ローディング・エンカウント
駅から徒歩二十分、入居者が三連続で不審死を遂げたという事故物件の1LDKに始発で帰り死んだように眠る。一時間くらい。なぜわざわざ帰るかって? 使わない定期券代を返せと言われないためだ。冗談だろって? 冗談だったらいいよな。
俺もそろそろ入居死亡者リストに名を連ねてしまうかもしれない。過労死で。奇しくも事故物件レベリングに加担することになりそうだ。まだ生きてるけど、いずれは。いくら清掃を入れても壁紙を貼り換えてもにじみ出るという天井のシミは、遺産相続で文字通り血で血を洗う争いをした四つ前の入居者のものなのだという。不動産が包み隠さず教えてくれたそいつを俺はじっと見つめる。
サビ残爆撃を受けて焼け野原になった、廃墟のごとく静まり返った胸のうちで呟いた。
何のために生きてるんだろう。
呟いて、馬鹿らしくなった。
だってこれ、生きてると言えますか。
朝起きて、グラノーラに牛乳をかけてかきこんで、鉄箱で貨物よりもひどい扱いで輸送されて、朝一で罵声を浴びて、キーボードを叩いて、終わらないタスクに絶望して、非現実的な納期に虚無になって、年代物のハードディスクの異音を聞いて、コンビニのおにぎりを食べて、上司に詰められ、キーボードを叩いて、虚無になって、異音を聞いて、定時を過ぎて、虚無になって、終電チャレンジして、青白い顔でコンクリートジャングルを徘徊する量産型ゾンビを、さあ、果たして、生きていると言えるのか。
「ゾンビは死んでるよなー。ゾンビだし」
俺はゲラゲラ笑った。何が面白いのか、否、おおかた何も面白くはないのだろうが声を上げて笑った。そのうちヒクッ、ヒクッ、と痙攣するような呼吸が混じった。手短にあった目薬を差すと、泣いているふうを装うことができた。なんて虚しいんだろう。せめて慰めてくれる彼女がほしい。おっぱい。おっぱいぱふぱふしたい。ぱふぱふ。おっぱふ。おっぱいは偉大だ。俺が思うに、世の中の女性の八割がFカップを超えれば、この世界から戦争の概念はなくなるね。
「ぱふぱふ」
俺はカラカラ笑った。蛍光灯のまぶしさを瞼の裏に感じながら、俺は二時間に足りない睡眠をとった。
そんな状態で「次の日」を迎えて、このようなことはままあるわけだが、今までよくもまあ事故に遭わなかったものだと思う。視界はぐるぐる回って意識は不鮮明、それでも体に染みついた習慣が俺に最低限の身支度を整えさせ、自転車に乗せて最寄り駅へ向かわせる。車にはねられそうになったことは一度や二度ではないが、幸い大事には至らなかった。いやはや、幸いか? 本当に幸せなのは、今はやりの転生トラックとやらに跳ね飛ばされてご都合主義のファンタジーワールドにゴーアウェイすることじゃないか? コンクリートジャングルよりかは夢とか希望が虹色にブワァーッとしている気がするんだが、いかがなものでしょうか。
買ってから一度もメンテナンスしていない自転車のチェーンはさび付いてけたたましく音を鳴らしていた。ブレーキをかけるとご近所迷惑甚だしい音が鳴る年季の入った俺の愛車であるが、愛車というならちゃんとメンテナンスしとけって話だ。
メンテナンスしていない自転車を走らせ続けるとどうなるか。
「あれっ」
産業道路の赤信号。下り坂で勢いのついた自転車を減速すべく、左のブレーキを握った。いつものルーチンの動作だった。極度の疲弊により、ルーチン以外の動作および現象を、俺は認識できていなかった。それでもさすがに認めざるを得なかった。
ブレーキがきかないということ。
断末魔みたいなブレーキ音がしない。朦朧とした頭で左ブレーキを何度も握りなおした。まったく減速しない。下り坂に加速する一方だ。そういえば、さっき、ガコン! と、不穏な音がしていたが、あれはなんの音だったんだろう。あれが原因だろうか。いやいや、原因とかいいから。減速しないと。道路が。止まらないと。信号、赤だし。トラックめっちゃ通ってるし。ブレーキ、かけないと。
自転車。
ブレーキ。
赤信号。
「あっ。そうか」
我ながら名案だと思った。
左ブレーキがきかなければ右ブレーキをかければいいのだ。信号待ちの人垣に突っ込む寸前、俺は全力で右ブレーキを握った。フワついた思考回路で、しかし握力は全開であった。
さて、最大限加速された自転車に対し、前輪のブレーキのみをかけるとどうなるか。
危ないって、子どもの頃に注意されませんでしたか。
わっ、とか、きゃっ、とか、そんな感じの声が聞こえた。
