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その引き金はプライスレス

 知らなかった。

 人間って、バール一本で反社会勢力を撃滅できるんだ。


「こんなもんか」


 ミソノさんは冴えざえとしたアルトで言い放って、赤黒い液体で嫌な光り方をするバールをコンクリートに投げ捨てた。俺はその様子をどこかおぼろげに眺めていた。裏社会映画の撮影現場みたいな廃ビルは今じゃすっかり静かになって――それでもたまに怨嗟に満ちたうめき声が聞こえる。うめき声の発信源の中にはホンモノ(・・・・)もいる。何がホンモノかというのはちょっと言及しがたい。背中にご立派な絵画が描かれていたりするやつだ。偽物であってほしい。


「もう動いていいぞ。それと、手伝ってくれ。回収」


 俺は両手で作っていたキツネをほどいて肩の力を抜いた。なぜそんなことをしていたかといえば、ミソノさんにそうして一歩も動くな、と言われたからにほかならない。俺は血と怒声と凶器が飛び交う中、打ちっぱなしのコンクリに背中をくっつけ手をキツネにして棒立ちのオブジェと化していた。すごくアホっぽいが、そのアホっぽさのおかげなのか何なのか、俺は無傷で傍観者を終えた。わけがわからない。


「回収って」

「金とブツ」

「かっ……と、ブツって」

「あとで換金するんだよ。こういうの」


 ミソノさんはコンクリに転がる相撲取りみたいな男の懐をあさってそれを取り出した。ドラマや映画でお目にかかる、怪しい片栗粉の入った小袋(パケ)。懐から取り上げられたと認識した男がよろよろと腕を上げた。折れて変な方向に曲がった腕を。


「や、やめ……」

「くどい」


 俺は思わず目を背けた。ミソノさんのコンバースは折れた腕を容赦なく蹴りつけた、のだと思う。嫌な音がした。おそるおそる視線を戻すと、男の腕は無残にも開放骨折まで重症度を増していた。

 ミソノさんは相変わらず飄々としていた。俺は恐々としていた。


「ミソノさん」

「ん?」

「それ、死にません?」

「まさか」


 ミソノさんはくつくつと喉を鳴らして笑った。頬に浴びた返り血を拭い、回収作業を続行しながら言葉を続ける。


「四肢を折ったくらいで人間は死なない。折れても、奪われても、残った胴体を引きずって生き続ける人間なんて腐るほど見てきたさ」

「百年前の話ですか?」

「――いや、もっと昔だな。たぶん」


 俺はミソノさんの虚言を流用することで、少しでも目の前の現実から逃れようとした、のだと思う。けれどミソノさんの昔話(うそ)はあまりにも真剣で臨場感があって、俺は余計に鬱屈とした気持ちになった。やるせなくなって口の中を噛むと、じんわり鉄の味が広がった。不思議と痛みは感じなかった。


「ミソノさん、ケンカ強いんですね」

「んー? あー……まあ、経験」

「俺、バールで跳弾させる人初めて見ました」

「そのへんは計算してやってるから」

「計算でできるもんなんですか?」

「それは、奇跡の計算」

「はあ」


 四肢を折られて動かない人と人の間を歩く。あれだけ刃物と鈍器と銃器が飛び交ったっていうのに、だれひとり死んではいない。ただ、動けなくなっている。四肢を折られて。痛みに気絶して。脳を揺らされて。脊椎を損傷して、制御を失った下半身から漏れ出る悪臭。全部ミソノさんの華麗なる業によるところである。女性に見紛う線の細さのくせして、ミソノさんの暴虐っぷりはあまりにも現実味がなかった。どこで拾ったのかもわからんバールをチアガールのバトンみたいにクルクル回し、次から次へと向かい来る人間を殴り倒す。それも致命傷を避けて、殺さないように。


「殺すとあとが面倒なんだ」と、ミソノさんは笑って言った。俺は生返事で相槌を返すにとどまった。


「結局、この人たちってなんでミソノさん襲ったんですか」

「おっ。純品……ああ、理由? けしかけといたんだよ。こっちから。あんまりにも大人しいから。いちばん偉そうにしてるやつの女ひっかけて、何人か下っ端を潰して」


 ミソノさんはパーカーのポケットから古い型のiPhoneを取り出した。薄く笑うミソノさんの顔は、おそらくこの場の誰よりも悪人らしかった。そんなやつに、「何してておとなしかったんだ」なんて聞けない。俺は口を結んで次の言葉を待った。


