灰と初恋のビターチョコレート
「……やってる」
景観に埋没した喫茶店は、閉店時刻を回ってまだOPEN表示のままだった。取っ手を引く。ちりりん。ドアベルの音。踏み出す足下で軋む床。あらゆる粘膜を刺激するほろ甘い煙。
――甘い匂い?
壊れてんじゃないかと思うほど効きの悪い換気扇のせいで、店内はスモークでも焚いたみたいに霞んでいた。それがかつて感じたことのない甘ったるさを含んで蔓延している。
どこかで嗅いだことのある匂いだと思った。
「いらっしゃい」
なんということだ。ジジイが笑顔で客を迎えた。
店内はとっくに営業時間を過ぎているのにまだ客がいた。カウンターの一番奥、煙草を片手に気だるげにスマートフォンを弄っている。だぼついたパーカーに褪せたデニム。チョコレート色の長い髪を背中に流したシルエット。
顔も見えてないうちに直感した。きっとあの人も同じだったのだと思う。こちらを向いたその人は、つい数日前と同じく挑発的に笑っていた。
天稟の美貌は煙の中でも色褪せず、我こそが奇跡の体現者とでものたまうごとく堂々としていた。いくばくかキザったらしい仕草で前髪を払って、小さく首を傾けて俺に手を振った。
凛としたアルトの声が煙たい店内に冴えわたった。
「さすがはユーリだ。また、会えた」
「……苗代沢ですけど」
その人は笑う。挑発するように。嘲るように。勝ち誇るように。
不遜の表情はまるで自分が神だとでも思ってるみたいだ。
「ああ? なんだよてめェ、知り合いなのか」
ジジイが素っ頓狂な声を上げた。俺はどうしてか意地を張りたくなった。
「俺の命の恩人です」
呆然とするジジイをよそに、あの人は奥で体をくの字にして吹き出した。何がそんなにおかしいのか知らんが、俺は平静な素振りでカウンターに着いた。
いつも座る手前のスツールではなくて、少し奥のそれに。
「――あの」
俺はちらりとその人を覗き見て、すぐにニスのはげたカウンターに目を落とした。一瞬だけ合った目は冷たいグレー。あの鮮烈な紅はさすがに偽物だったみたいだ。
「今度こそ、名前、きいてもいいですか」
「名前だけでいいのか」
「えっ」
「今しか答えないぞ」
「えっ、ええ……じゃあ、」
「冗談だ」
その人の笑い声に耳をそばだてて泥水コーヒーを淹れるジジイに焦点を合わせ、俺は改めて問いかけた。ジジイも答えを聞きたがってるのか、えらく静かだった。
「そうだな」
その人はなんでか考えている様子だった。名前を答えるだけなのに。
「ミソノだ。私の名前。マスターの初恋の人と、同じ」
「……はい?」
「偶然」
「今考えたでしょう」
「気のせいだよ」
その人は歌うように答えた。
気付けば俺はその人の艶やかな表情を見逃すまいと見惚れている。熱があるみたいにぼうっとしていた。はっとして目を逸らす。行き場を失った視線を取り繕うようにジジイへスライドさせた。ジジイは涙ぐんでいた。
「ミソノちゃん……また会えたなあ……」
熱湯を注ぐ手をブルブル震わせて感極まっているジジイを見ると、俺の心は相反して冷静さを取り戻していった。俺は心の中でジジイに「おめでとう」と言った。
「この辺、住んでるんですか」
ミソノさんは首を横に振った。
「喫煙者には世知辛い世の中みたいだからな。気付いたらこんなところにいた」
ガラスの灰皿の中の吸い殻は、ほとんど新品のような長さを残して火を消されている。ジジイとは対極の吸い方をする人らしかった。黒い巻紙にシルバーの印字の煙草。店内に充満するほの甘い煙はこれのせいらしい。
「あまり人目につかなくて、リラックスできる場所。良い場所を見つけたと思うよ。――お前にも会えたし」
ウッ。心臓が。
眩しい笑顔に胸が苦しくなる俺をよそに、ミソノさんは飄々としている。
その間、ジジイは灰と涙入りのスペシャルブレンドを俺に提供した。これ本当に金払わねえとダメかな。
「ユーリの孫――ひ孫か? そのくらいかな。年数から考えると」
「そうっすね、孫かひ孫――」
――は?
