その一
(一)
硬い土にスコップを突き立てて、俺は流れる汗を拭った。
穴を掘るという単純な作業が、こんなに大変だったとは……。
それでもまだ、一メートルも掘っていない。せめて二メートルは掘らなければならないだろう。
スコップを握り直した俺は、力任せに彫りかけの土に突き刺した。小さな石が混ざっているのか、鈍い衝撃が両手に伝わってくる。それでも痛くなるのを我慢しながら掘り進めなければならない。
「橋爪さん。そろそろこの辺でいいんじゃないですか?」
「何だ、もう疲れたのか。だったら帰ってもいいんだぞ」
「いえ、そういうわけじゃないけど……」
手伝いをさせている俺の後輩がなにやら不審がって、「こんな穴を掘って、何を埋めるんですか」
と、なかなか抜けないスコップを引っ張りながら訊いた。
「だから言っただろう。人間だ」
「人間? ――人間って、一体誰を?」
「うるさい! 黙ってやれ」
俺の一喝で、後輩はしぶしぶスコップを持ち直した。こいつは今まで、俺に逆らったことはないのだ。
もちろん俺に対して従順だから、というだけでは手伝ってくれるはずもない。
殺人、もしくは死体遺棄の共犯になるかもしれないのだ。だから俺は後輩のために、バイト代と口止め料と称して、多額の金を最初に見せていたのであった。
「そろそろハシゴがいるな。せっかく深く掘っても、上がれないんじゃ何にもならない」
「それもそうですよね」
「すぐそこに用意してあるんだ。持って来てくれないか」
後輩は、笑顔で穴から出て行った。人間を埋める、といっても、そうそう信用する奴なんていない。冗談で言っていると思っているのだろう。
数分とかからないうちにハシゴが下ろされて来た。穴の深さは胸の辺りまでになっている。
ゆっくりとハシゴを使って(といってもまだほんの二、三段だが)降りて来た後輩は、奮起したように再びスコップを取り上げて、
「さあ、続けましょうか!」
と、やけに元気な声で言ったのだった……。
橋爪隆一、三十一歳。某電機メーカーの営業マンである。
大手企業であるその会社では、もちろん二、三年おきに転勤という、つらい(中には喜ぶ人も)辞令が回って来る。全国に支店を持つこの会社では、どこに飛ばされるのか、内示があるまでは全く分からない。
そういう時期になってくると、人の噂が自分のことのように聞こえて、身も心も落ち着いていられなくなってしまうものだ。
しかし橋爪の場合は――。大学を卒業して早九年、未だに転勤という試練を経験したことがなかった。
「君はこの支店にとって、大事な存在だからな」
営業部長が口癖のように言っていた。その部長だって、三年もすればどこかの支店に赴任してしまう。そして次に就任した部長からも、なぜか同じような言葉を聞かされるのだった……。
「橋爪君、ちょっといいかね」
事務整理をしていると、営業部長の前田が近寄ってきて言った。「会議室まで来てくれないか」
「はい……今ですか?」
「そう、今すぐだ。大事な話がある」
「分かりました」
と、返事が終わらないうちに、部長はもう歩き始めている。
橋爪は、慌てて書類を整理すると、会議室へと部長の後に続いた。遅れて行くと、あとで何を言われるか分からない。いつも小さなことで、ネチネチと文句を言ってくるのだ。だから、営業部の若手社員の中でも、あまり評判はよくなかった。
会議室に入るとすぐに、
「まあ、掛けたまえ」
と、部長自ら椅子を引いてくれる。何だろう、薄気味悪い……。
「部長、お話というのは、一体なんでしょうか」
「まあ、そうせかすな。君にとって悪いことじゃない」
「そう言いながら、『クビ!』なんてことじゃないでしょうね」
「何だ、会社を辞めたいとでも言うのか?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
「そりゃそうだ。何と言っても、居心地がいいからな、ここは」
「ですから、お話しは……」
もったいぶるように、前田部長は煙草に火をつけた。そして、珍しく橋爪に一本差し出した。
「実はな……。転勤が決まったんだよ」
部長の吐き出した煙が、橋爪の顔にかぶさってくる。
「転勤ですか! おめでとうございます!」
煙をかき分けながら、思わず笑顔で叫んでいた。
「違う違う。俺じゃない、君だ」
「――はい? ぼ、僕が……ですか?」
「そう、栄転だ。本社に行ってもらう事になった」
と、部長は笑顔で言った。「長いこと待たせたね」
橋爪は、すぐには言葉が出せなかった。
俺に転勤なんて関係ない。一生この支店で営業をやってるんだ、と、半ば人生を諦めかけていたところなのだ。
「ちょっと待ってください。本社に行くのは、下村じゃなかったんですか」
下村とは、三年前、この支店に配属されて来た橋爪の後輩のことである。性格的に合っているのか、いつの間にかいいコンビとなっていたのだ。
「下村君は係長だ、この支店でね。しかし君は――」
「左遷ですか」
「何を言ってるんだ。本社だぞ!」
部長はびっくりしたように言って、「こんな小さな支店で係長になるより、本社という大きな組織の中の第一線で仕事をしたほうが、働き甲斐もあるというものだろう」
「それはそうですが……」
本社の営業マンというのは、誰でも一度は経験してみたい、と入社した社員たちは思っているのだ。もちろん橋爪もそうだった。――以前は。
誰かが本社に配属されるという噂は、どこからともなく聞きつけていた。しかしそれは下村であって、自分は、同じく本社に転勤が内定した係長のあとを受け継ぐ、とばかり思っていたのである。
――小さな支店の係長か、それとも、第一線での営業マンか。
どっちが偉いというわけではない。要は考え方の問題だ。
