流れるままに!2
例えばここに、固く固く鍵をかけられた扉があるとして。その扉の向こうに、どうしても行きたがっている誰かがいるとして。
その誰かに向かって、「そこの鍵なら書斎の引き出しの中にあるよ」なんて素直に教えてやるべきか、それとも黙って鍵を砕いてしまうかなんて、結局は当人の心次第なのだと。
少なくとも、ユイス・カーレルはそう思う。
※※※
太陽の沈んだ薄暗い大地を、猛烈な閃光が切り裂いた。
青々と茂った木々が何本となく薙ぎ倒されて、疎らに木の生えた大地に新たな空白を作り出す。
けれど緑の光が通り過ぎたそこに、最早肝心の獲物の姿はなくて。
「――ノロいね」
たった今閃光の吐息を吐き出したモンスター、その背後へと身を置いて。
佇む大木の幹に、『地面と平行』に『着地』したユイスは、うっそりと喜悦を含んだ笑みを浮かべた。
彼の前に無防備に背中を晒しているのは、恐らくこの辺りを縄張りにしているのであろう、ちょっとした豪邸ほどもある特大サイズの亀型モンスター――レッドロックトータスである。
名前に違わない硬度と魔法耐久を持つその高ランクモンスターは、けれど今や右目からぼたぼたと鮮血を流し、痛みと屈辱に激甚な憎悪を燃やしていた。
彼、或いは彼女にとって何よりも不運だったのは、たまたま縄張り内で野営をしていた人間たちが、カドリナ王国の誇る精鋭部隊、第七師団だったこと。
ひいては、毒蛇の異名を持つ師団長――カドリナ第四王子ユイス・カーレルがいたことだろう。
如何せん、見かけたモンスターを片っ端から狩り回るほど無聊を持て余してはおらずとも、襲ってきたモンスターへの迎撃を一秒たりとも躊躇わない程度には、この高名な師団長は好戦的な人物だったのだ。
――咆哮。
必ず排除すると決めた敵を見失って、大亀が苛立ったように尻尾を打つ。
先程の一撃がすばしっこい標的を仕留め損ねたのだと、誰よりもよく大亀自身が理解しているのだろう。爆発したような音と共に地面が抉れ、朦々とした砂塵が立ち上った。
月光に照らされた赤茶の四肢と、純粋な鉄より尚硬質な甲羅。
憤怒と敵意をぶつけるべき相手を求め、岩山のような威容がぐるりと大きく右を向きかけて。
――ヒュッ、と。
細く細く、吐き出した息は一瞬。
その両膝を思い切り撓め、力一杯幹を蹴ったユイスの身体は、次の瞬間、放たれた矢のように虚空へ飛び出していた。
刹那に移動したその位置は、巨大な亀のその頭上。
白銀の月を背に担ぎ、鞘走った剣が光を弾く。
鈍重な亀を真下に見据え、禍つ月のように吊り上がったユイスの唇が、昂揚と嗜虐にぎゅるりと歪んだ。
「――剣閃一擲」
――ズドォンッ!!!
