紫煙の国のツンデレジジイ
俺に天運はない。往々にしてツキが悪い。だから産業道路手前の下り坂で自転車のチェーンが外れて死に目に遭う。
ところがどっこい。
「奇跡ですね」と、医者は言った。
「奇跡ですか」
「うーん……実はちょっと骨、怪しいところあったんですけどね。あばら何本か」
「あばら何本か」
俺は医者の言葉を繰り返し、あばらをさすった。痛くも痒くもなかった。
「大型トラックにはねられたって聞いたんだけどねえ。打ち所がよかったのかな。いや不思議だね。不思議だよこれ。なんか格闘技やってた? 受身とか自然に取れてたのかな。すごいなあ。打ち身だけだよ」
避けられる運動はすべて避けてきた俺に格闘技の経験などあるわけがなかった。よって受身など取れるはずがなく、大型トラックの威力を軽減するすべなどなかったはずなのだが、俺は二泊三日のち完全な健康体で退院を果たした。打撲傷のあともむちうち等後遺症も残らない驚異の回復力を発揮し、俺は呆然と帰路についている。医者も看護師もあっけにとられる回復具合だったのだし、俺が間抜け面で現実感もなく茫洋と電車に揺られていたところで不思議はあるまい。
視界の、ちょうど見切れるあたりで女子高生二人がひそひそと耳打ちしていた。明らかに俺に何か言いたげだった。おもむろに視線をやると、キモッ、と、確かに聞こえた。絶対あいつヤバいって、とも。
そうです俺はヤバいんです。
恐ろしくてロックを解除できないスマートフォンの通知画面には大量の不在着信。社用のアドレスの受信通知。チキって会社に連絡しなかった俺も悪いが、ちょっともう怖くて見られない。
「死にたい」
ぼそりと呟いた。女子高生が車両を移動するのを認識した。
「死にたい。死にたい。死にてぇ。はあ……死……死のう。死にたい。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死」
次の次の駅で、俺は乗客から通報を受けた駅員に引きずり降ろされた。
下りた駅は家の最寄りの隣だった。とはいえ、駅と駅のちょうど間の辺境に住んでいるのでこちらからでも十分歩ける。まっすぐは帰らなかった。久しぶりに寄りたい場所があった。古びた喫茶店。と言っても、アンティーク調のテーブルセットや洒落たサイフォンが置いてあるわけでもない。代わりに、「大人の科学マガジン」の付録が節操のないインテリア感覚で陳列されている。
人が寄り付く要素のない、世間から忘れ去られたような小さな喫茶店。
摺りガラスでもないのに汚れて曇ったガラス戸を開けると、ちりりん、とドアベルの音がした。
店内に充満する煙は鼻を突くよりも角膜を刺激する。俺は半目になって進み入った。
「いらっしゃい」
不機嫌なしわがれた声が俺を迎えた。鉤鼻の陰気なツラをしたジジイが俺に迷惑そうな視線を向けている。この喫茶店を一人で切り盛りしている矮躯のジジイには、接客に必要な愛想が徹底的に欠けている。いつでも機嫌が悪そうで、煙草をふかしては灰皿を吸い殻で溢れさせている。淹れるコーヒーはいつでも泥水のような味がする。つまりクソ不味い。それでもこの店が潰れないのは、喫煙者に優しいということの一点張りなのではないだろうか。
俺ががら空きのカウンターにつくや否や、ジジイは頼みもしていないコーヒーを淹れはじめた。泥水コーヒーを。
「シケた面ァ見せに来たのかい」
注文も聞かずになんて言いざまだ。
「ほかに。居場所がなくて」
「ハァン。勝手に居場所にしてんじゃねェぞ」
煙草を口の端に加えたまま喋るもんだから、おそらく、絶対、灰がコーヒーに混入している。
もともとこの店に足を運んだのはただの気紛れだった。社会人一年目の冬、一ヶ月ぶりに丸一日休みをとれた夕暮れどき。興味本位で入った喫茶店だった。この御時世に禁煙分煙の配慮が一切ない店で、非喫煙者の俺は余りにも場違いだった。あの日もジジイは注文も聞かずにコーヒーを淹れはじめた。俺はとりあえずそいつを飲んで、無遠慮に顔をしかめたものだった。偏屈そうなジジイはそんな俺を見て、「こいつにいちばん合うようにブレンドしてんだ」、と、くわえた煙草を揚々と指した。二脚しかないテーブルセットのうち一つに座る常連が優雅にコーヒーカップを口に運ぶのを見ると、そうなのかもしれない、と思った。テーブルの上、ピースの紺色のパッケージが妙に鮮やかだった。