「どうだね、君もそろそろ中堅だ」
「それは、まあ……」
「今まで、移動がなかったのが不思議なくらいだ。本社で、ぜひ頑張ってくれ」
部長は、橋爪の肩をポンと叩いた。「じゃ、話はそれだけだ。仕事に戻ってくれたまえ」
そう言うと、橋爪の返事も聞かないまま、部長は椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってください。それ……決定ですか。それともまだ内定なんでしょうか」
引き止めるように、橋爪も立ち上がった。
部長は振り返って、橋爪に視線を合わせると、
「決定だ。――実に喜ばしいことだよ」
と、言った。
前田部長の目が笑っている。何やら含みのある笑いだ。
しかしその時の橋爪には、まだ、その微笑の理由は分かっていなかった。
会社の近くにある、いつもの居酒屋。仕事帰りのサラリーマンやOLなどが、ストレス解消のためか、賑やかに談笑していた。中には上司に連れられて、帰りたくても帰れない新人社員もいる。言いたいことがあっても、なかなか上司に諫言できるような勇気ある若手社員は少ないものだ。
橋爪隆一も、これまでは、そんな若手社員と同様に見られていたのだろう。ただ黙って上司についてくるだけだった。
カウンターに一人で座っていた橋爪の肩に、そっと手が乗せられてギクリとした。
「どうしたの? 深刻な顔しちゃって」
振り向けば、同じ営業部の事務員である深野里恵が、にっこりと笑いながら橋爪の顔をのぞき込んでいた。
「君こそどうしたんだよ。アルコールはダメなんじゃないのか」
「べつに、飲みに来たんじゃないわよ」
「だったら、彼氏とデート?」
「そんな人いないって、知ってるでしょ」
里恵はそう言いながら、隣に座った。「橋爪さんを探してたのよ。たぶんここじゃないかと思ってね」
里恵の言葉に、橋爪は内心ほっとしていた。
短大を卒業して三年目。優秀、とまではいかないが、あどけない表情や物怖じしない性格のよさが、社内で評判となっているOLだ。
「珍しいじゃないか。どうしたんだよ」
「聞いたわ。転勤なんですって?」
「何だ、もう知ってるのか」
「社内で知らない人なんかいないわ。橋爪さんが転勤――こんなビッグニュース、今までなかったからね」
そりゃそうだろう。入社して九年間も異動のない社員なんていないのだ。
橋爪は、里恵のためにオレンジジュースを注文した。
「部長さん、他に何か言ってなかった?」
「他に、って?」
「つまり、どうして橋爪さんが移動になったかってこと」
と、里恵はすました顔をして言った。
「何だよ、何か知ってるのか?」
「実はね、部長さんが、直接支店長に推薦したんだって。橋爪さんの本社行きを」
「部長が……。どうしてまた」
「そりゃあ、認めてくれたんでしょ、橋爪さんの実力を」
里恵はにっこり微笑んで、「おめでとう! これで一人前の営業マンよね。念願の本社行きだもん」
と言って、喜んだ。
あの部長がそんなことを……。
いつも嫌味ばかり言って、いけ好かねえ野郎だ、と思っていたのだが、けっこう部下のことを考えていてくれたんだ。ハゲのくせに、いいところあるじゃないか。
しかし……。
「一つだけ大事な問題がある。君も分かっているはずだ」
グラスを持とうとしていた里恵の手を、橋爪はそっと握った。
「うん……。でも、仕方ないよ、仕事なんだから……」
「今さら君と離れるなんて、僕には……」
そう、二人は恋仲に陥ろうとしていたのだ。もし本当に転勤するということになれば、顔を見たいと思ってもそう簡単に会うことはできない。新幹線の日帰りデートを強行したとしても、二、三時間も一緒にいられたらいいほうだ。
「どうしても行かなきゃ行けないの? あなたじゃなくて、下村さんを……」
と、里恵が言いかけたところで、
「橋爪さん! こんなところにいたんですか。探しましたよ」
噂をすれば影、とはこのことか。
当の下村が乱入してきて、盛り上がろうとしていた二人の会話が途切れたのだった……。
スコップを持った俺の手から、ジワリと血が滲んできた。白い布地の手袋に、所々赤い斑点がついている。もちろん泥土で真っ黒になってはいるのだが、その中に見える赤い液体は、俺の執念を物語っているようにも見えた。
手の痛みはほとんど感じないが、肉刺はつぶれ、土を運び上げているときにできた傷には、薬の変わりに砂粒を塗りこんでいるようなものだ。
しかし、ここまで来たからには、もうやめるわけにはいかない。今あいつを殺しておかなければ、俺は一生後悔することになるだろう。
「橋爪さん。ここらで一息入れましょうか」
「いや、だめだ。早くしないと、暗くなって見えなくなってしまう」
俺はそう言って、バケツを取り上げた。「これを上に運んでくれ」
「やっぱり、やりますか。――分かりました、続けましょう」
穴を掘ると言う作業は、たとえスポーツマンであったとしても、その労力は並大抵のものではない。疲れてくるのも仕方のないことだ。
穴の外に掘り出した土を捨ててきた下村が、ゆっくりとハシゴを降りてきた。
「どうしても、今日中に掘ってしまうんですか?」
「ああ、もちろんだ」
「埋める死体は……もう、殺ったんですか」
「いや、まだだ」
「だったら、そんなに急がなくても……」
「心配するな。今日中にはここで眠ることになる」
そのために、体力の限界を超えてまでも、無理を通して敢行しているのだ。
「――やっぱり、あいつを殺るんですよね」
「そう。あいつだ」
「橋爪さんにとって、邪魔な奴ですからね」
俺は、チラッと下村と目を合わせて、またスコップを土に突き刺した。
「本当に邪魔なんだよ、あの野郎」
バケツの中に、硬い土が落ちる鈍い音がした……。




