かごめかごめ 上
深緑に、霧の霞むこの陰惨な山道を歩いて行くのは
どのくらい前のことだっただろうかと一通り感慨を持って歩いて行きました。
山道の横を、供養地蔵が並びだせばもうすぐ目的の場所に辿り着きます。
梅が歩いて通り過ぎると、地蔵に供えられていた風車がカラカラと
風を巻いて回りだしました。
―うわぁ、なんでまわりだすん?不気味やないの―
―……まぁあれだ。一応俺たちのことを歓迎してくれてるって思えば―
―誰が私ら歓迎してるってことやのよ…不気味やっていうのは-
―そりゃあれだ……まぁ…供養ってことだし…―
―あほらしい…―
―言うな、って…あっ!おいおいあんまり俺らから離れるのよ―
昔のことが、つい最近のことのように梅には思い出されます。
まだ七つの頃の聡介と、同僚の遼と共に訪れたころのことでありました。
「…そっか。聡介をここに預けて以来ねぇ…」
一角の地蔵を見やります。
赤い頭巾をかぶった地蔵たちに聡介は近寄りました。
回る、風を巻く風車。
青と赤の風車を聡介はなにを思うのかぼんやり見つめていました。
あの頃の聡介に、梅はどんな言葉をかけていいかわかりませんでした。
ただ、傍で手を握ってやることしかできませんでした。
「とおりゃんせ」の出来事以来、あの頃の聡介は深く心を閉ざしていました。
言葉も満足に話すこともなく、わめき散らし、物を壊し乱暴をするばかり。
梅も遼も心配し、慰め落ち着かせる繰り返しでありました。
傍に出来るだけいつまでも一緒にいてやりたい、と梅は話すと遼は言いました。
―「いつまでも」の使い方が違う…「出来るだけ」がつくならそれはもう、
「いつまでも」じゃないだろ ―
あの時は遼に返す言葉もなく黙り込んでしまいましたが
今ならば梅はきっとこう言うと自身で思いました。
「そうやね…そうやけど別にいいやないの…。どっちの言葉も嘘やないもん」
地蔵の並びを終える終着点には、続きに長い石段が高みへと続いております。
山道の上に更に長い階段の行程に、梅はまいりました。
やはり先に逢坂の街の方からはいれば同じ距離でも緩やかな事を思い出したのです。
けれどこの道を選んで歩いたのは、少し追憶を歩みたかったかもしれません。
聡介を預ける為に此処に来て、数日だけ三人で過ごして、
それでもいつか流れていかなくてはならないのが言霊使いの習いでした。
いっこうに懐いてもくれなかった聡介を、
心配しながらも旅立たなくてはならない出立の日。
聡介が泣いて石段をおりてきました。
最後は二段くらい上から階段を滑ってこけてしまいました。
けれども遼が抱き取り事無きに終わりましたが、しっかり掴んだ聡介の手は
遼の紺地着物を離しません。宥めすかしても聡介は言うことを聞きませんでした。
―いっちゃいやだ…置いていかないで…。ここにいて…―
鼻水と涙でもみくちゃになっていく遼の着物を、頑固に握りしめる聡介。
それに構わず、ただ聡介にいろんな言葉を試す遼。
梅は苦笑しました。
なんだか微笑ましく、愛おしく…嬉しく思えた光景だったのです。
― 聡、じゃあ「ゆびきりげんまん」してあげるわ… ―
―「ゆびきりげんまん」ってなに?-
― 約束事のことやよ。聡と私、約束してみよか―
遼が「いいのか?」と言いたげに見つめてきていました。
言霊使いは嘘を重ねるわけにはいきません。
力が弱くなり、しまいには失う危険性があるからです。
けれども梅は特別気にとめませんでした。
嘘を、聡介につくつもりはありませんでしたから。
―どんな約束事がええの?―
―……また会える?……離れても、また何処かで会える?-
ずっと一緒にいて、とは言わない聡介の精一杯の気遣いに梅は
微笑むしかできません。心から、聡介と同じ願いを梅も思わずにいられませんでした。
―…ほな…いい?―
―うん…―
小指を絡ませて、約束を結びました。
しかし、途中で聡介は言うのです。
―針千本はいい…―
―ほななにがいいの?嘘ついたら罰あてないと-