籠もったような衝撃音は、ほんの二秒にも満たなかっただろう。
紫色に輝く巨大な斬撃に貫かれ、レッドロックトータスがびくりと震えて、仰け反るような姿で動きを停止する。
周囲の土砂を巻き込んで吹き上がる、凄まじい突風。膨大な質量と防御力を誇る身体を貫通した衝撃波が、地面にぶつかって円状に余波を広げた。
――たん、と。
細い木々なら折れそうな暴風が荒れ狂う中、長い髪を靡かせたユイスが、軽い足音と共に亀の傍へと着地したのは数秒後。
カチン、と剣を収めた音と、大亀がぐるんと白目を剥いたのはほぼ同時だった。
――ずぅん――
大亀の巨体がゆっくりと、まるで初めて重力を思い出したかのように横倒しになる。
そんな大亀を最早振り返ることもなく、ユイスはザッと身を翻して部下たちの方へと歩き出した。
「エド、素材回収。ヴィクター、怪我人なんていないだろうね?」
「了解しました」
「無論でございます」
素早く応じる金髪の青年と、濃いブラウンの髪の壮年の男。青い軍服に身を包んだ二人の副官は、待機していた野営場所から即座に前へと駆けてきた。
同じく後方で上司の戦闘を観戦していた部下たちが、エドの指示でレッドロックトータスの回収にかかる。
大きな刃物で切り出し作業にかかる者、箱や保存液の用意を始める者、痛みやすい希少部位を別分けしていく者。
全て売り払えば結構な臨時収入になるだろう巨大なモンスターの死骸を、彼らはてきぱきと解体し始めた。
野営場所から出てきた部下たちを一頻り見渡して、ユイスの双眸がぱちりと瞬く。
先程まで浮かべていたぎらついた色を綺麗に消し去り、どこか子供のように無邪気な表情を湛えた彼は、ことんと首を傾げて副官の一人を見やった。
「ヴィクター、クロは?」
「まだテントから出てきていないようですな」
「しょうがないなー、臆病なんだから。クロー、終わったよー。ハウス!」
犬でも呼ぶように叫んだ彼に、返事の言葉は返らずに。
ややあってがさごそとテントの一つが動いたかと思えば、黒い頭がにゅっと出てきた。
「……今ハウスしてます」
ぼそ、と返された声は低い。
テントから頭だけを露出させ、先程倒したばかりの大亀を彷彿とさせるような格好で、クロと呼ばれた少女――黒瀬鈴はそう言った。
気に入りの少女の顔が見えるや否や、ユイスの目が分かりやすくきらりと光る。
じっとりと不服げに見上げてくる鈴の半眼など素知らぬ顔で、彼は大きく両腕を広げてみせた。
「何言ってるのさ、お前の『ハウス』はそこじゃないだろ。ほら、クロ。ハウス」
「…………」
促された鈴はちらりとヴィクターを見てみたが、ヴィクターは彼女と視線が合う前に、「ではわたしも解体作業に行って参ります」と素早く踵を返してしまった。
後は任せると言わんばかりの背中を見送り、がっくりと肩を落とした後、全てのツッコミを放棄した様子で、鈴はようやくもぞもぞとテントから抜け出した。
「反応が遅いよ、クロ。頑張って部下たちを守った飼い主を癒やしてくれようって気にならないわけ?」
「ノリノリで飛び出していった上にすごい余裕で勝ってたような気がするんですけど」
渋々近寄っていく鈴に、ユイスの口角が油揚げを前にした狐のように吊り上がる。
真正面で立ち止まって動かなくなった鈴を、構わず両腕を閉ざして抱き込んで、ユイスは満足そうに笑声を零した。
間近で見つめる鈴の目は、幾分潤んで赤くなっていた。きっと今回も一人涙目でガタガタ震えていたのだろうと思えば、専ら鈴を苛める、訂正、弄ることを趣味にしているユイスとしても、魔力と労力を払った甲斐がある。
飼い犬を愛でるようにぐりぐりと頬を擦り寄せてくるユイスに、鈴は深い深い溜め息を吐いた後、徐に口を開いた。