「早いものだな。気付いたら百年経っていた。信じられるか? 寝て起きたら百年後だ。さすがに私も初めての経験でなかなか戸惑ったよ」
ミソノさんは相変わらず飄々としていた。飄々と話し続ける。芝居じみた口調で、わけの分からないことを。
「百年も経てば記憶も人格も失くすとは知らなかった。あれは困った。私が困ったんだよユーリ、珍しいこともあるものだろう? しかも、それまでの百年とは比べ物にならないくらい色々変わっていたし。世界大戦は延々と続くものだと思っていた。もうどこも戦争してないと聞いて驚いたよ」
「――そうですね」と、俺はなぜか当たり障りのない相槌を打った。
「こんなに平和になると稼ぐのも難しくなって困るな。あの頃は簡単だったろう? ギャングをひとつを血祭りに上げれば金策とストレス発散が同時にできたのに」
「――そうでしたっけ?」
俺はスペシャルジジイブレンドを一口すすった。クソ不味かった。おかげで心が落ち着いた。
ああ、とミソノさんは得心がいったように両手を打った。
「そうだ、あれはお前が止めたんだったな。もっと危なげなくていい商売があるから乗り換えろって――」
「あの」
手を挙げて制止した。ミソノさんはグレーの瞳で不思議そうに俺を見つめた。俺はその瞳から目を離さないようして宣言する。
「俺、ユーリって人じゃないです。苗代沢です。間違えないでください」
「……」
「あの」
「…………」
「ミソノさん?」
「……――ああ」
伏目がちの、憂いたような表情が幽玄に美しかった。
「悪かった。あまりにも似ているものだから。つい、ユーリのつもりで話してしまって」
俺は二つ隣のスツールに座る綺麗な人を、まるで映画のスクリーンの一画面のように眺めた。
なるほど、どうしてこんなにも美貌に恵まれた人が俺なんかの前に現れたのか。
「今後なにかあれば利用させてくれ。よろしくな、苗代沢」
艶やかに咲いた笑顔に俺も笑顔で応対し、心の中で悟りをひらく。
ああ、こいつ、ヤバいヤツだ。
この手合いには覚えがある。
きよちゃんと一緒だ。
中二病の虚言癖がこの年まで直らなかった上、前世モノの妄想に憑りつかれている。前世はお姫様だったの! それでね、王子様は○○くんでね――。そう。きよちゃんは確か、そんなことを言ってた。それと同じにおいがする。ヤバい。香ばしい。こんな絶世の美女が俺なんかを相手にしてくれるなんて、そりゃあその分の対価っつーか、代償ってか。あるよな。ていうか今、利用させてくれって言った? 言ってない?
ああ神様、夢を見させてくれてありがとうございます。もう十分です。俺は平穏に生きたい。メンヘラ女に潰されて大学中退の憂き目に遭った、サークルの同期みたいにはなりたくないのです。
ミソノさんは見たことのない黒いパッケージから新しい一本を取り出すと、たおやかな指先に色香を纏わせ火をつけた。甘い香りに惑わされないよう、俺は毅然とした態度でジジイに向き直る。会計を、と言おうとしたそのときだった。
黒電話の着信音が鳴り響いた。
ミソノさんのスマートフォンからだった。
画面の表示を見て、ミソノさんは驚いたように目を見開いた。すぐに応答した。
「はいもしも――」
『死ねッ』
電話越しの声は俺どころかジジイにもばっちり聞こえたと思う。
そのくらいの大音量が受話口から爆ぜた。
スマートフォンを耳にあてた姿勢のまま、ミソノさんは時間が停止したように動かなかった。初めて俺の目の前に現れたときの、少し焦った表情。それよりもはるかに焦燥した顔だった。
通話の切れたスマートフォンをカウンターに伏せ、ミソノさんは俺に振り向いた。なんだか嫌な予感がした。
俺は先手を打った。虚しい演技となることはうけあいだ。
「恋人とケンカとかですか? はは、大変ですね、俺もよく彼女とケンカするんでわかりますよー。いやー、アレっすね、俺も(非実在)彼女に怒られるの嫌なんでもう帰りますわ、しっかしひどいっすね彼氏さんお疲れさ」
「彼じゃない彼女だ」
えっ、と唐突に生じた疑問符を打ち払う。この御時世、下手なことを言うとポリコレ棒でミンチになるまで袋叩きだ。
不意に追加で疑念が生じた。
もしかして俺は、とんでもない勘違いをしているのではないか。
ユニセックスな服装。高くも低くもない中性的なアルトの声。百八十はゆうに超えるだろう長身。
――いや、まさか。まさか?
「家を追い出された」
ミソノさんがため息まじりに言った。俺はスツールを立った。既に勘定はカウンターの上だ。ジジイがもう帰るのか、と言うのと俺の左腕が掴まれたのは同時だった。
俺は錆びたブリキ人形みたいな動きで後ろを振り返った。
ミソノさんのグレーの瞳がばっちり俺を捉えた。俺はゴーゴンの呪いみたいに動けなくなった。
「早速で悪いんだが」
その人はあまりにも無遠慮に、承諾されることが当然のごとくの態度で俺に告げた。
「一晩――あ、いや。彼女が機嫌を直すまで泊めてくれ。苗代沢」
これが最後のターニングポイントだったのかもしれない。
いや、どうだろうな?
どの選択肢を選んだところで行きつく先が変わらないのなら、ターニングポイントだなんて呼べやしねえよな。
――いや、まさか。まさか?
次話「嘘と真のシュレディンガー」
2019/1/7 01:00頃更新予定です。




