その三
いよいよ転勤まで、あと四日となった。
といっても、土日を挟むので、実質会社に出勤するのは今日と月曜日だけだ。いや、月曜日にはもう仕事はない。おそらく今日が仕事納めになるだろう。
お得意先への挨拶は、ほとんど済ませてある。というより、済ませてあった、と言った方が正しいか……。
どこに行っても、
「転勤なんだって? 長い付き合いなのに、残念だな」
といった言葉を聞かせられた。
「もうご存知なんですか」
「お宅の部長がね、挨拶に来てくれたんだよ」
部長が? どうして自分より先に……。
「本社に行ったら、今まで以上に頑張ってください」
橋爪は何も言わないまま、激励の言葉を頂いていたのであった。
――部長に残留を求めてから、もう十日以上は経っている。会社の方針だから、そう簡単には聞いてくれるはずがない。と、橋爪にも分かってはいるのだが、イエスにしろノーにしろ、早く部長の本音を聞きたかったのだ。
最後の事務整理と自分の机を片付けていると、部長自ら席を立って、橋爪の方に近寄って来た。
「――橋爪君。長い間ご苦労だったね。本当にお疲れさん」
やっぱり……。
「いえ、私の方こそお世話になりまして、ありがとうございました」
橋爪は、深々と頭を下げた。
「残留の件だが、やはり君は本社に行くべきだ。将来のことを考えてもね」
「はい、もう気持ちの整理はついてます」
「お得意さんも、みんな喜んでるよ。君は幸せ者だ」
幸せ? 何が幸せだ! 愛する人を取られ、係長のポストも奪われてしまう。そして長年頑張ってきた支店での実績も、本社という大海で、小さな砂粒となってしまうのだ。いつかはその存在すら忘れ去られるのだろう。
――しかし、橋爪には最後の仕事ができたのだ。
そう、俺の人生を踏みにじったあいつを、この手で殺してやる。そうでもしないと、一生後悔することになるだろう。
「ところで橋爪君。君と、個人的な送別会をしたいと思ってるんだ。大事な話もあるしね」
「部長はそう言って、橋爪の肩に手を回した。「今度の日曜日、空いているかね」
「お昼は荷物をまとめますから、夜だったら、何とか」
「それじゃ、夜の八時ごろでいいかな。迎えに行くから」
「いえ、私の方から――」
「いいんだよ。運転手もいるから、私が乗せていこう。大学の近くのマンションだったね」
「はい、小さな山の麓ですから、すぐに分かると思います。学校とマンションの他には、雑木林しかないですからね」
橋爪はそう言って、会社の窓から外を眺めた。
夕暮れ時のせいか、正面に見えている小さな山は、深い藍色に染まっていた。
「それじゃ、明後日」
橋爪の肩をポンと叩いて、部長は事務所を出て行ったのであった……。
この居酒屋に来るのも、今日が最後だろう。
最近では、同僚たちの誘いで奥のボックス席に座っていたのだが、最後はいつも通り、カウンターの端の椅子に腰を下ろした。まるで橋爪を待っていたかのように、ぽっかりと空いていたのである。
「転勤なんだって? 寂しくなるね」
馴染みの客である橋爪に、その店の大将が声をかけた。
「ええ、長い間、お世話になりました」
橋爪はそう言って、頭を下げた。
「あの娘はどうするんだよ。連れて行くの?」
「いや、そうも行きませんよ。結婚するわけじゃありませんからね」
「何だよ、うまく行ってるんじゃないのかい」
「それがね、なかなか……」
大将が言っているのは、もちろん里恵のことだ。最近二人でこの店に来ることが多かったのだが、出るときになると決まって、
「両親がうるさいから、帰らなきゃ」
と言って、さっさとタクシーに乗ってしまうのである。
もちろん、愛の告白だってしたつもりだ。しかし里恵は、嬉しい、と言うだけで、何の進展もなかったのである。
つい部長の話をしたときも、ただ笑っているだけだった……。
