かごめかごめ 下
宿屋の部屋で、長い話を朔から聞きました。
思えば朔がこんなに長く話したことは今までなかったでしょう。
遼という人を見かけては、避けていました。
彼はとても強面で、すぐ怒る人だと決めつけていましたから。
ですが案外、くだけた奔放な性格であると呱々理から教えてもらっていました。
葦比良の言いつけをよく嫌い、さぼってばかりだったのを朔は覚えています。
だらしのない性格なのだと知って、余計に合わないと感じました。
そんな遼が今、真摯な面持ちで朔の語る言葉に耳を傾けていました。
時折、横になっている眠らせた梅を気にしながら
必死で話す朔の話に最後まで聞いてくれました。
けれども、最後に訊いたのは、これから実行することでした。
「………で、お前さんのお役目がくだした『救済』というのはどういうことだ」
「……聡さんのことに対しては言及がないのですね」
「堕ちちまったってことだろ…。ならそれだけの話だ。いつもどおりの処断だろ」
「いつもどおりって…いいんですか??!」
「いいもあるか?言葉で人を葬れる言霊使い…そんな者を許せば
明日からは俺たちが追われる側になるんだ」
遼の言い分は道理でしょう。「上」もおそらくそうするはずだとはわかります。
わかりますが、遼の口からは聞きたくはありませんでした。
「あなたは…聡さんと親しい間柄だったといいます。梅さんと同じくらい」
遼は「そうか?」と言いながら、立ち上がって荷物から水筒を出します。
飲んで初めてなにか気がついたらしく、朔を見つめます。
一抹の期待を込めて朔はその視線をそらさずに正面から受けました。
「………あのさ、水持ってねぇ?切らしちゃったみたいだわ」
「…っ!」
朔の物言わぬ凄味に、驚きながらも遼は飄々と遼は答えます。
「今までの少ないがあっただろ。今回も同じだ。
悪いが…公平にしなくちゃいけない……。聡介だからってなんだっていう?」
「………わかってます。だから私も言えないんじゃないですか…」
「目は物より良く語るっていうだろ?お前は、梅と同じことを期待したんじゃないか」
「……していません」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、朔は目を伏せます。
そんな様子に、同じ調子で遼は続けました。
「……堕ちた者はどうやっても無理だ。どんなに説得しても、投げうっても
言葉は決して届かない。阻まれちまってな……もうどんな言葉も堕ちた言霊使いは
信用しないのさ。……で助け出すのに奮闘してるうちに救出するほうも蝕まれ
堕ちてしまう……だから昔から無理なんだ」
「そんなことは知っています」
「ならなんだ?まだなにか聞きたそうだが…」
「遼さん…本当にこれでいいんですか?」
目が口ほど物を言うのならば、遼への視線を決してそらさずにします。
言霊使いとしてみっともなくても、平静を欠いても…朔は遼に訴えました。
「こんなこと、言葉を平静に伝える言霊使いの者らしからぬことだと思います。
私も、役を戴くものなので…貴方ほどではありませんが分かります。
けれど私は母の腹から出た者。
人間です。情がどうしても抑えきれない!」
「……そうですか。はいはい」
冷静にたたみこむように一言言い放つ遼は、それ以上別に朔の言葉を気にとめたふうでは
ありませんでした。それでも朔は口を紡ぐことができません。
「人の心に憑いたものを祓うのが私たち…救うのが私たちじゃないんですか?」
「救うじゃない、人助けじゃないんだぞ。朔ちゃん?」
遼の態度、物言いが如実に伝えてきます。
「子どもの朔」、「まだ未熟な言霊使い」…まだ人生の何分の一も満たない年数しか
生きてない子ども。事実でしょう。それでも引き下がれませんでした。
「それでも……それでも…人の心に働きかけるものは、動かすものは
同じ人の心なんじゃないですか?!
人の情を持って何が悪いの?
遼さんは今まで、仲間を助けたいって思ったことないんですか?
