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Chapter1-1:dramatic(ドラマティック/劇的に)

誠に勝手ながら、Chapter1-1を除く全エピソードを削除させていただきました。

またどこかでお会いできますと幸いです。




 春の足音が北風を追い散らし、道路脇の草が青々と色も鮮やかに茂っている。

 いくら刈っても伸びる芝生はグラストンベリーの男達を辟易させたが、しかしポーチの柱から伸ばされた色とりどりのフラッグガーランド(祭り飾りの三角旗)との対比は実に見事で、招待客らの目を大いに喜ばせた。


 三月はじめのShrove(告解の) Tuesday(火曜日)を祝うため、集まった大人達は皆、いつもより少し小洒落た恰好で庭のテーブルを囲んでいる。教会帰りでハンドバッグに十字架が入っているためか、心なしか背筋もしゃんとしているようだ。しかし子供たちはそうもいかない。学校がいつもより早くしまいになったため、小さな体に活力を持て余しているらしい。ある程度腹を満たしてしまうと、すぐに席を離れて追いかけっこを始めてしまった。

 土埃を散らして走り回るその姿に、よそいきの服を汚してしまうと夫人らは小言をこぼしたが、子供らがそれを素直に聞き入れようはずもない。うららかな午後の陽射しに、澄んだ笑い声が溶けていく。


「さて、すこし大人の時間と洒落こもうか」


 落ち着き払った、ラジオのように深みある声が聞こえ、招待客らは立ち上がった主催へと顔を向けた。

 客の視線をうまく集めたことを確かめると、主催はにこと笑みを浮かべて腰を屈め、うやうやしい手付きでテーブルの下から何かを取り上げた。まるで魔法のようにテーブルクロスの下から現れたもの。期待通り、それが艶をたたえた年代物ボトルであると気付くと、客らは皆一斉に喜びの拍手を送った。本日の主催、『チェスズ・チェスト』の店主、チェス・ボールドウィンは無類の食通だ。彼の選ぶワインに外れはない。


 品のいい笑顔で白ワインを注いで回るチェスに、客らは皆愛想のいい笑みを返す。待ちきれずグラスに口をつけた面々から、うっとりとしたため息が漏れた。


「確かにこれは、子供には少し早いわね」


 給仕を終えて席に着いたチェスに、隣に座ったサラがグラスを掲げてみせる。優雅な動作で乾杯に応じてから、チェスは自身の口にもワインを含んだ。オーク材特有の薫りが鼻をくすぐる。爽やかなワインは、まるで涼やかな薫風のようだ。その風を逃すまいとするかのように、チェスは目蓋と唇を閉じた。ほどよく満たされた腹に、酔いと酸味がともに心地よく溶けていく。


「チェスが結婚できない理由はこれだな」


 家具店の向かいでパン屋を営むロベルトが、毛のこわい眉毛を持ち上げてウインクを寄越す。


「料理が旨すぎる」


 確かに、と同意したのはその妻・アマンダだ。深いしわの奥でアイスブルーの瞳を輝かせ、ナイフを軽く振って言葉を続ける。教師をしている彼女には、手にしたものを教鞭のように振るう癖があるのだ。


「でも、料理をする姿は本当に……セクシーなのよ。チェスター・バリーのスーツを着て料理する男が他にいる?」


 わっと一座が湧き、チェスは少し照れたようにグラスを傾けた。もう四十も半ばの、知性と品性を鼻梁に宿した立派な英国紳士であるが、そうやって笑うとたちまち紅顔の少年じみて見えるのだから不思議だった。


 今でこそ田舎町の家具店店主に落ち着いているチェス・ボールドウィンだが、その教養は広く深く、芸術を解する卓越したセンスを持っている。常に襟付きの服を身にまとい、ほっそりとしたその体躯からは、生まれながらの品位ともいうべき色香が漂う。都会の上流階級アッパー・クラスばかりが集うクラブにいたとしても、まず引けを取らないだろう。

 亜麻色の髪はラフにセットするだけ。見る者に安らぎを与えるアッシュグレイの瞳を持つ彼は、田舎町の家具店で工具を握っているより、都会の高層オフィスで学術誌に目を通している方がよほどか似合う。聞けば、医学の博士号を取得しているというから納得だ。


