スイス//ネット
本日1回目の更新です。
……………………
──スイス//ネット
「思えば」
シックなゴスロリドレスを纏い、黒髪をポニーテイルにしたデフォルメの少女──そういうアバター姿のベリアが言う。
「国外に仕掛けをすることなんてなかったな」
「そいつはもったいない。腕試しをするにはいい場所だぜ?」
中年男性のアバター姿のディーがそう言う。
「しかし、欧州連合サイバー空間防衛協定は随分と呆気なかったね」
「あれはお呪いみたいなものだ。あると人々が安心してマトリクスに接続できるという一種の精神安定剤。ジャンキーにはラムネ菓子みたいなものさ」
欧州連合サイバー空間防衛協定は欧州連合内の個人及び団体を外部からの違法アクセスから守ると謳っているが、実際のところアイスブレイカーを使うまでもなく、アメリカ企業のサーバーから自由に侵入できた。
そして、今ベリアとディーはスイスはジュネーブのネットワークに侵入していた。
「あそこに高く聳え立つのはニューユービーエスAGのサーバーだ。それからプライベートバンクが列を並べる。そして、目的は──」
「国連チューリング条約執行機関。軍事施設並みの氷だ」
「ああ。あれに手を出そうとおもったことはこれまでなかった」
「今は?」
「やる気満々」
ディーのアバターがにやりと笑った。
「とりあえずは敵を知れ、だ。近づくぞ」
「オーキードーキー」
ベリアたちはネットワーク上に高く、そしてピラミッド状に広がる国連チューリング条約執行機関のサーバーに近づく。
「ふむ。侵入しなければ追跡エージェントはなし、か」
「うろついてても怪しまれない?」
「そういうことらしい。かなり氷に自信があるらしい」
「彼ら、一種のパラノイアなんだよ。世界中のAIが自分たちを攻撃してくると思ってる。まるでゾンビアポカリプスに備えているアメリカ人みたい」
ベリアとディーはぐるりと国連チューリング条約執行機関のサーバーを一周する。
「なるほどな。データの出入りを見て分かったが、こいつの氷はバイオミメティクス型だ」
「免疫系?」
「そう。自己と非自己を区別し、非自己に対しては恐らく免疫系の白血球──攻撃型防衛エージェントが反応する。そいつがブラックアイスの正体だ。一度取っ捕まったら、脳みそ焼き切られるぞ」
「どうする?」
ディーはベリアのハッキングの師匠だ。付き合いは短いが多くのことを教わった。
「自己に分類されるデータに紛れて侵入する。下手にこの氷そのものにアイスブレイカーを使えば速攻で攻撃される。それこそナノセカンド単位でな」
そう言ってディーが首を掻き切る仕草をする。
「じゃあ、情報量が多くて、かつ偽装しやすいデータを探さなきゃ」
「おっと。丁度日本からデカいファイルが届いたぞ。こいつを使おう」
ベリアとディーは自分たちのアバターを一時的に溶かし、データに紛れる。
そう長くはこうしていられない。アバターの消失は自己の消失。マトリクス遭難のリスクが高まる。攻撃型防衛エージェントに脳を焼かれなくても脳死だ。
辛うじて輪郭だけをうっすらと残し、ベリアとディーは国連チューリング条約執行機関のサーバーに侵入した。
「オーケー。もう大丈夫だ。入り口で自己認定のお墨付きをもらった。免疫系はこの状態では攻撃してこないはずだ」
「存外、簡単なものだね」
「だが、長居していると自己認定の更新時間が来る。さっさと済ませてとんずらだ」
一旦システムに自己と認識されてしまえば、問題なく活動できる。ただし、自己認定には更新時間がある。更新時に外部情報と見做されると免疫系の攻撃を受けて、やはり脳を焼かれることになる。
「内部は迷宮回路だが、このデータの流れを追えばいい。中身を見たが、まさに大井のアンドロイド暴走事件の資料だった」
「私たちってばついてる」
迷宮回路でうろうろしていたら、速攻で時間切れになる。
ベリアとディーはデータに乗り、目的地のサーバーに向かう。
「ここが大井のアンドロイド暴走事件を調べてるサーバーだな」
「大井の産業用氷を破った時のログがある」
「マジかよ。デカい収穫だぜ」
ふたりは早速お宝を閲覧する。本当なら持ち出したいが、大きなデータの移動は不審に思われる。
