その二
(二)
大学に近いワンルームマンションというのは、住人のほとんどが学生であることが多い。ちゃんと学校に行っているのか、平日の昼間であっても若者がうろうろしている。
夜になると、まるで飲食店が入り込んだ雑居ビルの如く、酒を飲んで馬鹿騒ぎする声があちこちから聞こえてくる。全く迷惑な話だ……。
まだ独身の橋爪は、そのワンルームマンションの一階、入り口の真横の部屋を、ただ寝るだけという住居にしていたのである。
「うるせえなあ……」
出入りする学生たちが酔っ払っているのだろう、大声で叫んでいた。
気がつくと、橋爪の部屋のドアを叩く音がしている。またあのばか者たちが悪戯しているのだろう。いつものことだ。
構わずにいると、また音がした。
「――いい加減にしろ、お前ら!」
橋爪がドアを開けて、思わずそう叫ぶと……。
「すみません、許してください!」
背広姿の男が立っていた。「なーんてね! もういませんよ、あいつら」
後輩の下村が、そう言って笑った。
「何だよ、こんな夜中に。飯なんかないぞ」
「あと一週間じゃないですか、ここにいるのも」
と、下村は言って、「一杯やりませんか」
にっこり笑いながら、焼酎のボトルを差し出したのだった……。
冷蔵庫に入っている惣菜をつまみに、いつしかボトルも半分ほどになっている。下村は、仕事の話には触れず他愛ない話に終始していた。しかし、本当は何か言いたいことがあるのだろう、話の節々に、それが見え隠れしているのが橋爪には分かっていた。
「いろいろ世話になったな」
橋爪の方から本題に入った。
「いえ、こちらこそ……。何だか橋爪さんに申し訳なくて」
そう言って、下村は下を向いた。
「何のことだ。俺は栄転だし、お前は係長に昇格だ。良かったじゃないか」
「でも、俺だけ係長に昇格して、橋爪さんは本社に行っても平社員のままじゃないですか。たとえそれが本社だとしても……」
下村はそう言ってうなだれていた。「ほんとうにすみません」
「よせよ、憧れの本社の営業だぞ。お前だって……」
と言って、橋爪は思い出した。そういえば三年前、下村は本社から今の支店に移って来ていたのだ。後は昇格を待つばかりだったのだ。そしてうまく行けば、そのまま本社の係長に――というところで、支店への転勤辞令。下村としては、相当不満があったに違いない。
しかし今まで、そういった下村の愚痴は聞いたことがなかった。
「お前だって、この若さで係長だ。しっかりやれよ」
「橋爪さんも、ぜひ頑張ってくださいね。本社はいつも、激流を流れるサバイバルレースですから」
「ああ、お互いにな」
二人は肯き合って、数回目になる乾杯をしたのだった。
「ところで、この間はすみません。邪魔しちゃって」
「何のことだ?」
「俺、デートの邪魔だったでしょう」
「ああ、深野君のことか。――気にするな。まだそんな仲になっているわけじゃないんだ。もっとも、気がないわけじゃないがね」
「あれ、そうだったんですか。てっきりうまく行っているものと……」
下村はそう言って、一気に焼酎を飲み干した。「里恵ちゃん、泣いてましたよ」
「泣いてた?」
あの時三人で飲んでいたのだが、遅くなると里恵の両親が厳しいということで、同じ方面の下村が送って行ったのだ。
「泣いてた、って……」
確かに自分の気持ちは打ち明けた。そして里恵の気持ちも、何となく聞いたような気がする。しかし、正式に交際する、というところまでは進展していなかったのである。
その里恵が、涙……。
「里恵ちゃんはね、前田部長の陰謀を知っていたんです」
「陰謀?」
「そう、うちの営業で一番成績がいいのは、橋爪さん、あなたですよね」
「うん……それはまあ、たまたま……」
「前田部長はその成績を欲しがっているんですよ」
「そんな、俺がいなくったって、関係ないじゃないか」
「違います。橋爪さんが今まで転勤がなかったのも、その優秀な成績があるからなんです。というのが、顧客が会社についているのではなく、橋爪さんについている。それでは部長の顔がないからと、競争の激しい本社に橋爪さんを追いやろうとしているんですよ。部長だって成績が必要ですからね、この会社は」
下村は一気にまくし立てた。
「しかし、深野君がそれを知ったって、どうしようもないだろう」
「会社の方針だから、ですか」
「そう、俺だってこのままいたいよ、ここに。しかし仕事だ」
「俺は悔しくて……。本当は、橋爪さんが係長になるべきなんだ。里恵ちゃんだって、そう願ってるんです」
