ラック・ザ・スライド
奇跡なんてのは、案外そこらへんに転がっているもんだ。
例えば、今。ここに奇跡は存在する。
「二連休だ」
本日何度目かしれないそのワードを、俺は呆然として口にした。
「土日が休み……? 奇跡かよ……」
アパートのベランダ窓から見える空は青々と爽やかで、雲の上から天使が落っこちてきて悪戯っぽく笑って見せたとしても不思議はない。祝福の鐘が遠くから聞こえている気がした。
休日出勤のない週末。二連休。もはや週末という概念が久しぶりだった。弊社は戦前を引きずっているので、月月火水木金金を暦として採用しているのである。実に夏以来の週末二連休暇だった。
「暇だなあ」
ソファにひっくり返ってぼやく。この三年間の社会人奴隷生活で俺はすっかり趣味を失っていた。あらゆるものに興味を持てなくなっていた。外に出るのも億劫で、友達ともろくすっぽ連絡を取らないでいたら交友関係は壊滅した。たった一人、大して仲の良くなかった伊中というサークルの同期が稀に飲みに誘ってくるくらいだ。邪念の塊のような男だったが、今ではすっかりかつての勢いを失くしている。奴も社会の波にのまれたようだった。
俺はベランダの空から少しだけ視線を下げる。この休日、俺は一人で過ごしているわけではない。奇特な居候がいる。そいつは閉め切った窓の外、ベランダの柵にもたれて紫煙を立ち上らせている。もしもカメラを構えてみれば、実在を疑うほどの美しいポートレートが撮れるはずだ。ちょっとばかし見惚れてしまったとして、だれが責められよう。
ミソノさんがまだ長さの残る煙草の火を消した。俺はベランダから目を逸らした。手慰みにスマートフォンの天気予報を確認したところで、ミソノさんが冷たい外気をつれてフローリングの床を踏んだ。
「出掛けることになった」
ミソノさんは数世代前のiPhoneを握りしめて言った。喫茶店で黒電話の音を鳴らしたスマートフォンとは別のそれに疑問を感じなくもないが、気にするべき点はそこではない。
「帰る、じゃなくてですか」
「帰れるわけないだろう。あいつが連絡をくれるまでは」
「ミソノさんから連絡すればいいじゃないですか」
「それじゃ意味ないだろうが」
「はぁ? ……じゃあいつまでいるんですか」
「あいつが機嫌を直すまで」
「それ、どんくらいかかります?」
「……最長二週間?」
「えぇ……」
ピースサインをひらひらさせて、ミソノさんは椅子にひっかかっていたパーカーを羽織った。もう零度近い時期なのに、えらく薄着で出歩く人だった。
長い髪をふわりとかき上げ、ミソノさんは不意に俺を振り返った。人をたぶらかすことに長けていそうな赤い瞳と視線がかち合った。なんだろう、カラコン(赤)は常用なんだろうか。
「お前も来るか?」
「え」
「暇そうだし」
「……暇ですけど。どこ行くんですか」
「どこだったかな……まあ、歩いてれば先方が見つけてくれるだろ。それまでその辺をほっつき歩いてたらいい」
「へぇー……。じゃ、行きます」
俺は何も考えていなかった。麻痺していた。人間、そう長いこと驚いてばかりはいられないのだ。感性は鈍化する。こうして今、黒い社風に染まったように、今度はミソノさんの非日常的な存在感に、俺は侵食され始めていた。
電車に二十分ほどゆられて都心へ出る。改札に入るときに使ったミソノさんのスマホがまたしても別のものだったことが気にかかったが、俺は見ないふりをした。
そこからは普通にデートだった、と言って差し支えない。
差し支えないのだ。
今一度断っておくが、ミソノさんの性別は男だ。
しかし今どき、そういうことで差別をするとやはりどこからか「ポリティカル・コレクトネス!」と必殺技めいたそれが飛んでくるので笑顔で受け流すしかないわけであり。
「苗代沢! これ! かわいい! ん……どっちの色が似合うと思う?」
「……はい、かわいいスカートですね」
「実はあまり暗い色は持ってないんだよ。あいつが嫌がるから。でも私としては――」
長いチョコレート色の髪を背中に流して。ダ・ヴィンチもミケランジェロもひっくり返りそうな美貌を絶対的権力のごとく振りかざし。ミソノさんはモールのレディースブランドで悠々ウィンドウショッピングを楽しんでいた。女子だ。完全に女子だ。店の人にこんな微笑ましく会釈されたのは初めてだ。隣を歩く「女子」がいるだけで、世界はこんなに優しくなる。知らなかった。
「趣味、ですか?」
俺はおそるおそる聞いた。
「趣味? なにが」
「何って……女装? っていうか」
「ああ」
ミソノさんは鏡の前で服を合わせながら、皮肉めいた笑いを浮かべた。
「こういう格好をすると、使える連中が増える。女には男の格好で言い寄ればいいし、男には女のフリして誘えばいい。理想の異性には誰だって気を許すものなんだよ。こればっかりは何百年経っても変わらないな」
俺が返す言葉を失くしていると、ミソノさんはこうも続けた。
「私が美しいのは私の価値だし、美しさが価値になるのはこの世の理だろう。それを利用しないで底に落ちて、嘆いたとしても誰も慰めてはくれないんだよ。慰み者になるだけだ」
赤い目を細めてミソノさんは笑う。まるで悪魔が甘言を囁くように、誘うように、試すように。
誰を?
