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6:汚れたテニー

(テニーは生きてる! 眠ってるだけだ!!)


 認めるものか。あいつはまだ、生きている。大仕事で手に入れた“金貨”でも、あいつを治せないのなら。

 もっともっと悪人に。大罪人になっても構わない。扉の向こうに、“それ”があるのなら俺は何だってする。俺が死んでも。あいつ以外の全てが死んでも。


(待ってろ。あと少し。もう少しだけ、耐えてくれ!!)


 扉は開かないが、巨大な扉の鍵穴だ。死ぬほど飢えて、痩せ細ったガキの腕なら。無理矢理中にぶち込める。

 手には鋭く研いだ針金を持たせ、此方を覗いていた“奴”の瞳を突き刺した。セブルマーケットの“神様”は、あの日瞳を失った。嗚呼、気味の悪い叫び声だった。苦痛による怒り……愉快な玩具を見つけたという喜び。次第にそれは、笑い声へと変わる。

 俺は、目的の物を手に入れた。引き抜いた針金には、真っ黒な体液。付着したそれを小瓶に落とし、脱兎の如く逃げ出した。


(成功だ!! これで、これでテニーは!!)


 “神様”の、血を飲ませれば病は治る。あいつは丈夫な身体になるんだ。例え……もし本当に死んでいても。“これ”さえ飲めば、目を覚ますんだもう一度。


(神様になっても。化け物になっても……お前は俺の、妹だ。大事な俺の……妹だ!!)


 お前が目覚めてくれるなら、お前をもう二度と一人にしない。俺もこれを飲んでやる。同じ化け物になってやる。寂しい思いなんかさせない、ずっと一緒に居てやるよ。


「起きろっ……起きてくれよテニー!!」


 枕元で泣きじゃくる俺の、髪が風に撫でられる。窓なんか、開けていないはずなのに。


「お兄ちゃん!」


 起き上がったあいつが俺に抱きついた。嗚呼。この瞬間を、俺はずっと待っていたのに。

 “抱きついて”、あいつは倒れた。“何者”からか、俺を庇って怪我をして。

 “それ”を見て、俺は恐怖で動けなかった。窓を破って侵入してくる化け物は、扉の向こうの化け物と……全く同じ声で笑っていた。


(“情報”は、本物だった……)


 奴の血を飲めば、病気は治る。一説では死者さえ蘇ると。

 しかし何故? 劣悪な環境で大勢が死んでいくマーケットで、どうして誰もそうしない? 答えはこれだ。無意味だから。生き返っても、すぐに殺されてしまうから!!


(これは、呪いだ)


 呪われてもいい。何があっても俺が妹を、守ってやると思っていたから。

 だけれどあの日の俺に何が出来た? 嗚呼そうだ。何も出来なかった。


「“トェ゛……ニ、ィ゛。すトゥ゛……ィア゛、ン゛”?」


 目と耳が良いスラムの神様は、地下深くから地上の声を聞いている。地上で暮らす人間達の、真名を聞き漏らさないよう……俺達のことを探っている。

 真名を呼ばれた妹は、恐怖以外の力によって動きを封じられてしまう。呪いで動けない妹に、ズルリズルリと化け物が這い進む。大口を開け、床には屍肉臭の涎を染み込ませ、あいつに齧り付こうと迫り来る。


(動けっ……動けっ!! 俺は、俺は呼ばれていないだろ!?)


 どうして身体が動かない? 手も足も、俺の物ではなくなってしまった。自由になるのは瞳だけ。目を伏せて現実から逃げること。一度そうしてしまったら、もう瞼だって動かない。


「……っ、逃げてお兄ちゃん!!」

「……!?」


 大きな声に弾かれて、瞳が開く。テニーの呼びかけのお陰だ。だけどその時俺が見たのは、化け物に腸を食い千切られていたあいつ。


「私は、まだ……大丈夫だから。私が全部食べられるまで、お兄ちゃんは……大丈夫だから!! 早く逃げて!!」


 “奴”の血に触れた者は、匂いが消えない。居場所を教えてしまう。奴が滅びないのは、こうやって……定期的に餌を回収していたから。

 自分の魔力を与え、魔力を他人の身体で培養し……根こそぎ奪う。

 扉から出られないから、傷付けられるのを待っている。何処かの馬鹿がノコノコ現れ、肉体を砕いてくれるのを。鍵穴から抜け出せる、小さな身体を得るために!

 小さな小さな化け物は、テニーを食って身体を膨らませ……どんどん質量を増していく。あいつが全て食われる頃には、あいつとすっかり同じ大きさまで育つだろう。


「テニー!!」


 ようやく身体の自由が戻った。恐怖より、怒りの感情が俺を突き動かしていた。奴の血に触れることも気に留めず、俺は短剣を振りかざす。


「“デニ゛ィ……テギィ゛イ”」

「テニー!! テニーを離せっ、化け物がっ!!」


 いくら斬っても、いくら刺しても止まらない。化け物は俺の妹を貪り続ける。意を決し……化け物に噛み付かれた部位の肉ごと抉り取り、ようやく切り離すことが出来た。


「ア゛……ア゛ァ゛」


 化け物は、まだ赤子程度の大きさだ。手負いでも、俺が走れば追いつけない。妹を抱きかかえ、俺は走った。このまま国境を越えるまで、何日でも走り続けるつもりだったさ。


「お兄……ちゃん」

「喋るなテニー!! まだ、血はある!! 逃げ切ったらまた飲ませる!! それでお前は――……」


 瀕死状態の妹に小瓶を見せて、安心させようと笑ってやった。それなのに。


「!?」


 テニーは俺の手から小瓶を奪い、遠くへ投げた。後方で、ガシャンと無慈悲な音が聞こえる。


「お前っ……何てことを!」

「……これ、あげる」


 妹は自分の首飾りを外し、俺の首へと巻き付けた。


「お守り。これで……お兄ちゃんは。お兄ちゃんだけは、大丈夫」


 俺を安心させるよう、笑って見せた妹が、腕の中で弾けた。血液と一緒に、小さな小さな肉片を……テニーは口にしていた? 内側から…………もう一匹の化け物に食い破られて死んだんだ。