本当に里恵が……。そこまで思ってくれているのだろうか。
会社のために、橋爪のために、部長が取り計らってくれたものだと思っていた。しかし、すべては自分のためだったとは。
営業成績は第一線の営業マンが作るものだ。どうして部長が……。
「それだけじゃありません」
「と言うと?」
「部長と、里恵ちゃんは……」
下村の顔が、橋爪の耳元に近づいて来た……。
会社の応接室の椅子に座っていた初老の男が、橋爪の顔を見て立ち上がった。
出先で、転勤報告と挨拶のため、時間を食って遅くなってしまったのだ。
橋爪が招いたわけではなく、先方から橋爪の移動を知った顧客が訪ねて来ていたのだった。
「――お待たせしまして、申し訳ございません」
「いやいや、橋爪さんがいなくなると聞いてね、びっくりして来てみたんですよ」
「そのことで今そちらに伺ったところ、ここにいらっしゃると聞いたもので、大急ぎで帰って来たつもりなんですが……。遅くなりました」
橋爪は、深々と頭を下げた。
「それで、いつまでここに?」
この町ではわりと大きな電化製品店として名の知られるその店の店主が、心配そうな顔をして訊いた。
「はい、来週の火曜日には出ることになります」
「来週……。それで、引継ぎは大丈夫なんでしょうね」
「その件でお宅に伺ったのですが、何分持ちまわり先が多いもので、遅くなってしまって。でも、心配はいりません」
橋爪はきっぱりと言って、「今度、係長に昇格する下村という男が、全責任を持って対処します」
と、自分の後を受け継ぐ下村の話をした。
「下村? 聞いたことないな……」
「経験豊富な男で、お客様のわがままも、そのまま引き継ぐことにしてあります」
橋爪は相手を安心させるように、「何かあったら、いつでも私が飛んで来ますよ」
と、言った。
「しかしね、うちとしては、やっぱり橋爪さんでないといけないことも――」
と、言いかけたところで、ドアをノックする音。
そして事務の女の子が入って来ると、
「橋爪さん、部長がお呼びです」
恐縮して、お客様に頭を下げた。
「いや、今は……」
と、橋爪は言いかけたが、「すみません、すぐに戻ります」
と言って、応接室を出た。
橋爪の姿が見えなくなると、入れ替わるように前田部長が応接室に入って来て、お客様に笑顔を見せたのだった……。
――しばらくたって、応接室に戻った橋爪は、
「遅くなってすみません。肝心の部長の姿が見えなくて」
と、言った。呼びに来た事務の娘はいなくなるし、事務所へ行っても部長の姿は見当たらない。あちこち探しているうちに、廊下で部長にすれ違ったのだが、
「すまん、すまん。もういいんだ。悪かった」
と言っただけで、何がなんだが分からないうちに応接室に戻って来たのであった。
「ところで、さっきの続きですが――」
橋爪がソファーに座ろうとすると、
「いや、もう結構。ぜひ本社で頑張ってください。応援していますよ」
と立ち上がったお客様は、橋爪の肩を叩いて応接室を出て行ったのだった……。
久しぶりに誘ったのだが、来てくれるだろうか……。
深野里恵は快く肯いてはいたが、かれこれ一時間以上も経っている。遅くなるのであれば、携帯電話に連絡があるはずだ。
残業だろうか。それとも……。
――下村の話によれば、部長と深野里恵は密接な関係にあるという。もちろん親子ほどの年齢差があるのだが、今どき不倫は珍しいものではない。そして、橋爪が里恵に好意を寄せていることが、部長の耳に入っているということだった。
「邪魔な者は飛ばしてしまえ」
ということに違いない。
しかし、里恵は迷っている。所詮は不倫なのだから、どうせ長くは続かない。でも橋爪であれば、仕事もできるし顧客からの信望も厚い。しかも独身だ。里恵とて女である以上、結婚願望だってあるはずだ。
部長と橋爪との狭間で、里恵のやるせない気持ちが、涙になったのだろう……。
「お待たせ! 遅くなっちゃって、ごめんなさい」
橋爪の三杯目になるビアジョッキが空になる頃だった。「お偉いさんに呼ばれたの。どうしても抜けられなくて……」
里恵の笑顔が輝いていた。
「誰だよ。うちにそんな偉い奴がいたか?」
と言って、橋爪はおどけて見せた。
いやみを言うほど、短絡な男ではない。どんなにいやなことがあったって、それを顔に出すような橋爪ではなかった。
「残業だったのか?」
「ううん。部長さんに呼ばれて、ちょっと仕事の打ち合わせをしてたの」