「苗代沢、お前の価値はどこにある?」
俺の、価値。
三年前に就職活動で散々問われては狂うほど自己分析をして、ありもしない立派な価値を拙く演出して見せたっけな。
結局、俺の価値が何なのかはわからない。
でも、そんなもんなんじゃねえのかな。
自分の価値を自分で見定められるほど、人は己自身の神様にはなれない。
人は己を規定できない。それには不安と恐怖がつきまとう。
否定される懸念。受容されない憂惧。
俺はその不安や恐怖に立ち向かうことはできなかった。逃げて、逃げて、来たる明日からも逃げ続けて、とうとうにっちもさっちもいかなくなってしまった。
それを誰のせいにすることはできない。
過去の自分を責め立てたとて、今日も明日も変わらない。
長いものに巻かれて、大衆に迎合して、泥船に乗って、狂ったコンパス片手に流され続けることを受け入れる。
古びた海図に描かれる黄金郷、その不在を知りながらも漂い続ける。
俺にはきっと、それくらいしか――
「みぃーーーーつけたァ」
俺の声ではない。ミソノさんのアルトの声でもない。
ショッピングモールを出て、俺とミソノさんを捕捉した輩は、それはそれはガラの悪そうな連中だった。
「テメーよお。バックレてんじゃねえぞお。まだ話終わってねえの、わかってるよなあ?」
俺にこんな不穏な知り合いはいない。
黒地に金ラインのヤンキージャージ、今にもヒップホップを踊り出しそうなコーン・ロウ、クロムハーツをジャラつかせてオラつくDQN。ふざけるな。ここは深夜のドンキじゃない、真っ昼間の西武池袋本店前だっていうのに。池袋ウエストゲートパークの時代はとっくに終わったはずだ。
腰の引ける俺をよそに、ミソノさんはやっぱり睥睨するような目で薄笑いなんて浮かべちゃったりしている。ピュウ、と口笛一つ吹いて、なに挑発するみたいなことしてくれてんだこの人は……!
「お迎えご苦労」
ミソノさんは涼しい声で言い放った。いっそ赤の他人のふりをしたかった俺はそれを無視して踵を返そうとした。足が動かなかった。安パイに逃げようと思考する前頭前野。それに逆らうなんらかの意思が、俺の体を支配していた。
その意思は、捉えようによっては期待と呼ぶのかもしれなかった。
ミソノさんの赤い目は光を孕んで煌めいているように見えた。人を容易に非日常に誘い出す魔力のようなものが宿っていて、それは逃れようもなく魅力的だった。
「苗代沢」
そう一声かけて、ミソノさんは人差し指で俺に来い、とジェスチャーした。呼応して、俺の足は動き出した。コーンロウがいぶかしげに俺を一瞥した。かまわなかった。陽光を纏うチョコレート色の髪を翻すミソノさんは、白昼夢の登場人物のようだった。
ミソノさんはいったい何を…
揺さぶられる苗代沢のオリオン座の夜への軌跡は次話
「その引き金はプライスレス」
2019/1/10 深夜1時頃更新です。