 “セブルマーケットの神様”は、目が悪い。俺が潰してやったから? それともこの“金貨”の光は眩しくて目が眩むから? 血に触れた俺の周りをぐるぐると、名残惜しそうに歩きながら……やがて化け物は姿を消した。お前の臭いや真っ黒な血は、べったり俺に残っているのに。どうしてなんだ。真っ赤な血は一滴も。白い骨の一つも、あいつの黒髪の毛一本たりとも残らない。全部全部、食らって行った。これまでの惨劇が嘘であったかのように、マーケットの夜は騒がしい。スラムで一人、ガキが死んだ。何も、何も変わらない。俺以外の誰にとっても。





「さ、さっさと歩きなさい」


 命令口調は変わらない。態度のでかさも同じ。けれど辺りが闇に包まれて、一つだけが変化した。アズレアと、俺の距離だ。

 暗闇を恐れているのか? 俺の背にピタリと張り付く公女。惚れ薬の効果もある、それだけで心臓が痛いくらいなのだが。問題は――……この女、俺の背に。心臓の裏側狙いの位置に刃物を置いている。普通、良いところのご令嬢がこんな真似をするか? なんだこの女は。純粋に怖い。少しでも妙な素振りを見せたら躊躇無く刺される。間違ってもアズレアに手を出すものか。


(一日二度も閉じ込められるなんて、厄日だぜ)


 前回は密室。今回は――……一面黒の空間。歩いても歩いても壁を見つけられない暗闇。上に靴を投げてみても、落ちてくる音さえしない。よって俺は靴を片方失っている。

 俺と公女の武器の一つは見てくれだが、こんな暗闇では何の利点にもならない。使い古した蝋燭で、あとどれだけ進めるだろうか?


「きゃああああああああああああああ!! 冷たっ……なんて城なの! 雨漏りなんて」

「み、水くらいで騒ぐな! あんた未来が解るんだろ!?」


 天井がないのに雨漏り? 奇妙なことだが、俺も時折雨粒のような物を感じていた。アズレアは首筋にそれを受け、反射的に俺に抱きつく。


(ああ、くそっ。ひっつきやがって!)


 視覚に期待できない状況では、聴覚嗅覚が研ぎ澄まされる。背中越しの、怯えるような呼吸音。清潔な花の香りが気になって仕方ない。コロネット産の香水か? 着飾って嫁入りに来た公女様は違うな。エルミヌよりもガキの癖に、色気ならこちらの娘が上に思える。

 変に意識しないよう凶器の存在を思い出し、冷静になれと俺は己に強く言い聞かせた。


「コロネットは水と縁あるだろうに。そんな驚くとかお子様かよ」

「下民が。何も知らない者は無責任なことが言えていいですね」


 このクソアマ。今に見ていろ、いつか痛い目に合わせてやる。

 ここから抜け出す、こいつを懲らしめる。そのために俺が知りたいのは……公女アズレア。こいつが何処まで先のことを知っているかだ。


「な、なぁ。何度も言うようだが、指輪返してくれねぇか? きっとお前が俺から指輪を奪ったのが原因だ」

「その指輪が何処かへ行ったと何回言えば解るのですか」

「嘘吐け。指に填めてただろうが」

「それが無くなったと先程も言いました。私の指に触れたい口実ではなくて?」


 彼女の言葉は嘘か本当か。本当に指輪を紛失していた場合、アズレアは“指輪を見つける未来”を知らない。既に知っているのなら、其方へ進ませるはずだ。“脱出する未来”についても同様に。何が巫女様だ。役立たずも良いところ。


「……っ!?」

「失礼。侮辱されたような気がしましたので」


 この女、本気でいかれている。アズレアの予感は的中したが、証拠も無いまま人を刺すとはなんて女だ。背中の傷は軽い切り傷だが一切の躊躇がない。こいつはやると言ったら本当にやる。


(この、大悪党ミュラル様が……こんな小娘にっ!)


 何だこの女は。セブルマーケットで生き延びてきた俺の武器、この外見が役に立たない。この俺に血を流させる意味を解っているのか?

 何だこのドキドキは。恐怖で押さえ込んでいた症状が、次第に止められなくなるようだ。やめろ落ち着け惚れ薬。つり橋効果でときめくな! 俺にそんな性癖はない!!


(テニー! アージェント!! ……ついでにエルミヌ。俺に力を貸してくれ!!)


