10:漆黒の鷲獅子(グリフォン)
「お、……美味しい」
顔を見合わせ私とアージェント様は呟いた。今朝の食卓はいつにも増して豪勢である。使用人が作った見栄えの良いモーニングの他、新鮮な果物のジャムに木の実のペースト! 焼きたてのパイとタルト。軽食とお菓子を同時に味わえるこの贅沢さ!! 盗賊上がりの私やミュラル様にとって、食事を楽しむという一点ではこれほど有り難いことはない。
(でも、これは……これは良くないです)
いつもは高貴なお二方がスパルタ同然のテーブルマナーでアージェント様をビシバシ扱いては泣かせて嫌われるという漁夫の利戦法で、私とミュラル様が王子様の好感度を掻っ攫っていたのですが――……
「フィールドルフの郷土料理がお口に合ったようで何よりです。急に来てしまったんだもの、自分の分くらいは自分で作らなきゃ」
このエルフ、ただ者じゃない。分を弁えた立ち振る舞いは完璧。
公女様からの視線が痛いです。
「い、胃袋でアージェント様を籠絡しようたってそうは行きませんよ!! 次の鍵を取ったら私が殿下から味覚奪うカスタムしますからね!! ざまぁみろですよエルフのお姉さん!!」
「なるほど……その手が」
私の言葉に興味を示す公女様。怖い。この人の場合冗談に聞こえない。下半身以外の感覚全てを奪うカスタムをして、惨めな王子様を虐めたりしそう。
(わ、私余計なこと言っちゃいました??)
恐る恐るアージェント様を見てみると、ぴぃいと鳴いて×100エルフ……もとい、ヴァートさんの背に隠れている。これはいけない。私まで余裕のない態度で彼を追い詰めれば、これまで獲得した好感度を離婚魔エルフに根こそぎ奪われてしまう!
(まずい、不味いですよぉおおお! ご飯は美味しいですけど不味いです!!)
本格的に食事に手を付け始めたら、皆口数少なくなっていく。喋るより咀嚼したくなるこの料理。一口でも多く食べたい。食欲に屈するなんてと赤の王女様なんか、くっ殺顔だ。ちなみにこの場合の殺は、「くっ、殺す」の意味なのでかなり理不尽です。食事食うだけ食っておいてそれです。一口進む度、ギュールズ姫の殺気が増していきます。野蛮人ですね怖い。言ったら殺されるので言いませんけど。
私やミュラル様は元より、高貴な彼女まで品を失い貪り食う中、公女様だけはテーブルマナーを維持しています。ナルシストなだけありますね。食べ方も綺麗です。
「ふふふ、殿下。お口に汚れが」
「え?」
「今綺麗にしましょうね」
アージェント様の汚れを拭い、甲斐甲斐しく振る舞うヴァート。二人の恋人めいたやり取りに、流石の公女様も限界が来たようです。
「失礼っ、手が滑りましたっ!!」
公女アズレアが狙ったのは、アージェント様の顔面だ。料理ごと皿を投げつけたのだが、ヴァートはぶつかる寸前手を滑り込ませて料理と皿をキャッチする。
「あらあら、物理攻撃のコントロールが良くありませんね。今度一緒に訓練しませんか?」
そしてこの余裕である。正妻争いに参加しない彼女を好意的に見ていたアズレアも、怒り心頭。美しい顔が歪むほどの怒りを表す。
最初に指輪を手に入れたミュラル様補正でしょうか? いえ、その後取った鍵のどれかに違いありません。ミュラル様の独占欲ですね、守ってくれる人にアージェント様は弱い、カスタムが為されているようです。
ミュラル様は元のアージェント様を取り戻すって言ってましたけど……無意識なのでしょうか? 一本目の鍵の効果か。性癖の滲むこと、滲むこと。
私達は主導権を奪い返せないまま食事が終わり、その頃にはアージェント様とヴァートさんはすっかり仲良くなっていました。
「これが、花嫁候補の指輪なのね! 綺麗だわ」
食後には、もう指輪を渡される始末。
「く、悔しい……何なんですかあの人!!」
アージェント様もアージェント様です。あんな得体の知らない女にホイホイ指輪をくれてやるなんて。アージェント様の尻軽○ッチ!! 城に入ったら誰でも良いんですか貴方は! 判定ガバガバじゃないですか!! 主体性ないんですかアージェント様!! ないんですよね……私達が貴方を作って育てるんですもんね。