「ケータイパクってまあ……それからは。頭数揃えてたんだろ。時間はかかったが、大漁だったな。こっちから本拠地に乗り込むと大事になりすぎるんだ。それは私も歓迎しないから――」

「……なんでそんなことしてるんですか」


 下手なことは言うまいとは思っていたのに、つい口を突いて出た。言ってから、足下がさらさら崩れていくような不安症が這い上がってきた。

 とがめるつもりはなかった。純粋に知りたかった。なんでこんな綺麗な人が、血と暴力にまみれて汚いことをするのか。その身の美しさを自らの価値だと豪語するくせして、光の届かない場所でその価値を消耗している。十分光を浴びる資格を持っているのに、法規と倫理の縁を歩いて今にも踏み外しかねない。

 滑らかに立ち上がったミソノさんと対峙する。俺は初めて自分の上背に感謝した。ミソノさんだって百八十は超える身長がありそうだが、それでも俺の方が拳一つ分以上は背が高い。この人に見下ろされる高さじゃなくてよかった。こんな強い瞳に見下ろされたなら、俺はきっとたじろいで目を合わせてなんかいられない。


「お前はどうなんだ?」

「え」


 血で汚れた指先を口元にやって、ミソノさんは皮肉っぽく笑っている。


「お前はなんでそんなことをしているんだ」

「そんなこと――って」


 ミソノさんが何を指してそう言うのかを咄嗟に判断することはできなかった。でも、ここに来てようやく確信する。理由なんて知るか。知ったこっちゃない。その唇の弧線の意図さえわかれば十分だ。


 はじめから、俺をけしかけていたんだろう。


「お前に言われたくないな。苗代沢。つまらない奴」


 ご承知の通り、俺は要らぬ意地を張りやすい性分だった。


「――つまらないって、あなたに言われたくないです」


 あんただって現状維持に摩耗しているんだろう。路地裏を歩いて、地下をくぐって、日陰で法の外に生きてはあんただって変わり映えのしない、そんなつまらない毎日なんだろう。これ以上発展しない、後退もしない、どこへ向かおうなんて目的地もなくって、漂流し続けるだけの日常だ。なにが価値だ、使わなくってそんなの、何になるっていうんだ。持ってるくせに生かしきれず、見せびらかすだけの価値など側溝(ドブ)にでも捨ててしまえ。

 そんなことをどもりつっかえながら吐き散らしたような気がする。

 気付いたら視線の先は灰色のコンクリートで、言葉は反響して俺自身に突き刺さっていた。視界の上端にミソノさんのコンバースが見える。俺は俯いていた。そうして自分に言い聞かせるみたいに非難を積み重ねていたのだった。


「――俺、会社辞めます」


 果たして、これが要らぬ意地から出た言葉だったのか。


「月曜に退職届刷って、プリンタ全部使って刷りまくって、そのまま投げつけて辞めます。それで、会社爆破しようと思います。明け方、誰もいない時間帯に。いないはずの時間帯に。正義は悪を倒すんだってこと、証明しますよ」


 脳の奥がちかちかする。これはなんだろう。先輩の、憔悴しきって真剣な目。紙面に押し付けられたティラノサウルス。早朝の空気、浮遊感と走馬燈。閃光。赤。ボンベの群れ。むせかえる香水の匂い。大停電に呑みこまれた暗闇の街。フラッシュバックする日常と非日常の(あわい)

 それが俺の首根っこをひっつかんで、全開にしたベランダの窓の向こうへ。蒼穹の遠くへ。ニヤケ面した天使がふんぞり返る雲の上へぶん投げようとしている。

 大きく振りかぶって、今。


「俺はつまらなくないので。限りある人生で冒険ができるので」


 煽られた末の衝動に任せた愚かな言動だと、人は謗るだろうか。かまわない。自覚している。一過性の熱に浮かされた妄言を口にしたにすぎないこと。承知の上だ。目の前のこいつは妄言(それ)を実現しかねないこと。さすれば俺の人生がすっかりオシャカになるってことくらい。