 退路も確保する前に、これ以上の流血沙汰はまずい。妹と王子の顔を思い出し、今の情けない俺を見せられるかと自戒する。そうだ、そうだアージェント。こんな女を正妻にのし上がらせては駄目だ。アージェントも今の俺のように、虐げられる未来が見えるぞ。予言の力なんかなくたって! 俺がいなくなって、エルミヌ一人で王子を攻略出来る訳がねぇ。何とかこの場を抜け出さなくては。

 俺はやるべき事を思い出し、一つの策を練る。俺には美貌以外の武器が、まだ残っていた。


(今俺は刺されたが……危害を加えられても、今度は壁が現れない。あれは指輪による紋章魔法か)


 開錠にも解錠にも、扉が無ければ始まらない。扉も壁もない場所からの脱出をしろとは恐れ入ったぜ【鍵の王国】。それでも俺は天下無敵の大悪党。脱出はやり遂げる! 意を決し、俺は背後の加害者へ声を掛けた。


「今の一回だけは許してやる。代わりに教えろ公女様。あんた、魔法はどの程度使える? ちなみに俺はからっきしだ」

「答える必要はないかと」

「大ありだ。あんたが魔法でここから消えない理由は、そういう魔法が使えないから。元々魔法の才能がないか、この空間が魔法を封じているかだ」

「……」

「あんたが灯り一つ魔法で出さないのは後者だからだろ。俺をそんなちんけな刃物で脅すのもそうだ。どうして魔法で痛めつけない?」

「黙りなさい」

「……っ、図星だろ!! お得意の予言もここでは使えない。どうやらあんたは【銀の城】に入ってから、何一つ見えちゃいない」


 黙れと言うと同時に物理的に黙らせようとするな。深々と背を刺されながら、俺は決して黙らない。


「俺には。魔法も予言もないけどな。呪いって奴だけは……盗んだつもりもねぇのに何時までも、何処までも……俺に付いて回る」


“マーケットの神様って奴は、読み書きの出来ねぇスラム民にも優しく耳が良い。勿論目も良いから文字も効果的だぜ”


 道中エルミヌに語った言葉。あれには一部虚偽表現がある。セブルマーケットにいるのは“ひとりの神様”とは限らない。少なくとも俺が知るあいつは“神様”なんかじゃない。目じゃないんだ。あいつは耳と鼻が良い。あいつの目が潰れた後も文字呪術が有効なのは、別の存在のお陰。それでも共通点がある以上、其方もろくな存在ではないのだろうな。


“血を流せば流すほど、犠牲を捧げれば捧げるだけ見返りを得る”


 アズレアは、結構な血を流させた。俺の場所を知らせてしまった。肌を通して染み込んだ……呪いの臭いをたっぷりと。

 これまで何も聞こえなかった暗闇に。響く獣の咆哮は、彼女の耳にも届いただろう。

 ガーデンでも修羅場を量産してやったのに、誰も俺を刺すレベルの事件を起こしてくれず……失敗した計画の条件が整いかけている。


「“召喚魔法”!? いえ、これは――……? お前!! 使役も出来ない化け物を、何故喚び出したのです!?」


 あいつは鼻は良いが目が悪い。ついでに光を嫌う。俺を刺したアズレアには、大量の返り血。俺の匂いが染み込んでいる。


(【鍵の王国】なら……奴との縁を切れると思ったんだが)


 呪いの匂いを移せば、追跡者が俺の居場所を見失う。旅の間はご無沙汰だが、国境を越えても追って来るとは執念深い。土地ではなく俺という対象への呪いなのだから、そう簡単にはいかないか。


(先に手を出したのはそっちだぜ、アズレア。お前が志願したんだ)


 俺が呪い移しをするのは、気に入らない相手。呪いを移すには寝るのが一番だが、キスの一つでもすれば時間稼ぎにはなる。灯りを持っているのは俺。アズレアを置いて逃げれば。もし欺しきれたなら、面倒事が一気に片付く。

 驚き固まっている小娘の、唇を奪うくらい簡単だ。アズレアは俺を刺したことで凶器を失っている。引き抜かれる前に、やるんだ!


(……くそっ!!)


 覗き込んだ少女の顔は、まだ幼い。強気な態度はどうした。怯えた顔は子供のそれだ。顔は妹とは違う。それでも、まだ若すぎる。こいつにだって兄弟くらいはいるだろう。そいつに俺と同じ思いをさせるのか?


「さっさと逃げろ阿呆公女!! しっかりしやがれ!!」


 気が付けば、俺は公女を庇っていた。何やってるんだろうな。まだ惚れ薬に惑わされているのか? 灯りまであんな小娘にくれてやって。武器は俺が所持する短剣と、背中に刺さったままの凶器。食われる前に殺すしかない。鍵穴から抜け出した、一欠片の化け物を。それがどんな姿形をしていても。

 ひたひた、ヒタヒタ。近付いてくる足音は、水溜まりを歩くよう。


 妹が死んでから。俺は頭を使って生きて来た。大怪我だってしていない。俺の血に惹かれ、あいつが現れることを恐れた。ああ、そうさ。呪われているんだ俺も。あの血に触れた者は、餌として呪いをマーキングされる。血を流せば呪いの匂いで気付かれる。気付かれたら最後、あいつが召喚されて現れる。最悪だな、そんな命がけの鬼ごっこ。

 クソ公女様の所為だ、もうすぐ姿が見えてくる。暗闇だって輪郭くらいはもう見える。あれは俺が、此の世で最も憎んだ化け物の……ほんの一部。一部の癖に、異常な強さを誇り……滅びを知らない。


(今は金貨も手元にない。……まずいな)


 金貨を持つエルミヌを、遠ざけた途端にこれだ。この化け物以上の災いを背負っているエルミヌもエルミヌだが、俺も今はとても危ない。あいつの興味を余所に移さなければならないが、限定一名生贄候補を俺は逃がしてしまった。今後困ることになるとしても、一時的にでも撃退しなければ。この貸しはいずれ、アズレアから利子を付けて返して貰う!


