第一話
「閣下、いきなりで申し訳ないのですが、わたくし本日を以てお暇させて頂きます」
久しぶりに貴族令嬢らしいドレスを身に纏った私は、これもまた久しぶりに貴族令嬢らしくドレスの裾を持って礼をしながらそう言った。この執務室で仕事を手伝う時にはずっと簡素で動きやすい衣装を着ていたから、とても変な感じがするが仕方がない。
辺境伯の為の執務室は無駄なものが一切なく、執務用の机と椅子と本棚しかない。装飾の類は申し訳程度に控えめな風景画が飾られているのと、机と本棚に少しだけ施された細工くらいで豪奢という言葉とは無縁だった。
けれどこのシンプルさがかえって目の前の辺境伯閣下の人となりを表しているようで、私は嫌いではなかった。むしろ好ましかったとまで言える。
「……君は、私の婚約者としてこの城にいる筈だが、それはどういう意味だ?」
そう、私、グレース・オルドヌングはオルドヌング伯爵令嬢として、不慮の事故でご両親を喪い若くして爵位を継いだセオドア・オルニエール辺境伯の婚約者となり、ここオルニエール領へやって来た。
セオドア様は座ったままで、凍えるような美しさと評される目元に少し皺を寄せて私を見ている。たったそれだけのことでも、元々の威圧感が増して中々に迫力があった。
……でもよかった、一応、セオドア様は私のことを“婚約者”とは思っていてくれたようだ。それだけで、まあ、少しは救われる。緩みそうになる口元をきゅ、と引き締めて私は話を続けた。
「そうですね。一年前、わたくしはこの地域の環境や文化に慣れる為にやって参りました。婚前ではありましたが、自身の居住する地域以外に嫁ぐ場合は婚約期間に住居を共にすることも珍しくありませんから」
「そうだな」
「ですが、この一年、わたくしがやったことと言えば、閣下のお仕事の調整、管理、部下の方々の仕事の割り振りその他……。総じて閣下のお仕事のお手伝いばかり」
オルニエール領は隣国との関所と、隣国以外の他国との流通を担う港を有していた。つまり、とても、仕事が多かった。しかも私がこの領地に来る少し前にちょっとした贈賄事件があったそうで、その後始末と責任を取らせて辞職させた者が相当数おり、人手不足もいいところだった。
自分で言うのもなんだけれど、この一年、私は本当によく働いたと思う。それ以上に働いていた方が目の前にいるので、堂々と胸を張ることはできないが、私だってかなり頑張った。……それ自体は、いい。働くことは嫌いではない。ただ、もう少し婚約者らしい距離感で話すことができていたら、と少し未練は残っている。
「……この辺りの地域では、結婚後もご夫人方が働くのは一般的なことで」
「それは存じ上げております。わたくしを“使える”と思ってくださって仕事をくださったことも光栄でした。問題はそこではありません」
「では、何が」
少し、話が噛み合わなくて困った。このオルニエール領は確かに王都とは離れているけれど、貴族としての文化や慣習はそう変わらない筈だからセオドア様もこの状況が分からないなんてことはないと思うのだ。
我が国の貴族の定義で辺境伯は、五爵位とは違う括りに位置しながらも、実質的には公爵位と同じ位なのだと定められている。貴族としては王族に次ぐ位で、そもそもオルニエール家には王族も何人か降嫁されている。セオドア様自身に貴族のあれこれに疎い印象も無いので、しらばっくれているのかもしれない、と思いつつも説明を続ける。
「閣下、わたくしはあくまで“閣下の婚約者”としてこの城におりました。しかし、この一年、結婚に向けてのお話は一切ありませんでしたね?」
これには、さすがのセオドア様も苦い顔をして黙り込んでしまった。嫌味を言いたい訳ではなかったけれど、心の底にあった卑しさが出てしまったらしい。申し訳ないとも感じるけれど、事実でもあるのでご容赦頂きたい。
「この国では普通、成人をした後の婚約期間は基本的に一年前後。つまり本来わたくしたちはもう結婚式を済ませているか、少なくとも近日中にその予定があって然るべきだったのです」