ともあれ、俺はジジイのその言い草に喧嘩を売られているような気がしたのだ。要らない意地を張って店に通い詰めた。どうせ半端で不定期な休みに予定もない、趣味もない。俺は煙たい古びた喫茶店に足繁く通った。気付いたら常連になっていた。
最近になって気付いたことがある。
「……しばらく来なかったなァ」
「あ。俺、病院帰りですよ。入院しました」
「なんだ。女にフラれて自殺未遂でもしたのかい」
「はねられました。大型トラックに」
ジジイが小さな目を見開いた。
「あっ。でも入院したの一昨日です。事故も一昨日。打ち身だけだったんですよ。奇跡ですよね。もう元気です」
「……そうかい」
ジジイはずいぶんと短くなった煙草の灰を落とした。このジジイは貧乏性なのか、指を火傷しそうなくらい短くなっても火を消さない。フィルターまで吸っていることもある。よく生きてるものだと思う。
紫煙を吐き出し、ジジイは言った。
「年寄りを心配させんじゃねェぞ」
「……すいません」
そう、このジジイ、ツンデレっぽいところがあるのだ。
「てめェみてえな若いのでもよぅ。金落としてくれる常連ってのは貴重だからなァ」
「やっぱり寂しいですか。俺みたいなワカモノがいないと」
返事の代わりに、ジジイはたっぷり煙を吐いて灰皿に吸い殻を押し付けた。にやけた口元に答えを汲んで、俺はコーヒーに口をつけた。香りはいいのに、口に含むとやはり泥水なのだった。
店内は灰と煙の不健康仕様、店長はしかめ面の無愛想ジジイ、コーヒーの味は泥水だが、俺は不思議とこの空間を気に入っていた。あまりにも場違いで、ちょっとした異空間のように感じるからやもしれなかった。
ここにいる間、俺は暗澹とした現実を忘れられるのだった。
「相変わらず女のひとりもできねェのかい」
「そんな暇ないですよ」
即座に名前すら聞きそびれたあの人が思い浮かんだが、それを口に出すことはなかった。ジジイの隠し切れないニヤケ面を見るに、俺にこの話題を振ったのはジジイ本人に話したいネタがあるらしかった。
そこになァ、とジジイはカウンターの一番奥の席を指さした。科学マガジンの付録だろう、妙な針金のついた箱が邪魔そうに置かれていた。
「最近、キレイな姉ちゃんが来るのよ。それが、おれの初恋のミソノちゃんにそっくり」
かつてなく浮わついた様子だった。こんな笑顔のジジイを俺は初めて見た。ヤニで黄色くなった歯を見せて笑うジジイは「初恋のミソノちゃんのそっくりさん」についてとくと語った。
「アンタがしばらく顔見せなくなってからだな、来るようになったの。入れ違い。やっぱり店に美人がいるのはいいねェ。こう……えらい品のある美人でなあ。いつも見たことねェ銘柄吸ってんだよ。甘い匂いの、黒い煙草」
「マスター(と呼ばないと怒る)、甘い煙草は邪道って言ってませんでしたっけ」
「うるさいよ」
言いながら、ジジイの顔はデレデレだった。鼻の下が伸び切っていた。
「ミソノちゃんとおんなじ、髪が長くて綺麗な、色も白くって。すらっとしてて。グレーの目も一緒だなァ。ハーフだったんだよ、ミソノちゃん。あの姉ちゃんも日本人じゃないな。……残念だったなお前さん、会えなくて。そりゃもうべっぴんさんでよぅ。いつも長居するから、ついサービスしちまってなァ。店閉めるのも忘れちまうよ。この辺に住んでんのかねェ。本当、キレイな子だよ。ミソノちゃんはなぁ」
「……はぁ」
ジジイの中でその新しい常連はすでに「ミソノちゃん」ということになっているらしかった。俺は日が沈むまでミソノちゃんの話を聞いた。泥水コーヒーは冷たい泥水になった。
「最近の常連のミソノちゃん」から「初恋のミソノちゃん」へと話の中身が完全に切り替わった頃、飽いた俺は自然な流れでスマートフォンのロックを解除した。不思議と冷静に見ることができる。不在着信。不在着信。メール。不在着信。ライン。ショートメッセージ。不在着信。以下略。サイレントマナーにしていてよかった。
やけにすっきりした気持ちだ。
明日から出社しよう。
苗代沢の勤務先事情については次話
「トカレフ式赤ボンベババア」
2019/1/5 深夜01:00時頃更新です