「ミュラル様っ! こうしちゃいられませんっ、鍵探しに行きましょう!! ……ミュラル様?」
一体どうしたことでしょう。食事が終わったら、私とアージェント様……それからエルフのお姉さんを残して花嫁候補が消えました。俊足で周りを出し抜こうと部屋を飛び出していったんですかね……大人げない。
「ふふふ、可愛い子が両手に花だわ」
「ひっ……!」
他人に呆れている暇などなかった。私の一瞬の隙を見逃さず、ヴァートは手を繋ぐ私とアージェント様の間に割り入って、両手に私達を掴んでしまう。
「お城は広いみたいだしはぐれるといけないわ。おねーさんと一緒に鍵探し行きましょう、エルミヌちゃん」
「き、気安く呼ばないで下さいぃい!」
「解ったわ、エルちゃんって呼べばいい? それともエルミー?」
「うわああん、馴れ馴れしくなってるぅうう! エルミヌで大丈夫です!!」
恐怖のあまり幼児退行し出した私に、アージェント様が気遣わし気な目を送って来る。
(私に良い顔したって何の得もありません! この人、絶対何か裏があるんです! 仲良くなった振りで、一人ずつ各個撃破で始末して行くつもりなんですきっと!!)
これまで私は他人に利用され搾取されて生きて来た。私なんかに何の理由もなく近付く人間はいないと断言できる。
警戒心の強い私が一番の強敵と見て、真っ先に始末に来たその直感は素晴らしい。
私は空いたもう片方の手で、アージェント様の手を掴む。三人で輪になっている謎の状態。別に遊んでいる訳でも、魔物召喚の儀でもなし。これは熾烈な正妻戦争です!
(どちらが先に彼の手を離すか勝負ですよ、魔女さん!!)
「鍵、探しに行く……んだよね?」
突然の輪に戸惑う王子様。エルフに至っては、ウキウキ身体を動かして……このまま踊り出しそうだ。
「ふふふ、準備運動が大事ってこと? エルミヌちゃんは優しいわねー! 高齢の私の事を気遣ってくれたんでしょう?」
「えっ、違いますけど」
「照れない照れない! ありがとうのぎゅー!」
「ぎゃあああああああ!!」
ヴァートはあっさりアージェント様の手を離し、私をぎゅっと抱き締める。エルフは人間嫌いじゃないんですか!? スキンシップ過剰ですよこの柔らかくて良い匂いのお姉さん!!
(な、何なんですかこの人……!?)
「それじゃあ、優しいエルミヌちゃんにお礼をしましょうね。おいで、カドリガ!」
ヴァートが片手を宙へ翳すと、彼女と共に落ちて来た……漆黒の鷲獅子が召喚される。大きい、眼光鋭い、怖い。
「この子は宝の番人。盗賊さんより早く良い部屋を見つけてくれるわ」
「そ、それの何処がお礼なんですか!?」
ガタガタ震える私とワクワクしているアージェント様を、彼女は羽毛の上へと放り投げ……自らその背に飛び乗った。
「一部屋目では私は何もしない。エルミヌちゃんが鍵を探して良いから」
*
「ミュラル様ぁあああああああ!!」
「おう、エルミヌ。なんだその顔」
「何処行ってたんですかミュラル様っ!! こっちは大変だったんですから!!」
所用から戻ると、半泣きのエルミヌが俺へと駆け寄り喚き出す。
「私が幾ら探しても見つからなかった鍵……私がお手上げした途端、魔女さんが見つけちゃったんです」
「ビギナーズラックだろ、俺やお前だって最初の頃は――……」
変わりないかとアージェントを見た瞬間、俺は目を見開いた。可愛い。いや、テニーに似て可愛いのはいつものことだが。
「おい、なんだあれ」
「何って、ヴァートさんの欲望カスタム要素ですよ。エルフの人達って長髪多いじゃないですか。その好みじゃないですか?」
そうだ、髪が伸びている。肩程度だったアージェントの綺麗な髪が、今は腰の辺りまで降りている。こうなってしまうと、見た目は完全に少女のそれである。
(なるほど、こいつは確かに……一応確認してみるか)
ヴァートに髪を弄られ遊ばれているアージェント。彼の方へと俺は手招き。
「アージェント、お前も疲れただろ? 一緒に風呂でも行こうぜ」
「あ。お帰りミュラル! 解った、今支度するね。ライネー、リネルー! 着替えと湯浴みの支度お願いー!」