何の準備もない状態で、近日中に結婚式など行えない。貴族の結婚は平民の行うような、素朴で数名の親族が集まればいいようなものではないのだ。平民を下に見ている訳ではなく、まずもっての意味合いが異なる。
貴族の結婚式は、政だ。貴族の結婚自体既に政治だけれど、結婚式は分かりやすくお金が動く。辺境伯であるセオドア様の結婚式となれば、それこそとんでもない額が動くし国事レベルの行事となる。
招待する客はもちろん、発注する食べ物や衣装やその他の物、当日のパレード、貴賤を問わず祝祭に集まる人々を楽しませる余興など、多くの経費をかけ多くの人々を動員し多くの金銭を流通させることのできる一大イベントなのだ。愛だの恋だのは、そこになくて構わないけれど、貴族としての矜持と技量が試される場でもある。
「わたしくもこの一年、ずっとただ待っていた訳ではございませんでしたわ。きちんとお話をする機会を頂きたいと、何度も閣下に直接お伝えしました。……閣下のお仕事のお忙しさはこの一年で嫌と言う程に理解しましたから無理を言うのは憚られましたが、これ以上はお互いにいけません。我々貴族には外聞がひどく重要です」
自分に非がないことを強調したのはわざとだ。このくらいの意趣返しは、私にだって許されるべきだと思う。……実のところ、日々の公務に疲労困憊のセオドア様を煩わせたくなくて、それから煩い女だと思われたくもなくて、初めの二ヶ月くらいで結婚式のことを相談するのを止めてしまったのは、わざわざここで言わなくてもいいだろう。
セオドア様が立ち上がりこちらに向かって来ようとするのを、無礼を承知で手で制した。セオドア様の焦ったような表情は、もしかすると初めて見たかもしれない。こんな時なのに少し嬉しく思ってしまうのは、世に聞く惚れた弱みというやつなのだろうか。
「それは」
「丁度よく、わたくしの生家が現在少し困ったことになっておりますの。この婚約の解消理由としては適当でしょう。時系列に矛盾が生じますが、そこはもう押し通すしかありません。何にせよ、多少の噂話はつきものですから社交界の移ろいに身を任せましょう。わたくしの仕事の引継ぎはマニュアルを作っておりますので問題ございません」
「ま」
「では閣下、わたくし迎えを待たせておりますのでこれで失礼致します。一年間お世話になりました、ごきげんよう」
セオドア様が何かを言う前に令嬢らしからぬスピードで部屋を出て、人をすり抜けて辺境伯の城から飛び出る為に進む。私と入れ違いでセオドア様の執務室に入っていった事務官が少し驚いたような顔をしていたけれど、構ってはいられなかった。
走りはしなかったけれど、ずんずんと素晴らしい速度で歩き去る私に城の人たちが「どうなさいました」と声をかけてきてくれた。しかし私は「何もありません」と答えるのが精一杯で、立ち止まって別れを告げることはできなかった。
ちなみに私とよくやり取りをしていた事務官や侍女たちなどには既に伝えて、別れを済ませている。無いとは思うけれどセオドア様が追ってくるようなことがあれば、その人たちが足止めをしてくれる予定になっている。
この城で一番大きな扉を出れば、オルドヌング家の馬車がもう待っていた。後ろを振り向かずに、そのままのスピードでそのまま乗り込む。この馬車に乗るのも一年ぶりだ。迎えに来てくれた馬車の中には、昔の馴染みの侍女が乗っていた。私と年の近い彼女はハンナといって、代々オルドヌング家に仕えてくれている家系の人だ。
「グレースお嬢様、お久しぶりです! もうさっさと出て行きましょう、こんな所!」
「お久しぶりという程でもないでしょう、ハンナ。落ち着いて、馬車を出して」
「ええ、もちろんですとも!」
ハンナが御者に馬車を発進させるよう伝えると、当たり前だがすぐに馬車は動き出した。窓の外を見てしまいそうになって、慌てて視線を落とす。一年も住んだ場所から出て行くのだから、かなり感慨深い。だから、目頭が熱くなるのも仕方がないことだ。
「ああ、お労しいです、お嬢様! あんな地位と見てくれだけの甲斐性なし! 今度はあんなのじゃなくて、もっと素晴らしい殿方との婚約が決まりますからね!」