…人の心がなかったら…そんなの人じゃないです…。
人でなしが、人の心に届く言葉なんか紡げるわけ!ないじゃないですか!!」
遼はただ、「しっ」と静かにすることを命じるだけで
朔の言葉が届いたか知れません。
平常と変わらぬ遼の態度に、朔は落胆しました。
心のどこかで彼に期待したことに―。
「で、救済の話は俺が察するとおり、聡介がくくった言霊を回収し、
かの魂を修め、三人寛恕に誡めることでいいんだな」
「…はい」
「朔、烏飛ばした後全員がそろうのは何時頃だ」
「……一番遠い人が仙代の方にいらっしゃいます。早くに連絡しましたが
全員そろうには明日昼頃までかかります」
「ということは…今日はもうすぐたたんじまう…。なんのしようもないな」
適当に財布と風呂敷とを持ち上げるとどこかへ行こうとしました。
「琵琶と杖は持っていかないんですか?」
いつも携帯しているそれを、彼は手放しています。
妙に思って声をかけると「いい女のところにいくのにへんなもんは持ってかない」
と言い張りました。
朔は何も言わず、もう言葉を交わしたくないといった様子で
そっぽを向きました。
廊下に出ます。
ひんやりした感触が足裏から伝わってきます。
一呼吸間をおいてから、遼は廊下を下りてゆくのでした。
****
暗闇に暗岩の牢の中に、ただ傍にある海の潮騒だけが響いていました。
人知れず目に見えず誰にも分らぬこの場所に、聡介の身は一人いました。
牢の中には先輩らしきしゃれこうべが幾つか転がっています。
気にもとめず、ただうずくまり、目を閉ざし、
「なにか」ひっきりなしに呟いている様子でした。
忌み事を口にして抜け殻になった体をおいて、精神は夢の中に堕ちていました。
無意識の願望が実態になったものが夢ならば、それは時に残酷に望むものをみせます。
聡介が夢の中にいたのはかつての村でした。
その幻影の一部でしょうか、懐かしい人たちが聡介の前を通り、過ぎていきました。
行列のように、過ぎ去っていく人の波をぼんやり眺めていました。
人垣の向こうに誰かがいます。
行列の過ぎ去ったあとに、見えたのは梅でした。
最後の峠の茶屋であったままの服装に、異なっていたのは
どこか悲しげな表情でした。
「張り倒さないんですか?梅さん」
けれど彼女はなにも言わず、佇んでそこにいるだけでした。
内心納得します。これも、聡介自身が見ている幻。夢の中の者でしかありません。
苦笑しながらも、口からつい言葉が出てしまうのは
梅だからでしょうか。まるで姉がいたら、こんな人だと思うような…
そんなおせっかいさと親しみがあたった人。
「……わかったことがあります…」
ずっと蓋を閉めていた底で、隠してきた…おそらく現実。
「………人身御供養をしなければ村八分にされるかもしれません。
それに、藁にもすがりたい想いだったからかもしれません」
抱きしめて来た母のぬくもり、姿の見えなかった兄たち、父の手の握る強さ。
月日は流れたのに、どうしてまだ昨日のことのように覚えているのでしょう。
「………食いぶちが一人分減る為…なんにしても、生きる為だって。
憑かれたんじゃない…これからを生きる為に、正気でみんなは僕を捧げたんだ…」
口に出してしまえば、どこか楽で…けれど決定的な何かを欠落させてしまったような
胸のこの空洞はいったいなんなのか、聡介にはわかりませんでした。
理解もするきもありませんでした。
「…いらなかったんだよ。僕のこと…。
でも…ね、これ強がりかもしれないけどそれでも……いいやって思ったんですよ。
だって小さな役に立たない僕は…少しでも役に立てたならいいや…って」
梅は何も言わず、まるで壁のようにそこに佇んでいるだけでした。
「……………本当だよ。根拠ならあるんだよ……」
あれから隔絶されたような空間と時間の中、考えていました。
どうしてそう思えるか…その答えを。
難しく考えるつもりはありません。
素直になるだけでした。
自分に降りかかった残酷な現実が今までの家人との生活や想い出を、
すべて陳腐な紛い物のように思えてしまっていても、できませんでした。
「………風車が好きなのは…母さんが不器用なのに…作ってくれたから。
稲穂が好きなのは…あの中に父さんと兄さんたちを探すの楽しかったから…」
いつだって甘やかす、あたたかい優しい過去の想い出を思う時、
愛しさと一緒に悲しみを思うのはきっと。
「……それだけ…みんなが好きだったから…。悲しかったのは…みんなは
僕のこと…そんなに好きじゃなかったんだってことなんだ」
この世からいなくなっても、いいんですね。
消えてしまっても悲しくないんですね。いずれ忘れてしまうのですね。
「梅さん…教えてほしい…。あの後…雨は降ったの…?」
ならばせめて、どうか、なにか、
自分の気持ちに慰めを求めるならば雨が降っていればいいと、思うのです。
酷い不協和音が耳をつんざいていきました。
残響が周囲を覆い、鋭く何かが割れていくのを耳に捕えました。
****
いつになく、刑場を覗く人間の気が遼にはわかりませんでした。
耳にはいる話は、どこかの悲劇の主人公が愛を貫いたために殉じて死ぬような
脚色めいたものばかりで、みんなその悲劇の主人公の最期を見ようと
