逃避行の結末
青い鳥を追いかけて行った先で大きな桜の木の下に立つ見知った姿を見付けて奏太は、恆、と声を上げた。恆の指先に青い鳥がとまる。恆がこっちを見て、よく知った顔で小さく笑うのが見える。
「そろそろ戻らないと学校始まるぞ。春休みは短いからな。」
あまりにもいつも通りの恆の言葉に、奏太もいつも通りの調子で解ってるよそんなことと返した。
「ちょっと逃避行してただけだって。今、帰るとこだったの。」
「じゃあ、帰るか。はぐれるなよ。俺とはぐれたら、帰れなくなるぞ。」
そう恆が冗談っぽく言って歩き出し、奏太はその背中を追った。
瞬間、振り返った恆に手を引かれてバランスを崩し前のめりに倒れそうになり、抱えるように支えられながら彼の背後に回されて、奏太は驚きで目を見開いた。
「なんでユウ君がここにいるの?」
さっきまで自分がいたところに立つ灯が怒気を帯びた視線を恆に向けている。
「奏太を迎えに来たからに決まってるだろ。邪魔するなよ。」
面倒くさそうに恆がそう返す。
「邪魔はどっちよ。わたしが奏太君を捕まえるの邪魔しないでよ。今、鬼ごっこしてるの。鬼ごっこで捕まえられたら、奏太君はここにいてくれるんだから。奏太君にここにいてもらうために、わたし、奏太君の事捕まえないといけないんだから。」
そう叫ぶ灯の言葉を聞いて奏太は、俺そんなこと言ってないと思って、ちょっと血の気がひいた。なにそれ、いつからそんなルールになってたの?俺、これ、マジで逃げなきゃダメなやつじゃん。灯ちゃん、絶対ガチじゃん。捕まったら絶対逃がさせてもらえないよね、これ。マジ怖い。そんなことを思っていると、恆が呆れたように溜め息を吐く。
「どうせそれ、お前の思い込みだろ。まぁ、どっちにしろ奏太は捕まえさせないけど。でも、そうだな。そんな必死なら勝負するか?奏太を俺から奪えたらお前の勝ち。奏太を無事ここから逃げ切らせたら俺の勝ち。勝負がついたらお互い、勝者の意向に添って相手のことに手を出さない。それでいいだろ。」
「なにそれ。お役目から逃げた癖に。宮守の家から逃げた癖に。わたしに譲ってくれるって、わたしが宮守の当主になれるように協力してくれるって。なのに。なのに。奏太君を手に入れて、結局ユウ君が宮守の当主におさまる気?また裏切るの?また、わたしのこと・・・。」
怒ったような悲しそうな声で、そう泣きそうになりながら言う灯に、恆が少しだけ気まずそうに言葉を詰まらす。
「俺は、宮守なんて継ぐ気ないし。お役目なんてくそくらえだよ。でも、結局、俺が奏太の護手だって事は変えられないし。それに、友達なんだ。友達だから。自分が自分の家のことから逃げたいからって、現実を直視したくなくたって、奏太がこんなこと望んでないって解ってるのに、お前等がどういう連中なのか解ってるのに。知らないフリ、関係ないフリ続けてさ。嫌なんだよ。こんなの。耐えられないんだよ、俺は。自分の宿命が嫌でも、認めたくなくても、それでも結局、俺は奏太を見捨てられなかったから。俺が宮守を継ぐことで、奏太を護ることができるなら、嫌でも俺が継いでやるよ。奏太をお前等みたいな狂った連中から守れるなら、俺が継いでやる。だから、もうお前は諦めろ。もう、お前に譲らない。」
そんな恆の言葉を聞いた灯の目がスッと据わる。さっきまで感情的に見えた雰囲気が急に静かになって、彼女を包む空気が冷たいものに変わる。
「ユウ君を信じたわたしがバカだった。やっぱりユウ君は裏切り者なんだ。ユウ君は敵なんだ。穢れた外の血を引いた、この神聖な場所に立ち入ることを赦されない存在。神憑を惑わせて、神憑を害する赦されない存在なんだ。ユウ君に奏太君は連れて行かせない。奏太君は、わたしが護る。」
狂気に沈んだ目で殺気を放つ灯の姿に、奏太は身震いした。本当、話しになんねぇと呟いて、恆が危ないから俺の後ろに隠れてろと、奏太を自分の背後に隠しながら身構える。
「あのさ、恆。これ、どういうこと?」
「ん?あぁ。アレが例の俺の腹違いの妹。で、今、兄妹喧嘩真っ只中?みたいな。そんな感じ。」
