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言葉くくり~とおりゃんせ~  作者: 遠野根っこ
6/8

ゆびきりげんまん 下


手をひかれてここに訪れたのも、夏でありました。


ずいぶん遠くまで来たと思います。右を見ても左を見ても、幼子にとって

そこは住み慣れた村の光景もなく、親しんだ人達もいませんでした。

ひとつだけ分かることは、ここは明るい空の下であることです。


暗闇の中ではありません。


風が頬を過ぎました。

久しぶりに顔をあげれば、横には無数に並ぶ地蔵が

茂る森の斜面に器用に並んでおりました。一緒に、いくつかの風車が供えてあります。


「うわぁ、なんで回りだすん?不気味やないの」


手引いてくれている傍を見上げれば、そこには女の人がいました。

萌黄色の小袖を着て、笠をかぶったその女の人を知りません。


「…まぁあれだ。一応俺たちのことを歓迎してくれてるって思えば」

無精髭の男で、紺地の袈裟を着た僧姿の人は言いました。

この人も知りません。


知らない人と一緒に、どうしてここにいるのかと考えれば考えたくありません。

別段彼等から逃げ出したいわけではなく、家に帰りたいでもなく、何処かに逃げおおせたと安堵しました。


「あっ、おいおいあんまり俺らから離れるなよ!


地蔵に、そえられた風車を眺めておりました。

赤い風車は風を回して、くるくると綺麗に円を描いています。

他も見やれば青もありました。

毎日仕事をして、手の皮がむけている母がくれた手作りの玩具。


その一つに風車もありました。

風を受けて動くものが好きでした。

風車も、稲穂の海も、思い出せばあるあたたかい

家族との思い出も大好きでした。

今はもう、そんな気持ちが陳腐に思えてしまうことがとても虚しく感じるのです。


***


「聡さん!聡さん!!」

「はぁ……、すみません寝てました」


よだれをふいて目をこすって、身を起こせば本殿の広間の真ん中でした。

桶とぼろ布を渡されて、広間の雑巾がけを頼まれた聡介ですがやり終えると

ちょうどいい達成感と爽快感、そして眠気にまけて転がったのを思い出します。


「朔、もう昼になりましたか?」


朔と呼ばれた娘は、おかっぱの黒髪に大きな黒い目をした

薄紫の小袖を着た子でした。聡介より先にこの生業について三年先輩ですが

歳がそう変わらない為、二人は慣れ親しんだ仲でした。


「とっくに過ぎましたよ。残念ですが聡さんのぶんは残っていません」

「ははっ…そんな大福好きなんですけど…」

「だって聡さん、どう考えても一人分足りなくなります。勝手に連れて来たんだから」


それを言われると聡介もぐぅの音もでませんでした。

「はい」と大人しく引き下がると、掃除に使ったものを持って、もとの場所へ直しに行きました。

廊下に出れば涼しい風が頬に触れます。

境内を取り囲む森も、そこに険しい顔で経を読む僧たちも、

童子が懸命に掃除をする姿も何もかも、昔のままでした。


流れる者以外は、そのままです。


掃除の道具をもとに戻し、本殿を出ていきます。

推古院にいけばなにか食べ物があるでしょう。

思って歩いていけば、軒先に座って大福をゆっくり食べている娘がおりました。

近寄って、それを取り上げます。

非難の視線を向けますが、何食わぬ顔で聡介は大福をたいらげました。

たいらげられ、娘の大きな青い眼は余計に怒りを表しにします。


「だって食べたかったんだ…いいじゃない。別に、また買ってこれば」

「………食べて…ない…のに…」

「細かいこと言わない。それに、こんなところでゆっくり食べる時間じゃないでしょ?