「ユイスさん、部隊の人が話してくれたんですけど、あの亀、並みのレベルじゃ歯が立たないくらい硬いんでしょう? 普通は一人で立ち向かうものじゃないって言ってましたよ」
「僕からすれば、あの程度、出来るのが当たり前なんだけどね。心配したの?」
「あなたが負けるとこなんて想像できませんよ。モンスター討伐任務の前哨戦にしては、大物過ぎて先行き不安だと思っただけです」
ユイスの腕の中でわしわしと頭を掻き回されながら、鈴は次々と素材を剥ぎ取っていく隊員たちに視線を送った。
巨大な甲羅が地面に置かれるのを見て、無意識に眉が寄せられる。形容し難い複雑な気持ちは、結局言葉にはならなかったけれど。
最後に鈴の頭を一撫でし、ユイスが少女から身を離した。
「あの亀、甲羅は硬いだけあって良い武具になるし、神経は加工して魔弓の弦なんかに使われるんだ。素材は明日中に連絡して王城から引き取りに来てもらうけど、肉は夕食と保存食だね。今夜はレッドロックトータスのスープかな」
丁寧に解説してくれる姿からは、つい数分前に尋常ならざる戦闘力をもってモンスターを狩り果たした姿など全く想像できない。
鈴はユイスと大亀を見比べ、意外そうに目を瞬いた。
「モンスターの肉も食用になるんですか? 臭みがあるからあんまり食べないって、お屋敷の料理人さんたちが言ってたんですけど」
「まあ、確かにそういう種類が大半かもね。でも、普通に食肉扱いできるモンスターだって勿論いるし、物によっては下手な薬より効能があったりするから、実際にはあちこちで重宝されてるんだよ。ほら、これとかね」
喋りながらひょいと無造作に見せられたのは、布に包まれた赤い球体だった。
見た目は特大のビー玉のようだが、それより幾分弾力がありそうだ。顔を近付けてみると、仄かに酒のような香りがした。
「何ですか、これ?」
「レッドロックトータスの目玉」
「ぎゃああああああ!!!?」
思わず絶叫して飛びすさった鈴に、ユイスは腹を抱えて爆笑した。表情筋を崩壊させて笑い転げる彼の姿に数人の団員が何事かと視線を向けてくるが、真っ青になった鈴の顔が視界に入ると納得したように目を逸らす。
「なんてもの見せてくれてるんですか! 小学生男子か! ミミズを執拗に押し付けてくるタチの悪い小学生男子か!」
「あはははははっ、凄い反応! もしも触ってたらもっと面白かったのに!」
「悪魔かあんたはぁぁぁ!! なんでそんなもん後生大事に持ってんですかぁぁぁ!!」
「生体から抉り取ったレッドロックトータスの目玉は、死体から取るものに比べて遥かに効能が高いんだよ。お肌の美白と老化防止に貴族女性の間で珍重されてるから、うちの可愛い飼い犬にも一つ丸焼きにしてあげようかと思って」
「カドリナの貴婦人ってモンスターの目玉の丸焼き食べてるの!?」
「まあ、城下に持ち込まれた物はほとんど貴族に買い占められてるから……。行き先は……ねぇ?」
「ヒギャアアアア、想像しちゃった! とんでもない猟奇的な目玉焼きだよ! 貴族のイメージが盛大に崩れた! 優雅なサロンがゲテモノ試食会みたいになってるうぅぅぅぅぅ!」
「あは。クロももっと毛艶良くしたいと思わない?」
「思わない! 思わないからジリジリにじり寄ってくるのやめてぇぇぇぇ!! う゛わあ゛あ゛ぁぁぁぁんおがあざぁぁぁぁん魔王がいる怖いよお゛ぉぉぉぉ!!!」
「坊やー、それは狭霧じゃー」
「シューベルトなんて教えるんじゃなかった! この歌詞ユイスさんが歌うと洒落にならない!」
一頻り弄り倒した後、本格的に泣き出した鈴が幼児退行現象を起こしかけた辺りで、ようやくユイスは満足したようだった。
心なしかつやつやした顔で赤い球体(目玉だなんて絶対に言うものか)を懐に仕舞い、彼はびいびい泣いている鈴の前でぺちんと両手を打ち鳴らしてみせる。