「……ふう、ハンナ。わたくしのことを思ってくれるのは分かっているけど、口が過ぎますよ」
「だって、だって! 悔しいんですもの! 我々の愛するグレースお嬢様をコケに!」
「されてません。……ふふ、もう、ハンナったら」
ハンナは元々、この婚約の際にオルニエール領へ一緒に来てくれていたから思うところがそれなりにあるらしく、自分のことのようにぷりぷりと怒っている。
この婚約が駄目になったことに対して私がある程度、理性的でいられるのはハンナのおかげでもある。こうやってハンナが感情のままに憤ってくれることは、もしかすると侍女としてはあまり褒められないかもしれない。それでもハンナが私の味方であってくれたことが、私にとってプラスに働いたことは事実だ。
「お嬢様……」
「それで、お兄様は何と?」
「……それが」
実家に帰るにあたり、ハンナには一度先に戻ってもらってあちらとのやり取りをしてもらっていたのだ。セオドア様にも話した“生家の困りごと”の件を聞きながら、私はオルニエール領を後にした。
***
丸二日をかけて戻った生家は、相変わらずの賑わいでいくつかある応接室ではどこでも商人たちが取引を行っていた。商談が整って慌ただしく出て行く者、逆に破談になり次の商機を話し合う者など様々で「ああ、帰ってきた」と肩の力が抜ける。
我がオルドヌング伯爵家は古い家柄だけれど、他の貴族たちのように商会や商人を支援するのではなく、ずっと自家で商会を運営してきた。だからこの屋敷には多くの商人が毎日出入りしている。平民のようだと言われてはきたけれど、その代わりに我が領地の財政は常に安定していた。
一緒に戻ったハンナと一旦別れ、その足で兄であり現オルドヌング伯爵であるジュード・オルドヌングに会いに行く。兄の部屋に行く途中、昔馴染みの使用人や商人たちが声をかけてくれたので予想外に時間がかかってしまったが、一年ぶりなのでこんなものなのだろう。迎えてくれた兄もそう気にしていないようだった。
「おかえり、グレース。疲れただろう、ゆっくりしてからでもいいのに」
「お久しぶりです、お兄様。ええ、ご挨拶が終わったらそうさせて頂きます」
久しぶりに入った兄の執務室は、この一年で装飾が随分様変わりしていた。兄は流行りに敏感である為に、シーズンごとに絵画や絨毯はもちろん壁紙や机、本棚などの大きな家具もよく替える。使わなくなったものは中古で売ったり寄付するので、別に物を粗末に扱っている訳ではない。ただ、改めてセオドア様とは正反対の部屋だと思う。
「……何と言うか、今回の縁談、本当にすまなかった」
執務室にあるソファに対面して座ると、兄はまず私に頭を下げた。想定はしていたけれど、兄に謝罪をされるのは気持ちのいいものではない。縁談が駄目になったことは、兄のせいではないのだから。
「お兄様が謝罪されることって何かございます?」
「あるだろう。この縁談を纏めたのは僕だ。誠実で、女性関係もそう派手でなく、何より辺境伯。条件だけ見れば本当にいい縁談だと思ったんだ」
「条件は確かに極上ですよ」
「全く以て条件だけだったな。ハンナから聞いたが、そんなにもグレースを蔑ろにするような男だったなんて……。何度か話をしたが、僕の人を見る目もまだまだだったな。本当にすまない」
「あの、お兄様? わたくしは蔑ろにされていた訳では……」
ハンナが何を言ったのかは分からないが、セオドア様は随分と悪者扱いされているらしい。しかし、蔑ろにはされてはいないのだ。部屋も広く立派なものを用意してくれたし、衣服や食事も手抜きされたものは渡されていない。“婚約者”として扱われていなかっただけで、“お客様”や“働き手”としては十分な厚遇だったといえるだろう。
「グレース、婚約者として未婚の令嬢を自領に招いておいて、結婚の“け”の字も出さない腐った男なんて庇わなくていいからね」
「……ううん」
にこりと笑う兄に言葉が詰まる。それを言われると……。
確かに私は“未婚の貴族令嬢”で、婚姻に関してそれは重要な条件の一つだった。今回の縁談は破談になってしまったけれど、私が“婚約者の自領に一年間滞在した”という事実は残ってしまう。色っぽいことなんて一切なかったけれど、それを証明なんてできないのだ。俗に言うところの“傷がついた”状態になってしまったのは否定できない。でも、セオドア様はその、悪い人ではないのだ。