橋爪がそろそろ帰ろうかという時だった。
「ほら、来たよ。そんなこと言って、けっこう頑張ってるじゃないか」
大将がそう言って、店の入り口に視線を送った。振り向けば、里恵が息を切らしながら辺りを見回している。そして、
「やっぱりここだったのね。よかった」
橋爪の姿を見つけた里恵は、そう言いながら隣に座った。
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「どうしたじゃないわよ。気になって……。どうだった?」
「――何が?」
「部長の話よ。残留の件、どうなったの?」
「ああ、そんなの無理に決まってるだろ。行くよ、来週には」
「――そう。やっぱり」
里恵はそう呟いた。「橋爪さんには、どうしてもいて欲しかった……」
うなだれている里恵は、本当に可愛らしく思えた。
「仕方ないよ。でも、仕事の方は下村に任せてある。何かあったら、あいつに相談するといいよ」
「その下村さんなんだけど、橋爪さんが残留したら、あの人が本社に行くことになってたの。そしたら、あなたが係長になるはずだったのよ。どうして本社の営業なんかに……」
そんなことを言われても、今さらもう遅いんだよ……。
里恵は涙さえ浮かべて、橋爪に寄り添って来た。
「下村とは、今度の日曜日に会うことになっているんだ。引越しの手伝いをしてもらおうと思ってね」
橋爪は、里恵が寄り添っていることも気にしないように、飲みかけの酒を、一気にあおった。
「私も行っていいかな。最後のお手伝いをしたい」
「せっかくだけど、やめた方がいい。かなりの重労働になるはずだ」
「でも、何だか気になって――」
「来るな! 来ない方が、君のためだ」
橋爪の声が、最後の店となった居酒屋の中に響いていたのだった……。
辺りは暗くなって、懐中電灯がなければ、せっかく掘った穴の位置さえ分からなくなってしまうところだ。
一日がかりの作業は、ようやく終わった。朝、日の出と共に始めたのだが、こんなに遅くなるとは思わなかった。明るいうちに終われると目論んでいたのだが、予想外にその土は硬かったのである。下村がいなかったら、今日中には終われなかっただろう。
「助かったぜ、下村……」
俺は、穴に向かってそう呟いた。
バケツの土を捨てた俺は、尿意を催して、少し離れたところにある建設作業用の小屋の陰に回って用を足した。後から考えたら、誰も見ているわけじゃないし、男なんだから、自然の中に放出すればよかったのだ……。
懐中電灯を照らしながら、俺は自分で掘ったその穴へ戻った。
穴の淵から、立てかけてあるハシゴがほんの少し見えている。あまり長くないハシゴは、穴の深さギリギリだったのだ。
俺はゆっくりと近寄った。穴の底から、下村が持っている懐中電灯の光が漏れている。休んでいるのか、その光は動いていない。
俺は、そのハシゴに手をかけた。
――知ってたんだよ、下村。里恵とお前の仲をな。うまく俺を騙したつもりだろうが、俺はそんなにバカじゃないんだよ。居酒屋の帰り、家が近いからっていつも送って行くだろう。家に帰らないで、そのままホテルに入ったことだって知ってるんだ。
部長と里恵が密接な関係? そんなことあるわけないじゃないか! 部長の愛人はな、総務の田代裕美なんだよ。そんなことも知らないで、よくもまあぬけぬけと……。
しかしなあ、それだけじゃない。どうして俺が本社の営業で、後輩のお前が俺より先に係長なんだ? 冗談じゃないよ。何のために九年間も辛抱して来たと思ってるんだ。転勤のない万年支店の営業マンだと指をさされ、歓送迎会のシーズンになると、人のために夜の街を走り回らなければいけないんだ。どんなに惨めか分かるか。
そのお前に先を越される。俺にとって、こんなに屈辱を味わうことはない。しかも、大事な里恵を盗られたんだ。