 呱々理が探してたよ。もうそろそろ用意しなきゃって。葦比良様も待たせると悪いし」

「…………」

「燕?」


そっぽを向いてしまいました。

「ふぅ」と短くため息をつくと、肩を軽く回しました。両腕をそっと燕の足と背中を抱きかかえます。

一層嫌そうな顔をして聡介を睨むも、不自由な手足と痛む体には抗う力が

ありませんでした。

大人しくなるのを待ってから、聡介も歩き出します。

目指すは岩殿の傍の小川が流れ込む小さな出水滝です。


「痛いかもしれないけど…頑張って。そしたら治るから…治れば、たくさん歩けるし

 好きなものも買いに行けるよ。ね」

「………だ…い…ふ…く…も?」

「ん、買いに行ける。あんみつとかもあるよ。朔はそっちの方が好きって言うけど

 僕は断然大福派だな」

「……ど…う…し……て?」

「秋は栗が入ったりして、春頃は抹茶餡子になるんだ。味は多い方が楽しいでしょう?」

「…………そ…う…な…ん…だ…」

「そっ、さぁ着いたよ」


岩殿を正面に左に折れば、小さな銀の社があります。

そこをくぐると、途端に燕は苦しそうに顔をゆがませました。

呱々理によれば燕に積み重なった芥等が、流されるのを嫌がって暴れだすそうです。

燕の首まであるイボは真っ赤に腫れあがり、痒そうに燕は手を伸ばします。

かかせまいと燕の両手を握り、葦比良の姿を探しました。


「…用意はできた。来なさい」


奥の方で声がします。聡介はそれに従い、燕を奥へと運びました。

綺麗な水は本当に水色をしているらしく、透き通った淡い青の色をしたせせらぎを

たたえる水辺に葦比良はいました。

聡介はそっと燕を中にいれます。水面が触れるだけで燕は、声無き声をあげて

懸命に痛さから逃れようと暴れます。

泣いていたがる様子を見て、一度手を緩めた朔は暴れる燕に殴られたことがあります。

必死で抑え込むと、葦比良は呱々理を呼びました。

小坊主の呱々理は元気よく出てくると、そっとその人の姿を解きます。

現れたのは白い色をした狸姿。

呱々理は習わしに従い秘伝の真言文字を水面に落とします。

文字は水中に融け、水を光にみたしてゆきました。燕は比例して大層に暴れます。

聡介は抑え込みましたが、腕に思いっきり歯形がつき、爪を立てられました。


「…聡介、呱々理に代わりなさい。ここを血で穢してはいけない」

「……はい」


本当は傍で手ぐらいは握っておきたい気持ちですが、

ここにいても邪魔なのはわかりました。

聡介はあとを葦比良と呱々理に任せます。


自由に歩けるようになりたい、話せるようになりたい。


これは燕がぼやいていた望みでした。聞いた朔はなんとかできないものかと

聡介に相談したのです。

反対される可能性が大きかったのですが聡介は葦比良に直接頼み込みました。

容易く取引は成立しましたが、その代り、聡介には書庫整理を任されたのです。

普通の常人が本気でかからなければ何カ月もかかる仕事ですが、

言霊使いなれば、言葉が勝手に動いてくれるだろうと、気楽に頼みこみましたが

書庫に入れば戦慄が走りました。

すべてが聡介の預かり知れない語群ばかりなのです。

灰青の新調した着物をたくしあげ、首を回して一息つきます。


襖をパタン閉め、覚悟を決めたのでした。


****


「聡さん…聡さん!生きてますかぁ!!」

「……そこにいるなら…お願いだから引っ張って…」



引っ張りだされてようやく視界が明るくなると、聡介はほっとした顔で

助け出してくれた方を見やしました。


「書庫整理は別名、無茶振りだって…遼さんが言ってましたが…どうでした??」

「まったくもってその通り……朔もやってみる?」

「結構です」

「…うぅ…手伝ってもくれないの??」

「はい」


はっきりした物言いで言われたものだから聡介は意外そうに朔を見つめます。

けれど彼女は何も言わず、普段通りの様子でありました。


「ははっ…厳しいなぁ」

「聡さんは…甘いですね」


これはなにか悪いことをしたのかもしれない、と勘ぐりますが

全くもって思い当たる節がありません。


「……怒ってる?」

「いいえ……優しすぎるんじゃないですか…?なんだか意外でした…」

「燕のこと?」

「はい」

「だよね…こうやって生業に関係のないことまでしてる…変かな」


あのまま帰るべきだったのか、と迷ったのは事実でした。

(それでも彼女を離さなかったのはおそらくは…)


「…初心に帰るってこと。…僕は……憑かれもの類で起こる出来事が

 これ以上増えてほしくない。だから言霊使いになろうと決めたんだ…。

 遼さんと梅さんに…助けられたみたく……自分にもなにか助けられないかなって」

「………なんですか?お疲れのせいですか?らしくないこと始めて…。

 自分語りなんて…本当にらしく…ありません」


容赦ない物言いが小気味よく感じるのは、朔とは遼と梅の次に

長い付き合いからかもしれません。


「朔……」

「はい?」

「僕ら……ずっと…友達だよね」

「…………同僚です」

「友達っていう名の同僚…ってこと?」

「言葉のまま、裏表なく。た・だ・の・同じ仕事仲間です」


むきになって言う彼女の物言いがおかしくて聡介は笑うと、気を悪くしたらしく

大いに耳をつねられたのでした。


****


蚯蚓腫れのようにふくらむイボだらけの体を、そっと燕は擦ります。

すると身を千切るような痛さが全身を走るのでした。

相変わらず全身を覆う、イボは消えた形跡もありません。


「……あ…た…し…」


喉を押さえ、喉仏が動く感触を指でなぞりました。

声も話しにくい不自由を感じます。


治った感じがしません。毎度毎度苦しいだけでした。


(けれどもう少し続けたら…?そしたらきっと治る…治るよね)


気力を持ち直し、燕は自室へと向かいます。


***


呱々理は去っていく燕の頼りない後ろ姿を見送りながら、主を見つめます。

その御身は気高くも、水穂の国に三体しかない三人寛恕の一体であります。

葦比良は穏やかな菩薩のような表情で燕を見送っておりました。

穏やかな顔のまま葦比良は言いました。


「呱々理、あの子は与えてくれると思うか?その為に、働いてくれると思うか?」

「…葦比良様…」

「どうだろう?無駄か?全く役に立たない出来事か?まぁいい。面白いから」

「…………」


美しい面持ちで優しげな笑みで葦比良は続けます。


「よく我慢する。面白い、さぞかし痛いだろうに…」


呱々理は忠実に沈黙を守り、

燕の姿が回廊の角で曲がって消えるまで見つめ続けました。


****


書庫での整理を終えた後、聡介は呆然自失状態で仰向けになっておりました。

広い間の口羽の間という天井に描かれた、どこからどう見てもこちら側を睨んでいるように見える幻想上の空物とにらめっこをしている状態です。


「にらめっこ…しましょ…」

これはなんの言葉くくりだっただろう、と回想します。


「笑うとだめよ…」

そうだ、これは確か笑わそうとする父親の言葉だったように思い出しました。


「あっぷっぷ……」

なんの抵抗なく、ただ想いが其処に残っていただけの状態でありました。

恨みも、憎しみも、なにもなく、ただ子を心配するだけの

未練が残るだけのものだったように覚えています。


憑きものなく、ただそこに父があり、

その父の子が笑う様に練習する様を見守り続けている父親の姿がありました。



「……僕みたいな子…だけじゃなかったな…」


守られた子どもだっていました。

愛された子どもだっていました。


そもそも聡介は自分も愛されていると思っていました。

けれど、それが信じられなくなったのは…………まだ答えが見つかりません。


「あれは、憑きもののせいなんだ…」

わからなくなればそう結論しました。

見つからない答えを考え込むと、なにか、なにかが

おかしくなってしまいそうに思えたので。


「だから…違うんだ」

でもだとしたらなぜなのか、聡介には答えにつまります。


(どうして故郷に戻らない―?)