押し寄せているのがわかりました。
呆れる気にもなれず、「まぁそんなもんだな」と納得させて
遼は待ちます。
普通は葬儀が落ち着いた後に処刑と思っていましたが
最愛の息子を両親は失ったらしく、その怒りはおさまらなかったのでしょう。
息子を誑かした女と恋仲である…野次馬の言葉を借りれば
悲劇の主人公の男を処刑するそうでした。
男は聡介でしょう。
処刑を止め気はありません。
聡介は、誑かした女―燕という娘を殺されて、その息子に復讐で亡き者にしたのです。
だとしたら親が、息子を亡き者にした張本人、悲劇の主人公であり
聡介をなぜ復讐してはいけないのでしょうか。
(復讐はなにも生まないっていうがな……詭弁であるという面もある。
何かのせいにしないと、どうしようもない気持ちっていうのは理解できんでもない)
復讐奨励というわけでは決してないが、どんな者でも命をとるのであれば
それ相応の罰を受けるのは理であります。
納得せずとも理解してくれるものだと、遼は朔や梅に思っていたが
やはり女というものは情に流されてしまう生き物なのでしょうか。
野次馬たちがざわめき出しました。
道を真っ直ぐに、担ぎ屋の手によって籠が運ばれてきます。
刑場につくと籠が開き、上から聡介は引っ張りだされました。
まるで現に心がないようなそんな不気味な虚ろな、様子を聡介はしておりました。
「この者は!息子を誑かした娘と共に息子を騙し、そして息子を、殺めた卑しい男だ!」
息子の父親でしょう。
言葉の端々に、聡介に対する深く、渦巻く恨みが響いておりました。
「男は息子を殺した!」
おそらくどんな方法か分からないはずでしょう。
言葉で人が殺せるなど…よほど高い身分か好事家…貴族の呪いに精通している人間
や陰陽師たちくらいしか言霊使いは知られていない。
どんな方法かわからずに、突然息子が死んだ事実。
それを受け止めての行動でしょう。
わけもわからず、息子が葬られた…その絶望はいかほどのものか
遼には言い表せる言葉もありません。
「……なにか言い分はないか…罪人よ」
「………」
言うこともなく、聡介はただふらふら体を横に揺らすだけでした。
堕ちた者が現で放たれる言葉など耳に入るはずもありません。
「……なにを……言っている…なにを…歌っている…気がふれたか!?」
遼は聡介の様子を注視します。
口をなにか動かしていますが、それは父の要求どおりの
言葉ではなく…うわ言の様な様子でした。
その動きを、真似るように遼は口ずさみますが
すぐにやめます。
「………なんでだ……」
彼がどのような経緯でかの唄を知ったか遼はわかりません。
いえ、唄にでもなっていないそれは曲としてのみ表現を許されたものでした。
ものという区分も正しくない、言うなれば音色という区別。
それは言葉でくくられる代物にはなっていないのです。
「…………かごめうた……」
いろいろな情念が詰まったそれは、憎しみで統一もできず、三大慾で統一もできず、
108のどの禍にも当てはまって、適切ではありませんでした。
無数の感情と解釈の入り交ざった歌であるゆえに、
言葉でくくられぬ曲。
「やめろ……」
人々は遼を見やりました。
悲劇の主人公が、もしかしたら飛び込みの誰かに助け出されるという事態も
期待していた視線。好奇の視線が集まります。
かまわず遼は、群衆をかき分け、聡介の方へと向かいます。
止めにかからせようとする父を見て、遼は言い制しました。
「別に処刑を止めようとしたわけじゃありません!」
「では何しに来たんだ!」
梅の言う、命の救済ではないでしょう。
朔の伝えた命でいう救済でもないはずです。
もしも今のことを朔が知った上で黙認すれば、朔自身処罰が待っています。
何も言わず出て来た遼のこの行動。
これは、ただ遼が個人的な梅との約束を、きっかけに動いたけじめでした。
「……聡介、お前のくくったものを受け取りにきた。聞こえるか?」
「………」
虚ろな視線が、遼を見ます。口ずさんだまま唄は止みません。
「お前がもし、今まで出会ったもの。過ごした時。くくりつけたすべてのものを
大事に思う心が残っているなら…俺に託してほしい」
濁った眼を、遼は見つめました。
たとえ抜け殻になっていても、心はどこかにあるはずです。
なおも止まらない唄を、今は気に留めず…遼は続けます。
「………お前は堕ちた。それは罪だ。きちんと償え…だが…俺は復讐を理解はできる。
今回は本当に…お前らしくない。
…出会った娘の為に、自分が堕ちることを厭わず
復讐にはしるなんて本当にお前らしくもないが……こんなことになっちまったが
すこしだけ俺は嬉しくもあったんだ」
「………」
人でなしの言葉が、聡介に届くかはわかりませんが
朔から話を聞いた限り感じ取った、感情を
誤ってないのならば反応があると確信していました。
「そうさお前は憎んだよな!大切に思っていた人が殺されたんだ…」
「………」
「だから憎しみのままに、あのご両親にとってかけがえのない息子を葬った…」
「…………」
「憎むことができるものは愛情を知る者だという。お前はどうだ?…」
「…………」
「………お前は…………優しくしたいって…思ったんじゃないのか?