「ほーらクロ、もう怖いものはないよー。まったく、クロは泣いてばかりで本当にしょうがない子だなあ」
「ううう、故郷にいるお母さん、どこの世界でも世の中は理不尽に満ち溢れているんだね」
「はいはい、脳内通信してないでテントに戻るよー」
虚ろな目でぶつぶつ呟く鈴の手を引いて、ユイスは自分専用のテントへと歩いていった。
ユイス専用とは言っても、鈴のベッドはユイスと同じテントに設置されているため、実質的には二人用だ。書類や木箱が転がったテントに入り、大亀の死骸が見えなくなると、鈴はようやく落ち着いたようだった。
「モンスター討伐は、今までも何回か立ち会ってるだろ? 少しは慣れたかと思ったんだけど」
簡素な折り畳み椅子に座らせてやりながらユイスが言うと、鈴はぐすぐすと目を擦りながら下唇を尖らせた。
「……心の準備が出来てなければ誰だって驚きますよ。あたしの許容範囲は魚までです」
「はいはい、分かったよ、クロ。ごめんね、もうしないからさ。当分は」
「清々しいほどはっきりと、いずれまたやるってことを明確にしてきましたね」
「ところで、レッドロックトータスにはちょっと珍しい習性があってね。雪の季節になると、ここみたいな平地から海辺に移動するそうなんだけど、知ってる?」
にこりと笑って、ユイスが話題を亀に戻す。
話を逸らされていることは分かったが、敢えて逆らう気にもならず、鈴は渋々首を傾げてみせた。
「……知りません。あれって、陸亀じゃないんですか?」
「陸生だよ。だから自分から海に近付く癖に、水に入ろうとはしないんだ。そのせいで、地元ではニセウミガメなんて呼ばれてるよ。本人はたまたまそんな習性があったばかりに、紛い物呼ばわりされて不本意だろうけどね」
「へぇ……」
ニセウミガメ。その言葉にふと昔聞いた話を思い出してしまい、鈴は目を泳がせた。
「どうしたの、クロ?」
そんな様子を目敏く察し、ユイスが顔を覗き込んでくる。何でもない、と首を振る鈴に、彼は「言わないと今夜は僕と同じベッドで寝させるよ」とけろりと告げた。
「実はあたしの世界ではウミガメのスープって言葉にとある怖い物語が関連してましてね」
「そう即断されると複雑だなあ」
あまり複雑そうにも見えない笑顔で話を聞く体勢に入ったユイスに、鈴は短く語ってやった。
ある男がレストランで、ウミガメのスープを注文した。それを一口食べた男はウエイターを呼び、「これは確かにウミガメのスープなのか」と聞いた。ウエイターは肯定し、レストランを出た男はその夜自殺した。
「――何故だと思います?」
黒い瞳を上目遣いにして。
窺うように問いかけた鈴に、ユイスは少し考えた後、あっさりと答えた。
何の変哲もない、世間話の続きのように。鈴を愛でる時と変わらない、いつもと全く同じ笑顔で。
「そうだなぁ……多分、その男は食べたことがあったんじゃないかな。それまでずっとウミガメだと思っていた、ウミガメではない『何か』の肉を」
ユイスの答えに、鈴はしばらく沈黙して。
それから大きく息を吐き出し、肩を落とした彼女は、呆れたように眉間に深い皺を刻んだ。
「……全く迷いませんでしたね」
「あはは、正解だった? なかなか面白い問題だったよ」
「これ本当は、回答者が出題者に複数の質問を出しながら答えに辿り着いていく思考ゲームなんですけど。まさか一足飛びに正確な答えを出してくるとは思いませんでした」
「思考ゲームなら四歳の頃からやってるよ。尊敬した?」
「いえ、やっぱり捻くれてるんだなと」
「生意気ー」
ぎゅー、と言いながら頬を抓られて、鈴は「えうううう」と呻き声を上げた。
ウミガメスープの思考ゲームなんて、亀肉のスープを食べる前に語るような話ではないと思ったのだが、そう言えばユイスはデリカシーなんてものとは徹底的に縁のない人間だった。