―まぁ、確かに…針千本自体嘘くさいもんなぁ―
―…罰なんて…いい。……僕それよりも ―
鳴き荒む蝉の忙しない聲が、梅を回想の際より今に引き戻します。
昔を思い返すばかりの自分に、梅自身意外に思いながらも納得を、しました。
本当に、聡介のことを梅は弟のように思っていること。
言霊修めのこの旅の終わりに改めて、確認したのでありました。
階段をゆっくり上がり終えれば、絶壁と思える門が立ちはだかっています。
開門と叫べば求めに応じ門をくぐることもできますが、
おそらく門を動かす程の「言霊」の力を梅は既に現在持っていないでしょう。
緩やかに失われていく力の量を、梅自身が自分で一番分かっておりました。
軒と門の間に通常の来客用につくった勝手口があります。
そちらの前へ行って「解錠」と言えば容易くカチっと音をたてて、戸は開きます。
(まだちょい一般人の挨拶くらいの言霊は扱えるみたいやねぇ)
胸を撫で下ろすと、小さな戸を少し屈んでくぐり境内にはいってゆきました。
狛犬ならぬ二対の黒塗りの狛鳥を左右に控えた本殿をみあげます。
その周囲を見渡しますが人っ子ひとり見当たりません。
梅は訝しく思いました。
この昼下がりの時間帯、修行僧が行にはいるにしては遅い時間帯です。
見習いの誰かが軒下で掃除をしていてもおかしくないのですが
誰ひとりいません。
本殿の横をとおり裏手の推古院のほうへと歩んで行きました。
飛び石のある小池には鯉のみしかおらず、餌をまく僧もいません。
ジャリジャリ、と歩む梅の足音だけがいやに響くだけでありました。
「……葦比良さま…?」
草履をぬいで、手に持つと足裏に冷たい感触。
回廊を歩きます。
推古院の奥間を覗いても、人の気配はなく、
呼んでも応える声も無。
静寂な厳粛なこの言霊修めの行を司れる寺社では通常の雰囲気であっても
無ではなく、何かしらの動があってもよいものでした。
それがありません。
もう一度、梅はここの堂主の名前を呼びます。
一度で足りなければ何度でも、呼びます。
「葦比良さま…?どこにおられますか??」
その時―最奥の方から忙しない足音が近寄ってくるのを耳にします。
最奥、岩殿の方を見やり梅はある種の不安を持ちました。
岩殿は文字通り、岩屋であり普段使われること無き神聖な場所でした。
特別なことが起きない限り、誰も近寄りません。
そんな場所から足音が近づいてくるのです。
飛び出して来てはこちらに突進してきます。
「梅様ぁ!!!その御声は梅様ですよねぇ!!!」
「呱々理?!」
丸坊主の小さい小坊主は半ベソをかきながら梅に抱きついてきました。
葦比良のもとで確か修行に勤しむ童子だったように梅は記憶しております。
泣き虫で、思い浮かべる顔といったら泣き顔しか思い出せないほどでした。
「助けてくださいっ!!」
「…はい?」
「葦比良さまの字の穢れの祓いの行のしめを、しめをどうかお願いします」
「……穢れって……どういうこと?」
「とにかく早く!!」
手をひかれるままに、最奥の岩殿に引っ張られます。
されるがまま歩む梅の頭の中では、いろいろなことが巡っていました。
穢れが起こるような出来事が、この境内で起こったということに
ただただ呆然とする想いで詰まっていきます。
我に返ると、梅は呱々理の手引きで岩殿の前に来ました。
すると呱々理は袖口からなにか勾玉を取り出し、その糸を通すはずの
穴に向けて息を吹き込みました。
梅を見て、次の手順の催促を呱々理は期待の目で見上げます。
困惑しながらも、梅は帯に忍ばせているものを取り出しました。
錦の織物袋。黒塗りの木箱に赤い糸で結わえられた紐をほどきそれを取り出します。
龍笛があらわれました。
それを構え、指の馴染みを感じながらも
やはりこれはもう今の己では使いこなさせないと、梅自身、実感しました。
両眼を瞑り、調べを奏でれば岩殿の扉は幻影のように消えてゆきます。
成功しましたが、呱々理は不思議そうに梅を見上げます。
「開きましたが…梅様調子が悪いのですか?