「わお。侵入開始時間は02:00:00.00000000ジャストで氷を破ったのは02:00:00.00000005。僅かに0.00000005秒で大井の産業用氷の構造を把握して、溶かした」
「こいつは人間じゃない。人間のやれる速度じゃない。事前にそういうプログラムを準備したって人間には無理だ。氷の構造を把握するという段階で時間がかかる。これで国連チューリング条約執行機関は目を引いたってわけだ」
こういうのがやれるのはAIだってことなんだろうとディーが言う。
「完全に条約違反のAI?」
「だな。だが、こいつは侵入してやったことは管理AIに工場をロックさせ、アンドロイドに特定のプログラムを書き込ませただけだ。それ以上のことは何もしてない」
「問題のプログラムは?」
「消えてる。データサイズ的に介護用AIが演算できるギリギリだが、こいつは自分をアンドロイドに埋め込んだんじゃないか?」
「AIが肉体を欲しがった。理由は?」
「マトリクスは飽きたから現実で遊ぼうってとこか?」
「そんな単純な理由?」
「得てして犯行動機なんてしょーもないものさ」
そう言ってディーが肩をすくめる。
「しかし、これだけの処理ができるAIは介護用アンドロイドに積めるのかね……。介護用アンドロイドの演算機能は酷く限定的だ」
「しかし、積み込んだ痕跡がある」
「自分を分割した? AIなら人間と違って片手、片足、胴体と別々に運べる」
「その行先は?」
「分からん。マトリクスからは入り込めない場所、か」
「スタンドアローンの端末」
「あるいは」
そこでディーのアラームが鳴った。
「不味いぞ。ログアウトしろ。更新時間だ」
「後でBAR.三毛猫で」
「ああ」
ベリアとディーは同時にログアウトする。
ベリアはサイバーデッキから起き上がる。
彼女は酷く興奮していた。さっきまで国連チューリング条約執行機関のサーバーにいて秘密のデータを盗み見したのだ。
そして、一歩間違えば脳を焼き切られていた。
このスリルがたまらないとベリアは思う。
それから彼女は東雲と連絡を取る前に冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを引っ張り出して飲み干す。興奮で喉はからからだった。
そして、ベリアは再びマトリクスの指定地点にダイブする。
自宅のある場所にダイブしたベリアはまずは自分自身の氷をチェックする。国連チューリング条約執行機関の追跡エージェントがついていないことを氷で確認し、東雲に連絡を取る。
「東雲。そっちはどう?」
『どん詰まり。連中は着替えて、散開してどこかに消えた。精霊でも追えない。ジャバウォックは国連チューリング条約執行機関の検索エージェントから逃げるとか言って、どこかに消えちまった』
「奇遇だね。こっちも国連チューリング条約執行機関に潜ってたよ。収穫あり。相手は間違いなくAIで、何かしらのデータをアンドロイドに運ばせている。マトリクスからはアクセスできない場所。スタンドアローンで稼働している施設だと思う」
『なら、消えた残り9体のアンドロイドはどこに行ったんだ?』
「9体?」
『4体は仕留めた。正確には2体は俺が仕留めて残りは自殺した』
「ふむ。どういう状況?」
東雲はTMCセクター8/3で起きたことをベリアに説明し、ベリアはその内容を吟味しながら聞いていた。
「データを消さなければならなかった。機密データを盗み出したのはいいものの、盗まれたことがバレてはならなかった、とか?」
『分からねえよ。AIでも自殺するってことにこっちはびっくりだ』
「間違いなく何かのデータを運んでいる。恐らくは複数体でバックアップを含めて、分割して。スタンドアローンで稼働している端末は軍の施設には多いけれど」
『あの野郎。警備ボットで俺を蜂の巣にしようとしやがったぞ』
「ご愁傷様。それから今どこにいる?」
そこでベリアがディーからのメッセージを受け取り表情を変えた。
『セクター7/3の駅』
「なら、そこからTMCサイバー・ワンに向かって」
『掴んだのか?』
東雲が尋ねる。
「TMCサイバー・ワンはTMC最大のデータハブであると同時に、スタンドアローンで稼働しているTMC最大のデータセンター。そこが襲撃を受けた」
……………………