「ですが、まあ、わたくしが上手く立ち回れなかったという話でもありますし」
「グレース」
「はい」
「庇わなくて、いいからね」
「はい……」
使用人が持ってきてくれたお茶を一口飲みながら、兄から視線を外す。物事を区切って言う時の兄は、怖いのだ。さすが、長子として跡取りとして育った方は違う。私にはこういう威圧感や雰囲気は出せない。兄曰く、亡き父の方が怖かったらしいが、私はかなり遅くにできた子だったからか、父が恐ろしいという記憶はあまりなかった。
「あちらには、払って頂くものはきちんと払って頂く。あちらのメンツを守る為にこちらの有責にするんだから、秘密裏にはなるが、それなりの額を耳を揃えて必ず払ってもらおう」
ため息交じりに兄がそう言うので、やっと私は兄に向き直った。
「あまりやり過ぎないでくださいね。わたくしが新規開拓したオルニエール領内の港からの商売ルートに何かあったら怒りますよ」
「あの島国の工芸品のルートなあ……。いる?」
「いります。あの工芸品は絶対に三ヶ月もしない内に値段が跳ねあがりますからね。その他のルートもちゃんと運用してください」
セオドア様にあまり圧力をかけて欲しくはないが、あの方ならきっとどうにかできる。ならば私は、私の開拓した商売ルートを心配した方がいい。オルニエール領で仕事をしながらコツコツ開拓したいくつかの商売ルートを、我が家との不仲を原因に潰されたらたまったものではない。あの縁談には、あれくらいしか収穫がなかったのだから。
「転んでもタダは起きない精神は我が家の者として立派だが、グレース、君ね。この件でお前の貴族令嬢としての価値はだだ下がりなんだぞ。これでいいと思っているのか」
「そんなもの知りません。とは、さすがに言いませんが、まあ、わたくし自身が結婚に向いていないのも分かりました」
「何故? グレースはどこに出しても恥ずかしくない立派な令嬢だ。身内贔屓じゃないよ」
「それを欲目と言うのです。……仕事が、楽しかったんですよね」
「……ああ」
今度は兄が視線を落とした。少し気まずそうなのはきっと、自分のせいでもあると思っているからだろう。私はこの家の仕事もよく手伝っていた。流行り病で両親が呆気なく亡くなってしまっても、生活は続けなければならない。特に我が家は領主の家系だから、兄は忙しかった。それを手伝うことは当たり前のことだったのだから、そこに負い目を感じないでほしい。
「前から分かっていたことでしたが、仕事が楽しいです。結婚についてのあれこれや自身を着飾ることよりも、領地の問題を解決したり新規の商売提案をしたり文官の真似事をしたりすることが楽しかったんです」
「あれ程、ほどほどにしなさいと言ったのに……」
「こんなわたくしが、子どもを持って家で優雅にお茶会なんて開けると思います?」
「オルニエール領は、ご夫人方もよく働いていると聞いたんだが」
兄がセオドア様との縁談を持ってきてくれたのは、私のこういう性質を知っていたからだ。辺境伯は我が国では公爵位に相当する位だから、公爵家や侯爵家が率先して縁談を持ちかけてもおかしくないのだけれど、領地が王都から遠いことや女性も仕事に多く参加することから嫌厭もされている。
私にとって条件がよい、という理由で探してくださった縁談だったのに、きちんと結ぶことができなかったことが本当に情けない。しかし私が必要以上に落ち込んでいると兄も気にするだろうから、また口を開く。
「ええ、ですがきちんとセーブされた働き方をなさっておいででしたよ。やはりお子様が小さいと奥様が四六時中家を空けるのはよくない、という考え方は共通していましたわ」
「家の切り盛りをするのもれっきとした仕事だよ。ご夫人方のネットワークってすごいからね」
「存じております。仕事をしつつ家を守りつつ、むしろそちらの方が忙しそうで、それもいいとも思いました。でも、実際この縁談も駄目になったことですし、もし次があるならば、いっそのことお子様や跡継ぎが既にいらっしゃる方の後妻とかどうです?」
