄が真っ黒くかかった塊みたいになって死んだんだと」
「……息ができないのって、そんなに苦しいんだ」
「死ぬぐらいだからね。時間の流れが違うって話だし、もしかしたら向こうの生き物が想像してたより、ずっと長く苦しんだのかもしれないね。普通にあっさり死んだなら恨みの靄なんか出来ないからね。ホキカだって問題なかった」
恨みの靄は、その名の通り強い恨みや妬み、苦しみを感じた生き物が発するものだと言われている。それの塊みたいになる苦しみなんて、フィイには想像もつかない。
「恨みの靄はただでさえ猛毒だからね。放っておいたらそこら中に毒が回っちまうってんで、動かなくなってすぐに池の下から降ろして土ん中に埋めたんだけど、そん時作業してたのが十人死んでる。危なすぎて簡単に埋めただけでそのままにしてたら、なかなか毒が無くならないしちょっと漏れてるってんで、今から五、六年前に改めて埋め直したんだ。で、その作業してくれた奴も二人死んだ。そこら辺は、クシュホはよく知ってるよね」
クシュホはむっつりと黙っている。
村の男子どもの中でもクシュホはちょっと浮いていて、少し荒れたところがある。フィイが聞いた話では、クシュホには父親がおらず、母親もほとんど家に帰ってこないので、小さい頃から親戚が持ち回りで面倒を見ていたのだという。だから、寂しいのかなと思っていたのだ。
そんなクシュホが、何かの拍子に父親の死因を知ってしまったのだろう。おそらく、毒で死んだ二人のうちの一人がクシュホのお父さんなのだ。
クシュホの意図したのは肝試しなんかではなくて、あの池の向こう側に、お父さんの仇を取りに行く気だったのかもしれない。
「あの池に近寄っちゃいけない。向こう側に顔なんか出そうもんなら、ホキカみたいに殺されるかもしれないし、また何人も死人が出るかもしれない。向こうにこっちの方法は通じない。やり返したくても、やり返す方法がないんだ。あの池の向こう側とこっちは関わっちゃいけない、絶対にだ。クシュホ、それからホユも、わかったな?」
そういえば、ホユの家にも父親はいない。おばちゃんは夜に仕事に出ることが多くて、そういう時のホユは隣のフィイの家に預けられることになっている。
――ああ、なるほど、クシュホのお父さんと、ホユのお父さんの二人が、毒で死んだのだ。
「……あぶないのは、あの池だけなの? 他にも池はあるよね」
この村にある池は一つだけだが、村の周囲や他の地域には別の池がある。フィイは村からほとんど出たことがないのだが、一度だけ、両親と一緒に隣の村に行く途中で、大きな池を見たことがある。
銀色の水面が浮いていて、面白がって触ろうとするフィイを両親は止めていた。あの中では息ができなくて危ないから触ってはいけない、と言って。
「あの池以外の、普通の池は、魚が吐く泡の大きいやつみたいなもんだからね、そこまで危なくはないよ。中に入ると息ができないし、体をうまく動かせないってのはあるから、大きい池には近寄らないほうがいいけどね。でも、普通はそれだけなんだ。向こう側に生き物がいて、時間の流れすら違うとかいうのは他に聞いたことない。あの池は、昼間に水面が暗かったり、夜に水面が光ってたりするけど、あれは向こう側と時間がずれてるかららしいよ」
「普通の池って夜に光らないんだ」
「普通は夜にはまわりと一緒に暗くなって、どこにあるかよくわかんなくなるもんなんだ。だからまあ、やっぱり普通の池も危ないってことでいいんじゃないか」
ずっと苦く笑っていたおばちゃんが表情を緩めて、改めてホユとクシュホを順番に見た。
「とにかく、あの池には近づかないどくれ。あたしはもうこれ以上、あの池のせいで酷いことが起こるのを見たくないんだよ」
その日の夜、眠っていたフィイはふと目が覚めてしまった。辺りは真っ暗で、フィイの両親も寝ているようだ。