 そんな彼が、田舎の愛すべき住民らから尊敬を受けるのは当然の流れだったが、そのチェス・ボールドウィンにもひとつだけ弱みがあった。

 それは、彼が独身だということ――それも、結婚を間近に控えた婚約者に捨てられた過去を持つということだ。近所の住民らは彼にまっすぐな敬意と信頼を寄せていたが、時折こうして、独身をネタに彼をからかうことも忘れなかった。


 この日もチェスは、愛情と、親しみからくる少し無遠慮な友人らの冗談を、曖昧な笑みでかわしていた。華奢なグラスを二本の指でついと滑らせ、おどけるように小首をかしげる。


「もしわたしが料理下手だったら? 今ごろ隣に美しい妻をはべらせていただろうか――まさか。ひなびた四十男を愛してくれる物好きなんてそうそういないさ」


「またそんな謙遜を」


「それに、障害持ちだ」


 事情を知っている古い友人らは肩をすくめてみせたが、つい最近越してきたばかりのサラには初耳だったらしい。どういうこと、と尋ねる彼女に、チェスは耳を指差してみせた。


「軍にいた時に耳をやられてね。右耳はほとんど聞こえない」


「まあ……」


「結婚生活に耳は必要ないぜ、チェス」


 早くも顔を赤く染めたロベルトが、たっぷりと効果的に間を置いてからこう囁いた。


「夫婦円満の秘訣は、カミさんの小言を聞き流すことだからな」


「あら、なんてこと!」


 すかさず夫人が腕を叩く。わざとらしく顔をしかめてはいたが、リズミカルなその掛け合いは、気心の知れた夫婦のやり取りそのものだ。

 再びテーブルが笑いに包まれる中、チェスがさり気なく立ち上がった。


「そろそろデザートにしようか。子供達を呼んでおいてくれ」


「手伝うわ」


 店に戻るチェスをサラが追いかける。チェスはそれとなく歩みをゆるめて彼女を待ち、彼女のためにドアを開けた。体を脇にずらしたチェスに微笑みを向けたサラは、すれ違いざま、その上腕にさっと指を滑らせ、店の中へと消えていく。

 その、大きく背中のあいたドレス姿を見送りながら、アマンダは今度こそ顔をしかめた。


「……わざとらしいったら。あの、チェスを狙っているのよ。見た、あの下品なドレス」


「お前、さっきは『素敵なドレスね』なんて褒めちぎっていたじゃないか」


「お生憎さま。女には舌が二枚あるのよ」


 さらりと言ってのけるアマンダに、男達は小さくなって俯向くことしかできなかった。




「――初めて聞いたわ」


 よく泡立てたホイップクリームを入れたボウルを取り上げながら、チェスが伺うような視線を向けた。


「耳のこと?」


「軍隊にいたってこと。英雄ヒーローじゃない」


「まさか。わたしがいたのは後方支援の部隊でね。軍医とは名ばかりで、ずっと犬の世話係のようなことをしていた」


 パンケーキを飾りつけつつ真面目な顔でふざけるチェスに、サラはくすくすと笑いながらワイングラスを傾けた。


「犬の世話をしていて耳を?」


「そう。彼らとチーズの塊を奪いあっていた時に」


 サラが今度は口を開けて笑う。チェスも微笑みを浮かべていたが、ふとその眉に険が宿った。戦場のありさまを思い出したものらしい。


 実際、チェスが派遣されたのは激しい戦闘の続く前線だった。軍医が求められるのは血のにおう場所と決まっている。

 イギリス軍は充分な装備で臨んだはずにも関わらず、敵の少年兵に道徳心を苛まれ、味方の銃弾はいたずらに空を切るばかりだったという。ゲリラ的に行われる奇襲に傷付き、悪夢のような気温差に体力を奪われ、熱病にうかされ……それは凄まじい戦場だった。


 医療用テントの設営場所が地形的に狙われやすいことに気付き、西方への移設を勧告したのはチェスだった。しかし、一兵卒、しかも軍医に戦略面の指摘を(それも的確な)された指揮官は大いに面目を失い、チェスを罵倒することでどうにか体面を保とうというありさまで、その進言を聞き入れようともしなかった。

 ミサイルがテント脇に飛来したのは、許しを得ないまま勝手に救護人を運び出し、看護師らをつけて送り出した直後のことだった。


 チェスの判断で救護人らの命が助かったことは事実だが、上官の命に逆らったこともまた事実。その責を問われて、チェスは除隊処分となったのだ。本来ならば傷痍しょうい軍人として尊敬と社会的支援を受けてもおかしくない彼が、年金も受け取れずにいるのはそのためだった。