(化け物、化け物……化け物……化け物)


 “あれ”には名前がない。元々存在しないか、誰もが忘れてしまったか。【黒の国】の紋章でも呪術でも、葬り去れない化け物だ。封印にはリヴァリースの“鍵魔法”が関係している。

 魔法も使えない俺に出来るのは、あいつを名付けて呼び続けること。あれがその名を自分と認識した時初めて呪術は発動する。あの時俺は泣き叫び、何度も彼女の名を呼んだ。化け物は、俺が何度もその名を繰り返したために、それを“自身の名”だと誤認した。呪ってるのは此方も同じ。いつか必ず滅ぼしてやる。


「…………会いたかったぜ、“テニー”!! 何年ぶりだ“汚れた(ステイン)・テニー”!! お前も俺に会いたかったんだろう? 俺もだぜ“テニー”!!」


 憎しみを膨れ上がらせるため。何より大事な妹の、名前をお前にくれてやる。


「あんな所に閉じ込められて、さぞや空腹だろうな“テニー”!! ほぉら来てみろよ、おにーちゃんの所まで来てみやがれ“ステイン・テニー”!! 餌を食い損なった“化け物テニー”!! 美味かっただろう、あいつは!! 残念だったな全部食えなくて!! 残りは別のお前の腹ん中!! だけどな“テニー”? あいつと同じ血の餌は、ここにいるぜ!! 熟成されて最っ高に美味になった俺様がな!!」


 来い、来い、来い来い。こっちへ来いよ。お前の肌にお前の名前を刻んでやる。“ステイン・テニー、二度と動けない”ってな。

 血を流せば流すほど、強くなるのはお前じゃない。食らえなければお前は何も変わらない。火打ち石で俺が燃やすは革の手袋。表面だけ火を纏うよう加工された逸品で、傷口の血に触れる。あいつに食われる前に蒸発させる。あいつが好む匂いは煙に乗って、辺りに充満。俺の居場所を見失う……………………はずだった。


「……少し我慢なさい」


 “そいつ”が俺の所にやって来るより先に。聞こえる、逃がしたはずの少女の声。

 アズレアは背中の凶器を捻り、ドアノブを回し開けるよう刃物を引き抜いた。


「い、痛ぇええええええええええ!! な、何しやがるこんのクソ公女!!」


 折角姿をくらませたのに、この女全てを台無しにしやがった。奴が俺の傷口を抉ったことで、俺は再び血を纏う。

 やはりこんな女を助けるのではなかった。出血で媚薬効果も流れて行ったのか? もはやアズレアを可愛いなどと俺は微塵も思わない。今度こそこいつを犠牲に俺が! 俺だけ生き延びてやる!! 力尽くても呪い移しをしてやろう、化け物の次に憎い相手に認定しかけたところでアズレアは。奴の身体が光り輝く。あれは魔法が発動したのか?


「まだ答えていませんでした。確かに魔法は。ここではろくに使えないようです。ですが……鍵魔法ならこの通り」

(鍵魔法!? コロネットの女が鍵魔法だと!? こいつ一体……)


 アズレアは、俺の背に刃物を突き刺すことで……俺で扉の代用をした。開いたのは背中側の服。繋がり、中から飛び出すは……これまた獣の。いや、は虫類のような声。


「ひぐギョエひえいいいぃいいいィイ!!」


 こんな喧しい声の、女を俺は他に知らない。アズレアは、俺の背中を何処と繋げた? 俺の背が扉なら、俺は決して逃れられない。逃げられるのはアズレアだけ。しかしこの公女、借りは即座に返す質? 奴は扉を入り口として使用した。


「な、なななな何ですかアージェント様そのお姿はぁあああああ!! うぇえ……」


 俺の背から転がり出たのは勿論当然エルミヌで。奴の言葉を信じるならば、もう一人。背扉を潜り抜けた者がいる。


「う゛ーん゛、ミ゛ュラ゛ル゛の゛好み゛が突然変わ゛っだどが、他の゛誰ががい゛っばい゛鍵を゛取っ゛だどが?」

「幾ら私が外見にこだわらないって言っても、さ……流石に人の形くらいは保って頂かないと困ります!!」


 俺も追っ手もアズレアも。二人に目を奪われた。俺という肉扉から飛び出した、王子アージェントと不幸娘エルミヌ。エルミヌはいつも通り騒がしいだけで異常は無い。アージェントは……色以外、彼らしさは消えている。生前の妹そっくりの声質も、不快で歪な重低音。


「何しやがったお前ぇえええええええええええ!! アージェントに何しやがったぁああああ!!」

「あ、その声ミュラル様? って何で叩くんですか!? 私の方こそ聞きたいです!! 私が何でも良いって言ったからって、さすがにあれはあんまりです!! 王子様を呪って醜くしてライバルを減らすつもりですか!? エルミヌちゃんは負けませんよ!! 正妻になるのはこの私です!!」


 アージェントの身に何があった? 俺はすっかりギュールズ姫と同じ反応をしてしまっていた。可愛い姿は何処へ行ってしまったんだ。記憶の中の姿を壊すくらいなら、この手で……いや待て早まるな。