何気なく家の外に目をやると、近くを誰かが小さな灯りを持って歩いて行くのが見えた。僅かな光で見えるのは鮮やかな緑の髪、体格からして大人ではなさそうだ。
近くで眠っていたホユをそっと起こす。ホユは今日もフィイの家に預けられていた。
「ねえ、あれ、クシュホじゃないかな」
「……あ? そうかも……」
なんだか嫌な予感がした。
クシュホが進む先にはあの池がある。辺りは暗くて、あの池も今は光っておらず、遠くからではどこにあるのかわからない。けれど、方向はわかるし、池の周囲は長く伸びた草で覆われている。近づいてさえしまえばどこが水面なのかはわかるのだ。
二人の子供は互いに顔を見合わせると、そっと家を抜け出した。
「しかられるよね、これ」
「でも騒ぎにしたらクシュホがますます居にくくなっちまう。気持ちはわかる気がするし、できたら俺たちだけで止めたい。フィイは巻き込まれただけだって言うから」
「わかった。じゃあまず追いつかないと」
家を出るのにまごついている間にクシュホの持つ頼りない光はずいぶん先へ行ってしまった。あの先はもう村の外れで、家はない。
それどころではないのに小声で話し続けてしまうのは、不安だからだ。ホユも同じなのだと思う。
「……クシュホもさ、あれきっと、池の向こうの奴らに文句言いたいだけなんだと思う。俺はフィイんちのおじちゃんやおばちゃんによくしてもらってるけど、クシュホはたぶんそうじゃないから。とーちゃんがいたらって、俺ですら思うことあるもん」
「それでも、おばちゃんが教えてくれたのとおんなじことになるかもしれないでしょ? このせいで毒で死ぬ人が出たりしたらいやだし、クシュホがつらいめにあうのもいやだもん」
「そうだよな……」
前のほうに見えていた、クシュホの持つ小さな灯りがふっと消えた。もう池の下に長く繁っている草の中に入ってしまったのかもしれない。
慌てて寄って、持ってきた灯りを掲げてみると、草がかき分けられた跡があった。
「クシュホ!」
先に草の中につっこんで行ったホユの声がする。
フィイも急いで中を覗き込むと、意外なことに池の水面の真下には草はなく、岩がごろごろ転がっていた。見上げれば、慌てて上を目指すホユと、そのホユを振り切るように昇っていくクシュホの先に、揺らめくような何かが見えた。あれがきっと、池の水面なんだろう。
ホユの声は聞こえているだろうに、クシュホの態度は頑なだ。ホユのほうが動きが速いが、クシュホは力が強い。あの様子では止められないんじゃないかと思い、フィイも慌てて後を追う。
池の水面まであと少しというところでホユが追い付いたが、縋りつくホユごとクシュホが昇る。揺らめくものが乱れるのが見えて、二人が水面の向こうに顔をつっこんだのが下から見てもわかった。気泡と水が混ざる大きな音がして、クシュホの声が聞こえた。
――父さんを返せ
言い切る前に大きな音がして、水面の二人が沈黙する。全身に軽い痺れを感じたフィイの目の前に、重そうな何かの塊が降りてきた。クシュホとホユは、この重いものを投げつけられたのかもしれない。体が変に痺れるあたり毒のあるものなのかもしれないが、今は気絶したらしい二人をなんとかするほうが優先だ。
体の半面が水面の先に隠れるように浮いている二人をこちらに戻すため、フィイも水面に顔をつっこんで、そして理解した。
時間の流れかたが違う。
水面の向こうにもいろんな色が見える。動くものもたくさんいる。そのすべてが驚くほど素早い。
そして、フィイはなぜかゆっくりとしか動くことができない。
体の時間の進みかたと意識の時間の進む早さが違うのだ。体は普段通りの速度で時間を刻み、意識は今見ている世界の早さにひっぱられているのかもしれない。