 軽妙な軽口も叩ける男ではあるが、余計なことは言わない性質たちだ。特に弁明をするでもなく、チェスは繊細な手付きで粉砂糖をまぶしていく。

 と、痩せて筋張ったその腕に、サラがそっと自分の手を重ねた。ネイルアートを施した手の下で、筋肉がかすかに強張るのを感じる。乱れを知らないメトロノームのようなチェスの手が止まる。


 ひとところだけが厚く重なった粉砂糖にじっと目を落としてから、チェスは静かに粉糖振りを脇に置いた。サラはまだ手を重ねたまま、熱っぽい視線をチェスの横顔に注いでいる。


「ねえ、チェス。本当に結婚する気はないの? もし、あなたにその気さえあれば、あたし……」


 わずかに俯向き、前髪を垂らしたまま沈黙を守るチェスに、サラはすこし上擦った調子で続けた。


「出逢ってそう時間も経ってないのにおかしいと思ってる? でも本気よ。あたし、本当に……」


「サラ」


 ようやく口を開いたチェスは、まるで子供に言い聞かすかのように穏やかな声音でそう呼びかけた。


「きみはまだ若い。焦る必要なんてまるでないんだ」


「焦ってなんか。もし、歳の差のことでそう言ってるんだったら、チェス、それは大きな勘違いだわ。あたしにはそんなこと、全然関係ないの」


きみには(・・・・)そうかもしれない」


 静かに、しかしきっぱりと拒絶を示すチェス。

 二人はしばし無言のまま見つめあったが、しばらくするとサラの方から手を離した。名残惜しげな熱だけを残し、サラは複雑な顔のまま僅かに数歩後ずさりした。彼女が背を向けてもチェスは沈黙を守り、ただかすかに眉をひそめて、サラの手が乗っていたあたりをじっと見ている。


 サラは豊かなブロンド髪をゆっくりと振り、心を落ち着かせようと努力していたが、やがて思い切ったように振り向いた。その顔にはぎこちない笑みが貼りついている。


「先に戻ってるわね」


 言葉なくそれを見送るチェスだったが、サラがドアを閉めてしまうとすぐさま蛇口をひねり、細く出した水で両手をすすいだ。腕を濡らし、オーガニックの石鹸を手のひらに乗せると、指の間から肘近くまでを入念に洗う。


 嫌いなのだ。

 チープで甘ったるい香水の匂いも、媚びるようなあの視線も……




 黒い腰下エプロン(タブリエ)を巻いたチェスがパンケーキを手に現れると、テーブルはふたたび明るい歓声に包まれた。粉砂糖と、宝石にも似たベリー類で飾られた今日の主役が、チェスの手によって各席へと配られていく。


 大人達は慎み深くナイフとフォークを手にしたが、子供達はもう次の遊びにご執心だ。握りしめたフォークを柔らかな生地に突き立て、自分のパンケーキに何か小物が隠されていないかを夢中になって探っている。

 やがて一人の子供がコインを見つけ、歓声と共にそれを掲げた。将来を占う幸福のコイン。パンケーキ・デイ恒例のささやかな遊び心だ。見つけた子供は得意げにパンケーキを頬張り、他の子供らの羨望の視線をほしいままにした。


 あの後、店から戻ったサラの笑顔には少し不器用な強張りが生じ、目敏くもそれに気付いたアマンダが探るような視線をチェスに向けなどしていたが、しかしそれ以外はごく平凡な、ありふれた、幸せなパーティーだった。


 やがて夕暮れ時となり、一七時を告げる鐘が鳴らされると、参加者達は名残惜しそうにテーブルから立ち上がった。見事主催を勤め上げたチェスに握手を求め、三々五々に帰り支度を始める。


「チェス!」


 タブリエを畳み、片付けに取り掛かろうとしていたチェスの腰元に、コインを持った少年が抱きついてきた。チェスの二つ隣に住むパーカー夫妻の一人息子で、よくよくチェスに懐いている。チェスの方でも彼には父性を感じるものか、父親同然の愛情を日々注いでいた。