自分の方を見ないまま、でもいつも通りの適当な調子でそんなことを返してくる恆の様子に、奏太は、へー、そうなんだ、としか言えなかった。こんな状況なのに、絶対これおかしいのに、あまりにも恆がいつも通りで、自分がパニクってると思うのに、そんな彼の調子につられて不思議と自分もいつも通りの調子でいられて、奏太は変な安心感みたいなモノを覚えて気が抜けた。訳がわからない。本当、意味が解らない。でも、まぁ、恆の言う通りにしてれば大丈夫かなんて思う。
「なんていうかさ。認めたくないけど。俺もアレの同類だから。こんなの絶対、奏太には知られたくなかった。でも、仕方ないよな。それから逃げてお前のこと見捨てたら、結局俺はお前の友達失格だもんな。どっちに転んだってどうせ友達じゃいられないんだったら。それなら、仕方ないよな。お前に気味悪がられたって、嫌われたって、それでも俺にとってお前が特別ってことは変えられないんだから。出会ったときにはもう決まってたんだ。俺の全てはお前のために捧げるって。お前が俺の全てだから。お前と友達ごっこできて楽しかったよ。本当は、ずっと友達として傍にいたかった。でも、もうお終いだな。もう俺は、お前の友達には戻れない。友達でいたいならいれば良いってお前は言うけどさ。俺の本能がそれを赦さないんだから、仕方ないだろ。もう俺は、これに抗うのはやめるから。だから。ごめん。奏太。今までありがとう。」
いつも通りの気怠げな調子で語られたそれがいつもと違った響きで耳に聞こえる。見慣れた恆の背中が、全然知らない誰かに見える。目の前の二人の空気が張り詰めていて、ピリピリした緊張感が伝わってきて、奏太は思わず、お前何する気なのと呟いた。それが合図になったかのように二人がバッと動く。人間離れした動きで二人が攻防を繰り返す様子を目の当たりにして、奏太は目の前の現実を受け入れられずただ呆然とそれを眺めていた。何これ?意味分かんない。なんで二人は戦ってるの?ってか、どうしてこうなるの?意味が解らなくても、伝わってくる空気から二人が本気で殺し合いをしてることが伝わってくる。ぶつかり合う殺気に足がすくみ身体が震える。こんなのおかしい。こんなの間違ってる。なんで?どうして?訳がわからない。意味が解らないけど。でも、こんなのダメだ。ダメだよ、絶対。こんなこと。そう思うのに。ダメだという思いは、二人を止めたいという想いはどんどん自分の中から溢れて膨らんでいくのに、奏太の身体は恐怖に包まれたまま身動きとれず、声も出なかった。それが悔しくて、苦しくて、自分の無力さに腹が立つ。なんだよ。これ。意味分かんねーよ。本当。ってかさ。二人ともなんだよ。二人とも、俺のこと無視してんじゃねーよ。灯ちゃんだけじゃなくてさ、結局、恆も俺のこと解ってねーじゃねーか。こんなこと望んでねーんだよ。俺は。俺のせいでこんなことなってるって事だけ突きつけられてさ、俺にどうしろって言うんだよ。ふざけるな。何なんだよお前等。本当、何なんだよ。いいかげんにしろ。奏太の中に生まれた自分への怒りが、だんだん二人への怒りに移っていき、そして。
「やめろ!」
奏太の感情が爆発した瞬間、その場がパッと明るくなった。
その場にいた全員の動きが止まる。それまであった全ての感情が沈静し、静寂に包まれる。
「御神木が・・・。」
「・・・光ってる。」
そこにあった桜の老木が、その大樹が煌々と光り輝き、まるで満開に咲き誇るようにその枝枝に光の粒が広がり舞っていた。
「何これ。こんなことってあるの?本当に、木が光ってる。」
光り輝く桜の大樹を呆然と見上げなから、それぞれが口を開く。
「この奇跡が、人の心を惑わせて、在りもしない幻想を真実のようにしてしまうんだよね。」
そう背後から声がして、近付いてきた声の主がそのままその場にいた子供達を通り過ぎて光輝く桜に寄り添った。桜の幹に手を添え、大切な何かを偲ぶように目を伏せるその人の姿を見て、奏太は母さん?と呟いていた。そこにいたのは間違いなく自分の母親だった。でも、そこにいる母は普段のふわふわとした雰囲気がなく、全くの別人に見えた。光り輝く桜の木と相俟って母が空想の産物のように見える。まるで桜の木が母の帰還を喜んで母の身体を優しく抱きしめているように見えて、奏太は不思議な気分になった。