水面の先、少し離れたところには、小刻みに震えながら動かない、見たことがない生き物がいる。フィイたちよりやや小型で、周囲にはよくわからない人工物らしきものが散らばっている。この生き物が、ホユたちを気絶させたのかもしれない。
相手にはおそらく敵意がある。こちらでは緩慢な動作になってしまうフィイたちが圧倒的に不利だ。
フィイは渾身の力をこめて水面に浮かぶ二人をひっぱった。さっき感じた体の痺れは、なんということもないままもう収まったが、この後また酷い毒になるものを入れられるかもしれないのだ。なるべく早く、この水面から離れたほうがいい。
水面につっこんでいた顔を戻すと、村の大人たちが何人も慌てて近寄ってくるのが見えた。あっという間に知った顔のおじさんたちが寄ってきて、ぐったりしたままの二人を抱えてくれる。その後ろからはフィイの両親がすごい勢いでやって来た。父が無言でフィイを抱え、そのまま素早く水面から離れていく。父も母も、顔から血の気が引いた怯えた表情をしている。
「フィイが無事でよかった……」
母からこぼれた小さな呟きに、なんだかたまらない気持ちになってしまったフィイは、自分を抱える父の体に抱きついた。
クシュホとホユは程なく意識を取り戻した。ホユとフィイは自分を止めようとしただけだと言って、その場の全員に頭を下げるクシュホは、いつもの悪ぶった様子も全くなく縮こまっている。
「三人が無事でよかったが、問題はこの後だ。また恨みの毒を巻き散らかされるかもしれん」
村の世話役が難しい顔をする。
「先例から言っても、おそらく時間の猶予はない。壁を建てますが、いいですね」
「……そうだな、今まで年寄りの感傷で止めさせて悪かった。またこんなことになるなら反対すべきではなかった……」
「小屋から壁を持って来る。急で悪いが皆手伝ってくれ」
しょんぼりしたクシュホと、なぜかうなだれている村の長老たちを、おばちゃんたちが慰めている。
力自慢のおじちゃんたちが、せわしなく動いて、村外れの作業小屋からなにか大きな板のようなものを運び出し、池の近くにどんどん立ててゆく。
何が起きているのかわからないまま、ホユと一緒に眺めていると、あれは池のまわりを囲むために用意していたものだよ、と母が教えてくれた。
「『用意していた』?」
「そうよ。あの池は本当に危ないからね、池を塞ぐことはできなくても、囲って誰も入れないようにしたり、毒を漏らさないようにならできるだろうって。そういうふうにできる壁を、あとは組み立てれば済む、ってところまでは作ってあったのよ」
けれど、昔を知る長老たちが渋っていて、新たな事件も二十年以上起こらないままだったので、実際に組み上げるまでには至っていなかったのだそうだ。
昔、百年以上生きている長老たちがまだ幼い子供だった本当に昔の頃、あの池を通じて向こうの世界の生き物とは交流があったのだという。こちらからは捕らえた魚を生け簀に入れて水面に送り、向こうからは美しい花を束ねたものや、光を弾く石や金色の装飾品を籠に入れたものが送られていたようだ。長く続いていたという穏やかなやり取りは既に絶え久しいが、輝く水面の近くから聞こえる美しい音と、そこからやってくる美しい品々のことを長老たちは覚えていて、いつかまた穏やかなやり取りが再開できるのではないか、と考えていたのだという。
「結局無理だったのだけどね。おじいちゃんたちの気持ちもわかるから、残念だけど……」
母は悲しそうに微笑んで、ホユとフィイを抱きしめてくれた。
◇
地域に一軒しかない民宿にいた客の男二人が夜の間に消えていた問題は、翌朝に解決した。地域内にあるいわくつきの池の近くで動けなくなっているのが発見されたのだ。
池は周辺の土地ごと地域の自治組織の所有で、厳重に金網を巡らし立ち入り禁止とされている。年二回ほど、周囲の草を刈る時に決まった人間が入るがそれ以外は誰も立ち寄らない。客の一人はそんな柵すぐ近くで、夜が明けてすぐに見つかった。腰を抜かしており、もう一人が中にいるという。