 うねる栗毛に指を差し込み、ニック、とチェスは愛おしげにその名を呼んだ。彼の頭皮は汗でわずかに湿っていたが、しかしチェスはそれを気にも留めなかった。


「やったじゃないか。今日の主役だな」


 ニックは照れたように身をくねらせながら、手の中のコインをもてあそんだ。


「ありがとう。でもね、僕が主役になるのは来月が本番なんだよ」


「来月――ああ、そうか。誕生日まであと一ヶ月か。さてはプレゼントをねだりにきたな? 言ってみなさい、何が欲しいんだ?」


 子供らしいさかしらさを見破り、アッシュグレイの瞳を面白そうにきらめかすチェス。ニックはここぞとばかりに愛くるしい笑みを披露した。


「あのね、僕、チェスの作った椅子が欲しい!」


 無邪気なニックの言葉に、しかし、チェスは驚いたように身を引いた。


 チェスズ・チェストに椅子はない。店主兼職人でもあるチェスが作ろうとしないからだ。

 その理由を訊かれても、ただ曖昧に、あまりいい思い出がないから、としか答えてこなかったチェスだ。椅子を作ってほしいと頼んだ者にも、丁寧に断りを述べ、決して応じることはなかった。その彼が、愛らしい子供の要望には果たしてどう応えるのか? 知らず、いつしか周囲も二人のやり取りに耳を澄ましていた。


 チェスはしばらくタブリエを手でもてあそんでいたが、やがて唇が苦笑のフォルムを形どった。簡潔に息を吐きだしてから、「ニック」と優しく呼びかける。


「きみのバースデーを心から祝福するよ。だが、すまない、わたしは椅子を作らないんだ。うちの店に椅子はないんだよ」


 申し訳なさそうに眉を下げるチェスだったが、しかし、ニックはむしろそれに勢い付けられたかのように小さな体で伸び上がった。


「だからだよ! 普段は椅子を作らないチェスだからこそ、それが特別な椅子になるんだ。ねえチェス、お願い! 僕の《特別》なバースデーのために!」


 その返答には意表を突かれた形のチェスだったが、まいったな、と呟くとニックの目線に合わせて屈みこんだ。改まった様子のチェスに負けまいとしてか、ニックが小さく胸を反らせる。思わず笑い出しそうになるのをこらえながら、チェスはあえて気難しげな顔をしてみせた。


「……その椅子に座って、ちゃんと勉強するね?」


「もちろん!」


「よし。ならもうひとつ」


 真剣な面差しで言葉を続けるチェスに、少しどぎまぎするニック。ついにこらえきれなくなったチェスの顔に、茶目っけのある笑みが浮かんだ。


「さっきみたいな殺し文句は、滅多なことでは言わないこと……性質たちの悪い女たらしになりたくなければね」


 いたずらっぽく片目をつむるチェスに、ニックの顔にさっと赤みがさした。満面の笑みで頷くと、屈託のない歓声を上げながら両親の元へと駆けて行く。


 今の話をニックが伝えたものか、その父親が、栗毛の頭を撫でながらチェスに大きく手を振った。ニックも振り返って手を振った。まるでそれぞれを拡大・縮小したみたいに、実によく似た親子だった。

 悠然と立ち上がり、どこか洗練された動作で手をポケットに突っ込んだチェスは、微笑み頷くことでそれに応えた。やがていたずらっぽい目のままロベルトを振り返ると、


「『僕の《特別》なバースデーのために』――か。まったく、誰にあんな言葉を教わったものかな?」


 ロベルトはすっかり出来上がった顔でにやりと笑った。


「将来有望だな」




 何の変哲もない、閑静な町の、ささやかな祭日のひとコマだった。誰もが笑い、皆がその場を楽しんでいた。そしてそんな時間がこれから先もずっと続くものだと、当然のように信じていた。


 しかしこの時、この瞬間。確かに、歪んだ歯車が軋んだ音を立てて動き始めていた。狂宴の始まりに向けて、またその終わりに向けて、ゆっくりと時を刻み始めていた。


 その音にはまるで気付かず、チェス・ボールドウィンは工具入れをかき回していた。椅子の仕上げにニックの名を背に刻んでやろうと、繊細な飾り彫りができる彫刻刀を探していたのだ。


 椅子を作らなくなってから、もう四半世紀が経とうとしている。本当に、作れるだろうか。ニックが喜んでくれるような椅子を。

 不安はあった。心の片隅には怯えもあった。しかし、ニックの笑顔を思えばその暗雲も晴れるようだった。


 彫刻刀を片手に微笑むチェスには聞こえないどこかで、いびつな歯車がガチリと噛み合う音がした。



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