最初は同情だったかもしれない。でもそれじゃ収まらなくなっただろう?」
聡介がなにを口ずさむ言葉は聞こえません。
遼は自分がなにをいいたいか、解っているのはずなのに、
言葉はどれも自分の話したいことを代わって相手に伝えてくれていないように思えました。
それでも口を閉ざすことができないのは…遼にはわかりません。
「守りたい…幸せにできれば…って思わなかったか?」
「………」
「言葉に出すのも恥ずかしいし、かえって陳腐に聞こえるかもしれないが…
それが愛情ってやつなんだろ。違うか?聡介」
幼い、何事にも無関心のなかに閉じ込めた救出間もない聡介。
梅は声をかけることをやめませんでした。遼は。
かける言葉が見つかりませんでした。
もう目と鼻の先まで近寄りました。
聡介は虚ろで、今まで見て来た「堕ちた者」と同じ…無表情な顔をしておりました。
最後にたたみかけるように言います。
「聡介、あの時すべてを知らないでとおしたくなるほど悲しかったのはな…。
お前は…全部が陳腐で嘘だったんだって無かったことにしても、できないんだ。
大好きなんだから…親父さんも、おふくろさんも…みんな…みんなさ」
「……………」
「お前はそれを、解ったんだと…俺は…自己完結かもしれないが…そう思っている」
「…………」
「間違いか?聡……」
なにも変化のない聡介の様子に、遼は苦笑します。
本当に、人でなしだからもう言葉さえ心に届かないのだと自嘲しました。
朔なら、梅なら、自分以外の言霊使いなら…上手くやれたのかもしれません。
「…遼さん…」
空耳に思ったそれは……確かに聡介の声でした。
目の前の聡介は相変わらず、呆然と虚ろの抜け殻でした。
しかし、唄は止まっていました。
徐々に瞳に、光が戻り、表情を持っていく聡介の様子に遼は驚愕していました。
「……忘れたくないんだ……遼さんに、渡せないものがあるんだ」
「聡……」
「ごめんなさい」
深く、深く、聡介は謝りました。頭をさげていました。
遼ではありません。それは、息子の父親に対してでありました。
父親は尚も何か、言いたげに、腕をふりあげましたが
どこに振りおろしてよいか分からず、ただ黙って身を震わせるしかありませんでした。
なにか耐えるように、その様子は見えました。
事態が好転したように思えました。
野次馬の皆は、処刑が取りやめになったように錯覚しました。
遼一人を除いて。
「お前…どうして」
「聞こえたよ…。遼さんの声も…梅さんの声も…ありがとうございます。
でも…ごめんなさい」
「…………梅…あいつ…まさか…余計なことを!」
「…そう、だから助けてあげて………僕はもうなにもしてあげられない…。
むしろ…僕はあなたたちの敵だと思う」
「…………ということはお前」
無心であれば、いつものとおり処理ができました。
堕ちた者は処理され、その魂も肉体も言葉にのまれて言葉自身となってしまい、
無くなってしまう。
言霊使いたちはそれを救済と呼びました。言葉として生きていけるのですから。
遼はそれが嫌でした。
人間に生れたのだから、せめて人間らしく最期を終えさせてやりたいのでした。
だから言葉を自分に預け、聡介のままで命をおろさせること。
人間としてけじめをつけて、この世と別れさせること。
それがせめてのたむけでした。
しかし今、堕ちた者が現に心を返す事態が起こっています。
そして…今の唄がもし歌い終えていたとしたら…。
「……僕も、浅ましきもの……」
笑っている、その顔は失敗していました。
へらへら笑顔をうかべていた聡介に見たことのない様子でした。
深くため息をついて、ただ残念そうに想いを抱えたままに遼は聡介に言います。
「……泣くんじゃねぇ、男の子だろ」
「…厳しいな……遼さんは」
遼は思いました。
自分はいったい今、どんな顔をこの子に向けているんだろうか。
笑えているだろうか。
別れの時くらい、晴れやかに笑って笑顔で送りたいとは思いますが
笑える心地ではありません。
「………僕は……生きたい」
「わかった……じゃあ…俺たちの…敵だな」
刹那、遼はすぐにその場を飛びのきます。
「皆、この場よりひけっ!」
野次馬たちに言霊で命じるとともに印を切りそれを聡介にくくりつけます。
大人しく、くくりつけられますが
聡介の表情は苦痛にも、なんとも感じていないようでした。
「遼さん…」