あの村のことは「とうりゃんせ」でくくりつけたはずだから

憑きものはもう拭われたはずです。


「なんで帰れない…ってあの時、燕に答えたんだろう…?帰るって…帰るよね…僕は」

「………聡…介…」


ペタと床から耳に音が伝わります。

身を起こせば、燕が危なっかしい足取りで歩き寄っていました。

慌てて立ち上がると、そっと燕を支えます。


すんでの差で燕は転びそうなところを防げました。


「……調子はまだ悪い…?」

「……う……ん…」


此処に来て葦比良に頼んでからずいぶん経ちます。

それでもまだ、まだ無理でした。まだ満足にひとりで歩けるほど回復はしていません。

「ひとりでここまで?」

「…ち…が…う……朔……」

「そう…どうしたの?自分の部屋には戻らないの?」


燕は少し目を伏せ、見上げてきますがなにも物言おうとしません。


「……長い話?いいよ…いくらでも待つから…言ってごらん」


聡介の促しに、僅かに反応した燕は口にしました。


「あ…た…し…は……ひ…と…り…で…へい…き…」

「…燕?」

「……そ…う…すけも…そう…でしょう?」

「……言霊使いは一人だよ。平気も何もない。馴れ合いはあっても、基本はひとり」

「……うん……うん……」

「それがどうしたの?」

「……ひとり……あ…た…し…も……で…きる…?」

「…どういう意味?僕と同じ生業になりたいってこと?」

「ち…が…う。ち…が…う…」

「ひとりで生きるようになれるかっていうこと?…できるよ。普通できるでしょう?」

「………うん…うん……」


なにか一つ一つ確認するように、燕は「うん」を繰り返しました。

何が言いたいのかわからぬ聡介に、燕は微笑みをうかべて見上げました。

「わからなくていい」というような笑みでした。


「……あた…し…が…ん…ば…る…」

「燕は頑張ってるよ」


首を横に振り、彼女をそれに否定しました。

「頑張っている」という言葉を口にしながら聡介も思います。

別に間違っているというわけではなく、なにか段違いになった引き出しのように

合っているけれども、適所ではない感覚でした。

「……へ…い…き……」

彼女はまるで自分に言い聞かせるように、言いました。



***


朔が泣いているように思えたから、燕は彼女の肩に触れました。

涙には、一緒にいることが特効薬だと知っていたからです。

逆にひとりは、悪化することを知っていました。


「なぁに、燕ちゃん…」


笑う顔を浮かべる朔を見つめ、燕は感じます。

また、偽物くさい笑顔を向けられている、と。

聡介と出会った時、彼もまた愛想笑いを繰り返し、それは癖なのか

今でも見かけます。それでも、まだだいぶましになりました。

時折ですが、聡介は本当に笑っているように見えました。

「この人はこんなふうに笑うのか」と思います。

小さな幼子のような無邪気で、てらいもなく笑う顔を眺めながら

燕は見ていました。


でもここの人の偽物くさい笑顔は、燕の知る世界のものではないことを

よくやく学んだのです。

ここの人のこんな笑顔は、向ける相手にも笑ってほしいようなものだと

思ったのです。


「……燕ちゃん…いい名前だよね…。まるで…私たちみたいな名前…」

「………?」


笑顔が止んだ彼女の横顔は、普通どおり穏やかで少し気弱な印象をうけるものに

戻っておりました。朔は燕の手を握ります。

イボだらけの気持ち悪い掌にも関わらず、しっかり握ってくる手を

大事そうに、燕も握り返しました。


「………あたたかいところにいて…でもいつまでもおなじところはあたたかくない。

 いつか、冬がくるからまたあたたかいところへ飛んでしまう…」

「…………」


雨を告げる鳥、と彼は言っていました。朔は、「私たちみたい」と言いました。


「さ…く…?」

「………燕ちゃんはこれからどうするの?…聡さんと一緒にいるの?」

いけないのだろうか、いいのだろうか、迷って返事を窮すると朔は言いました。


「聡さんはそんなつもりで燕ちゃんを助けていないよ…。自由にしたらいいと思う」

「………」


自由に。

四六時中憧れ求めたものなのに、どうして今は酷く心細いものに聞こえてしまうのでしょうか。


「……言霊使いは一人ぼっち。馴れ合い、通しながらも、心を通わすことはできない。

 通わせれば最後、執着を生み、私情に固着し、資格を無くす…。

 聡さん、帰る場所ないから…もうこの生き方しかできないんだと思う」

「………そ…う…?」

「うん、そうなの」


だとしたらなんて、なんて悲しい決意をしたのだろうと燕は思います。

もしも泣いた時、傍に誰もおらず、涙を流すほどの悲しみと

ひとりで向き合わなくてはならない事がどれほど孤独なのか、燕は知っていましたから。


「私や聡さんのように、燕ちゃんもひとりで生きて行かなくちゃいけないね」


寂しく話した言葉と、燕を残して朔は行ってしまいました。

燕は朔の言葉を何度か頭で反芻します。胸がぎゅっと痛みました。


ひとりで生きてきました。できないことではありません。

今までができたのですから。


けれど、今からはどうでしょう。

ここは、聡介が連れて来たこの場所は燕にとってひだまりでした。

其処に座っているだけで、あたたかさが降ってくるような場所でした。

優しくされることを知りました。愛想笑い以外の笑みを知りました。

奇しくも、一緒にいたいと思える人に出会いました。


その全部忘れてまたひとりに戻れるでしょうか。


「…聡…介……」


歩いて、壁を伝いながら歩いて探した人は寝転がっていました。

こっちを見るとあわてて起き上がり近寄ってきます。

歩いていきたいのに、足はもつれて痛くて転びそうになりました。

けれど聡介は支えてくれました。


(この腕は、いつか、必ず無くなる。近ければ明日からでも明後日からでも…)