アージェントはヴァートに謝って、髪弄りを中断させる。姿の見えない使用人二人だが、アージェントの声に反応し、遠くでチリンと鈴の音が。直後にバタバタ辺りを行き交う足音がした。今の喚び出しが使役魔法か。アージェントの魔法もあの使用人二人も何かと謎が多いな。
「アージェント様、いつでもどうぞー!」
扉からぴょこんと顔を覗かせたメイドのリネル。
「夕食は今、ライネ君が作っているのでお風呂の後にお集まり下さいね」
「ありがとう! お待たせミュラル、お風呂行こう!」
彼女が手ぶらでやって来た所を見るに、着替えやタオルはもう浴室に用意されているらしい。さりげなく誘ってみた訳だが、アージェントと風呂に行くのは初めてだ。責任の所在を明らかにするために、身体までテニー化していないことを早めに確認しておくべきだった。
「お風呂、お風呂ー! ね、ミュラル? お風呂で泳いで良い? 競争しない?」
「駄目だ」
「むー……お城のお風呂って無駄に広くて、一人で入るのつまらなくて。今日はミュラルと一緒だから楽しいと思ったのに」
「何往復だ? 勝った方に何か出るのか?」
子供らしい表情で拗ねたアージェントを前に、俺は秒で陥落した。テニーを甘やかせなかった分、甘やかしたい欲を刺激されてしまったのだ。俺は悪くない。
「ミュラル様甘いっ!! 前言撤回早すぎですっ!!」
「ふふふ、仲良しなのね殿下とミュラルちゃんは」
「おい、お前等なんで付いて来てるんだ?」
後方から上がったクレームに、俺は文句を言ってやる。着替えとタオルを持った女が二人俺達の後を追っていた。
「いいじゃない、張ったばかりのお湯なんて久々なの。私もご一緒させて貰いたいわ。エルミヌちゃんも行くでしょ?」
「ひ、ひぇええ!? 嫌です何されるか解りませんよ! 私は違うお風呂に行くんですぅうう」
「嫌だわ、髪の毛洗わせて貰うくらい良いじゃない? フィールドルフから香りの良い整髪料持って来たの。洗って乾かしたら殿下もエルミヌちゃんも、もっと髪の毛ふわふわで手触りが良くなるわ」
「え? ヴァートさんと入るのも勿論嫌ですけど、私が言ってるの……ミュラル様のことですよ?」
「あら。そうだったわね、二人は確か主従関係? 主君のお背中くらいは流したいでしょうけど、嫌と言われたら無理強いも出来ないわよね」
「あの、そうじゃなくて……私、ミュラル様に嫁ぐ予定ありませんし、男のミュラル様に裸見せたくないんですけど」
「………………男? 嫌ねぇ、エルミヌちゃんったら冗談が下手――……」
場の空気が妙だ。ヴァートが俺を凝視している。頭の先から足の先まで値踏みするように。最初は顔を見ていたが、最終的には俺の周りをぐるぐる回り……胸と股間や尻を視線が行ったり来たりしている。
「あの顔で男? 粗野な言動は出自のためでは? 男前な姉御系だと思っていたのに。でもこの骨格……この可哀想なまでに薄い胸……まさか本当に??」
「おい、独り言全部口に出てんぞ。仮に俺が男だとして何か問題あるか?」
「いえ、別に。唯そうね。それだと幾ら“花嫁候補”同士でも、一緒にお風呂は不味いわ。殿下と貴方に一番風呂は譲りましょう。それでいいわよねエルミヌちゃん?」
「ひっ、わ、私に言われましても……!?」
ヴァートはふわりと微笑んで、俺達へと片手を振った。俺も応じて片手をひらひら泳がせる。
「誤解が解けたようで何よりだ。アージェントの髪は俺がしっかり洗ってやるから心配しないでくれよ」
笑っているがあの女。ヴァートからの殺気は消えていない。結婚した全ての“男を殺した”疑惑が信憑性を帯びて来た。
(……お姫さんの方も、上手くやってくれたら良いんだが)
「ミュラル?」
「ああ、何でもない。早く入ろうぜ、次が待ってるようだからな」
*
半日、奴らを野放しにした。私は盗賊と手分けをし、標的の監視を行った。その間青の公女が魔女と接触した様子はない。それでも私には二つの確信がある。
(あの女が、他人を。それも初対面の女を褒めるなど天変地異の前触れだ!!)
