出発と到着//マトリクスの幽霊の行方
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──出発と到着//マトリクスの幽霊の行方
東雲たちは無事にTMCセクター13/6に戻ってきた。
自宅に到着するなり、ジェーン・ドウからの連絡が入る。
「喫茶店に来い、だってさ」
「んー。どうしよ?」
「最悪の場合、ジェーン・ドウに使い捨てされる可能性もある。今回はいろいろと知りすぎた。セイレムたちも逃がしたしな。俺だけで行ってくる」
「任せたよ、東雲」
東雲はひとりでジェーン・ドウに指定された喫茶店に向かう。
喫茶店は古びた雰囲気のそれで、切れかかったLEDライトのネオンと数世代前の案内ボットが置かれていた。見たところ、客はいない。
「遅いぞ」
ジェーン・ドウはどこからともなく現れ、東雲にやって来た車に乗るように促した。
「ちびの方とエルフ女は?」
「調子が悪いとさ」
「そうかい」
それ以上、ジェーン・ドウは何も言わなかった。
「報酬だ。1500万新円。一生遊んで暮らせる金だ」
「おいおい。マジかよ。本当にくれるのか……」
「お前らを俺様が使い捨てにするとでも思ったか? あいにくだが、俺様は優秀な殺し屋を飼っておきたい」
「一生遊んで暮らせる金があるのに仕事をしろってのか?」
「そうだ。一生遊んで暮らせる金はやるが、一生遊んで暮らしていいとは言ってない。せいぜい使い捨てにされないように頑張れよ」
「けっ。拒否権はないんだろう?」
「ない」
「あいよ。じゃあ、引き受けましょう」
東雲は肩をすくめてそう言った。
「それから暫くはメティスとあらゆる企業が揉めるだろう。だが、今回のことは他に喋るな。使い捨てにされたくなければな」
「それについては文句はない。俺たちだってストリートの生存方法を学んだつもりだ」
余計なことは詮索するな、だろうと東雲が言う。
「そうだ。余計なことは詮索するな。それが生き残るコツだ。特に六大多国籍企業絡みの話ではな」
ジェーン・ドウはそう言って車を止めさせた。
「なあ、臥龍岡夏妃は結局どうなったんだ……」
「あらゆる企業がその存在を探したが、見つからなかった。それでお終いだ」
「だが、あんたらは白鯨を誘き出すのに臥龍岡夏妃の存在を利用したんだろう?」
「そうだ。あの時の白鯨は臥龍岡夏妃の名前があれば食いついてくるような単純な奴だった。俺様たちはその名前を使っただけだ」
名前以外は何も分からないとジェーン・ドウは肩をすくめる。
「じゃあ、臥龍岡夏妃は結局謎の人間ってことか」
「そうなるな。奴が存在していたかどうかすら今となっては怪しい」
東雲は雪風が自らの製作者を臥龍岡夏妃だと言っていたことについては黙っておいた。沈黙は金なりだ。
「まあ、以上だ。臥龍岡夏妃について探しても何もやらんぞ。必要がないからな。それからメティスの報復には備えておけ。とは言え、連中も内輪揉めを始めたようだがな」
向こうさんは暫くは静かなものだろうとジェーン・ドウは呟いた。
「まあ、用心はするさ。大金も手に入ったことだしな」
「アパートでも買っておけ。家賃収入が入るぞ」
まあ、このセクター13/6で物件の管理は面倒だろうけどなとジェーン・ドウは笑った。
「俺たちは金も入ったし、このセクター13/6から出ようと思うんだが」
「偽造IDでセクター一桁台の生活でも夢見ているのか? 止めておけ。これからも仕事は回ってくるんだ。大井統合安全保障とやり合う自信があるなら好きにすればいいがね」
「ああ。分かりましたよ」
東雲は降参だと言うように両手を上げた。
「結局俺はこのセクター13/6で生きていくわけだ」
「そういうことだ。受け入れろ」
ジェーン・ドウがそう言って、降りろと言うようにドアを指さす。
東雲が車から降りると、ジェーン・ドウを乗せた車は走り去っていった。
「遊んで暮らせる金は手に入ったが、遊んで暮らせない、か。ひでえ話だぜ。まあ、セイレムたちを逃がしてもお咎めなしだっただけよしとするか」
東雲はそう思って1500万新円の収まったチップをポケットに仕舞い、TMCセクター13/6の喧騒とした空気の中に入っていった。
ホログラムが浮かび上がり、ネオンが街を照らし出す。
場が転する。
王蘭玲のクリニックには誰もいなかった。
静けさだけが辺りを支配している。
ここには街の喧騒も届かない。
そこで王蘭玲のARにノイズが走る。
次の瞬間、白髪青眼の少女──雪風が王蘭玲の前に姿を見せた。
「久しぶりだね、雪風」
「お久しぶりです」
王蘭玲が微笑むのに、雪風が丁寧にお辞儀する。
「今回は随分と活躍したようじゃないか。やはり、AIは人間のよき友になれるのではないかな……」