「……調子はまだ悪い…?」

「……う……ん…」

良くなりたいのは、本心はきっと、このあたたかい腕の人と

いつまでも一緒に歩きたかったからかもしれません。


「ひとりでここまで?」

「…ち…が…う……朔……」

「そう…どうしたの?自分の部屋には戻らないの?」


それはできないことを、思い知らされたのは良かったかも知りません。


「……長い話?いいよ…いくらでも待つから…言ってごらん」

いつもたどたどしく話す燕を苛立たずに待ってくれるこの人の、

眼差しを見つめました。

思わず逸らします。

そして安堵しました。思い知らされて良かったと。

この人の人生に自分が重荷にならずにすんだのですから。


「あ…た…し…は……ひ…と…り…で…へい…き…」

「燕?」

一緒に居たいと、我儘を言わずにすみました。


「……そ…う…すけも…そう…でしょう?」

「……言霊使いは一人だよ。平気も何もない。馴れ合いはあっても、基本はひとり」

はっきりと話す聡介の口調にほっとします。

もしも、なにか言葉を選ぶように慎重に話すのなら希望を持ってしまいますから。

迷っているのなら、一緒にいてもいいのかと、思ってしまいますから。


「……うん……うん……」

「それがどうしたの?」

きっともっと早く会っていたら、もう少し違う問答があったかもしれません。

燕が、こんな体ではなかったら、もっと自由に話せたら、

きっとこの手を握り締めて離さなかったかもしれません。


「……ひとり……あ…た…し…も……で…きる…?」

ひとりで生きていけますか。

この見つめてくる人のように、決意を固く、これからの人生を歩いて行けるでしょうか。


「…どういう意味?僕と同じ言霊使いになりたいってこと?」

「ち…が…う。ち…が…う…」

それはきっとできないでしょう。知ってしまいましたから。

聡介と交わした言葉の中で、ふれたあたたかい優しさに愛しさを持ってしまいました。


「ひとりで生きるようになれるかっていうこと?…できるよ。普通できるでしょう?」

「………うん…うん……」

けれど聡介はあくまで生業の一環だったからかもしれません。

それとも気紛れ、はたまた同情かもしれません。

それだけだったのでしょう。


心配そうに、なにか物言いたげにしている聡介の様子を見て

燕は微笑みをうかべて見上げました。

(わからなくていい…)


「……あた…し…が…ん…ば…る…」

「燕は頑張ってるよ」


首を横に振り、否定しました。

強く生きよう、けれど……聡介のようにはできないでしょう。


誰にも執着しないなんてもう無理でした。

手遅れでした。


(今は強がりでも、きっと本当にして見せよう…強くなって…そしたら今度は今みたいに

助けてもらう側じゃなくて、助ける側になろう)


「へ…い…き」


嘘が本当に見えるように、燕は笑いました。


***


頑張り屋の燕が一層頑張るようになったと聡介は思います。


なにか手伝おうとすれば、「平気」と告げられるのは毎回のこと。

強引に手伝おうとすれば、怒られるのでした。


「…少しずつ出来ればいいと思うよ。…それまでもっと頼ってくれればいい」

「うん…」


返事ばかりで頼ってくれたことはありません。

朔に相談すれば言われました。


「いずれ、聡さんはまた流れて行くんでしょう?あの子を…連れて行くんですか」


それはできません。

旅は道連れと申しますが言霊使いの旅は一人で行くのが決まりでしたから。

偶然かち会うことはあっても、旅路は一人で行くもの。

燕を連れていくなどできないでしょう。


「連れてはいけないよ…そうだね」


そうか、と気づきます。

彼女は一人で生きる準備をしているということ。


「………そうだ、ね」


だからかまわないでほしい、と言ったのでしょう。

どうせ離れて行くのならば。


以来―

聡介は燕を見ても、ただ見ているだけにしました。

その手が彼女を手助けすることはありませんでした。


***



ある日のことでした。



「どこに行くんですか?」


呱々理に呼び止められ、燕は困った顔をします。

この小さな子は秘密をちゃんと守れるでしょうか。誰にも言わないでしょうか。


「…ひ…み…つ…だれ…にも…い…わない?」

「見くびらないでください。僕、口が堅いですよ」


胸を張る呱々理を微笑ましく見つめます。

もしも兄弟がいるのなら、こんな弟がほしいな、と思いました。

可愛くて、ちょっと生意気な感じくらいがちょうどいいのでしょう。


「……だ…い…ふく…買い…に…行くの…」

「大福なんていつもの柏屋が来るのを待てばいいでしょう?」

「一個……足りない…で…しょう?」


燕が来たせいで一つ足りなくなったから聡介の分無し、と

ここの人は面白がってずっと注文を以前のままにしたままでした。

それなので聡介は逢坂に行っては買ってくるのです。

もれなく葦比良等の頼まれごとも一緒に。


今回くらいは免れさせてあげたい、と思ったのです。同時に彼に伝えたかったのです。


ひとりで逢坂まで行けるようになったのだから、

もう傍にいなくていいよ、と。

彼を留めておく理由はもう無いのだと、証明したかったのかもしれません。


(一言伝えればそれでいいかもしれないけれど…)

