トカレフ式赤ボンベババア
「ンマァーーッ! 交通事故だったの! ンマァーーーーッ! かわいそうねえ、大変だったわねえ。もういいの? オーガニックのビタミン剤あるわよぉ。コエンザイムいる? 酵素飲む? ああっ、とっておきがあるわよぉ。教祖様からもらったおくすり。飲めばたちどころに奇跡を授か」
「ありがとうございます結構です」
出社するなりむせ返りそうな香水の匂いに奇襲を受けた。匂い、その発生源。若作りした五十路手前といった風体。バブルを引きずったキツイ厚化粧は今にもポロポロ剥がれそうで剥がれない。さぞかしお高い化粧品を使っているのだろう。
好きな言葉は自分磨きという意識高い高いオバサマの猛攻をかいくぐり、俺は書類が山積みになったデスクに着席した。なぜこの情報化社会に紙文書が大量発生するのだろう。三日職場を離れると新鮮な疑問が湧いた。
「久しぶり」
隣のデスクから蒼い顔の先輩が声を掛けた。
「……お疲れ様です。徹夜っスか」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「すいません」
「部長ブチギレ大炎上してんぞ。今日営業出てるけど」
「ですよね」
「電話も出ねえしよお」
「すいません」
「一週間は終電ねーぞ」
「……っす」
入院生活で回復したメンタルがぺしょぺしょしぼんでいくのがわかった。
長く細いため息を吐いて書類に手を付けたところで、再び香水が俺の嗅覚を急襲した。
「お疲れねぇん」
ムフッ、と笑う厚化粧。いわゆるお局ポジションのその人は、親しみと畏怖の念をこめて下の名前でやすえさん、と呼ばれている。実質この会社のナンバーツーだ。何を隠そう、社長の奥方である。目を付けられれば死ぬ。ただでさえ死にそうなのに。よって、どれだけ香水がきつくても臭いと言ってはならない。胡散臭い健康療法を勧められれば角が立たないように断る。宗教の勧誘も同様。資格自慢をされればここぞとばかりに褒める。とはいえ、危険物取扱者の資格なんて一体何に使う気なんだろう。
「これ、あげるわよぉ」
マルチ商法の勧誘員みたいな笑顔で、どん、と置かれたアルミパウチ。パッケージはブランク。得体が知れない。
「な、――なんですかこれ」
「んふっ。水素水」
「ああ。あー……」
「つ・く・り・た・て。ムフッ」
「……そうなんですか」
また会社の経費を横領して、水素水サーバーでも買ったのだろうか。あまり考えないことにして、アルミパウチ入りの水素水をありがたくいただいた。今日の飲料代が浮く。
礼を言ってデスクに向き直ると、不意にシューッという音とともに顔面に風を受けた。何事かと振り向けば、やすえさんが満面の笑みでパッケージ・ブランクのスプレー缶を俺の顔面に向けていた。
「元気、出た?」
俺はなんだか恐ろしくて、必死に首を縦に振った。やすえさんはそれに満足したのか鼻歌を歌って去っていった。なぜスプレー缶を。ヤバいガスじゃないよな? 無味無臭っぽかったし。大丈夫だよな。何だったんだ。こっわ。
挙動不審にあたりの空気を払う俺を見かねた先輩がPC画面を向いたままぼやいた。
「やすえさん、最近ホンモノ志向にハマってんだとよ」
「ホンモノ志向?」
「ま、要するにオール手作り。自分でゼロから作ったものしか信用しないとかなんとか」
「――と、言いますと」
先輩は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「いつでもこの会社と心中できるように遺書作っとけよ。赤ボンベババアのせいで俺たちはまとめてあの世行きかもしれん」
「は?」
「ちなみに俺は明日辞める」
「はい?」
「退職届は出した。目の前で破られたが出した。破られたあとに部長と、社長の執務室のデスクにあふれんばかりに突っ込んできた。ティラノサウルス付きだ」
「ティラ……は?」
先輩は俺に一枚の紙を押し付けた。表題はこそ退職届であったが、そこにはなるほど確かにティラノサウルスが印刷されていた。ワードの新機能の3Dモデルらしかった。平面にしたら意味ないだろう、という俺のツッコミはきっともう聞こえないだろう。先輩は憔悴しきっていた。
「おれは田舎に引っ込んで行方をくらます予定だ。嫁も子供も一緒にな。ここの出資元、あの財閥だろ。連中の手が及ばない田舎まで逃げる」
先輩の目は本気だった。
きっと、俺が会社を爆破しようと言ったそのときの、何倍も本気だった。
その日の夕方、会社付近の区画一帯で大規模な停電が起こった。原因は不明で、復旧にはしばらく時間がかかる見込みとのことだった。おかげで数か月ぶりの定時退社を果たした俺は、なぜかいつもは通らない通路を経由してオフィスを出た。それは、「やすえルーム」の前の横切る通路だった。本当は第二倉庫という名前があるのだが、事実上やすえさんの私的物置と化していた。誰も立ち入ってはならないという暗黙のルールがあった。覗いてもならない。いつもぴたりと閉ざされている。それが、たまたま隙間があいていた。俺は吸い寄せられるように中を見た。見てしまった。
消火器のごとく赤いボンベの群れ。
直感的に危険物とわかる、明らかに下請けSE企業に関係ない何かだった。
俺は何も見ていないふりをして、早足でオフィスビルを立ち去った。自宅最寄り駅の手前で降りて、とっくに閉店しているはずの喫茶店へ向かった。
一連の事象は明らかに独立しているのに、同じ終着点を目指したがっていた。
おそらくは。
俺はきっと、とっくに絡め取られていたのだ。
あの人を中心としてこの世界に巣食う、信仰と悪意の喜悲劇に。
喫茶店にいるのは、当然――
次話「灰と初恋のビターチョコレート」
2019/1/6 01:00頃更新です。