勢いを殺しきれずに急停止した自転車は前につんのめり、おそらく後輪は浮いた。なにせ俺が浮いたんだから。浮いた、というか吹っ飛んだ。慣性の法則をなめてかかっちゃあいけないんだな。体が宙に浮いたコンマ数秒間、俺の脳内は冴えわたっていた。せきとめられていたダムの水門を一度に開け放ったように、思考はびゅんびゅん巡った。もちろん、朝の産業道路のトラックもびゅんびゅん走っていた。昔ばあちゃんちで預かっていた、遠い親戚の子が回想された。走馬燈というやつだった。
プアァーーーーーーッと、反響するクラクション。
俺をはねるトラックが、転生トラックだといいな、と思った。
来世はどうか、素人童貞のまま生涯を終えることがありませんように。
ろくでもない最期の願掛けをして、俺は直後に意識を失った。
ブラックアウトの寸前、真紅の閃光を見た気がするんだが、あれは何だったんだろう。
***
目を覚ますと真っ白な世界だった。音もなく、ただ白い。これはもしかしてきちゃったんじゃないの。神様に「手違いで殺しちゃったごっめーん☆」とか言われて異世界転生できるやつじゃないのこれは。
「あっ、起きました? ちゃんと見えますか? 声、聞こえてますか?」
違った。
俺を覗きこんで話しかけているのは病棟看護師以外のなにものでもなかった。とうとう明瞭となった五感はここが病院だということを明示していた。白い世界は病室の白い天井で、耳は慌ただしい廊下の音を拾い始めた。鼻をつくにおいは薬くさい、と感じるそれにほかならない。
「お名前言えますかー?」
間延びした看護師の声に俺は、自分の名前でもなく可否を返すでもなく、すみません、と返した。まずは謝罪がついて出る、呪われた条件反射だった。
あっ。つか、俺、入院かー。有給使えるのかなあ。使えねえよなあ。ゼロ年代伝家の宝刀「自己責任」を振りかざして、使わせるはずがない。また、ブラック企業とは法治国家の権限が及ばないからこそ暗黒なのだ。労基にタレコミ入れて意気揚々とやめた後輩がどこにも就職できず、いまだコンビニバイトを続けているあたり、法治よりも圧倒的な力が働いていることが想像ができよう。
俺の意識がはっきりしているのを確認すると、看護師はそそくさと立ち去った。目で追おうと首を動かすと、激痛が走る上にそもそも動かない。ギプスでがっつり固定されているらしかった。看護師の声が誰かを呼んだ。○○さーん、の○○が聞き取れなかった。次いで、目を覚ましましたよーと、看護師はだれかに呼び掛けた。まさか田舎から親が駆け付けたのだろうか。それか、上司。後者の方が可能性は大きかった。一気に緊張が全身を駆け巡った。
バタバタと靴底がリノリウムを叩く音。こちらに向かっていた。来るな。来るな。入院中くらい安静にさせろ。事故った人間に納期の話をしに来るな。
俺は目をつむった。見た目からして俺は重体なのだ。体は動かせないし点滴だし首は完全固定されているあわれな交通事故の被害者だ。一瞬だけ目を覚ましただけですぐに昏睡状態に陥る。そうだ。その設定、それでいこう。
結論から言わせてもらえば、そんな懸念も覚悟も必要なかった。
それら諸々は、凛然としたアルトの声に吹き飛ばされた。
「――ユーリ!」
たとえば、運命のいたずらだとか。
そんなぬるいニュアンスでは言い表せない激烈で横暴な邂逅であることを、当時の俺はまったく理解していなかった。
もちろん、こいつが世界すら巻き込んだドラマチックな筋書きのトリックスターだということなど知るよしもなかった。俺みたいな疲弊する若者有象無象その一がそんな奴に関わるだとか。考えるわけないだろう。
「……えっ。――と」
その人は冗談みたいに美しかった。詩的に言えば、各神話の美の神々が酔った勢いで完璧な美貌の人間を作ってしまったような。世界中の誰が見ても息を呑むだろう美貌をたたえていた。
それでいて、少し焦ったような表情で俺を覗き込んでいた。
紅の瞳。
綺麗に、虹彩だけが赤い色をしていた。
「――あのぅ」と、俺はかしこまった。
こんな美人、いや佳人――麗人に俺みたいな下々の者が口を利いていいのか。
――そう、考えるわけないのだ。
「ひと違い、してませんか」
なぜって、俺の名前はユーリではないし、こんなファンキーなカラコンを常用する知人の心当たりなどは一切ないからだ。
じゃあお前誰だよ。については次話
「サイト・オン・ザ・ミラクル」
2019/1/4 0時過ぎ更新予定です。
追記
更新遅延いたします。同日1:30頃更新予定です。