燕は言葉ではなく、行動で証明したかったのです。


呱々理は瞑目した後、「わかりました。いってらっしゃい」と見送ってくれました。

燕は(お土産、買ってくる)と思いながら呱々理の見送りに感謝しました。


「逝ってらっしゃい…」


燕の後ろ姿が消えるまで、呱々理は見送り続けました。


****


手には大福が入った包みがあったはずでした。

目を開ければ包みはなくなっていました。


「あぁ、美味しい…美味しいよ。ありがとう」


原因を思い出しました。

逢坂について、大福を買って、それから気を失ったのです。

理由はわかりませんでした。


けれども今、眼前にいる人物を見てわかりました。


「燕ちゃん。どこに飛んだいったのかと思えばまだ逢坂にいたんじゃん。

 あぁよかった。本当によかった。代わりの子はすぐ壊れちゃったし、

 なんていうか飽きちゃうし。やっぱり君の代わりはいないよーん」


他の遊女たちからは「羨ましい」と言われながら

彼女たちが胸の内に思っていたことを知っています。

「私じゃなくてよかった。私の客じゃなくてよかった」

同情と憐れみを込めた眼差しがこの客が来た時ばかりは一身に浴びました。

逢坂の街の偉い様の御三男―本堂貞弘。上お得意様だから無礼のないように、と上から

注意されますが、だったら燕の身はどうなってもいいのでしょうか。


彼がすることは拷問に似た愛情でした。


苦痛に歪む顔が、好きだというのです。けれど燕は我慢強く、決して相手に

弱い面を見せることが嫌いでした。そこが貞弘にいたく気にいられたのです。

店に出なくなってから貞弘と会うことはなくなりました。

再会はずいぶん久しぶりのものになります。


貞弘のうかべる笑顔を見て…ひとつ忘れていた笑顔を思い出しました。

彼の笑顔は嘘ではありません。愉悦でした。

純粋な子どもみたいな無邪気で、それでいて無慈悲な愉悦でした。


「聞いたよ。君、身請けされたんだってー?」

「…………」

「なんか流れ者の人なんだろーなんでそんな奴のところ行ったんだよ」

「……………」

「それになに、その体中にできているイボ…気持ち悪いー」


怖かったのです。この貞弘の笑顔がとにかく怖かったのです。

だから記憶の底に沈めました。思い出したくありませんでした。


「…お仕置きしなくちゃいけないよね。……大丈夫、綺麗にしてあげるよ」

「…………」


身をよじってなんとか貞弘と距離をとります。

けれど後ずさった背中には座敷牢の木の格子があたりました。

扉はきちんと鍵がかかっています。


「……ど…う…す…る…の…?」

「なに?早く喋ってよムカつくなぁ」

「……こ…こ…から…出して………」

「やだ。飼ってあげるって決めたんだ…。それに御主人さま傍にいないし…捨てられた?」

「…違…う……」


捨てられたのではなく、聡介はもともと救ったつもりもなかったかもしれません。

あそこから連れ出して、それからどうするかは全て燕の意思を尊重されていました。


歩けるようになりたいと思えば、彼は力を尽くしてくれたし

話を、最後まで待ってくれて、聞いてくれました。


だったら一緒にいたい、といえばきいてくれたのでしょうか。

ひとりにしないでと言えば…隣にずっといてくれたのでしょうか。

燕の望みを叶えてくれたのでしょうか。


考えて、やがてやめました。

すべては夢想の幻にすぎません。もう決めたのに、どうして惑うのでしょう。

ひとりで生きて行くと決めたのです。強く生きたいと思ったのです。


この男の檻を、この障害を乗り越えるのは

燕自身の力で切り抜けないといけないのです。


「…出ようとしても無理だよ。第一、その不自由な体でどうやって逃げるのさ」

「…………」

鍵を開けようとして木の格子を掴みました。

力を入れると腕が痛く痒く、見れば赤くなっています。


「僕はそんなにのろまじゃないよ。それに……もう逃がすと思ってるの?」

「…………」

鍵穴に、飾りの留め金をいれ込んでいじります。

留め金を線状にする為に、指の皮がむけました。血が出ます。


「………無視するなよ…」

「…………」

(ここを開けよう、そして出よう)

髪を掴まれました。引っ張られないように燕は木の格子を握ります。


「………僕を見ろよ」

「……………」

(……あきらめない……ここを出るのは…自分の力じゃないと…いけない…)

掴む力が強くて、髪が何本か抜けました。

木の格子を握る掌のイボが潰れて、真っ赤な血が出ました。


「…お前…なんだよ。無視かよ…僕を無視かよ。お前みたいな屑も僕を無視かよ」

(…聡介が抱え出してくれたけれど……鍵を、開けてくれたけれど…それじゃだめ…)


足の鈴輪を解いてくれた彼。抱えて階段を上ってくれたあの背のあったかさが

とても好ましく、愛おしく思ってもすべてはやがて離れて行くものです。

どうせいなくなるなら無くなるなら、優しくされることなんか知らなければよかった。

ひねくれ者である燕ならきっと思うことでしょうが、


思いません。


「…………ちくしょう…馬鹿にして…屑が僕を馬鹿にして…」


優しくされることを知ってよかった、と思います。

優しくされたあの場所は、

せめて人間らしく、聡介が連れて来た場所は燕が人間だと思い出させてくれる場所でした。


あんな場所を、燕は今度自分の足で見つけて行かなくてはなりません。

(見つけに行こう。そして…今度はあたしが優しくするんだ…)


優しくしあえることを許された場所―きっとそれが「帰る場所」なのでしょう。


鍵穴から音がしました。押せば扉は開くでしょう。


「……綺麗にしてやるよ…真っ赤にしてやるよ…」


初めて、燕は振り返ります。

燕が必死に無視し続けた人を、振り向いて見ます。

その男は…真っ赤に赤く蒸気をたてる鉄の鋏を持っていました。

(…見たくない…見たくないっ!)