彼ら二人は、この地域に伝わる伝承を検証するという動画を作るためにこの地を訪れたのだという。夏の旅行ついでにいくつかの土地で怪談動画を撮影する計画で、一人は柵の外側で見張りを、もう一人が実際に中で撮影をする、という分担をしていた。一人が柵を乗り越えるのを見送った後、三十分も経たないうちに低く恐ろしい叫び声のようなものと水音が聞こえ、それ以降なんの音もしなくなってしまったのだ。
地域は過疎化が進んでおり、池の近くには空き家と耕作が放棄された畑しかない。恐ろしい大きな音がしたのに周囲から様子を見に来る者もなく、逃げなければいけないと思っても足は動かない。通信の電波もなぜか通じず、まだ十代だという若い男はその場で震えながら夜を明かし、そのまま捜索していた人々に発見された。
一緒にいて、柵の中に入って行ったもう一人とは、今回の旅行が初顔合わせだったということで、互いにあまり詳しいことを知らなかった。柵の中は足場も悪く危険なので、もう一人はもっと日が高くなってからこちらで探すと言われた男は、探しに来た宿の主人に謝罪して帰宅の途についた。
その後、彼がもう一人の消息を聞くことはなかった。
男は後悔していた。
過激さが売りの怪談検証動画は、立ち入り禁止は当然無視、地元民に追われれば却って良しぐらいのスタンスだった。人の気配が薄い廃墟では怪奇現象以外の危険があることも考慮して、スタンガンはいつでも使えるようにしているし、ちょっとした霊現象っぽいものに遭遇したことだってある。けれど今回は勝手が違った。
よく晴れた夜だった。月灯りと持ち込んだ懐中電灯を頼りに草をかき分けた先、池のほとりから見る水面の、中央付近から僅かに気泡が浮き上がっていることにはすぐ気が付いた。三脚を立てて動画を取り始めると、やがてゆっくりと何かの塊が水面に出てくるのがわかった。うっすらと発光しているそれは、鮮やかな緑色のどろりとした何かに、鮮やかな赤色のどろりとした何かが絡みついているように見えた。それがじりじりと水面の上に出てくるにつれ、生臭さが鼻に付くようになる。
男は内心の興奮を抑えながら、カメラが作動していることを横目で確認する。これは、かつてないほどいい素材が撮れているのではないか。
目の前に上がってきた緑色の何かが、ゆっくりと目を開けてこちらを見たような気がした。男が手にした懐中電灯の光を弾く丸いものは三つあり、これはおそらく、事前情報で調べた伝承と同じ三つの目の怪物なのだ。この映像がちゃんと撮れていれば、撮影者として自分は有名になれる。
しかし、そんな興奮は長く続かなかった。
目の前にいる三つの目の怪物は、明確に自分に敵意を持っていた。三つの目はヒタリとこちらを見据え、その近くの部分が大きく裂けて、中に鋭い牙のようなものがあるのが見える。眼光のあまりの迫力に動けずにいると、口らしき個所から低く不気味な、しかし空気を震わせるほどの大音量の咆哮が発せられた。
逃げなければ。本能的にそう思ったが足が動かない。なんとかスタンガンを取り出し、未だに吠え続ける怪物に向かって投げつけた。水の怪物であるためか電撃は効いてくれたようで、巨体がゆっくりと水面に崩れていく。ほっとして改めて池の水面を見返すと、怪物がもう一匹いたことに気が付いた。緑の怪物と、赤の怪物のほかに、白い怪物がそこにいたのだ。真っ白などろりとした何かに覆われた怪物の、光る三つの目に見据えられた男はその場に座り込んだ。もう手持ちに武器はない。逃げられない。
そのまま気絶をしていたようだった。気が付けば周囲は明るくなっており、池の水面にはもう何も浮かんでいなかった。柵のあるほうから複数の人の気配がする。