前見たときは、演奏途中で蹴り飛ばしましたが…?」
「…それ結構若い頃のこと違う?もう三十路すぎたらうまくいかんのやもね」
「そういうものですか。若い僕にはわかりません」
「でしょうねぇ」
「ひたぃですぅ…頬放してくだはい」
「年上は尊敬と敬語をもって接するのが大事やよぉ~引退ついでにいっとくね」
「はい……えっ??」
驚く呱々理をそのままにして、梅は岩殿の奥に進んでいきます。
呱々理もそのあとに続いて行きました。
二人が入ると同時に、その岩殿の入り口は再び現れ重く佇みました。
****
岩殿の中には本殿や院にいた人々のほとんどが其処におりました。
修行の僧も、見習い童子も、他の言霊使いの者も一人だけ。
梅の姿を認めると、梅の素性をしる言霊使いが駆け寄ってきました。
おかっぱ頭のくりくりした目の大きい、青い羽織を着た女の子は
梅の前までくると、涙ぐみながら言いました。
「梅姐さまぁぁぁ!!どうしてここに…!」
「朔ちゃん、いやぁ久しぶりやないの!元気してはったん??」
「すっごく…いっぱいお話したいことあるんですがそれよりも…すみません。
字穢れなんて、私じゃわからなくて…」
「葦比良様やね。わかってるって…字の穢れね…」
「えぇ…本当に………」
「ん?どうかしたの??」
「いえなんでも…!!」
朔の両肩を梅は握ります。
その大きい目を見つめながら念を押すように梅は話しました。
「なぁんか隠してはるの??ひっかかるんだけどねぇ」
「はっ…はい、いいぇ、その梅姐さんに話すのは…違う気がして」
視線を逸らすように愛想笑いを朔は梅に向けます。
その笑顔に、煙られないように梅は朔を見つめましたが、頑な朔は言いませんでした。
「…………もう」
呱々理を呼びました。
「……どういうこと…?呱々理」
「葦比良さまを治してください」
「質問に答えなさい」
「………」
「だいたいなんでここのみんなは岩殿に隠れてしまったの?
朔は泣くし、葦比良様は穢れを受けたというし………なんやの?」
「……」
「人を呼んだと思えば隠し事される雰囲気だしてはるし?