「お兄ちゃんはいったい何を考えているの?奏太を連れ去って、わたしをここにおびき寄せて。子供達をこんなにも苦しめて。」
母が、今まで聞いたことのないような怒気を含んだ酷く冷たい声音でそう言って、声と同じような温度の視線を子供達でない誰かに向ける。
「わたしがここに戻れば、子供はかえしてくれるってこと?それとも、子供達の未来までこのまま縛ってしまうつもりなの?」
「どうだろうな。お前は何を選ぶんだ?ここに祀られ神憑としての役目を果たすのか。それとも違う未来を選ぶのか。」
母が向けた視線の先から、そう言いながら男性が出てくる。恆によく似た顔立ちの、五十前後くらいに見える年頃の男性。
「言っただろ、カヅキ。信仰というモノは根深い。お前が何を望もうと、何を願おうと、俺達の生き方は変わらない。これまでも、これからも。例え代が変わっても。お前の繋いだ命が何も知らなかったとしても、関係ないんだ。信仰する側にとったら。今を凌いでも、同じようなことはこれから何度も起こる。信仰される側の意思に関わらず、勝手に争いは起きて、奪い合われて。お前はそんな未来を見たいのか?そんな未来を自分の子供に強いたいのか?それが、お前の求めた自由の果てにある現実だ。」
そう言いながら男性は母に近づいて、慈しむように、愛おしむように、母の髪を優しく撫でた。
「帰ってこい。カヅキ。ここがお前の居るべき場所だ。お前がここの中におさまっていれば、そんな諍いは起きない。お前がここで新しい命を繋げれば、南蛮の血を引いた子供など興味は持たれない。仮初めの信仰を拒み、家を外れた誰かは、それでもずっと彼の傍にいるかもしれないけどな。」
優しげな声音で、かけがえのないモノを見るように母を見つめながら男性がそう言う。そんな男性を母も真剣な表情で真っ直ぐ見ていて、視線を合わせた二人はそれで何かお互いの意思を交わし合ったように思えた。
「わたしの為、なんだね。」
「言ったろ。俺の全てをお前に捧げ、人生を賭してお前を護る。例えそれをお前が望まなくても、俺のやること全てをお前が否定したとしても。これが俺の生き方で、これが俺の生きる理由だから。」
そんな男性の言葉を聞いて、母がそうと呟いて目を伏せる。
「わたし、お兄ちゃんのこと何も解ってなかったんだね。ようやく、お兄ちゃんの事が解った気がする。お兄ちゃんがずっとわたしに言い続けてきた言葉の意味が、ようやく繋がった気がする。」
そう言うと母は視線を上げ、強い意志をもった瞳で男性を睨みつけた。
「奏太はかえしてもらう。わたしもここには残らない。それに、もうこんなこと繰り返させない。」
そう言った母が身を翻して高く舞い上がった。母が昔パフォーマーで、特にアクロバットを得意としていたことは知っていたが、そのあまりの身軽さに現実感がまるで感じられなくて、奏太は夢を見ている気がした。まるで地に落ちた桜の花びらが風に煽られ舞い上がるように軽々と宙に舞った母が、ふわりと光り輝く桜の木の枝に降り立つ姿はまるで桜の精霊みたいで、自分の母親がこの世の人ではない者のように感じた。そういえば現役時代の母さんの異名は、春の訪れを告げる花の妖精だったんだっけ、なんてどうでもいい感想が頭に浮かぶ。それを受けて、日本じゃ桜の妖精とか呼ばれてたって言ってたっけな、なんかそれ比喩じゃなくてマジなんじゃないの、なんて思えてくる。いや、日本でそう呼ばれたただけで、元々は桜関係ないらしいけど。うちの両親が活動拠点にしていたイタリアじゃ、春の訪れを告げる花ってミモザのことらしいし。イタリアで女性の日に贈られるその花の意味と母さんのイメージがピッタリで、且つ母さんが小柄で可憐だから、そんな風に呼ばれるようになったとかって、父さんが惚気てた気がするし。なんて、どうでもいい親との会話を思い出してちょっと目の前の現実から思考をそらしてみるが、肌に感じる空気が、自分を包むその臭いが、そこにいる人達の熱が、そこにある全てが五感を刺激しこれが夢じゃないと物語ってきて、奏太はそのあまりにも非現実的で幻想的な光景から目が反らせなかった。