 アズレアは。アージェントの恐ろしさに今度こそ声一つ上げられずにいる。俺だって、会話を続けなければきっと悲鳴を上げていた。

 銀色の毛皮は月明かりの色。白く発光して暗闇をぼんやり照らす。青く大きな目玉は一つだけ。可愛いのはそこまでだ。あとはそう、例えるなら……良い感じに出来上がった闇鍋に、腐乱死体と香草と癖の強い魚と堆肥をぶち込んだような悪臭に。毛むくじゃらの上半身に反し、腹から下は鱗まみれの。背鰭があるのに尾鰭はなく。尻尾はニョロニョロと枝分かれした触手。一本一本が蛇となっていた。後ろ足はなく、前足も不揃い。犬猫馬牛豚エトセトラ。あらゆる家畜の足を一本ずつ貰ってきた合成獣かお前は。

 元がアージェントとは思えない。それ程までに醜悪な化け物。俺を今にも食らわんと、迫り来る追跡者よりも恐ろしい姿。可愛いに分類した目だって、向きがおかしい。俺達の目を九十度回転させ縦に付いている。そんな化け物が俺の身長の三倍くらいはでかい。


「暗い゛な゛ぁ゛。ミ゛ュラ゛ル゛、指輪誰がに゛外ざれ゛だ? 多分ごご……指輪の゛中だよ゛」


 冷静に状況を教えてくれる声さえも、お世辞にも良い声では無い。口内の構造も違うのだろう。不快感を煽る上、くぐもり聞き取りづらい。


「…………何が、良ぐな゛い゛者が居る゛。誰の゛許じを゛得でごごに゛? 君ば自力で扉を゛開い゛でい゛な゛い゛ね゛?」


 前足の内一本をアージェントは掲げて魔法を展開するが、あれは人間で言うどの部位なのか。何はともあれ発動されるアージェントの【鍵魔法】! 


「再び彼の゛前に゛現れ゛でみ゛ろ゛。ごん゛な゛物でば済ま゛ざな゛い゛」


 追跡者は顔を見せる前に、足下に開いた扉に吸い込まれて落下する。強制送還されたのだ。俺を何年も悩ませてきた存在を、こうも容易く退けるか?

 化け物以上の、“化け物”……なのか? 閉じこもったリヴァリース。封印された城の王子様。俺は再び、開けてはならないものを開けてしまったんじゃないか?


(…………アージェントが俺を守った? こいつこんなに強いのか? それとも俺が――……)


 この化け物姿は俺の責任なのか? 俺が彼に“救われること”を望んだから? 俺を守れるくらい強いのが俺の理想の姿だと、アージェントが変化した? 俺が望めば。アージェントは何処までも強く、俺に従順な存在に作り替えることだって可能?

 今の姿の所為もある。あんなに可愛かったアージェントを、俺は初めて恐ろしい存在だと認識した。


(俺は……本来の彼を知らない)


 無責任にも、本当の自分を取り戻せなどよく言えたものだ。本物のアージェントが善良な存在である保証が何処にある? このまま鍵を集めて、城を開放していって……本当に良いのか?


「ミ゛ュラ゛ル゛、大゛丈夫?」


 化け物が、真っ先に近寄ってくるのは俺の元。声も姿も違うのに、どうしてテニーを思い出す? 


『これで……お兄ちゃんは。お兄ちゃんだけは、大丈夫』


 やめてくれよ。そんな性格(ところ)まで、あいつをトレースしないでくれ。これが俺の望みだって言うのか?


「アージェント……」


 俺は彼の毛皮を撫でた後、前足の一つに優しく触れた。まだ抵抗はあるが、出来うる限り優しく触れる。

 お前の心が何処にもないなんて思いたくない。全て俺の望みを再現しているだけなんて、信じたくない。お前の優しさは、お前自身のものなんだ。どんなにお前が変わっても、変わらない物があるって思わせてくれ。


「ミ゛ュラ゛ル゛?」


 今の姿が恐ろしいかと彼は不安がっている。俺の理想を反映しようと奮闘するも、姿を変えられずに青い目玉に涙が浮かぶ。悲しませたくないな。何か気の利いた台詞を言ってやらなければ。俺は勢いで彼へのフォローをまくし立てる。


「……守るつもりだったのにな。助かった。よく見れば今のお前もキュートだぜ。目が意外と円らなところとか、意外と睫毛が長いのも色っぽい。このくらい違う足があったら××××××××もやり放題だよな! 前向きに考えるとプレイに飽きが来ないとも言えるし、エルミヌもその内お前に骨抜きに――……駄目なら俺がお前に前向きに嫁いでも」

「何言ってんですかミュラル様っ!! 私の王子様を返して下さいっ!! 可愛いアージェント様がこうなったの、やっぱりミュラル様の所為なんですか!? 突然どんな性癖開花したらこんなことになるんです!?」


 従者の癖にエルミヌは、俺の背中をポコポコ殴り始める。普段なら大して痛くはないが、重傷の後では一発一発が激痛だ。お前は鬼か。


「がっ……、何しやがる殺す気か!! 従者なら手当てくらい手伝え阿呆っ!!」

「阿呆って言ったほうが三倍阿呆なんですぅー! ミュラル様の馬鹿ー!!」

「な!? それならお前が三倍阿呆の三倍馬鹿の九倍屑だ!!」


 子供のような喧嘩を始めた俺達を、アズレアは真の愚か者を見るかのように軽蔑し、アージェントへと歩み寄る。ようやく恐怖を乗り越えたのか。腰を抜かしていた癖に。


「貴方が……リヴァリースの。アージェント殿下?」

「え゛? あ゛、ごん゛に゛ち゛ばアズレ゛ア゛姫゛。ごめ゛ん゛ね゛、ごん゛な姿で。鍵取れ゛ば戻る゛ど思う゛ん゛だげど、ぞの゛時改め゛でご挨拶を゛」

「……素敵」

「え゛?」


 俺の背を踏み跳んだアズレアは、アージェントの首? に抱きつき毛むくじゃらのその頬? へ……あろうことかキスをした。


「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああ!! な、なんてことするんですか!! 王子様っ!! 私の王子様なのにっ……!!」