慌てて周囲を見てみれば、三脚は倒れてカメラは水に浸かっていた。柵の外で見張っていた仲間からの連絡を確認するためにスマホを取り出したが、電波が立っていないようだ。
水没してしまったカメラでどこまで撮れていたかはわからないが、うまくすれば撮影データは取り出せるはずだ。散らばった荷物を慌ててまとめていると、草むらの向こうから作業着姿の男たちが現れた。
「民宿に泊まってたもう一人ってのは君かな」
この作業着の男たちは地元の役所関係の人間かもしれない。外にいたもう一人がうまく立ち回れなかったのだろう。内心舌打ちしながら、しおらしい態度を作って頷いた。
「お、僕はここの伝説が本当なのかを確かめ」
「それはもう、外にいた子に聞いたので知ってます。ここで何か見ましたか」
「見ました! あの、池の真ん中の辺りから、三つ目の怪物が」
「そうでしたか。――ここの伝承はご存じなんですよね?」
「あ、はい……それは」
「それなら、この後どうすべきかも、ご存じですよね?」
貼りつけたようににこやかに笑う作業着の男たちの後ろに、大きな数珠を持った男がいるのが見える。
あの怪談はどういう話だったか。怪物を倒した後は酷い日照りが続いて、それを鎮めるために人柱を立てたのだったか。
――人柱。
嫌な予感がした。
◇
目を隠され、口も塞がれた若い男が、木に括りつけられて池の中にゆっくりと沈んでいく。
あの怪物の恐ろしい咆哮があってもなお、誰も来なかったような場所だ。暴れて大きな音を立てたところでおそらく助けは来ない。
男は一人暮らしだ。動画の配信をやっていることは親も知っているが、いい顔はされていない。普段連絡を取ってもいないから、しばらくの間は探されることもないだろう。探されたところで、ただこの近くで行方不明になったという扱いにされるのだ。沈められる直前に聞こえた会話ではそうすると言っていた。おそらく見つけては貰えない。
息が苦しくなってきた。どうせ死ぬならこのまま気を失いたいが意識ははっきりしている。
それに沈み方が妙に遅い気がする。朝の光の下で見る池の水は思いのほか澄んでいたし、自分はまだ冷静さを保っている。うまく横移動できれば、池の端のほうで息継ぎができる可能性だってある。
頭を激しく振ると、水の中で緩くなっていた目隠しと猿轡が浮いてきた。生き延びるためには水面を目指す必要がある。思い切って目を開けると、天然の池とは思えないほど水は澄んでいて、上のほうから光が入ってくるのがわかった。
手足はきっちり丸太に縛り付けられており、解ける気配は今のところない。太くて重い丸太は重力に従って下がっていく。体の方向を変えることもできない。足元のほうの水は冷たいが、顔の周りの水はまだぬるいので、まだ自分は池の水面の比較的近くにいるはずだ。自分の発した気泡がゆっくりと上に昇っていくのがわかる。すべてがスローモーションのように遅い。
男にできるのは目に映る情報だけをせわしなく確認することぐらいしかない。目の前を小さな魚が妙にゆっくり横切って行く。
思ったよりも長く息を止めていられている。男の体はゆっくりと沈んでいき、ふと気が付けば周囲には何もなくなっていた。水は澄み、まだ光は十分届いているはずなのに目に映るものは何もない。
――いや、これは、壁だろうか? 白いつるりとしたものが目の前にある。なんとか体をよじって後ろだったところも見てみるが、やはり白いつるりとした壁のようなものに囲まれている。池の中にこんなものが?
疑問に思ったところで男に知る術はない。気を紛らわせることができるものは、もう知覚できる範囲には何もなくなってしまった。自分はただゆっくり沈んで、息が尽きるまで苦しんだ後、そのまま朽ちていくしかないのだ。
男はそのことに気が付いてしまった。
彼の絶望は、彼の息が尽きるまでもうしばらく続く。
お読みいただきありがとうございました。