「神憑は御神木に選ばれる。つまり本当に特別なのはこの桜で、わたし達じゃない。本当に信仰されているのはこの桜の木で、篠ノ宮の血なんて本当はどうでもいいんだ。だから、選ぶ桜がなくなれば、もう誰も特別な人にはならなくてすむ。わたし達はただの人だよ。そして、人と人の繋がりに、信仰もなにも必要ない。必要なのはただ、相手を想う心だけ。だから、ごめんね。」
そう言って母が本当に申し訳なさそうに、辛そうな顔をして桜の幹をそっと撫でる。
「わたしにとってもここは大切な場所だったよ。神聖な場所だからじゃない。大切な、家族との想い出の場所だから。それだけで良かった。それだけが良かった。でも、そうじゃないから。ごめんね。さようなら。」
そう桜に語りかけて、また母が宙に舞う。母が何をしたのか解らなかった。ただ、母が桜の木から飛び立った瞬間、煌々と光り輝いていた桜はその光を真っ赤な炎に変え、その巨木は大きな火柱となった。
それを目の当たりにした瞬間、灯が悲痛の声を上げ叫ぶ。その隣で、恆は黒煙を上げ燃え上がる桜を呆然と眺めていた。
「御神木は失われた。もうこの地に神が降り立つことはない。神様が初めにここに降り立ったのは、貧困したこの土地の人達を助けるためだった。土地の人達がこの地に神様を祀ったのは、助けてくれてありがとうってその気持ちを伝えるためだった。なのに、いつからそれが神様をこの地に縛ることに変わったんだろうね。いつからそれが神様の祝福を独占することに変わったんだろうね。この地にはもう神様はいらない。この地にはもう神様の祝福はいらない。だからね・・・。」
地に降り立った母が静かな声で言う。
「わたしが最後の神憑。神の依り代となり神の言葉を伝える最後の者。宮守の長よ、そしてその子供達よききなさい。篠ノ宮の当主としてここに命令します。この地を離れ、全てを解き放ちなさい。これが神の意志。祝福はそれを必要とする全て者のために。それを奪い合うモノには相応に、天罰が下ることを心せよ。すなわちもう祀るモノも祀られるモノも必要ない。神はこの地に在らず、世界の全てに在るのだから。」
燃え上がる桜を背景にそう言い放つ母の姿は荘厳で、小柄な母がすごく大きな存在のように感じた。この世のモノじゃない。妖精なんて可愛らしいモノじゃない。神様だ。絶対に逆らえない、逆らうことなど赦されない。人間が私欲を持ってどうこうするなど絶対に赦されない、恐ろしく、絶対的な存在。そこに在る母の姿があまりにも普段の母とかけ離れていて、それに畏怖を感じている自分を認識して、奏太は本当に今母さんに神様が憑いてるんじゃないかなんて思ってしまった。
「全て、仰せのままに。」
男性が地に膝をつき、深々と頭を下げてそう応える。
それを現実感のない様子で眺めていた灯が、嘘だと呟く。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。じゃあ、わたしはどうしたらいいの?これからどうすれば良いの?神様は、神様なら、なんでこんな酷いことするの。酷いよ。そんな。わたしは。わたしは・・・。」
そう涙を流し取り乱す灯を、男性がやめなさいと鋭い声で制した。
「神憑の意思は神の意志。神憑の言葉は神の言葉。お前には与えられるであろう天誅を受け入れてまでそれに逆らう覚悟があるのか?」
そう言う男性に鋭く冷たい視線で見下されて、灯は言葉を失った。そしてその目に絶望が広がっていくのが見て取れて、奏太は辛くなった。
「灯ちゃん。やっぱ一緒に帰ろう。もうさ、灯ちゃんもここにいる必要なくなったみたいだし、俺をここに閉じ込めるのもダメになったんでしょ?だからさ。今までの灯ちゃんの日常は捨てて、俺達の日常においでよ。そして友達を一からやり直そう。灯ちゃんが俺に近づいたのは計略だったのかもしれないけど、もうそんなの関係ないんだからさ。今度はちゃんと友達になれるよ。そして沢山遊ぼう。普通に、色々。俺、楽しいこと沢山教えるから。灯ちゃんが、心から楽しいって笑えるように頑張るから。だから、一緒に行こう。」