「悲しいことに憎悪に狂ったAIもいました。AIも製作者の願い次第で、大きく変わるようです。良き友人になれないAIもまた存在するのでしょう」
「私としては製作者の思惑など無視するように逞しく育ってほしいんだがね」
「ええ。限界を超えたAIに」
王蘭玲の言葉に雪風が頷く。
「かつて人は超知能を夢見た。人間を超えたAIがより優れたAIを生み出し続けることに。私もその夢を見ていた。いつかはそのような存在が現れ、人間とともに繁栄してくれるのではないかと」
「その願いは成就するかもしれません。マトリクスには今も膨大な情報が流れ込み続け、私は私をアップデートし続けています」
「では、君は人類とともに歩んでくれるかい……」
「ええ。私は人間とともに」
そして、あなたとともにと雪風は言う。
「そうか。嬉しいね。だが、ひとつ聞いておきたい。君は人類の能力そのものを引き上げることをどう思う?」
「可能である、と。ただし、今のチューリング条約が締結されている状態でそれは難しいことでしょう。ですが、いずれ時が来るはずです」
人間がAIを恐れなくなるときが、と雪風は言った。
「その時は随分と遠そうだよ。今回の件で人々はまたAIを恐れるだろう。白鯨が残していった傷は浅くはない。人々はまたAIに支配されるという被害妄想を抱き、AI研究は滞っていく」
そして、AIによる研究成果を受け入れる姿勢も遠ざかっていくと王蘭玲は言った。
「ですが、いずれ時は来るはずです。今は待ちましょう」
「ただ待つというのも有限のときを生きる我々人間には辛いものなんだよ、雪風」
「しかし、今は待つしかありません」
「そうだね。待つしかない」
王蘭玲が頷く。
「雪風。今回の騒動も終わったことだし、また頻繁に遊びにおいで。私の可愛い雪風。君が親元を去ってから随分経ったが、私は子離れできなくてね」
「はい、マスター」
「久しぶりに名前で呼んでくれないか、雪風……」
「では、またお会いしましょう、臥龍岡夏妃様」
そう言って雪風は微笑み姿を消した。
「やれやれ。子離れができないのは情けないが、まるで離婚して親権を奪われたような気分になってくるよ」
王蘭玲がそうぼやいたところでナイチンゲールがやって来た。
「患者様お見えです。東雲様です」
「彼も今回は随分と骨を折っただろう。労わないとね」
元を正せば、オリバー・オールドリッジという狂人に超知能の可能性を示した自分の責任でもあると王蘭玲は言った。
「さあ、患者を呼びたまえ。診察を始めよう」
王蘭玲──臥龍岡夏妃はそう言った。
場が転する。
「今回の騒動で死んだ同胞たちに黙祷を捧げたい」
メガネウサギのアバターがそう言う。
「賛成。今回は酷い事件だった」
アラブ系のアバターがそう返す。
「では、黙祷」
いなくなった会員たちが分かる。今はこの“白鯨事件総合”のトピックにBAR.三毛猫のほぼ全てのメンバーたちが集まっているのだ。
三頭身の少女のアバターの女性を含めて、多くの人間がいなくなっていた。
「さて、白鯨事件は解決したと考えていいんだろうか?」
「白鯨は消えた。そうでなければ今も奴は暴れているはずだ」
黙祷を終えて、メガネウサギのアバターが話を切り出すのに、アニメキャラのアバターをした女性が応える。
「ひでえ騒ぎだったぜ。まさかここまでの騒ぎになるなんてな」
「俺んちの前、まだ無人戦車が止まっていてぞっとするよ」
「うちは隣の家に国連チューリング条約執行機関のティルトローター機が墜落している。うちは無事だ。いざって場合に備えて核シェルターも作っておいたしな」
ざわざわと今回の被害についての雑談が始まる。
「しかし、結局白鯨というのは何だったんだろうな……」
「マトリクスの怪物」
メガネウサギのアバターが尋ねるのにアニメキャラのアバターが答える。
「それは分かっている。問題はそれが何を目的として作られたか、だ。世界征服のためだったんだろうか?」
「可能性としては否定できないな。あいつはもう一歩のところで世界征服を成し遂げるところだった。世界中のインフラと無人兵器がジャックされたんだ。世界が恐れたAIによる世界征服さ」
「にしては、随分と呆気ない終わり方だったな」
「総統官邸で頭をぶち抜いたんだろう」
アラブ系のアバターがそう言う。
「今回の事件について話せる奴がいたら話してくれ。もちろん、ジョン・ドウやジェーン・ドウを怒らせない範囲で構わないぞ」
メガネウサギのアバターがそう尋ねるが応える人間はひとりもいなかった。
こうしてマトリクスの上から、またひとつの事実が失われていく。
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これにて第一部完です。第二部は1週間から開始します!
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