少年の夢
自分自身をモデルにして書きました。せめて物語の中だけでも幸せになってほしい、そんな想いを込めて。
いただきますを言わなくなったのは、いつからだろうか。
少年はいつの日か食事が苦痛な時間になっていた。母と二人きりの食卓。冷めた弁当を前に、無言で箸を手に取った。もそもそと冷や飯を口に運ぶ。美味いや不味いも言わない。少年には味覚がなかった。ただ腹に溜まればいい、それだけでよかった。
「今日の学校はどうだった?」
「今日は友達とご飯を食べたんだ。楽しかったよ」
「そう、良かったね」
「あー…もうご飯いらないや」
そう言って少年は部屋へ戻った。道化の仮面を外し、今日も静かに枕を濡らす。ごめんなさい、ごめんなさい…上手く話せなくてごめんなさい。
緩やかに崩壊していく家庭と共に、少年の心もまた緩やかに腐敗していった。
少年は、本当の顔を忘れていた。正確にはどれが本物なのか分からなくなっていた。自分は真面目なのか、ムードメーカーなのか、はたまた寂しがり屋なのか。周りの雰囲気に合わせ、当たり障りないよう過ごしてきた少年は、その時々で仮面を作り、本当の自分を隠してきた。そうしているうちに、本当の自分を見失ってしまったのだ。しかし、仮面での生活は幸せだった。怒られない、嫌われない術を見つけた少年には友達がたくさんいた。本音では交われない薄っぺらい友情の友達。でも少年にはそれだけで十分だった。
反対に家庭での少年の居場所はどんどん無くなっていった。両親の不仲、貧困、食べるものもままならない日が続いた。食べることが大好きだった少年は今では美味しいものを食べたいという思考から、食べられれば良いという思考に至ってしまった。
異変が起きたのは少年が小学生の頃である。別室から聞こえる怒号で目が覚めた。夫婦喧嘩。まだ幼い少年は怖くてたまらなかった。泣きながら、耳をふさぎながら、毛布を深くかぶり眠りにつく。また別の日には母さんから暴力を受けた。きっと日ごろのストレスだろう。ストレス解消の矢先は少年だった。野菜や食べ物を投げつけられる。何年経っても少年の脳裏に焼き付いたまま離れないトラウマ。
少年は気づいていなかった。このとき既に家庭はゆっくりゆっくり音もたてずに崩壊していたことを。気づいたときにはもう遅く、どうしようもできずにただ崩れていく家庭を見ていることしかできなかった。
少年はその日夢を見た。両親が目の前で喧嘩しているところだ。怖くも悲しくもない。ただじっとその様子を見ていた。不思議な感覚だった。でもなぜ僕は泣いているんだろう。
ふと目が覚めた。目が覚めても涙は止まらなかった。時刻は夜中の二時。外は静まり返っている。静かな部屋の中で少年の頬を伝う涙が一滴、また一滴と布団を濡らしていった。静寂がより一層寂しさを誘う。
「寝よう…」
少年がそう呟き、布団に潜ろうとした瞬間窓の外から声がした。
「迎えに来たよ」
月だった。
きらきらと黄金に輝くそれは、不思議と眩しくなく、妖艶な光を発していた。世にも奇妙な出来事に少年は驚くこともなく、月に話しかけた。
「僕をどこへ連れて行ってくれるの?」
月は答えた。
「遠い楽園さ」
少年は心をときめかせた。楽園。その言葉一つでどんなパラダイスが待っているのだろうと考えてしまう。少年は素敵な夢を見ているのだろうと思った。自分のことを誰も知らないどこか遠いところへ行きたいというのもまた、少年の夢だった。
「僕を遠い楽園へ連れて行って」
「二度と帰れないかもしれないよ」
「それでも構わない」
次の瞬間少年の身体がふわっと浮かんだ。眼下に街並みが広がる。明かり一つない街はまるで誰も住んでいないようだった。月明かりが少年を照らす。世界でたった独り、僕しか生きていないのではないか、そんな錯覚さえした。
月が語り掛ける。
「今まで辛かったね。でももう安心だよ」
その一言で少年は涙が出そうになった。今まで我慢してきた何かが、一気に崩れ落ちるような気がした。誰にも許したことのない心が出会ってすぐの月に解かされてしまうとは。
「君とは、ずっと前から知り合いだったみたいだね」
自然と出た言葉に自分でも驚いてしまう。それと同時にきっとこの月には、僕の仮面は通じないとも思った。少年の言葉に月は微笑むだけだった。
遠い楽園は本当に「遠い楽園」だった。
楽園という名にふさわしい見たこともない花。豪勢な食べ物の山。そして、少年たち以外誰もいなかった。
「一緒にご飯食べよう」
月は言った。少年は返事をし、いつものように箸に手を付けた。
「いただきます、は?」
「ああ…僕いつも言わなくて…ごめん」
「いいよ。私とご飯食べるときは、いただきますって言おう」
「「いただきます」」
何年ぶりだろうか、いただきますを言ったのは。食事が楽しいと思ったのは。味覚がないはずの少年は、ここでは美味しいと感じることができた。月との食事は一日の中で一番楽しい時間となっていた。
「ねえ、ずっとここで暮らそう」
「僕もそう思ってた」
こんなに幸せなことはない。少年はまだ夢を見続けていたいと思った。
朝。時刻は7時を回る。
「本日は全国的に快晴のようです。気温も徐々に上がっていき…」
ニュースキャスターの声だけが部屋に響く。誰も少年を起こしに来る者はいない。しかし少年は幸せだった。もう少年を苦しめる者はいないのだから。少年は一生目を覚ますことはなかった。