まぁべつに、言わなかったらええよ。知らんからね」
なおも呱々理が無言を守りますと、梅は眉をひそめます。
普段の呱々理ならば動揺してぼろを出すのでしょうがそれがないのです。
足音がしました。
現れたのは土気色をした顔と四肢が白い衣姿の人間でした。
額には赤い梵字が書かれ、それを取り囲むように顔に文様が浮き上がっております。
幾重にも、幾重にも文字という文字が埋め尽くす全身を持って現れた姿は
ひどく疲弊した様子でした。
閉ざしたままの瞼にも関わらず、視線が正確に梅の方に向けられています。
「……わしから話そう……梅…」
「……!?」
壮絶な壊疽と瘴気を持っても辛うじて歩いているのはこの者の徳ゆえでした。
言葉を話し、意識を持つのは並みの僧ではないゆえでありました。
葦比良その人でした。
梅はすぐさま駆け寄り、胸元に潜めた巻物を取り出します。
解いて、一行の一文字に指をつけると、まるで生き物のようにその文字列は蠢きました。
梅は勢いよく指を離すと、文字は魚のように引っ張り上げられました。
祝言を書いた文字列全てをひっぱりあげ、葦比良に触れると文字はすぐさま梅の指を離れ、
葦比良の全身に伸びてゆきます。
瞬く間に発光をもようした後、壊疽も瘴気も嘘のように浄化され
もとの人の肌の色、白装束を纏った御子の姿を現出させ、
その場に座り込んでしまいます。
「葦比良様…どうなされたん?びっくりしました」
触れた指を離すと、葦比良は梅を見ました。
「……そうか…身重なのだな。…お前は言葉修めに…ここに来たのだな…。力が…弱い」
表情からはなにも読み取れなくても、声音には落胆の色があります。
梅は溜め息をつきますと
「……穢れ祓いは十分にできておりませんか…?すみません…」と謝りました。
「いいのだ……頼む。謝ってくれるな……」
葦比良はまだ辛そうにしておりましたが、呱々理と朔に支えられ
立ち上がりました。周りの僧たちも心配そうに駆け寄ろうとしますが
「それより…」と葦比良は梅に向き直りました。
その梅の不満げな視線が物語る催促を、受け止めるように答えます。
「字穢れが起きた…すまない。言鎮めに向かってくれないか」
「…私、かよわいですよ。それでも一人で行かせますの??」
「朔をつける。ともに行って来てほしい。朔自身も、心配でたまらないだろうからな」
「……で誰の言霊が荒れました?」
葦比良は、各地を巡った言霊使いのくくり祓いし言霊を
鎮める参人寛恕の一人としてこの逢坂に居る者であります。
体に言霊使いが絡めた言葉を写し取り、鎮めの岩殿にて言葉に込められし禍を鎮めます。
更にその鎮めが続いて効力を強める為に、言霊使いは伝い広める義務を負います。
時には歌になり、時には物語となるものもありました。
そうやって果される一連のくだりを終え何か綻びるがでると、参人寛恕の体に字穢れが
起きます。起きればただちに言霊使いは、その字穢れを起こした言霊を、
扱っていた言霊使いを探したし、再び祓い直しをしなくてはなりません。
「ほかでもない…梅と…そして訪印僧 遼が共に関わった言霊だ」
「…遼と関わったもんって…そうなかったと思うけど…。蟲大好きなお嬢さんの時??
あとは……高貴なお姫様の駆け落ち?だったか…あと…」
梅の思案が…止まります。
嫌な予感が頭を過り、それが気のせいだと思い直したかったのですが
葦比良と視線が合った時、気のせいではなくそれこそがあたりだと悟りました。
「……でも…なんで?あれは……あれは…あの子がくくりました」
幼いかの子が、決別を決意して言葉でくくったものでした。
それは最早「歌」となり、人から人にすこしずつ歌い伝わっている…
上々の成果をあげています。
それが、どうして今更葦比良の体に浮き出てくるか…梅にはわかりたくありませんでした。
「わからん…だが芳しくない状況になっておるかもしれん。
『とおりゃんせ』をくくりし子…梅、あの子……聡介を探してほしい…」