アズレアは、少し煽てられた程度で魔女ヴァートに隙を見せた。アズレアは美しい者をとことん憎む。老女か醜女でも無い限り、公女は情けをかけたりしない。まずそこが一点。
「何ですかギュールズ殿下、こんな豚小屋いえ、こんな独居房ごほっ……貴女の部屋などに呼び出して。私の美しさに血迷いました?」
憎たらしいクレスト人でも愛の告白ならば聞くだけ聞いてやろう。見当違いの寛大さを見せる公女アズレア。
「愚問ですわね! このギュールズ=シミエ・クレスト! 百回生まれ変わろうと、お前などに惚れるものか!」
アズレアを呼びだしたのは、私が得た部屋。数日前に、青の公女と共に閉じ込められたアージェントの“足の小指部屋”。ちなみに右か左か、試してみるまで解らない。
居心地は悪いだろう。私は此処を私室として改造したのだ。まさかアージェントより先に、この女を連れ込むことになるとは思わなかったが。
「それは何より。例え相手が豚でも百度も振るのは心が痛みますもの。では……魅力ある恋敵を早急に始末したいと?」
指輪のある左手を此方へ翳しアズレアが聞く。指輪魔法も既に使いこなしていると言わんばかりに。私は右手は剣の柄に、左手は彼女同様指輪を見せて戦闘態勢にいつでも移行出来るよう身構える。
「返答によってはそうなりますわ。私、耳は良い方ですのよ。……貴女、使用人に言ったそうね。“次の花嫁は空から来る”と」
「まぁ。盗み聞きとは品のない」
すかさず煽りを入れてくる青の公女。いっそのこと、“煽の公女”と呼んでやりたい。
「銀の城で“予言”が使えているのなら、お前はこんな状況に陥らなかった。前回この部屋に来た、あの時も」
「…………」
「示し合わせた計画か、或いはリヴァリースへ来る以前。お前は奴と既に通じていた。花嫁候補内に味方を引き入れるために」
「……これ以上隠しても、意味はなさそうですね。ええ、彼女の家は私の予言に救われた過去がある。私はその恩返しを依頼したまで。盗賊主従のように、花嫁候補が協力関係にあることは別段問題ではないようです。きちんとリネルさんにも確認しました」
否定はしない、か。隠し事が判明してもアズレアは威風凛々。武器も扱えない細腕の女が、態度と貫禄だけは歴戦の猛者のよう。こういう者が上に立つなら、民は安心して付いて来るだろう。私にはないものを持っている彼女がとても憎らしい。
(だが、所詮は箱入り娘。命を背負う重圧も知らない小娘だ)
私は呼吸を整え怒りを隠す。そして先程煽られた以上の嘲笑で、アズレアを見下した。
「クレストでは、多くの子を作る。兄弟が切磋琢磨するように。蹴落とし喰らい合い、強い者が生き残るように」
「野蛮な国の話を聞く暇などないのですが?」
「アズレア姫、お前はクレストに生まれなくて良かったな。もしお前が私なら。今回の失態で首が飛んでいる」
「…………この私が失態ですって? 訂正なさい!」
「小娘如きに、老獪な魔女が御しきれるとでも? 訂正はしない。あの女は……お前を裏切っている。私はその証拠も掴んだ」
魔女の裏切りに気付けなかった落ち度を指摘しても、アズレアは全てを飲み込めてはいない。
「ヴァートが裏切る……? 何を馬鹿な」
「アズレア姫、ヴァートの愛馬の名前を知っているか? カドリガ……発音をしっかりするなら“クアドリガ”」
「“戦車”? それが何だと言うのです?」
「本人の発言通り友好的に振る舞いたいのなら、そんな名前の獣を連れて来るか?」
「話になりませんね。そんなものが証拠だと?」
この城に、グリフォンなんか連れて来るのが挑発的だ。教えてやってもアズレアは反感を示すだけ。本当に余所の事に疎いらしい。