呼びかけに構わず集中して、昔の知識を引っ張りだしながら術を結びつけました。
時間を、少しでも長く稼げるように。
「…こんなことを…思ってしまうなんて思わなかった…。
月並みかもしれないけれど死んだっていいってどこか思ってました…」
くくりは軋む音をたてながら壊れてゆきます。
今になって、ここに琵琶も杓も置いてきたことを悔やみます。
わずかに在った気持ちが甘かったのです。
(…聡介は敵じゃない。敵じゃない奴に戦闘準備なんてしたくない。
…馬鹿だな俺は…やばいんだぞ…ってときなのに)
最後の最後で詰めが甘い、昔からなんにも成長がありません。
くくりが解けました。
聡介から出てくる黒い霧は、堕ちた者であることをなによりも
示す証でありました。
それが自我を取り戻したのならば、処理は難しくなります。
ましてやその自我が望むものが「生きたい」ならば
処理という名の消滅はなによりも逃れたいでしょう。
遼の差しのべた提案すら蹴ったのであれば、それはもう貪欲なまでの想いでしょう。
時間はわずかに稼げましたが自分が逃げるぶんを失念しておりました。
失敗したな、と思ったが後の祭り。
遼の生涯は終わりました。
****
「張り倒さないんですか?梅さん」
まどろみの中で響いた声に、梅は驚いて目をみはります。
遼に眠らされた自分が、もうどうしても決して会えないと思っていた人が
目の前にいました。
峠の茶屋でわかれたままの風貌ですが、あの不安とそれでも希望に
溢れていた眼差しが消えうせています。
傍に寄ろうと、歩きますがなにか前にあることに気付きました。
それは幾数重にも忌み言が羅列して途切れぬ障壁のようなものでした。
触れなければ透明なものでしかありませんが、
梅がふれると鋭い痛みを感じさせます。見れば梅の掌が薄く裂けていました。
「……わかったことがあります…」
「聡介聞こえる?!」
頭をあげ、こちらをむいたようなので期待を持ちましたが
呼びかけた声を感じている風でもなく、虚ろに話す聡介の様子を見て
梅は状況を整理してゆきます。
聡介は梅を視覚では見えているのでしょうが、声は聞こえていないようでした。
そして、おそらく目の前の聡介は現のものではないのでしょう。
けれども、現の聡介に接するよりも、
梅には好都合でした。
「聡介…あんたはどこにいるの?」
心はどこにとどまったままなのでしょう。
「………人身御供養をしなければ村八分にされるかもしれません。
それに、藁にもすがりたい想いだったからかもしれません」
やはり、と納得しました。
この子はまだ…そこから動けていないのでしょう。
「………食いぶちが一人分減る為…なんにしても、生きる為だって。
憑かれたんじゃない…これからを生きる為に、正気でみんなは僕を捧げたんだ…」
「聡介、それは………真実やわ」
村で生きる以上、自分の家の子どもだけ捧げるのを渋れば村八分、それ以上のことを
されるかもしれません。食いぶちが減るのも事実でしょう。
藁にもすがりたい想い雨を乞うたのも本当でしょう。
梅は、聴いたのですから。
「…いらなかったんだよ。僕のこと…。
でも…ね、これ強がりかもしれないけどそれでも……いいやって思ったんですよ。
だって小さな役に立たない僕は…少しでも役に立てたならいいや…って」
「聡介…聞いてほしい…本当は言わなくちゃいけなかった」
たとえ、自らの子を差し出して生きている家人であっても、もしかしたら
いつか聡介は逢いたいと思うかもしれない。
思った梅は旅の途中に、聡介の生家をたずねます。
天神様への雨乞いが終わって数年の、月日が流れたころでありました。
訪ねた家で迎えてくれたのは年老いた男―聡介の父だけでした。
「……………本当だよ。根拠ならあるんだよ……」
「でももう少し。聡介、あんたが全部赦すことができるその時に…話そうと思ってた」
古く、寂しい家でした。
決して広くない家でしたが父親一人が暮らすには、なんとも物悲しい雰囲気です。
―茶を出しましょう―
言って笑った父親はいそいそと欠けた湯呑を持ってきてくれました。
家には二つの菩提がありました。
梅の視線に気がついたのでしょう。父親は言いました。
―家内と、息子です―
「………風車が好きなのは…母さんが不器用なのに…作ってくれたから。
稲穂が好きなのは…あの中に父さんと兄さんたちを探すの楽しかったから…」