「どうです? じゃないよね。ちょっと、落ち着きなさい」
オルニエール領で、セオドア様の仕事を手伝いながら私は悟ったのだ。仕事をこんなにも楽しんでしまう私に、普通の貴族の奥様業は向かない。オルニエール領程でなくとも、少しは家の外で働いていたい。目まぐるしく働いていればいずれ、セオドア様に対する想いも消えてなくなるだろう。
「わたくしは落ち着いております。ただそれなりに傷心中なだけですわ。……それで、詐欺集団はどうなっているんです?」
セオドア様に伝えた“生家の困りごと”とは、我が家の商会の商人が詐欺にあったことだった。被害は少額だったらしいけれど、そういう話ではない。“騙された”ことがまず問題だし“簡単に手を出せる”なんて別の犯罪集団に目を付けられたら、たまったものではない。商売は騙し合いなんて言う人もいるけれど、“犯罪としての詐欺”と、その商人の腕で“値切る値切らない”のような話とを一緒にしてもらっては困る。
商会としてはイメージダウンが避けられない立派な“困りごと”なのだ。婚約の解消としてはきちんと使える材料で、私自身の問題でもないから比較的傷は浅い。婚約を解消されている時点で、今更だけれども。
「うちに手を出した人間は全部捕まえているんだけど……」
「だけど、何です?」
「ただの子ども騙しの詐欺集団だと思いきや、大元がいるみたいでそこが厄介そうなんだ」
「噂の侯爵令嬢が趣味で作ったという魔道具でしたっけ?」
「そう、趣味で作ったにしては出来がよくて、しかも奉仕の精神だか何だかで安価だ。野菜袋の中に入れておけば一ヶ月は野菜を長持ちさせる魔法石、火の調節が簡単な魔道オーブン、鞄の容量を二倍近くに広げる魔道ワッペン。そのほかに様々、庶民の暮らしに便利な魔道具ばかりだな。今までも似たような魔道具はあったが、高価で平民には手の出せないものばかりだった。だからこそ商人たちがこぞって入荷したがっていたが、とうとうそこに詐欺が湧いた。人気商品には詐欺が付き物だ。しかし奴らはきちんと侯爵家が発行している承認証を持っていた」
「偽物ではなく?」
「承認証は本物で魔道具が偽物だったから、困っているんだ。……ああ、オルニエール辺境伯閣下に押し付けるか」
「……閣下はお忙しい方なんですよ」
「うん、よし、そうしよう。誰か、手紙を書くから、特別に上等な紙とペンを」
「お兄様」
「グレース、疲れただろう。今日の夕食は君の好きなものをたくさん作ってもらうから、楽しみにしているといい。皆もグレースが帰って来るのを楽しみにしていたから、夕食は賑やかになるよ。それまでゆっくり休んでおいで」
「……失礼します」
「うん」
にこにこと笑う兄は、もうきっと何も聞いてくれはしない。優しく身内には甘い人だけれど、ああなると怖い。……まあ、セオドア様なら大丈夫だろう。セオドア様の周りにはあの方を敬い守り助けてくれる人が多くいる。本当なら、私も、その一人になりたかったのだけれど。
そんなどうしようもないことを考えながら、自室に戻った。一年ぶりの自室だったけれど、出て行った時と変わらないその部屋は少し涙腺を刺激した。何とかそれをこらえていると、ハンナや他の使用人たちがお茶やお菓子を用意してくれたのでそれを食べ、横になったり本を読んだりとだらだらして過ごした。
そうだ。私は働くことも好きだけれど、そういえばこうやって、だらけることも好きだった。オルニエール領に行く前は、この屋敷で兄を手伝い働いて、仕事が終わると部屋で昔馴染みの使用人たちと話をしたり、行儀悪くだらだらしたりしながらお菓子を食べたものだった。
オルニエール領のあの城では与えられた部屋の中でも最後までできなかったけれど、やっぱりだらだらできる実家はいい。貴族として生まれたからには、結婚をしてこいと兄が言うならそれに従わないといけないのだろうけれど……。しばらくは実家でのんびりすることを許してくれないか、頼んでみよう。頼むだけならタダだからと、カウチに横になりながら目を瞑った。
―――