 泣き叫ぶエルミヌ。安定の不幸だ。

 俺も目の当たりにした風景を、脳が処理しきれずに呆然と立ち尽くす。あの性悪公女アズレアが。惚れ薬もないのに化け物姿のアージェントにうっとりと……見惚れて頬を赤らめる。


「ミュラル様!! 私もジャンプします!! 背中貸して下さい!! これ以上差を付けられたら大変です!! 私覚悟を決めました!! 初めてですけど舌まで入れます!!」

「早まるなエルミヌ。見た感じ顔に口がねぇぞ!! キスをするなら顔がある、蛇尻尾が芸術点高いし逆転できるぞ!! 後な!? 俺の背中を踏み台にするな!!」

「素敵。最っっっっっっ高に醜くて素敵なお方!! こんなに醜い生き物、初めて見ました!! 嗚呼っ……なんて、可愛らしいの!! 口はどちらに? この毛の下辺りですか? それともここ?」

「ぢょ゛っ゛……誰が! ミ゛ュラ゛ル゛、エ゛ル゛ミ゛ヌ゛助げでー!!」


 背中に乗って降りない公女に戸惑うアージェント。俺に助けを求めるような視線を送るが、此方もそれどころではない。美貌で負けているエルミヌが、色仕掛けでも公女に先を行かれてはもはや勝ち目がゼロになる。クレストやコロネットでは駄目だ。何の後ろ盾も、柵もないエルミヌを王妃にしなければ。俺の抱えた問題が解決しない。頑張れエルミヌ、負けるなエルミヌ!!


「あんまりです、あんまりですっ!! こんな指輪もない女に、私の王子様の唇が奪われるだなんて!!」

「いや、本当に口が何処か解らねぇぞあれ。地の底から声が響いてるようにすら聞こえるもんな。間違ってあの女がやばい部位にキスしてたら笑えるよな」

「酷いです酷いですぅううう!! こんなに健気で可愛いエルミヌちゃんを差し置いてぇえええ!! どうして私はいつもこんな目にばかりぃいいいい!! 愛した人がこんな呪いで、他の女に取られるなんて酷いですぅううう!!」


 泣きじゃくり、床を殴り続けるエルミヌ。床が見えるのはアージェントの光の所為? 黒一色だった空間に、景色が戻り始めている。


「醜く可愛いアージェント様、さっさと私に指輪を渡しなさい! お前のような醜く無様でおぞましい化け物を愛せるのはこの私!! 世界中にアズレア唯一人!! 私に見捨てられたらお前は誰からも愛されず朽ち果てて行くのです。嗚呼……なんてお可哀想!! 私に愛されたいでしょう? 私の言うことを聞きなさい? でなければお前は死ぬまで孤独に生きるのよ!! ふふふ、あははははは!!」

「ゆ゛、指輪な゛ら゛あ゛げる゛! あ゛げま゛ずがら゛っ! ぐずぐっ゛だい゛がら゛触ら゛な゛い゛でー!!」


 アージェントが空中より小さな扉を開き、指輪をアズレアの掌へと落とす。指輪を受け取り、アズレアは満足そうに頷いた。あの女。やはり無くしたと言うのは嘘だったのか。もう用済みと、薬指から俺の指輪を投げ捨てて、今得た指輪を填め直す。

 慌てて俺が指輪を拾うと、台座から宝石が消えている。それでも俺が指へ戻すと――……全ては元通り。指輪には宝石が戻り、部屋は俺とアズレアが対峙した応接間。床には彼女の手下が気を失って転がっている。

 俺はまだ、書類で紋章登録をしていないはずだが。リヴァリースの紋章は外とは仕様が異なるようだ。やはりこれまでの異様な空間は、持ち主以外が指輪を付けたのが原因だった。

 最初の鍵を得た俺の、指輪を奪ったのがアズレア。俺の好みを反映していたアージェントが“アズレアの好み”を反映した姿となっていたのなら。全てが元通り。彼は俺が望んだ姿に戻っているはずだ。


「アージェント!!」


 振り向いた先、王子は俺が願ったままの愛らしい姿で泣いていた。俺が振り向く寸前に、ピシャリと良い音が城内に響き渡った。人間の姿に戻った彼は、アズレアに平手打ちを食らっていたのだ。


「……殿方の癖に、お綺麗だ事!! 死ねっっ!!」

「酷すぎねぇかお前!?」

「お前も死ねっ!! 私より綺麗な奴はみんな死ねっ!! 大体男の癖になぁにその可愛らしい面は? 男性ホルモン足りてます? そんなんじゃ使い物になるかも怪しいわ。国のために民のために、大事なお役目を果たせるのかしら?」


 何なんだこの女は。アージェントを庇った俺にまで平手を食らわせたぞ。【黒の国】の老若男女が褒め称えた俺の美貌が、こいつの前ではクソほども役に立たない。

 理解不能な暴力に、アージェントは涙目でブルブル震えている。彼には“ステイン・テニー”以上に公女アズレアが、何百倍も恐ろしく見えていそうだ。


「アージェント様に何するんですか公女様! あああ……痛かったですよね!? よーしよし。偉いですよアージェント様ー、私だったらびぇえええええんって声上げてますよー」