 だとしても、それらをチャラにしてお釣りがくるほどに、次の数秒間、俺はえもいえぬ達成感と充足感に満たされていたのだ。


「へえ」


 ミソノさんの目がわずか見開かれ、驚嘆を示したこと。どこか懐かしむように目尻を下ろしたこと。

 冬の夜によく似たアルトの声はゆっくりと告げた。


「そうか。さすがだな。さすがは――」


 その人の赤い瞳は、真っ直ぐ俺を捉えていた。


「――苗代沢(・・・)、だ」


 おそらくは、それがすべての引き金となったのだ。






 それから俺があの夜までしたことと言えば、玩具みたいな爆弾をデスクの上に設置して、退職届の束で部長の横面に往復ビンタをかまし、茹でダコみたいになったやすえさんの猛追を振り切ったくらいだ。なんでも、部長と不倫関係にあったらしい。やすえさんが発狂したのと社長が執務室から現場(・・)に立ち入ったのは奇しくも同時であった。俺は階下へ向かうエレベーターより、阿鼻叫喚を質の悪いラジオのように聞いていた。

 爆弾についてはひと悶着あった。


「ダメだ!」


 と声を荒げるのは煙る喫茶店の偏屈ジジイだ。


「これはおれの唯一の生きがいだ! 渡さねェぞ!」

「タバコもコーヒーも淡水魚も競馬もだいたい唯一の生きがいじゃないですか」

「まあまあ」


 宥めに入るのはミソノさんだ。いつもよりいくらか声のトーンが高いミソノさんは花咲くような無邪気で笑って、そんな顔できたのか、と呆気にとられる俺をよそにジジイの籠絡にかかる。


「マスターの大事なものだってことはわかってるんだけど。大好きな人の大事なものって、欲しくなるでしょう。いつもこの席。目の前にあるから」


 ジジイは大好き、という言葉を聞いたあたりでデレデレだった。鼻の下が伸びすぎていたし、吊り上がる口角を隠し切れずとうとうそっぽを向いた。素直になれない偏屈ジジイは入れ歯が外れたみたいにもにょもにょ不明瞭な言葉を連ねていた。


「ふふ。ありがとう」


 答えなんてまるで聞いていない、有無を言わせない声音でミソノさんは礼を言った。その手に持つのは妙な針金のついた箱で、ジジイの趣味で多少改造の加えられた「大人の科学マガジン」の付録だ。


「なんでそれが爆弾なんです?」

「これが発信機だからだ」


 ミソノさんは答えになっていない答えを返し、俺に懐かしさを感じる端末を渡した。


PHS(ピッチ)?」

「ああ。短縮一番で――」


 俺がミソノさんと直接話したのはそれが最後になる。黒電話の音。満足そうな顔で応答したミソノさんはまたあとで連絡する、と告げて早足で立ち去った。連絡先は交換したし、喫茶店に行けばたまたま鉢合わせることもあるだろう。じゃあ、また。


 そう言って、俺はあの夜を迎えてなおミソノさんに会うことはなかった。


 澄み切った冬の空気。オリオン座のよく見える夜。未だかつてない興奮のさなかに、俺はいま一度あの人の声を聞いた。わざわざ電話したのは見届けてほしかったからか。場の空気を共有したかったのか。大丈夫だって、なだめてほしかったのか。安心したかったのか。そうだろう、そりゃあ、会社一つ爆破するってんならさ。でも、それ以上に、あの人が俺に新しい景色へ導いてくれることに期待していた。横暴に奇跡じみた所業を振りかざすあの人が、違う世界へ連れ出してくれること。鬱屈した日常を破壊して、次に見る世界の色を教えてもらいたかった――なんて、ちょいとばかし詩人に寄りすぎかもしらんが。


 一方で、危惧していた、という見方もできよう。

 これを終えたらもう二度と、ミソノさんに会えないんじゃないか、とか。

会社を爆破した苗代沢を待ち受ける運命とは――

「エピローグ」

2019/1/11 深夜1時頃更新予定です。

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