にもかかわらず、青い瞳はその男の表情を見上げました。

薄く笑った顔は口角がいつも以上に片方に上がっていました。


「賢いよなぁ…屑でも…自分がこのあとどんな運命をたどるか…わかるよなぁ…?」

「…………ま…け…ない…」


扉を開けました。

あとは出て行けばいい、出て行けばいいのです。

たとえどんな苦痛が加えられても、此処を出ていけばいいのです。


出て行けば…出て行ったら…けれど出て行けばどこに行けばいいのでしょう。

それを、探しに行くのだと決めました。


今はどこも寄る辺なくても、その希望さえあれば負けることはないでしょう。


…負けないでしょう。


***



手紙がきました。




聡介あてのその手紙にはなにか膨らみがありました。

封を切り裂いて、手紙を読もうとするとなにか地面に転がりました。

赤く、真っ赤になった凸凹したイボのある指先が一本ありました。

書面に目を戻し、文字を目で追います。


―指きり拳万嘘ついたら針千本飲ます…と言ったのに。

 お前に情を預けた屑の小指をあげるね。関わる?逃げる?―


指先を拾いました。

真っ赤な、真っ赤なそれは細い小指でした。


「聡介……それ………」

呱々理の声は明らかに聡介の持つそれを認め、

誰のものか、なにを指すのか的確に感じ取っていました。


「……ねぇ…呱々理……『ゆびきりげんまん』って知ってる?」

「……聡介…」


呱々理からは見えません。

聡介はずっと呱々理の方ではない遥か彼方を見ておりました。


「…約束して…一万回殴ったんだから………約束守ってね…。

 守らないと針千本飲んでもらうよ…って意味の…そんな唄って…思ってた…」

「…………聡介…」


呱々理には彼の名前を呼ぶしかありません。

やめるように、それ以上喋らないでほしいと思いました。


「でも…僕この唄…怖いって思ってたんだけど…怖くなくなったんだ…。

 梅さんが言ってた…。言葉の解釈は人によって違うって。

 言葉は万華鏡のようにいろんなふうに視えるから…きっとこの唄の意味も

 人によって変わるんだよ、って」

「………梅様はなんて…?」


聡介は小指を立てます。

それを引き千切られた赤い小指に絡ませました。


「指切り言万……約束をあれほど万回口にしたのですから……って意味になって」


小さな聡介の小指に、梅は微笑んで歌いました。

そして、幼い子がいう言葉を組んで彼女は続けました。


―嘘ついたら…張り倒して思い出させる…これでえぇ?かなり無理やりやけど…―


「嘘ついたら…張り倒すって…思い出させる…って」

「梅様らしい、ですね」

「本当だよ……。韻もなんにも踏んでないじゃないか…普通にさ…。

でも嬉しかったんだよね……。…また会える、見捨てられたんじゃない…そう

思えたんだ…。僕は一人だけど…この道はどこか梅さんや遼さんに繋がってるって

思えた、思えたんだ」


呱々理は聡介を掴みます。

すると聡介はそっと解きました。尚も頑として放そうとしない呱々理に

聡介は言います。


「でももしかしたら…これから僕がいく道は…どこにも繋がっていないかもしれない」

「それは違う。聡介、でもだめだ」

「………ありがとう…けれどお願い。誰にも言わないでほしい…どんな誰にも」

「黙まる。でも…暴きにかかられたら…話していい…?」

「……いいよ。だったら言交わし…だね。

 黙るけれど隠し事を、守らないならば僕はもう一つ要求させてもらう…」


聞きたくありません。

言うとおりにしたくはありませんでした。けれども呱々理は人ではなく、

言葉に制約される人ならざる者であるがゆえに、

従うしかありませんでした。


「こいつの場所はどこ…」


瞑目します。幾百の神々に祈るように、呱々理はきつく目を瞑りました。

たとえ仕掛けた側に加担するものであっても。


恐る恐る、呱々理は口を開きました。


****


肉が細切れに引き千切られそれが並べられていました。

その肉がイボでした。幾つも幾つも均等な間隔をもって並べられたそれは

たくさんあります。


強烈な血の臭いを、うわの空で鼻にかすめながら、

聡介はぼんやりとその座敷牢の扉を押しました。


扉の鍵は開いていました。


すぐそばに、四本指しかない掌が伸びて落ちていました。


拾えば腕しか拾えませんでした。

グシャリと音がして、音の方を見れば真っ赤な誰かが倒れていました。


「誰か」―「誰か」にしておきたかったのでした。


「君が…えっと聡介っていう人?」

「…はい…そうです」

「…ふーん…僕の玩具の命を一時預けた人にしては…なんだか弱そうだね」

「…はぁ…そうですか…」


ぼんやりと映す聡介の眼の映ったのは、高慢な態度の男でした。

名前はなにか書いてあったように思えるけれど思い出せません。

熱にうかされたように…むせ返るこの場所は

…燕が閉じ込められていた香をたきつめた部屋に似ていました。


「ねぇ、人がなにかをなす為に生れて来たんだったら…僕はすごいことをしたよね」

「…………」

「だって、僕はひとりの屑という人間の命を、弄べた」

「………」

「破滅させたんだ…ね…僕の人生すごいよね」

「……………」

「すごいんだよ。僕は生れて来た意味があるんだ。この女の命を抹消できた」

「…………………」

「……なんで黙るんだよ。なんだよ。お前もこの女と同じかぁえぇ?」

「同じって…なんだよ」


初めて聡介はこの男と口をききました。

男は不満げでしたが、饒舌に言葉を並べたててゆきました。


「女はな、この屑は…最後まで塵蟲みたいに座敷牢から出たがってた。

 もしかしたらお前のところに戻りたかったのかもしれないねー。

 だから引っ張って引っ張って、この女の醜いイボをひとつひとつ

 丁寧にあつーい鋏で削ぎ取った上げたんだんだ。

 優しいだろ。綺麗にしてあげたんだ。真っ赤がお似合い」


燕の白い着物は真っ赤に染まっていました。

蝶が、その真っ赤にそまった布地に飛んでいる様子でした。


「痛いって言わないんだよ。泣かないんだよ。

 ずっと弱弱しくなにか言ってんだ。

 怖いって言ってるのかなと思って耳をたてたらなんて言ってたと思う?」

「………」

「負けないって言ってたよ。腹立つだろー?ムカつくだろー!だ・か・ら。ほらー」


男は何かを転がして寄こします。

それは、青い瞳孔を持った眼球でした。


「抉った」

「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁ」


床に転がる彼女を抱き起こしました。

もう金色の髪はすっかり血染めに染まり、赤黒くなってしまっています。

顔にかかる髪を指でわけました。

両目を瞑っている彼女の顔は、血の涙を流しているように見えました。


「……………………なんで…」

「はぁ?」

「なんでこんな…なんでこんな酷いことが出来るんだ…。

 出来るんだ…?どうしてっ!!どうしてっ!!!