「エルミヌ……」

「偉い偉いー、アージェント様はお強い子ー! でも、辛いときは泣きましょう? 今は私にたっぷり甘えて良いんですよ? 私が泣きそうなときはアージェント様がこうやって甘やかして慰めて下さいね?」


 何も言い返さずに耐える王子様。そんな彼に庇護欲でも芽生えたのか、不幸に共感したのか。エルミヌは慈愛の笑みでアージェントをあやし始める。やるじゃねぇか!! 漁夫の利でエルミヌへの好感度が上がっていそうだな。

 そんなエルミヌから王子を奪い、胸ぐらを掴み上げる公女アズレア。


「殿下!! 何ですかその美しい泣き顔は!! 汚らわしいっ!! 泣き顔まで綺麗だとか万死に値します!! 暖炉で顔を焼かれるのと剣で顔を傷付けられるのどちらが良いですか? それとも首ごと落とされたい? それが嫌なら早く先程の姿に戻りなさい!!」

「アージェント様が嫌いなら、正妻戦争から辞退して下さいよ!! このアージェント様はすっごく素敵じゃないですか!! 大体あの姿で結婚してどうするんですか!? その先の道が途切れてますよ完全に!!」

「はぁ? そこの男から聞きましたが? 殿下は伴侶の好みによって、心身が変化するお方だとか? 姿形はどうあれ、正常に機能すれば問題ないでしょう? 人前に出せぬ化け物は幽閉して私だけが可愛がって差し上げるの。リヴァリースはこのアズレアが女王となって支配するのです!! 嗚呼!! なんて惨めで可愛らしいの!!」

「あー、それはちょっと不幸で素敵かも……って欺されませんよ!! 伴侶というのは不幸を共に分かち合うものです!! 王子様が幽閉されるなら、私も一緒に幽閉される!! それが愛って物ですよ!! お子様公女様にはまだまだ解らないんでしょうねー!?」

「下民が」

「ぴぃいいい!!!」


 公女とアージェントを取り合っていたエルミヌだが、年下の少女から殺意を向けられ無残に敗退。怒りで多少のブーストはあれど、小心者のエルミヌには荷が重かったか。こういう時だけ俺をボス扱いするな。アージェント以上の涙目で、エルミヌは俺の背中に隠れてしまう。


「み、ミュラル様ぁ……!!」

「勘違いしているようだが、アズレア。お前はこの小汚い鼻水顔のエルミヌにすら負けている」

「小汚いって何ですか!! 可愛らしいに訂正して下さいミュラル様!! あと鼻かみたいので紙か布下さい」

「丁度良い、高価な布があったぞエルミヌ」


 催促をする従者を公女に投げて、作った隙にアージェントを取り戻す。ドレスに涙と鼻水を付けられたアズレアは怒り狂い、エルミヌを追いかけ回している。またエルミヌが俺に助けを求めているようだが聞こえない聞こえない。


「あの部屋から出て来たってことは、エルミヌが鍵を手に入れたんだよなアージェント?」

「……鍵? 確かに小さな気配はあるかも。確かエルミヌが破った隣の部屋が……床が無くてここに繋がってたんだ。二部屋分、彼女は鍵を手に入れた?」

「に、二本だと!?」


 何処が変わった? 外見は同じだ。内面か? アージェントの何処が変化した? じっと顔を覗き込む俺に照れる姿は変化がないように思えるが……。


「ミュラル、頼める?」


 じっと此方を見上げる瞳。顔はあいつと変わらない。……それでもアージェントは変わった。俺のため俺のためではなく、自分のしたいことを口にした。俺を頼るようになった。これが、エルミヌのカスタムか。


「お前のお願いなら、喜んで」


 お前の前で、ようやく自然に笑えた気がする。アージェントの望み通り、俺はエルミヌを追うアズレアを掴み上げ、お手軽呪術で動きを封じる。魔法が弱まる城なのに、呪術は問題なく扱えるのが最高だな。


「猿ぐつわはサービスだ。とっても似合うぜ公女様? 高貴な方々は、家名に誇りがあって素晴らしいよなー? 予言だけじゃなくてもうちっと、他国の呪術のお勉強した方がいいぜ公女様??」

「むぐぅうううう!!」


 これまで散々いたぶられた分、縛って床に転がした公女を煽るのは楽しい。


「はぅわっ……あ、アージェント様?」

「あ、あった! ほらエルミヌ!! フードの中に入っていたよ。もう一本は靴の裏にくっ付いてる!」


 アージェントが指摘したのは靴底に刺さった針と、フードで寝ていた小さな鼠。何方も銀色。アージェントが手に取ると、それらは二本の鍵へと変わる。


「ええええ……何でこんな所に? こんなので、鍵を見つけたことになるんですか?」

「僕にも解らないけど、部屋にはそれぞれ名前と意味があって。その部屋に対応した何かを示した人のところに鍵は近付いていく……ってライネが言ってた」

「私、何もしてないと思うんですけど……?」

「ううん。エルミヌは……ミュラルのことを心配してくれた。立場上は敵にあたる彼のことを」

「まぁ、一応従者ですし」

「もう一本は解らないけど、こっちはきっと“優しさ”だよ。だって……エルミヌのそういう所、好きだなって思うから」


 憧れの王子様に惚気られ、エルミヌはぽーっと顔を赤らめる。これが現実と思えないのだろう。彼女は己の頬を抓った後、俺の方へと近付いて背中に爪を立ててみる。そりゃあもう、爪とぎをはじめるくらいの勢いで。痛いと俺が騒いだことで、これが現実だと我に返った様子だが……こんな女の何処が優しいのだろうか?