「聡介、お母さんはあれからずっとあんたを失ったことを悔いてはったって…。
いつも天神様の山道を登って、毎日のように謝りにいってた…。
その帰りに…崖から落ちてそのまま……」
息子たちは父の行動を理解しながらも、軽蔑していました。
それを父親は感じ取っていたようです。
つらかったでしょう、と言えば父親は言いました。
―あの子等…妻……のつらさに比べたら…いえ比べるものでもありませんー
遠い目をして父親はそこに座っていました。
「……それだけ…みんなが好きだったから…。悲しかったのは…みんなは
僕のこと…そんなに好きじゃなかったんだってことなんだ」
「………残酷なことをしてしまったのかもしれない…。
お父さんに言ってしまった…。聡介は生きてるって」
―本当に?本当ですか?―
繰り返すばかりでした。
落ち着くと彼は肩を震わせて決して梅の方を見ませんでした。
逢いますか?、と問えば父親は首を振りました。
ひとつだけ問われます。
―あの子は、幸せでいますか…?…どうか……どうか…―
身勝手かもしれません。遅すぎる悔恨かもしれません。蟲のいい話でしょう。
それでも父親はお願いを、するのです。深く頭を下げて、両手をついて言いました。
―どうか…あの子を…お願いします―
梅はこの気持ちがあれば…大丈夫なのではと思ったのです。
遼に連絡をとり、相談した結果―父親を聡介に会わそうと決めました。
月日を置いて、それから事の次第を父親に説明しにゆきました。
村はありませんでした。
戦で焼け野原になっているだけでした。
「梅さん…教えてほしい…。あの後…雨は降ったの…?」
遼は梅に訊いてきました。
―あの後、雨は結局降ったのか?-
梅は言いました。
―降ったよ。…見て……今もほら…こうやって降ってる…―
仰いだ曇天の雲間から、幾筋も降ってくる雨水を、梅は見上げていました。
「聡介!!聞こえてないのっ!!全く聞こえへんのんやね!!」
ドンドンと壁を叩きますが、梅の掌が裂けていくばかりでびくともしません。
夢の中ではなにも使えません。術も、式神すら使えない中
梅がすることと言えばただ叫ぶだけでした。
この障壁が何度助けようとした仲間と自分たちを隔てたでしょう。
声が聞こえるのに、こっちの声は聞こえず、
ただただ仲間の辛い独白を聞くばかり、耐えきれず思いっきり体当たりした仲間は
壁に引き裂かれ、肉片になってしまいました。
赤く、赤くなった梅はその掌を見ます。
今までここでやめてしまいました。
梅は一息ついて、なんだか自然に笑みがこぼれてゆきます。
自嘲でも、冷笑でも、朗らかな笑みというものもないでしょう。
「…………ねぇ、聡介……人に…本当に気持ちを伝えたい時って……あった?」
梅には何度もありました。
友人と、家族と、仲間と…最高の友人に。
けれど大事なところには踏み込みませんでした。
泥沼な関係を毛嫌いしていた梅にとって、深く付き合うことは苦手でした。
だから上辺だけ、こじれないように上手に相手と自分の距離感を持って
接していく。
繰り返すうちに上手になりました。
繰り返すうちに臆病になりました。
「生涯ではじめて、伝えなくちゃいけないって思うものはせいぜい恋心やと思ってた。
……でも違うかったみたい、やね」
肉片になった仲間は、現に返ればぼろ雑巾のように消耗した
かつて元人だったものになっていました。
例外はないでしょう。それがこの世界―梅の生きる世界です。
「言葉は想いを伝える為にあるんやろ?なら届けたのはなんだか今みたいやわ」
全身全霊を込めて、術もなにも使えなくてもせめて
伝えたい想いだけを一身に考えて、梅はぶつかってゆきました。
酷い不協和音が耳をつんざいていきました。
残響が周囲を覆い、鋭く何かが割れていくのを耳に捕えました。
驚いた聡介は、梅に駆け寄ります。
自分の体なのに思う様に動かない調子に、梅は焦りました。
ちゃんと口が動くだろうか。
「……うちの言葉…無視なんて…張り倒しに来たわ…」
「梅さん………!」
ここは笑うか、怯えるところなのですが聡介はただしっかり
梅を抱きかかえることしかしません。空気が読めないのは昔からですから
今更言っても治らないでしょう。
「………なぁ、聡介…雨は降ったみたい…やよ…。
でもね……お母様の顔にも、お父様の顔にも…お兄様たちの顔にも
毎日降ったみたい…」
「………梅さん」
「…いらん子?好きじゃない??