「馬など相手にもならん。あれだけの戦力、戦場に駆り出さないのは奇妙だ。フィールドルフとの交戦時、グリフォンが現れた事などクレスト史上一度もなかった。つまり、フィールドルフにグリフォンは存在しない」
「で、ではあの女は何だと言うのです!? ギュールズっ、貴女は彼女が偽者だとでも言うのですか!?」
「重要なのはそこではない。あれはお前以外の思惑で動いている。そしてそれが――……奴であることが問題」
“黄金の守護者”、“牡馬を殺し、牝馬犯す”……そんな獣を連れて“銀の城”へ来る女。そんな遊び心のある女を、私は一人しか知らない。
「私は【金の王女】に会った事がある」
「金の、王女――……?」
「リヴァリース王女、オーア――……彼女は、グリフォンで戦場を飛んでいた」
*
銀の城には扉のない部屋や、施錠できない部屋が幾つか存在している。アージェントが目覚めたことで解放された部屋と言えば良いのか。鍵を持たない者でも……従者のように指輪を持たない者でも必要最低限の生活を送れるように。
食堂や客間、調理場、浴室なんかがそれだ。曲がりなりにも王族の城なのだ、他に部屋を開放していけば他にも浴室なんかは見つかるのかも知れない。しかし現状では時間をずらして湯浴みを行うしかなかった。
「はぁ……一番風呂は最高だな」
王子に王女に公女とくれば、盗賊なんかその後だ。従者の癖にエルミヌも騒がしいから先に入らせる。昨日まで俺は五番風呂に入っていた訳だ。アズレアなんか面倒で、ギュールズとの口論次第二~三番目に入っている癖に、三番目の時は風呂掃除をさせている。野蛮なクレスト人と同じ湯に浸かりたくないそうだ。
「ん……どうしたアージェント? 泳がないのか?」
湯に浸かって不抜けている俺から、アージェントは遠い場所にいる。浴槽は俺が腰を下ろして胸まで浸かる。アージェントなら頭まで浸かってしまうか。
彼は普段どのようにしているのか。全て使用人任せか? 人格が芽生えたとは言え、日常生活全ての記憶を得たとはならない。人格にも俺経由でテニーの記憶が流れ込んでいる――……そうか、俺の妹はスラム育ちでまともな風呂を知らない。
「えっと……あのねミュラル。そっちまで泳ごうと思ったんだけど……なんだか、泳げない、みたい」
今のアージェントは、複数人の影響を受けている。やりたいと思ったこと、出来ると思ったことが出来る身体であるとは限らない。俺やギュールズが望むアージェント本人の記憶、俺が無意識に願うよう……他の候補達が望む理想の姿。
本来の彼は泳げたのかもしれないが、テニーは病弱。泳いだことも泳がせたこともない。最初の鍵を得た俺からの影響は、アージェントに深く根ざしているようだ。
「そっか、悪い。泳ぎ方、教えるか? ほら、手を貸してみろ」
「うん!」
嬉しそうに笑いアージェントは浴槽を出て此方へ駆け寄る。無駄に高価な石床は綺麗に磨かれていて、転ばないか心配だ。
「おい、あんまり走るなって。転んで怪我でもしたら……」
「うわっ!」
早速転倒する王子。顔面から床へ行く前に、飛び出し何とか受け止めてやる。
「ほら、だから言っただろ」
「ご、ごめん……なさい」
おかしいな。アージェントの身体はさっき確認しただろう? 身体を洗う時も、こっちに走ってくる時も……男だったと確認している。しているはずなのだが……何だこの状況は。
(この肌で、この質感で男だと?)
どっちとも寝た経験のある俺だから言うが、こうやって背中とか肩を抱いた感触は男のそれじゃない。誰かの欲望カスタムが、アージェントの身体を確実に蝕んでいる!!