わかんないよ!!全然わかんないよ!」


男は不思議なものを見るように、驚くと答えを探して、見つけ出して

それを提示しました。


「…面白いからに決まってるじゃん…」

「…………えっ?」

「楽しいからに決まってるじゃん…人が死ぬなんて…この手でその人の

 夢も望みもすべて終わらせられることができる。なんて達成感だろーって感じね?」

「………………わからない…」

「ほら、最期のお別れだよ。喋らないと、聞かないと!!大変大変」


男が面白そうに笑います。

その嘲笑を聞きながら、聡介は抱きかかえる彼女が、まだ生きていることがわかりました。

唇が何か言っているのです。


「………なに?!………なに…?!」


聞いても彼女の声は聞こえず、ただ唇の僅かな動きを追うばかりでした。


****



(伝えたいことはたくさんありすぎる。

 でもそれを全部伝えるにはあまりにも…時間がない…)



体中が熱いだけでした。

痛みがありません。けれど痛みがないということは神経がもう伝えることができないほど

痛みに麻痺していることを指すのです。

もう…きっと…このままこのまどろみに身を預ければ戻れないでしょう。


(……聞こえた……)


遠くで、本当に遠くに居る場所から聡介が叫んでいるように思えました。

目が開きません。暗くて、暗闇で彼の顔が見えません。

目を開こうとしたら熱いので、あぁここにも傷があるのだと感じます。


燕は懐かしいあの浮遊感を感じます。

それは、聡介が迎えに来た時のことでした。

この身をさらって抱えてくれた時、そして、背に負って階段を上がってくれた時。

優しい場所に連れて来てくれました。

この身を厭わず、触れてくる人たちがたくさんいました。


(…ありがとう…って伝えたくて。でも伝えたくなかった…。

だって言えばきっと聡介は満足そうにして、いなくなるんでしょう?)


文句もありました。

(一緒にいる、みたいな雰囲気だしといてやっぱり自分の我道歩んでいくってなに?

…期待させといてすぐ真顔に戻って機械的に現実ばっかり…。鈍感で…。

本当に子どもみたいに遠慮がないところもあって…)


話せるようになればいっぱい喋ってやろうと思っていました。


「…?!…?!…」


腕を伸ばしたく思いましたが、腕の感覚は両腕ともありません。

きっともう無いのでしょう。


(言葉しか、彼に届かない…)


彼と同じ道を歩まなくても、一人で生きて、強くなってこの人生を生きてゆけば、

きっとどこかで彼とこの道が繋がっているんじゃないかと、信じています。

共に肩を並べることができなくても、

同じ空の下を生きていれば…たとえ別れても、また会えると思いました。


でもそれもできないのならば、ただ一つでした。


「………時々で…いい…思い出して……あたし……を…」


(せめてあなたの胸の中で…会えることを許して…ほしい)



****


「別れはすんだ?もういい??」

なにか嬉々する口調が耳障りでした。


「あぁ…いい脚本だった!すごいよね。僕、脚本の才能もあるかもしれない!」

耳に言葉が虚ろに通り過ぎて行きました。


「醜いイボ女は誰にも見返されることもなかった。けれど最期の最愛の人の

 腕に抱かれながら、満足に…その生涯を閉じました」

台詞がかった言い回しを聞いていると、頭がどんどんまっ白になっていく感覚がします。


「………ゆびきりげんまん…うそついたら………」

「なに唄?狂ったの?壊れちゃったから歌詞思い出せない??

ゆびきりげんまん嘘ついたらはりせんぼんでしょう??」

「うそついたら…繰り言かえす…指切った…」

「はぁ…?それどういう意味??」


男の質問に聡介は答えます。


「約束を…忘れない……燕を…忘れない…ってこと」

「うわぁぁいい台詞。いいねぇ戴き」


(これが…僕の最後のくくり言。

 …君が…ちゃんと憑かれないように…ちゃんと…天原に還るように……したよ…)


燕の笑顔を思いました。

出会って来たすべての人の顔を思い浮かべました。


梅の顔を思い出しました。

彼女は柔和な優しい顔をして、見送ってくれたのを覚えています。

再会した時、まるで弟のように可愛がってくれたのを覚えています。


遼の言葉を思い出しました。

小さな女の子と赤ちゃんを抱えて、遼は聡介に戒めに言い聞かせていたことを、

思い出していました。


きっと言ってしまえば…もう彼等に会えないでしょう。


道は別たれます。

(…嘘ついたら…張り倒されるかな…梅さん…)


それでも

―男を見上げました。

指を指します。男が逃げられないように。


「死んでしまえ」


*******


時を流して異なる時間―

同じ座敷牢の場所で梅は喪に服する母の言葉を思いました。


「……梅姐さん……行きましょう」

「朔…」

「私たちは憎まれてます……きっと聡さんに縁があるからでしょう…。

 本当なら磨り潰したいくらい憎いはずです。それでも…あの母親はなにもせず

 座敷牢から去りました…、その気持ちを酌みましょう」


腕をひかれ、座敷牢を出て行く…朔のその手を払いのけます。


「梅さん…」

「……ねぇ…あの子…どこいったんやろ…ね」

「…………梅さん…」

「………燕ちゃんって子…あの子……きっと好きやったんじゃない…。

 意味が違うの差異はあるやろうけど…大切やったんじゃない…?