一年と少し前、私はひたすらに顔を取り繕い、多くの猫を被りながらセオドア・オルニエール辺境伯閣下と初めて対面した。
『オルニエール卿、彼女が私の妹でグレース・オルドヌングと申します。グレース、こちらが』
『初めまして、グレース嬢。セオドア・オルニエールです』
兄が私の紹介をし、私は静かに礼を執った。正直に言って、初対面の時の記憶はとても曖昧だ。何せ、あんなにも格好いい人なんて初めて見た。ハンナに言わせればセオドア様より格好いい人なんて五万といるらしいのだけれど、多分そう、好みだったのだと思う。
綺麗で格好いい人なんて、実家に出入りする商人の中にもいくらでもいた。けれど、セオドア様を見た瞬間に感じた衝撃は、それらの美しい人々の顔がかすむ程のものだった。おそらく、あれを人は一目惚れと言うのだろう。
何だかよく分からない内に初対面は終わり、あれよあれよという間に婚約が纏まった。ここまでが本当にすごく早かった。気づけば私はセオドア様と一緒にオルニエール領に旅立っていたのだから。その理由はすぐに分かった。
『領主様、お帰りなさいませ。お疲れのところ申し訳ないのですが、港でボヤが』
『規模は?』
『木造の露店が一つ焦げただけです。しかし消火の際に近隣の露店の商品がいくつが駄目になりまして、詳細はこちらに。高額な物も含まれており、慣例に則って見舞金を――』
『分かった、目を通そう』
オルニエール領に着いて馬車を降りたとたんに、仕事の話が始まって、あれにはすごく驚いた。まだ城内にも入っていないのだ。しかも、セオドア様への報告があるのは一人だけではなかった。
『辺境伯閣下、隣国との国境で不審者が――』
『閣下、今年の税の税率ですが――』
『辺境伯様――』
『領主様――』
セオドア様は歩きながら人々の話を聞き、必要であればその場で決断して、やはり歩きながらサインまでした。
『グレース嬢、着いて早々すまないが私は仕事に戻らなければならない。貴女の部屋は既に用意しているのでそこで暫く休んで――』
『お手伝い致します』
『いや、君は仕事ができるとは聞いているが、さすがに今日来たばかりなのだから』
『わたくしもお忙しくされていると聞いていましたが、ここまでとは思っておりませんでした。後学の為にも是非、お手伝いさせてください』
『……では、よろしく頼む』
『はい』
セオドア様は少し申し訳なさそうに笑ってくれた。とくりと胸が高まったけれど、顔に出ていなければいいなと思いながらセオドア様について行った。
オルニエール領での仕事は、オルドヌング領での仕事とは随分様子が違っていた。数字を出して書類を作って、などの作業は一緒だったけれど、やはり国境と港を有している分、国外の人とのやり取りが多くあるのが特徴的だった。
外交は国レベルでやっているが、細々とした個人間や商人同士のやり取りを調整するのは領主の管轄だ。勿論、セオドア様が直接間に入って話をする訳ではないが、大ごとになる前に役人を派遣したり条例を制定しておく必要がある。古い条例を時代に見合うように作り変えたり、外貨とのやり取りで詐欺じみたことが横行しないように目を光らせておくのも重要だった。
そうこうしていると、一年は本当に瞬く間に過ぎ去っていった。本当に本当に、楽しかった。二人して仕事ばかりしていたけれど、できるだけ食事は一緒に摂るようにしてくれていたし、そんなに多くはなかったけれど会話だってした。
今回の件は、多分、本当にセオドア様の“うっかり”なのだ。悪意などなかっただろう。あの方は本当に忙しくて、いつだって仕事に追われていて。だから、うん、忘れていたのだろう。まあ、私との結婚が、その程度だったのだ。兄の言う通りに怒ってもよかったのだけれど、もうこれは惚れた弱みなのだろう。
……でも、ああ、もうあの人と二人で食事をすることもできないのだ。瞑ったままの目からぶわりと涙が溢れたのが分かったけれど、拭う気にもなれなくてそのままカウチに身を任せて微睡み続けた。
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