たとえどんな直接的な表現でえげつない話を語ろうと、彼は平然とした顔で夕食のスープを平らげるだろう。
楽しそうに鈴の頬を弄るユイスが手を離すのを待って、鈴は嘆息してこう言った。
「あの、ユイスさん、あたし亀のスープ要らないです。あんまりお腹も空いてないので」
「え、なんで? さっきの話をしたから……ってわけじゃなさそうだね。――ああ、そう言えばお前、任務先の川や沼で亀を見つけたら、いつもじっと見詰めてたっけ」
今度もまた早々に自力で答えに辿り着いたらしいユイスに、鈴は「察しが良いですね」と苦笑した。
「確かお前、亀を助けた後にこっちの世界に来たんだっけ。でも、直接的に亀が関与してる可能性は低いとも言ってなかったかい?」
「まあ、そうですけど。でも実際、『川』と『亀』にしか手掛かりがないんですもん。あたしが出現した禁域には、ユイスさんも連れて行ってくれないし」
「あそこは王族しか入れないからね」
日本に伝わる様々な異界流離譚やその検証については、ユイスに故郷の話を請われるまま、徒然に語ったことがある。
例えば浦島太郎が亀に乗せられて陸地に帰ってきたように、鈴だっていつか亀が連れ帰ってくれるのではないかと思ってしまえば、最早粗雑に扱うことは出来なくて。
(だって、本当に他の心当たりがないんだもの……)
可能性は限りなく低いとは言え、手を出しにくいのはしょうがない。ましてや食べるなんて以ての外。
少なくとも、どんな小さな可能性にも縋りたい程度には、鈴は今も故郷に帰りたいのだから。
むすりと唇を尖らせる鈴を見つめながら、ユイスは笑顔で頷いた。存外あっさり納得した様子で、「そういうことなら仕方がないね」と鈴の頭を優しく撫でる。
「元の世界に帰るために、来た時と同じ条件を揃えるのはお約束だって言ってたもんね。下手なことして亀に嫌われたら、二度と帰れなくなっちゃうかも」
「考えるだけで恐ろしいことをしれっと言いやがりますね、ユイスさん。亀が討伐されるのを黙って見てるのはアウトでしょうか!」
「あははは、クロ、真っ青! 襲ってきたのは向こうなんだし、自衛の範囲なら大丈夫なんじゃない?
……ねえ、それよりさ。そんなに亀を食べたくないなら、クロの分のスープはレッドロックトータスじゃなくて、保存食の干し肉を刻んで入れようか。あれなら普通の家畜の肉だし、今から頼んできてあげるよ」
「え、いいですよそんなの! 余計な手間がかかるし、ビスケットで充分です」
「駄目だよ、この辺りの夜は冷えるから、温まっておいた方が良い。それに飼い犬の食事に注意を払うのも、ご主人様の大切な仕事だしね」
にっこりと穏和に笑うユイスに、鈴はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
ぽそりと礼を言う彼女の頬を、ユイスの指がするりと撫でた。
※
そのままテントで待っているよう鈴に言い残し、ユイスは解体作業中の現場へと引き返していった。
少し足を進めていけば、レッドロックトータスが暴れたことによって出来た空き地は、吹き付ける夜風にも散らし切れない濃い血臭に満ちていた。
この分なら臭いに惹かれて危険な獣も寄ってくるだろうから、後で獣避けの魔法薬と結界を用意しなければならないだろう。あの大亀程度のモンスターが何十匹襲って来ようと負ける気はしないが、任務中に貴重な休息時間を削られることも、疲労を溜めている鈴の睡眠を妨げられることも、許すつもりは微塵もなかった。
視界の端々では、連れて来た部下たちが大亀から採れる素材を大雑把に仕分けしている。
プロ並みとまでは言えないものの、彼らの処理速度は素人にしては充分以上に手際が良かった。