聡介、『とおりゃんせ』でやり残したことが…やっとわかった…」
梅の手が聡介の胸に触れました。コンコン、と弱く叩き優しく言います。
「憑かれてたのは…あんたの心…やわ」
****
手が落ちました。
あわてて握りしめるその手の脈は、小さくなっていきます。
無傷の梅、けれどもどんどん衰弱していく梅の様子。
言葉が聞こえてきました。
それはどれも梅の声でした。
隔てられていたものがなくなり、次々に…雨のように声が
響いてきます。
柔らかい、優しい、あたたかい音で。
同時に、誰かの声も聞こえてきます。
疲れたその声は、小さく弱弱しいものでしたが、次第に強く
響くものとなってゆきました。
―あの子を…どうか…お願いします―
「父さん…?」
一斉に声が止み、静寂が支配した後―
はっきりした声色が聞こえてきます。
迷わず、まっすぐに、自分の言葉を信じるように語りかけるその声を
聴きたがえるはずはありません。
「遼さんだ…」
言われる言葉はすべて、ひとつひとつに耳を傾けながら…苦笑します。
聡介は、両腕で抱える梅をそっと置きます。
ふと彼女の懐に見えたものをそっと取り上げました。
赤と、青の紙でつくられた風車でした。微笑むと、それを自分の懐に
戻します。
天を仰いで聡介は言います。
「遼さん……梅さん…ありがとう…。
そして、ごめんなさい…僕は…もう少しだけ…生きる時間がほしい」
****
黒い曇天が街に渦をまいてゆき、それがどんどん空の青を消してゆきました。
人々は思うより早く、戸惑うよりもすぐに、恐怖で動けなくなる前に
誰かの声に応じてその場を逃げてゆきました。
街から離れた山の中、参道の石段を上ってついたその先に
次々と集まってゆきました。
呱々理は僧たちと共に来る人を招き入れ、丁重に本殿に通してゆきました。
街を見やります。
最早黒と鉛色に煙る街に、かつてのにぎやかで美しい逢坂の面影が
ありませんでした。
「………梅様」
不敵に笑う顔―
立ちはだかっても物ともせず、通り過ぎっていかれました。
「……朔…」
不安そうに、梅の後を追う姿を見送りました。
呱々理には思い出されます。
一人の娘。
「燕……」
街に行く、ひとりでいかなくては意味がない、だから黙っていてほしい、
そんなところだろうと思った娘は街に行きました。
手を、掴めばよかったのでしょうか。
なにか言えばよかったのでしょうか。
だとしても呱々理に何が言えたのでしょうか。
ふと、耳に入った音に
―呱々理はあたりを見渡します。
やがて溜め息をつき、約束の時を、ただただ待つのみでした。
***
「まったく……こうめんどうを増やすの、やめてよね…うざいから」
「いきなり挨拶だな」
遼は苦笑しながら身を起こします。
腕に思う様に力がはいりません。起き上がるのに失敗すると
聲の主は鼻で笑います。
「…およせなさい…お前にはできましたか?
もし遼と同じ立場ならば…最後までその手を差し伸べることが…」
「私は見捨てますよ。効率的じゃありません…」
もう一声、入ってきます。
視線だけを動かすと、銀髪頭のひねくれ者と同時に穏やかな顔で
こちらを見る老女が座っていました。
彼女は傍によると、そっと遼の頭を撫でます。
「よくもまぁ、相変わらず規則は嫌いですねぇ」
「…まぁ、これも宿命でしょう。俺は規則を打ち破る為に生きてるんで」
「まぁ…元気に声が回りますね…」
「えぇ、心配ありません」
痛む体に鞭うって起き上がります。
たって、そっと梅の傍に歩み寄りますと蒼白の朔が遼を見つめました。
「大丈夫だって」と笑うと、遼は梅の顔色を見ます。
妙な事に、今までとはちがって血色はありました。
しかし、もう力はありませんでした。
(起きて梅ができることはもう無いだろうが…起こさなきゃな)
これ以上、数少ない友人を減らすのは忍びなく思い、
そっと彼女の手をとりました。
*****
梅は歩いていました。
道筋などわかりませんが、ずっと「戻りたい」と思い続けていました。
次々にでてくる懐かしいものに別れを告げながら。
特にそこがあまりいていいところではないので足早に過ぎていました。
懐かしい学び舎。
懐かしい京の都街の一角。
水と緑の静かなあの貴舩の里で過ごした修業時代。
一緒にいたのは、あの人とあのこと、ある馬鹿でした。
いつものようになにかおかしい話をしては、あの人と馬鹿は大笑いし、
あの子は困った様子で見守っており、梅はその三人の中にいました。
それが過去だと知っているから梅は無視しました。
優しい過去は梅を通り抜けて、次々に梅の背中の彼方へ行ってしまいます。
(どうか…いかないで…)
声に出せば、振り向けばいけないことを知っていたので
せめて思いました。
(どうか、安らかに)
終点は近いでしょう。けれども強敵も近いでしょう。
一番長くいて、身近にいて、今まで一緒にいて、そしてこれから歩む道を
別にする人が立っていました。
黒髪が珍しく整えられていたころは本当に、言霊使いとなった初めのあたり。
紺地の着物はまだ新しく、杓も持っていなかった時のこと。
あの頃、どれほどの時間に恵まれていたのか、と梅は思います。
(…ここまで未練たらたらなんて…いややわ)
通り過ぎることは決定しておりましたし、意思は固くなっておりました。
この人と別の道をいくことを、とうの前に選んだのです。
現の自分には、永遠を約束した人がいて
その人の赤子まで抱えているのです。
だから目の前のこの人も、そっと通り過ぎて