「部長が? ――そう」
「あら、どうしたの。何か気になる?」
「別に。仕事だったんだろ」
「うん。でも、仕事っていうか……」
里恵は、橋爪の耳に顔を寄せて、「送別会!」
と、小さな声で囁いた。
「送別会? だ、誰の……」
「もちろん橋爪さんに決まってるでしょ」
里恵の意外な言葉だった。
部長が俺のために送別会? 追い出されようとしている人間に、そこまでされたんじゃ、惨めの上に花を添えられるようなものだ。
「それを、どうして君が」
「私に、幹事をしてくれないか、だって。何だか、嬉しいような悲しいような……」
と、里恵は言った。「だって、私……」
橋爪の肩に、里恵の頬が触れた。肘の辺りに軽く手を添えて、その身体のぬくもりを伝えるかのように寄り添って来た。
里恵と離れたくない。今まで移動することもなく、小さな支店で頑張って来たんだ。別に出世なんかしなくていい。このまま支店の営業マンを続けて行ったとしても、橋爪は、里恵と暮らして行けるのであれば充分に幸せだ、とさえ思い始めていた。
部長とのことだって、時間が経てばそのうちに忘れるだろう。一時的な過ちは、誰にだってあるものさ。それに、下村の話しだって、どこまで本当か分かったものではない。転勤が決まった橋爪に、未練を残させたくないという、下村の心遣いかもしれないではないか。
「何か飲む? ウーロン茶とか」
と、橋爪は訊いた。
「私、お酒飲みたい。熱燗でね」
「大丈夫なのか。酔っても知らないぞ」
「その時は、橋爪さんに面倒見てもらうから」
里恵はそう言って、笑顔を見せたのだった。
「ところで、送別会って、いつ?」
「来週の火曜日に行くんでしょ。だから、月曜日。――どう?」
月曜日か……。前日の日曜日は休みだ。その前に部長と話しをして、残留を願い出てみるか。そして、日曜日に里恵を誘って、ドライブにでも行ってみよう。そこで自分の思いを打ち明ける。そう、思い切ってプロポーズだ。
「部長も来るのかな」
「もちろんよ。橋爪さんの転勤を一番に喜んでるの、部長さんなんだから」
そりゃそうだろう。邪魔者がいなくなるんだから。
「じゃあ、よろしく頼むよ。部長には、世話になったからな」
橋爪は、飲み慣れない熱燗に口をつけたのだった……。
――もう、ここまで掘れば大丈夫だろう。人間を一人埋めたとしても、誰も気がつく奴なんているはずがない。たとえ警察の捜査が入ったとしても、こんな深いところにある死体なんか、そう易々と見つけられるわけがない。
俺はようやく、休息の時を迎えることができた。といっても、これから本番が始まるのだが……。
「やっと終わりましたね、橋爪さん。後は埋めるだけですよ」
深い穴の底で会話している二人の姿は、とてもまともな状況には見えないだろう。
「ああ、助かったよ。お前には、いろいろ世話になったな」
俺は、深い溜息をついて、何時間振りかの煙草に火をつけた。三十分以上間隔を開けたことがないヘビースモーカーにとって、久しぶりに吸い込む煙は、充分に疲れた頭を気持ちよく痺れさせた。
「しかし、橋爪さんがここまでやる気持ち、何となく分かるような気がします。あれじゃ、あまりにも馬鹿にしてますからね」
「そうかな……。人間、いろんな思いがあるもんだよ」
「結局、里恵ちゃん、はっきりした返事は言ってないんですよね」
「ああ、何も聞いてない。でも、俺じゃないことは確かだ」
「じゃあ、やっぱり部長と……」
「それはどうかな。今となってはどうでもいいよ、そんなこと」
俺は、指につまんだ煙草を弾き飛ばした。
狙ったわけではないが、火のついた赤い部分が、下村の足下で火の粉を散らした。
「でも、埋めるんでしょ、あいつ」
「ああ、そうでもしなきゃ、俺の気持ちが治まらん」
「今日中に、って言ってたけど、今から行くんですか。あいつを殺りに」
下村は、残っていた煙草の火を足でもみ消しながら訊いた。
「いや、大丈夫だ。心配しなくても、向こうからやって来る」
俺は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
「じゃあ、、この作業はもう終わりですね」
「そうだな。――あいつを寝かせるためのベッドでも作っておくか」
「ベッド?」
「まだでこぼこだ。ここを平らにしてくれないか。最後ぐらい、真っすぐに寝かせてあげたいからな」
俺はバケツを取り上げると、「こいつを上まで運んで来る」
と言って、ハシゴを上り始めた……。