俺は本社に行く。あさっての今ごろは、都会の繁華街にいることだろう。
しかし、このままでは俺の気が治まらない。俺を馬鹿にしたお前のために、苦労して穴を掘ったんだ。安らかに眠ってもらうぜ……。
俺はハシゴを一気に引き上げた。
「下村――ご苦労だったな」
ハシゴを後ろに放り投げて、穴の中に声をかけた。「ゆっくり眠ってくれ」
びっくりしていることだろう。いや、まだその状況を把握することができないかもしれない。
俺は、助けを求める下村の声を待った。
しかし、何の反応もない。懐中電灯の明かりも、微動だにしないのである。
俺は近寄って、下を覗き込んだ……。
「――そういうことだと思ってましたよ」
突然背後から、俺が待っていた声が聞こえた。
「下村! いつの間に……」
「ションベンぐらい、そこですればいいじゃないですか。本当にバカなんだから」
そう言いながら、下村は嗤っていた。「俺を殺したって、何にもなりませんよ。もっとも、里恵ちゃんはいただきましたがね」
下村が握っている懐中電灯の明かりが、俺の顔を照らし出した。
俺の目が一瞬くらんだ。暗闇に慣れていたせいか、視界は真っ白に染まり、脳髄を刺激するような痛みに顔を歪めた。
「お前……知ってたのか」
「何も知りませんよ、さっきまではね。でも、橋爪さんの言葉の中に、何となくそうじゃないかな、って思ってたんですね、これが。だって、ここに埋められる奴なんて、俺ぐらいしかいないじゃないですか。部長はあなたにとって、理想の上司ですからね」
「理想の上司?」
「そう、前田部長がいたからこそ、橋爪さんも出世しようとしていたんですから」
と言って、下村は懐中電灯を下に向けた。「本社の係長。しかも、課長補佐という肩書きまでついているんですから。あなたは明後日からそうなるはずだったんです」
寝耳に水とは、こういうことを言うのだろう。
「そんなこと聞いてないぞ!」
「当たり前じゃないですか。部長はね、橋爪さんを喜ばせようと、ギリギリまで内緒にしていたんです。もちろんお客様にも協力してもらってね。だから今日、約束してあったんでしょう。橋爪さんをびっくりさせたい、って言ってましたよ、部長」
と言った下村の顔から、笑みが消えた。「本当は俺が行くはずだったのに……」
下村が近寄って来るのは分かっていたが、なぜか俺は動けなかった。
「下村、俺は――」
と言いかけた俺の身体は、わけが分からず宙に浮いていた。そして強烈な衝撃と共に、穴の底に倒れていたのである。そう、下村の一押しで、俺は突き落とされたのであった。
「よく頑張って掘りましたよ、この穴。こんなことはしたくなかったんですがね」
そう言った下村の顔は見えない。懐中電灯のスポットライトが邪魔しているのだ。
しかし音だけは聞こえる。もう一つの足音が、穴の淵で止まった。
「ごめんなさい。騙したわけじゃないの」
この声は……。「あなたがこのまま支店にいてくれたら、何も問題なかったのにね」
里恵の声が聞こえていた。いつの間に来たんだろう。いや、最初からいたに違いない。
俺は何も言うことができずにいると、里恵はそのまま話し続けた。
「下村さんが課長補佐になって、私も一緒に行こうと思ってたの。もちろんお嫁さんとしてね。でもいいわ。橋爪さんが行方不明ということになれば、誰かが本社に行かなくちゃいけないでしょうからね」
そう言いながら、二人の笑い声が聞こえて来たのである。
「俺は……俺は、何だったんだよ!」
叫んだつもりのその声は、小さくて二人には聞こえていなかっただろう。
「それじゃ、おやすみなさい」
里恵の明るい声だ。
俺には分かっていた。二人が抱き合って、口付けを交わしているその様子が……。
――そして、苦労して掘った穴のそこにいる俺の身体に、冷たい土が無情にも降り注いでいたのだった……。
了