(俺の所為か? いや、俺だけの所為じゃない。そのはずだ)
これは俺の推測だが……花嫁候補の女達は、ほぼ生娘と捉えて良い。結婚経験のあるヴァートのみ未知数だが、他は反応を見る限り断言出来る。そんな女達が王子を改造して理想の男を作り上げようって話だ。それも“男の身体”をろくに知らない小娘共が、だ。改造をしようにも、どうしてもデフォルトは自分の知識――……自分の身体がベースになってしまう。よく見たら、薄い胸だって男のそれとは違う気がする。
「まぁ、無事で何より。入り直そうぜ」
「え? 泳がないの?」
「お前も鍵探しのサポートで疲れてるみたいだからな。また今度だ」
「……わかった」
極力平静を装い、アージェントを湯船へ促す。離れた王子の背を……ヴァートを倣い、アージェントの尻まで観察してみる。骨格や肉付きだけじゃない……伸ばされた髪の所為で、後ろ姿なんか完全に女だ。
今更女の裸の一つや二つで動揺する大悪党ミュラル様ではないが、“妹と同じ顔”というのが不味い。とんでもなく背徳的だ。
(風呂上がったら髪切ってやろう。次に鍵取ったら、確実に男だって思えるようにカスタムしねぇと。……いや、次のはギュールズにやるんだった。じゃあその次に……下半身だけでも成人レベルに)
「ミュラル、入らないの?」
「交互に入ると暖まるんだ。もう少ししたらそっちへ戻る」
今の俺は、真っ直ぐにアージェントを見られない。水風呂にでも入って頭を冷やそうと、俺は隣の風呂へ向かった。
水に浸かると雑念が消え、気持ちも落ち着いて来る。そうだ、冷えて感覚が研ぎ澄まされて――……
「はぁ……生き返る、…………死ぬっ!!」
来るとは思った。何処かでいつか。隙を見せるための行動だったと一瞬俺が忘れた、その瞬間を狙い射手は悪意の弓を引く。
「まぁ、残念♪ 一撃で仕留めるつもりだったのだけど」
「て、てめぇ……」
「良い動きね。あの一瞬で良く急所から躱したわ」
魔女ヴァート。銀の城内でも多様な魔法を扱う化け物。鍵のない部屋への侵入が、物理的にも魔法的にも可能な相手。ヴァートの矢は俺の頬を掠っただけだが、当然毒は仕込んでいるだろう。すぐさま爪で傷口を抉り、水で洗い流した。
「魔女さんよ。幾ら男嫌いだからって、丸腰の所を狙うのは卑怯じゃないか? おうおう、自分は武器も防具もしっかりしてやがる」
「ごめんね、貴方に恨みはないのだけれど。殿下の傍に殿方を置くのは、私の計画に支障が出るの。死んで頂けるかしら?」
「阿呆抜かせ。男なら他にもいる。ライネもそうだ、アズレアの使用人にも男はいたはずだ」
「彼らは人間の男として機能していない。安全なの。だけど貴方は違う」
会話の間もキリキリと、ヴァートは弓を引き絞る。
毒は洗ったが、身体には痺れが残る。余程強い毒を盛ったのだろう。この身体じゃ次はまともに避けられない。
「う゛ぁ、ヴァート? 何をして……こんなの、駄目だよ」
「申し訳ありません殿下。貴方と私の。私達の幸せのため、彼がいては困るのです」
俺がヴァートの攻撃を受け、アージェントは酷く動揺。それでも俺達の対立を諫めようと、彼女の前に立ち塞がった。先程は小さく細く見えた彼の背が、今はとても大きく見える。
「本当にお可愛らしい殿下……貴方なら、もっと私の理想に近づける」
魔女はアージェントの裸体を視線で舐め回し、熱っぽい目でそう告げる。今回も例には違わず、またろくでもない女がやって来たと言う訳か。
「なるほどな……お前はアージェントを殺す。“男として”殺す!! こいつを女に改造するつもりか!!」
「ええ。そうなれば……リヴァリースはお終いでしょう?」
男殺しのヴァートが嫁ぎに来た理由。フィールドルフがリヴァリースを侵略するため。アージェントを女にしてしまえばどの花嫁とも結ばれることがなくなり、王国は滅ぶ。どの女が勝っても良いわけだ。アージェントの肉体の、一部を操作できる鍵さえ手に入れてしまえば。しかし、俺という例外……男の花嫁候補がいた。ヴァートが計画をこのまま進めれば、俺の一人勝ちになる。その前に俺を排除しようとやって来た。……風呂場なんて無防備な場所を狙って!!
「選びなさい盗賊。此処で死ぬか、心身共に“ミュラルちゃん”になるか!」
そろそろ登場人物出そろってきて、書いていて楽しくなってきました。
オーアも早く出したい。