背中の彼方に置いていかなければなりません。
でもなぜ、歩むのを待ってじっと見つめている今の自分がいるのでしょう。
(自分の心も騙している…上手いこと言うやない?朔ちゃん)
納得して、選んですませたことに悔恨を残さないのが梅の信条でした。
岐路の選択を憂う時間は無駄であり、無意味であり、ただの感傷です。
(心にそう言い包めて、心になにかを沈めていった…そう…きっと嘘かな)
もしかしたら力が弱くなっていったのは
その所為かも知れませんが今に思えばあとの祭りでしょう。
歩いてゆきます。
出会ったことも、共に過ごしたことも、肩を並べたことも、
いつも想ったこともすべて、この背中の遠い場所に通り残してゆきましょう。
ぶつかりそうな形になっても、今まで通り過ぎていった者たちと
同じように、すり抜けます。
すれ違い、あなたはきっと違うどこかに行くのでしょう。
見つめる先も違います。
ふと、思うのです。本当に、遼が最後だったのでしょうか。
……本当は、もうすぐ過去にして背中の後ろに置かなくてはならない人が
いるのだと…梅は知っていました。
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―――――――――
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葦比良の推古院の角部屋に、控えめな声がします。
「準備はできたかね?梅ちゃん」
「えぇ…大丈夫やよ。紫乃さん…いつ頃ついたの?」
引き戸があくと、物腰穏やかな老女がそっと部屋に入ってきました。
紫乃という名の梅の仲間は袖口で口元を押さえて、ふふふ、と
笑うと
「あのわんぱく遼の坊を助けに行ってあげたから…いつかしらねぇ」
答えました。
梅の相変わらずの普通さに、紫乃は苦笑しました。
全く遼と同じです。
(意地っ張りで、素直ではなくて、弱みを見せるのが大嫌い)
歳劣ればそんな強がりも可愛らしく見えるのですが。
彼女が帯をしめようとして上手くいっていないので、そっと背中に回って手伝います。
身重だと聞いているから、お腹に負担がかからないように結びました。
「……どうして……ほっとけなかったのかしらね」
悲しいことを我慢している姿はいつの歳になっても見るに堪えれないほど
痛ましいのと紫乃は感じるのでした。
沈黙を、破ったのは梅でした。
「……人なんて分かりあえるわけじゃないんです。生まれた時も一人だし…
死ぬ時も一人でいなくなっていく」
「あらぁ、半分足を棺につけてる私には痛い話だわ」
紫乃は笑いましたが梅は笑いません。歳をとると自分の冥土のことも笑い話の種にしてしまうのですから全く困ったものです。
「…聡介のお父さんに…頼まれたのに…紫乃さん………守れなかった…」
「梅ちゃん…?」
後ろ姿しか彼女は見せませんが、肩がふるえているように思いました。
けれどすぐにその両肩を、梅は自分の両手で抱きしめて堪えていました。
帯をそっと離すと、紫乃は言いました。
「ねぇ、梅ちゃん……これから言うことは言霊使いの私がいうのじゃなくて、
そうねぇ…耄碌したおばあちゃんの独り言だと思って頂戴」
「……」
自我を持ってしまった堕ちた者が、どれほど凶悪に慾を求めるのか
今まで例のない未曽有の事態になってしまったのです。
罰がくだるほどの愚行でしかないでしょう。
「…遼のあんぽんたんを助ける時に、私は聡ちゃんと会ったわよ。
本当に……本当に…穏やかな顔をして笑う子なのね…」
意識のない遼を、抱えた紫乃と、もうひとりの仲間の大河は
その禍々しくも未知なものにどういうわけか恐怖心がいだけませんでした。
―遼さんと梅さんをお願いします……―
丁寧に頭をさげてそこから消えた彼がことの元凶だと信じられませんでした。
けれど思うのです。
たしかに未曽有の事態になったかもしれないけれど、これはせめてもの
幸いかもしれない、と。
「梅ちゃんも…あのろくでなしの遼坊も……あの子の心をちゃんと守ってあげたのね」
「…えっ?」
「昔っから遼のせっかちは堕ちる者がいれば馬鹿みたいに呼びかけて…。
でも…誰も…無理だった。……少しだけ報われたのかしらね…」
振り返る梅の耳は真っ赤になっていました。
人前で泣きたくないからなのか、背中を向けたままでした。
その肩に、そっと手を置きます。紫乃は、せめてもの想いで話しました。
「………聡は…ずいぶん前に言ってたよ?あそこは帰る場所だって…なんでかわかる?」
「わからない」という代わりに首を振る梅の背に、言いました。
「………あそこは厳しくて…でも優しいからだって、ね…」
―帰る場所は故郷っていうんじゃないですか…紫乃さん…間違いかな…-
昔の春のある日の、ことでした。
「紫乃さん………でももとに戻したかったの……」
「でしょうね…」
穏やかな日々に、旅路のなかに身を置いても、仲間のことを思えば孤独じゃなくなるような心地。
今頃何をして、なにを思っているのか、とあんずる気持ち。
出会えば笑ったり、怒ったり、少し泣いたり、そんな日々の中に
取り戻したかったのでしょう。
「いつの世も、過去には戻れません。梅……その日々も、聡介がいるその日々も
過去になってしまったのでしょう…」
梅は紫乃の胸にしがみつくと、声をあげて泣いていました。
頭を撫でながら、紫乃は紫乃個人ではなく、言霊使いとして言います。
「さぁ、大仕事をしましょう。そしてこのお話に…終わりをおくりましょう…」