これは多分に慣れの賜物だろう。城下の治安維持部隊と違って遠征の多い第七師団は、モンスターに遭遇する機会も格段に多いのだから。
「――エド」
切り出した肉を器用にサバイバルナイフで捌いている青年を見つけ、ユイスは彼の名前を呼んで歩み寄った。
「悪いけど、クロの分のスープは別の鍋で作ってやってくれるかい? 肉は小さく刻んで、なるだけ食べやすくして」
「了解です、ユイス様。お嬢も疲れてるみたいだし、ついでに疲労回復の薬草も入れてやりますよ」
艶やかな金髪を光らせた若い副官は、人懐っこい笑顔でにかりとユイスを見上げてきた。
物分かりの良い返答に満足し、ついでに布にくるんだ目玉を投げ渡してやれば、エドは危なげなく受け取って、ぱらりと中身を確認する。
「あとそれ、他の希少部位と一緒に仕舞っておいて。王都に帰ってから適当に売るから」
「ああ、最初の攻撃で抉り取った目玉ですか。てっきりお嬢に食わせてやるもんかと思ってたんですけど」
「調理方法が受け付けなかったらしくて、泣いて拒否されたよ。切っても煮ても効能が薄れるから、丸焼きにして齧るくらいしか出来ない素材なんだけどなぁ」
不本意そうな様子を見る限り、鈴をギャン泣きさせたユイスの行動にも、その実彼なりの好意が――多分、半分くらいは――含まれていたのだろう。
もしも彼女がこの希少な魔素材を気に入れば、ユイスは何頭分でも追加のレッドロックトータスを狩ってきてやったかも知れないと思って、エドはこっそりと苦笑した。
幼い頃からユイスの傍にいるせいか、エドは好んで周囲から自らを隔絶させるようなユイスの態度を長年間近に見てきている。
だからこそ、そんなユイスの表情を容易く変えさせる鈴の存在を、彼は最初から大いに歓迎した一人だったし、ユイス自身も彼の胸中を正確に把握して、鈴の監督を任せることさえしていたのだ。
そうして快活なエドが好意的な態度で接してくるならば、鈴の方でも自然とエドに寄っていくようになる。
実際ユイスが見ている限り、エドと鈴の関係は良好だった。二人きりで腕を組ませて街に行かせれば(まあそんなことは絶対にユイスがさせないわけだが)、恐らく年の離れた恋人か、似てない兄妹くらいには思われるだろう。
口煩いが面倒見の良い伯父のようなヴィクターにも懐いているが、鈴にとってはそれ以上に、年が近く、明るくて兄貴肌なエドの方が取っ付きやすいようだった。
(まあ、エドやヴィクターに監督を任せるのは、僕がどうしてもあの子の傍にいられない時だけなんだけど)
彼女が自分以外の誰かに尻尾を振るのは気に食わないが、相手がエドとヴィクターならば、最低限は許容しよう。
エドは野戦料理も上手いから、今日の夕食当番が彼だと知れば、きっと彼女は喜ぶに違いない。
沢山食べてくれれば良い。きっと明日の行程も、鈴には厳しい道になる。
「早く体力付けさせたいし、お嬢の分は肉を多めにしてやるかぁ。あ、ユイス様、使う材料は全部俺たちと同じで良いんですよね?」
「うん、勿論」
大振りのナイフをくるくる回しながら聞いてくるエドに、ユイスは無造作に頷いてみせた。
その相貌には、つい数分前に鈴と交わした会話のことなどおくびにも出されない。素直に了承して調理に戻る腹心の横顔を見ながら、緩やかに吊り上げた口角は無意識だった。
頭上には夜闇に塗り潰された空、足元にはぬらりと光る赤黒い肉塊。
淡い月光に照らし出され、きゅう、と弧を描いた薄い唇には、一片の悪意も浮かんでいなくて。
そうして紫黒の青年は、無邪気に笑ってこう告げる。
帰りたいのだと顔を歪めた少女を慰めた時と同じ、穏やかな眼差しで。
亀肉を食べられない少女を気遣った時と同じ、朗らかな声で。
「楽しみにしてるよ――飛び切り美味しい、ニセウミガメのスープ」