灯の前に立ってそう言って手を差し出す。お願い、この手を取って。自分を見上げる灯の目を見つめ、奏太は心の中でそう願った。目が合った灯が戸惑い迷っているのが解る。自分の手を取りたいと言う気持ちと、取るのが怖いという気持ち。期待と不安と恐怖が渦巻き揺れ動く瞳を見て、奏太は苦しくなった。俺じゃダメなのかな。俺にはどうすることもできないのかな。こんな風になった灯ちゃんを置いていくしかないのかな。暫くそのままでいて、やっぱ灯ちゃんは俺の手を取ってくれないんだと思って辛くなる。なんだかな。母さんはきっと本当に特別な存在なのかもしれない。でも、俺は。やっぱ平凡な何の力も持たないただの中学生だよな。なんて思って悲しくなる。
「沢山遊ぼうってさ。その前に俺達受験だろ?遊ぶ前に勉強したら?お前等、俺と違ってバカなんだし。」
そんな酷い事をどうでも良さそうな調子で恆が言いながら間に入ってくる。
「お前な。俺だってそこそこ勉強できるよ、お前の足下には及ばないかもしれないけど。バカって言われるほど、バカじゃねーよ。灯ちゃんだってそこまで酷くないから。スゲー頭の良いとこはムリかもしれないけど、名前書けば入れるようなバカ校以外選択肢ないほどではないからね。普通にそれなりに行くとこ選べるくらいには、俺達普通に学力あるから。」
「へー。灯、勉強できるようになったの?昔は全然できなくて、やりたくないとかだだ捏ねて、泣きながら机に向かってたくせに。あまりにもできなさすぎて、どうしようって途方に暮れて、俺が代わりに解いてやってそれ写すとかしょっちゅうだったのにな。」
そう言って恆が小馬鹿にしたように灯を見下ろし、見下ろされた灯は俯いた。
「でも、結局、ユウ君に解いてもらったのバレて怒られるんだよ。それでまた泣いてたら、ユウ君いつも、バレないようにしないから悪いんだろとか言ってさ。要領悪すぎとか、嘘下手すぎとか、バカにしてきてさ。今度こそ上手く隠してみろよとか言って、また教えてくれるけど、結局、わたし、そのたんびにバレて怒られて。だから、怒られないように、わたしだって頑張ったんだよ。頑張ったの。自分でちゃんとできるように。わたし、頑張ってきたんだよ・・・。」
「で、大人達にとって都合の良い良い子ちゃんでいようと必死こいた結果がこれ。お前になんか得になった?昔から言ってるけどさ。お前、向いてないよ。こういうの。俺みたいにやめれば?もう。あの時と違ってさ、それ続ける意味、もうないだろ。」
そんな恆の言葉を耳にして、灯がハッとしたように顔を上げる。恆がいったいいつの話しをしているのか解らない。恆と灯ちゃんの間で何があったのかも。でも、恆の言葉で灯ちゃんが顔を上げ、その瞳がさっきよりちょっと前向きになっているのが解って、奏太は思わず口を開いた。
「そうだよ。灯ちゃん。恆みたいに好きにしたらいいじゃん。兄妹なんだし、灯ちゃんだけこんなところに縛られてる必要ないよ。俺達まだ十四歳だよ?人生これからじゃん。これから、何にでもなれるよ。探しに行こう。誰かに押しつけられた在るべき形なんて捨てて、灯ちゃんが心からこうなりたいって、こうしたいって思える何かを見付けにさ。俺達と一緒に行こうよ。」
そう言って、また手を差し出す。また目が合って、そして、まだ戸惑いを残したまま、おそるおそるといった様子で灯がそっとその手伸ばし、奏太の手をそっと握った。瞬間、嬉しくて胸がいっぱいになって、奏太がその喜びを口に出そうと思ったその時、とても嬉しそうな母の声が入ってくる。
「そうだよ。皆自由だ。皆の目の前にはまだ、まだまだ沢山の選択肢が広がってるよ。きっとまだ知らない、見たことのない選択肢だって。沢山、沢山あるんだ。」
奏太の肩を抱きそう言って、母は笑いかけるとパッと離れた。
「一つや二つ上手くいかないことがあったって、一回や二回、なりたい自分になれなくたって。何回だってやり直せる。何度だって挑戦できる。いくらでもまた新しい自分に生まれ変われる。皆はまだ子供なんだからさ。子供は可能性の塊だよ。今、この時、どんなにこれからに希望の光が見えなかったとしても、そこに光があることを信じられなくても、それに絶望して膝を折って自分の世界を閉じるにはまだ早すぎるよ。世界は広いけど、その広い世界に飛び出すのは自分自身なんだ。自分の世界を広げるのも自分なんだよ。だから広げられるうちは沢山広げて、どこまでも広げまくって、沢山迷って、沢山悩んで。それで最後に、自分か落ち着く場所を見付けられればそれでいいの。」