「…なにがあったのですか?」
「二日前くらいに…突然ここを飛び出したきり戻ってこない…」
「あの子、どうなったかわからないってこと?」
「すまない」
「参人寛恕さんもたいしてすごいことないですね」
立ち上がり、踵を返して来た道を戻ろうとします。
その梅の前に呱々理が半ベソをかきながらも、両手を広げて立ちはだかりました。
「行くんですか」
「どいてくれへん?……ちょと、本気やよ」
「確かに、あなたを見た時…頼ろうと思いました。
あなたは……あなたは強い言霊使いであり、強い魂魄をもつ者でありますゆえ…。五人囃子のひとりでも…ありますゆえ…」
「わかってるやないの。うちが行って、パパッと聡探してきて、聡にもう一度祓わせればいいこと。簡単!」
「大丈夫ですか?」
「……たとえば、僕の技をなんとかしのげますか??」
無数の紙人型が呱々理の周りを浮遊します。
無言で押し留めさせる意味を、なによりも示していました。
梅は鼻で笑いました。
「ねぇ、呱々理。うちのことすんごく心配してくれる気持ちありがたいよ。
確かに、門も開門できず、岩殿の解除も遅くなり……なによりも…。
うちはもう言霊にくくりつける力なんてもう、残ってないわ」
「………」
「けどちょっと生意気…。お仕置きやねぇ…!」
一笑したかと思うと、梅は頭の髪飾りの珠をひとつちぎり、投げました。
紙人型は一瞬で藻屑に成り果てます。「術返し」で呱々理は気を失い、倒れます。
「じゃ、朔ちゃん行くよ」
「はっ、はい!!」
にこにこ微笑みながら、梅は軽い足取りで岩殿と皆の前から立ち去ってゆきます。
朔は、梅の背中を見ながら思うのです。
(本当に弱くなられていらっしゃる)
呱々理の技を昔の梅ならばかるく一笑して物ともしませんでした。
それを「術返し」を用いて防ぐなど…あの梅では考えられないほどでした。
(…朔、もしものことが起これば………烏を放つ用意だ)
目を伏せ、朔は葦比良の言葉を思い返していました。
****
逢坂についた頃はもう夜になっておりました。
走ることを極力抑え、腹の赤子に負担がかからぬように梅たちは
焦る気持ちと葛藤しながらも山道から街にいたる道を降りてきたのです。
街の街灯に灯り火がつきます。
漁から帰った男たちが陽気に踊りながら酒をあおる界隈。
小物屋は織物屋などの細工師のたちの工房。
静かな月をうつす海辺。
いそうな場所を、探し歩きました。
けれども見つかりません。
しかし、聞きこむと何人かが聡介を見知っておりました。
ひとりは漁師の男で、彼は酔っ払いながらも真っ赤な顔で話します。
「あれだ!恋だ恋!!男女のあつぅぅーい恋だ」
朔は黙ったまま話す言葉に耳を傾けます。
「はい?」梅の目が文字通り点になりました。
すると口々に同じ漁師の仲間が話に加わってきました。
「だかーら言ったんだよ。やっぱりな、若い男女が巡り逢えば
そこで恋の始まりってもんだ」
「でもあの兄ちゃんは違うっていってなかったか?ってお前言ってたじゃねえかよ」
「そんなのよ。照れに決ってるんだろ照れによ。風車、自分で渡しにいったんだぜ。
あの走っていく姿みて俺思ったね。若いっていいねぇってよ。俺もあんな頃があった」
口々に次は青春話に花を咲かせる漁師たちを、梅は呆然と見つめていました。
俄かに信じられず、もう一度彼らに尋ねます。
「その男の子、恋してるの?で走って行きはったってこと??」
「なぁに聞いてたんだ姉ちゃん。さっきからそういっとるだろ」
ご機嫌な笑い声を上げながら、酒をつまみ干し魚を食べる男たち。
梅はもう一つ尋ねます。
「で、どこ行きはったのです?その若いの…」
「あぁあれはきっと波乱かもしれねぇなぁ」
「もしかして悲劇かもなぁ」
眉を顰める梅を一瞥し、漁師は続けました。
「娘は遊女の女だからよ。きっと一波乱あるだろうなぁ、とな。
しかも、結構人気の評判だったよなぁ。こう、金色の髪でよぉ。まぁ俺はかみさん一筋
っていわなきゃ怖い怖い」