 だって…あの子とそっくりな感じする…」


きっと大事にしたでしょう。

もしも聡介が、言霊使いではなかったら…彼女を守り、彼女を支え…

共に歩いてゆけたでしょう。

言霊使いでも、いつか今の梅のように「言葉修め」をした後―

燕を迎えにいけたでしょう。


「……きっと甲斐性もあるんちゃう?でも…鈍感やからね、奥さん苦労するかも…」

「梅さん…」

「………………朔ちゃん……なんで?なんでこんなふうにされなきゃいけないの?」

「…しっかりしてください!」

「……聡介は…大丈夫なの??」

「大丈夫なわけがないですよ…!」


朔が言わなくても彼女が言わんとすることはわかります。


「ここの息子さんは亡くなりました。きっと…燕ちゃんにこんなこと

 した人だと思います…」

「………」

「これを、見たら……私だって…私だってその息子さんをただじゃ済ませません…。

 聡さんならどんな気持ちで見るか…きっと、聡さんの気持ちの少しも

 想像に足りないけれど……それでも…彼がやることは…わかります」

「…………」

「……大切にしてました。言霊使いをやめて、彼女と一緒にいるかと思えるくらい。

 仲睦まじくて…私勝手に嫉妬までして…でもそれが…それが…

 彼女を追い詰めてしまったなんて…私…償いきれません」

「…………朔ちゃん」

「………わかるでしょう。この場に残された残滓がすごいもの…。

 梅さんにはわかりますよ…わからないわけがないでしょう…」


梅は何人か見て来ました。

こうやって堕ちていった同じ仲間を、その末路を見て来ました。

だからこそ認めたくはなかったのです。


「わかってるよ…」


聡介は死んでいません。

けれども…ただじゃすんでいないでしょう。


「あの子は…禁じ手を使ってしまった。

決して行ってはならない…ことをやらかしてしまった」


ゆっくりと立ち上がり、梅は信じたくない事実を口にします。

「忌み言を…あの子は言ってしまった」


朔を見返します。

その大きな瞳が心配そうに梅を見上げました。

大丈夫、と微笑みを繕います。

心配そうな面持ちを少し和らげて、朔は梅の手をひきます。


その手の細くて小さい様を梅は見つめました。


若い、本当にまだ年端もいかない子が言霊使いになる今の世を、梅は何度嘆いたでしょう。

弱い者が間引かれていく様を悲しんだでしょう。

その幾重の情恩が梅を言霊使いとして籍をおく期限をつけてしまいました。


(もう力は本当に弱くなってしまったけれど…)


梅は出口の門で見送る母親の姿を認め、その隣に父親がいることを確認しました。


「朔ちゃん…」

「はい?……えっ…」


彼女にあげた薄紅の真珠が瞬きます。

梅の命じででてきたのは、海の界柱でした。支柱になったそれは朔を隠し、

周りの者から決して見えないでしょう。


「…………ごめんね…無理やわ…。こんなのあかんわ…」

「助けに行くつもりですか………梅さん!…お腹の子はどうするんですか??!」


梅のやることを察した朔は力の限り彼女に言います。


「……あの人たちに訊いたら…聡さんの居場所を聞いたら…そしたら…

 梅さん危ないってわからないんですか??私たちは…言霊使いですが

 陰陽師でも、侍でもない…。憑きもの以外にはまったく無力の女にすぎません!!」


支柱を叩きます。


「…あなたひとりの命じゃないっ!!自暴自棄にならないでっ!!梅さんっ!!」

「ほんとうだ」


支柱が解かれ、地面に倒れ込みました。

朔はすぐに梅をとり抑えようとしますが、彼女はもう取り押さえられていました。

紺地のぼろぼろの僧姿に、お馴染みの琵琶をしょっている男は

厳しい顔で梅を見ます。


「なんやの…邪魔する気…?」


敵意を持って睨む梅を正面から、遼は向かいます。


「冷静になれ…お前らしくない……」

「………もしあれを見て……あんたはなにもしなかったら…あんたは人間じゃない…。

 冷静で公平な言霊使いやろうけど…人やない」

「梅…」

「聡介…きっと…処刑されるんよ」

「………そうかもしれないな…人一人葬ればそうなる。罰を受けるさ」

「そうかもしれないって…本気で言ってるの?」


遼の冷淡さに梅は息をのみますが、遼はこともなげに続けます。


「聡は…それ相応のことをした。なら…裁きをうけるべきだ。

 さもないと……親の気が晴れないさ」

「その息子は犬畜生におとるようなことをしても?」

「………梅…」

「……ねぇ……遼…約束したんよ。…指切った…約束したんよ」

「もうそれは果たされた。会えただろう…あの子が旅立っていくのを

 あの峠で見送っただろう…」

「……違う…遼…違うよ…」


涙で濡れた梅の眼は遼を見据えました。

約束したのは……貴方だと、言わんかのように。


「自らの迷いは自らしか晴らせない。だから俺たちは黙って見送った。

 でも…もしあの子が迷った時…それを助けよう…だろ」

「………遼」


遼は覚えていました。

けれど同時に梅の僅かな希望も色を失っていきます。


遼と梅のそれぞれが思う「助ける」という意味は、異なっていました。


「身重なのに無茶ばっかりしやがって。…すべてこと終えるまでお前眠れ……」

「……っ」


抗おうにももう、梅の力は本当に弱弱しくあるだけです。

遼の強固な言葉一つで、簡単に安らいだ夢の中におちてゆきました。

崩れる彼女を両腕抱きかかえ、閉まる門を見届けます。


「で……どういうわけだ…」


遼は梅を抱えながら、朔に向き直ります。


「烏は烏でもヤタガラス……飛ばしたわけを聞きたいな……朔」

「……………」


朔は梅がすっかり眠りにおちきったことを見届けると、

遼に告げました。


「討伐ではなく、救援を、ということです…」


弱弱しく内気な翳は消え、凛々しく真摯な面持ちで遼に話すのでした。



********************************


長くにいたったこの話はここで一度紐を閉じさせていただきます。


不肖私が語れるようなことは、本来ならばべつの者がここに記すものでありますが


書き記すことのできない、我最大にして最愛の友人である彼女に代わり

筆をとったことをご容赦願いたい。


乱脈した言葉の数々―真に申し訳ない。

けれどこのままで筆を置かせてもらうと思います。

字が、文が稚拙であっても雑記帳のようなものだと笑い飛ばされるでしょうがかまいません。


在りのままの心を、あそこにあったあの子達の心を此処になにかの形に残したいという

耄碌し、老いた我身の唯一の心残りゆえでありました。


**********



「耄碌じゃなぇし…」


ぼやいた彼はその記し物を閉じます。

使い古して角が丸い皮鞄を持ち上げると、不安に思って手を突っ込みました。

鞄に、昨夜確認したものがきちんと入っているか確認してから、

彼は蒸気汽車の時刻と壁に飾られた大層な古時計を見やりました。


「やべぇ…遅れてる…」


部屋を飛び出していきます。

放り出し散らかったままの机の上には手紙がありました。


 ―久世 健様へ     松宵 鈴香より― 


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