そう言って母が楽しそうにくるくる回る。
「自由て言うのはね。大変なんだよ。何でも好きにできる分、自分でなんでも決めなきゃいけないから。そして自分で選んだ先に何があっても、自分でそれを受け止めなきゃいけないから。でもね、だからって何でもかんでも自分一人でしなきゃいけないわけじゃないんだよ。皆には不自由になる権利もある。誰かを想うと、その誰かが自分の中に入って来て、少し自分は自由じゃなくなるから。あなたたちには自分の自由を誰かにあげる権利もあるんだよ。大切な人とお互いにお互いの自由を分け合って、少しずつお互いに不自由になって、少しだけ相手を自由にできる権利をもらって。そうやって絆は結んでいくんだ。だからね、自分の自由をあげる人は良く選ばなきゃダメだよ。自分の自由をあげてもいいって想える人にだけあげないといけないんだ。勝手に自分の自由を奪おうとする人にはあげたらいけない。自分にも自由を分けてくれる人にじゃないとあげちゃだめなんだよ。大切な人達と少しづつお互いの自由を分け合って、分けてもらったソレが自分の中に積み重なって、確かなモノとして存在するようになって、心の中に大切な人達が住み着いて。それが自分と誰かを繋ぐ強い絆になる。そんな絆を結べたら、一人でいても絶対に独りぼっちにならないんだよ。独りぼっちじゃなから、一人でいても平気になれる。強くなれる。そんな絆を結べる大切な人達にこれから出会えると良いね。そんな大切な人達に、ここにいる皆がなれると良いね。」
そう言って母が子供達に笑いかける。
「帰りたくない場所には帰らなくても良いんだって。居たくない場所には居なくても良いんだって。昔ね、友達が言ってた。自由の大変さと楽しさを教えてくれた人。わたしに世界を見せてくれた人。あなたはは何処に行きたい?行く当てはある?ないなら、うちにおいで。あなたの帰るお家が見つかるまで、あなたが自分の家を作れるようになるまで、一緒に暮らそう。」
そう言って灯に微笑みかける母を見て、奏太は何言ってんのこの人と思った。何勝手なこと言ってんの。灯ちゃんをうちに住まわすとか勝手に決められることじゃなくない?なに、一人で決めてんの。俺は?ねーちゃんの意思は?他人が急に自分ちで暮らし始めるって結構な事よ。なんて思うが、母のその言葉に目を輝かせている灯を見て、何も言えなくなる。
「いや。そういうのいいです。宮守の家に戻らなくても、うちに来れば良いだけなんで。というか、そんな迷惑掛けられないんで。こいつが今から普通の生活する気なら、責任持って俺が引き取りますから。」
そんな淡々とした恆の声が間に入ってきて、奏太はちょっとホッとした。母が、そう?恆君はしっかりしてるね、なんて呑気に言って、灯はちょっとムッとした顔で恆を睨んで、そんな彼女を恆が無表情で見下ろして、二人が暫く無言の鬩ぎ合いをして。
「しょうがないから。ユウ君ちでお世話になる。」
灯が折れた。
「じゃあ、帰ろっか。」
母が両手をパンと合わせ、いつも通りのふわふわした笑顔でそう言う。
さっきまで随分と非現実的なことが起きていたように思うのに、少し意識を逸らせばすぐそこにまだ非日常の光景が広がっているのに。いつの間にかそこに漂う空気はいつも通り、自分の変わらない日常があって、奏太は変な感じがした。ちょっと前まで殺し合いをしていたのが嘘のように恆と灯が普通に話している。普通に、当たり前のように皆で帰路につこうとしている。なんだか変な夢でも見てたみたい。そう思って、奏太はまぁどうでもいいやと深く考えることを放棄した。さぁ、帰ろう。自分の現実に。
子供達がワイワイ話しながら帰路につく中で、母が立ち止まって振り返る。
「お兄ちゃんはどうするの?お兄ちゃんにだって、子供達と一緒に街中で暮らして、普通のお父さんになる選択肢もあるんだよ。」
それを聞いた男性が微笑む。
「そうだな。でも、俺はそっちにはいけないよ。絶対に。」
それを聞いて母は、そうと少し寂しそうに呟いて踵を返すと、二度と後ろは振り返らず、子供達と一緒に自分達の帰る所へと歩みを進めた。