「あははははっはっ」
それからまた自分たちの家内や子供のことを話題に、大いに盛り上がりで
聡介のことなど忘れているかのように話が変わっていきました。
「色街…ね。ちょっとびっくりだわねぇ」
梅にとって、聡介を見たのは彼が言霊使いとして志し、峠の茶屋で別れてきりでした。
どうしてもあの無邪気な気性と色街が重なりません。
半信半疑で色街に行けば、呼びこむ夜鷹の遊女たちは口々に言いました。
「知ってるよ。なんか普通若いの子やったけど…うん。
でもいきなりなんかすんごいお金だしてたよねぇ」
「すごいよね、お姉さんあの男の子と知り合いなの?」
梅は曖昧に誤魔化しますと、娘たちはいろいろな憶測を考えながら
ことの顛末を喋りました。
「あのね。身請けするためにすんごい大金渡したのよ。あたし見たもん。
でも涼しい顔しててね。で、二階にあがってった。
物好きもいるもんだって、言ってたけど、やっぱりすぐに玄関から出て行ったの」
「あぁ、やっぱり気持ち悪いよね、って思ったんだ。って私等言い合ってたら
また店に来たの。倍の金袋渡して、で身請け。店的にもね、あの子のことどうするか
困ってたのよね…だからちょうどいいお払い箱」
「けどちょっと羨ましいなぁ」
「…だってなんかよかったもんねぇ。私もああやってかっさらわれていきたいわぁ」
ますますらしくない聡介の行動に、梅は小首を傾げました。
旅が、聡介になにか変化をもたらしたのでしょうか。
梅にはわかりませんでしたし、予想もできません。
「でもね、ちょっと怖かった」
「どうしたんですか??」黙っていた朔が急に口を挟む。
朔の問いかけに娘は言いにくそうにしながらも口を開きました。
「………あの子をめにかけてたお客さんね、この街の…偉い様なのよ…。
あの子が調子悪くなってから店に出さなかった間も結構しつこくて…さ。
だからちょっと心配で」
「……男の子のとこにあの子を取り返しにいくんじゃないかな…って。
あっ、でも…まあうん。あの子の姿見たら幻滅するかもしれないけど…」
「だって、イボだらけで気持ち悪いもん」
同じ店で働く者であっても競争で、ましてや人気の遊女であったという彼女たちでいうと「あの子」はずいぶん不遇な目にあっていたようでした。
( 同情したということ…聡介… )
不憫に思って娘の為に、大金をはたき、さらっていったと伝え聞き、
梅が思う聡介の動機はそれでした。
聡介の足取りはその女の子を連れて葦比良のところにいったのでしょう。
数日間過ごして、そして最近の今日からほんの二日前に
戻らなかった聡介。
聡介と一緒にいるはずの娘はどこにいるのでしょう。
色街からでて、民家の並ぶ通りにでると朔に梅は話しかけます。
訊くことは決っていました。
「聡介が連れて来た子って…どんな子」
「……」
問われてうつむく顔は、しばらくすると梅の方を向きました。
覚悟したように、朔は…静かに言いました。
「………さっき女の子のことあの人たちが話してたじゃないですか」
「あんなんじゃなんにもわかりゃしないでしょう。せいぜいイボがあるんだね、って
しかもたくさんあるんだね、くらいしかわからへんよ。あと…金髪か」
「……綺麗な髪でした…。聡さんはね、稲穂みたいな色って笑ってました」
「うん」
「イボは…酷かったです。…体中にあって、水で清め落とそうとしても彼女は
ひどく痛がりました。それでも頑張っていたのはきっと…」
「…………それで」
「言葉はあんまり話せなかったみたいです。…喉まできていたイボはきっと体の表面
だけではなく内側も蝕んでいたのかもしれません…だからほとんど話したことないです」
「…そう……」
「いつも怒ったり不貞腐れたり…そんな顔しかみたことないですけど…でもね。
でも、聡さん…笑わそうとするんです。…全然まったくセンスがなかったですよ。
………言葉を扱う人なのに」
「………」
「下手なのに、燕さん笑ってた。
困ったように笑って、その顔を見て聡さんはほっとしてるように見えました」