(……なんだ? この微妙な苛立ちは)


 エルミヌがリードしている。実に喜ばしい。しかし実際に、エルミヌとアージェントが良い感じの空気を演出すると、俺の方が窓で爪を研ぎたくなってくる。やはりあの顔が原因なのか?

 俺は鍵一本、エルミヌは二本。“今は俺が一番好き”と言ったアージェントが、今やエルミヌを一番。単純計算俺より二倍好きなのでは!? お兄ちゃんはそんなの認めない。認めてなるものか!! そんな血も繋がらない女より、家族の絆の方が――……って俺が阿呆か!! アージェントは“テニー”ではない。俺の妹ではないんだ。赤の他人なんだ。鍵の本数だけで好感度の変わるような王子様なんだあいつは。


「ど、何処行くんですかミュラル様ー!?」


 他意はないが、これから二・三本鍵を取らなければ。エルミヌが鼻の下を伸ばしている面が不快なだけだ。あいつは不幸モードの時が一番可愛い顔してるんだ。だから従者思いの俺様が、あいつより常に数本鍵をリードしておいてやる必要がある。だってその方が、アージェントに魅力的に思われるエルミヌになるんなら仕方ないことだよな!? 別に俺がアージェントを婿に出したくないって訳ではこれっぽっちもないんだぜ?


(くそっ……アージェントは、アージェントだ。テニーじゃない)


 俺は理由探しがしたいのか? 化け物になるかもしれない王子を、人間に。無害なテニーに近づけるための理由を探している? 妹への未練を肩代わりさせようとしている。ずっと一緒に居られなかったあいつの代わりに。

 あいつが生きていれば。いつか妹にも男が出来て、嫁にくれてやる日が来たかもしれない。それがテニーが今や王子で、男どころか女を連れてきているんだ。妹が嫁を何人も連れ帰って来ている状況なんか、取り乱して当然だろう。


(いっそ、さっきみたいに)


 違う姿になってしまえば良い。執着も未練も後悔も。全て消えて無くなるように。そう思っているのにさ。どうして俺はエルミヌよりも、多くの鍵が欲しいと思ってしまうんだろう。

 開けた部屋で座り込んめば、一気に後悔が押し寄せる。もう何も探す気が起きない。俺にその気がないのなら、この部屋だっていつか。エルミヌかアズレアか……それともギュールズ姫か? 他の誰かによって理想の部屋に変えられてしまうのだろう。アージェントの心と共に。


(何なんだ、これは)


 もう何年も忘れていた。他人なんか利用するだけの存在だった。それなのに。出会って間もない奴を相手に思うことじゃないだろう? 寂しい、なんてさ。とんでもない男だよあの王子様は。こんな短時間で“盗み”やがった。盗賊ミュラル様の心の一部を。このまま城に留まり続ければ、俺はどうなってしまうのか。恐ろしい、面白い。今の俺は、鍵穴の向こうで笑った化け物みたいじゃないか。恐ろしくて叫び出したいのに、腹を抱えて笑いたいほど愉快なんだ。こんな存在に、出会えるなんて思わなかった。


「ミュラル、待ってー!」


 開けてはならない扉に手を掛けた、俺と同じだ。俺のような者が居る部屋を、アージェントは開いてしまう。化け物はお前じゃない。俺の方かもしれないのに。お前は怖がらないんだな、あの日の俺と違って。

 やめてくれよ。テニーと同じ顔で、テニーみたいに抱きつくな。俺が振り払えないのを知っているんだろう?


「はぁ。ミュラル様が言ったんじゃないですか。“初めての人”は美化されるものだって」


 部屋の外から此方を覗き、呆れた声のエルミヌ。向こうから彼女が投げ返した鍵は、俺が彼女に渡した時よりも……僅かに装飾が増えていた。


「エルミヌちゃんは健気で可愛い女の子ですから。所詮正妻になれない可哀想なミュラル様のことくらい目を瞑ってあげますよ。従者ですし」

「おい……」

「でもやっぱり狡いですから、私もぎゅーってさせてくださいアージェント様!!」


 室内に飛び込んできたエルミヌはその場で素っ転び、勢いよく俺達へと倒れ込む。不本意ながらアージェントごと俺までぎゅーっとされてしまった訳だが、俺とエルミヌに挟まれたアージェントが笑っていたからよしとする。


「全く……何がそんなにおかしいんだ?」

「だって。やっと二人とも……笑ってくれた」


 俺とエルミヌの間にあった微妙な空気が払拭されて、アージェントは喜んでいる。第三者を挟んだ関係を築けなかったテニーには、無かった言葉と表情だ。妹との違いを前に、初めて俺も“彼自身”を知れたようで嬉しくなった。


「ふっ、なんだそりゃ」


 笑い合う俺達から、のけ者にされた気がしたのだろう。むっとしたエルミヌはもっと思い切り俺達に抱きついて来る。


「諦めろよエルミヌ、お前のハグじゃ色仕掛けには程遠いぞ」

「あ! そんな事言います!? ミュラル様からはハグ代頂きますからね? エルミヌちゃんは安くありませんよ!」

「迷惑料から引いといてやるよ」


 いつも通りの口論に発展した俺とエルミヌ。その傍らで、アージェントは笑っていた。


アズレア回はまた次回。ミュラルの方の掘り下げ回となってしまいました。

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