「…燕っていうのね。その子の名前がでるのにこの問答、そんでいつの間にか
聡介自身の話に流れてる」
言葉をそれ以上続けることができないようで、朔は黙りこみます。
梅は引き継ぎました。
「朔、言霊使いは執着しては無理。聡介のことを好きになるのならば、
仕事はたたんで違う仕事をしなさい。
あの子が…いつか言霊使いでなくなるまで待つしかない」
朔は辛そうに梅の言葉を聞いた後、堰をきったように言います。
「私ばっかりですか??梅さんだって…梅さんだって同じじゃないんですか」
「聡介は私にとって弟みたいなもん」
「違います……!遼さんのこと!」
激情をもって問う眼差しと対照的に、梅の眼差しは平穏なものでした。
「遼は同僚だけにどうよ!なんちゃって…」
「……ごまか…」
しかし、朔は言い終えれず俯きます。
やがて小さな声で「すみません」と言いました。梅は苦笑して、朔の頭を撫でました。
「ごめんね。嫌な事いっぱい言わせちゃって……。
……強がりみたいなもんかもしれないけど、これでよかったと自分では思ってるんよ。
綺麗なままで残したい想い出ってもんのひとつにすぎへんよ。だから別にどうする気もないわ…このままでいい」
「そんな………嘘ですよ」
「嘘はつかないよ。本当にそう思ってる」
「もしそう思うならきっと梅姐さんは…自分の心に嘘ついてるんです」
梅は苦笑してそれ以上何も語らなかった。
朔も押し黙ったまま、悲しそうに梅を見つめていました。
そして再び口を開きます。
「私、燕さんにある日言ってしまったんです。
……聡さんはきっと、ずっと…一緒に居られない…やがて流れていくんですよって。
じゃあひとりでも頑張れるようにしない、みたいなことを言ってたと思います。
よく学をするようになりました。…なんでもひとりでやろうとするようになりました…。
いつの間にか、いなくなっていました…。
……私の所為です。私が…あんなこと言ったからきっと……」
「…で、聡介はいなくなったということね」
十中八九、聡介は燕という子を探しに行ったのでありましょう。
ですがあの聡介ならこれほど難儀に時間をかけはしません。
笑って「あっ、梅さんお久しぶりです」と葦比良のところで待っていたでしょう。
けれど戻ってきていないのは不思議でありました。
不安でもありました。
「行こう。忍び込むよ」
「………はい、でもどこに?」
「この街の偉いさんのお家くらいしか、手掛かりないでしょう??」
聡介が燕を追っているならば、燕を探せばいいと思いました。
燕を探しているのは聡介だけではないと、遊女たちの言葉を思い出したのです。
***
屋敷に行けばそこは大勢の人が訪れております。
身分の高い人、侍たちが次々に訪れて門の中に入っていきました。
どういうことかと思うよりも、見たままの事情でありました。
「喪中ということですね…」
「誰か…死んだのみたいやね。この家の人みたい…」
人の出入りが多く、二人は紛れて入り込みます。
目立つ風貌の梅はどうにか身につけている着物を暗い色にして、
髪を変え地味な印象にしまいます。
「…あの、無茶しないでくださいね」
「どしたの??急に」
「梅さんひとりの体じゃないんです。…お子さんいるのですから…言霊使いとしては
不肖ですが私に頼ってください…その…お願いします」
「ふふっ、はいはい。私の命は預けますよ。朔ちゃん」
冗談交じりに微笑みながら、梅は朔に手招きします。
傍によれば、朔の掌にちいさな真珠の髪飾りが渡されました。
「…あの!」
「いいのいいの。お古だけど、ほら、娘さんに渡さないとね。マダムにはその髪飾りは
かわいすぎるし貰ってくれるとありがたいんやけど」
マダムという言葉の意味がわからないながらも、朔はその髪飾りを受け取りました。
呱々理に術返しをしたせいで一つ真珠はなくなっておりますが
桃色の真珠の可愛らしさにしばらく見惚れています。
そんな朔の様子を嬉しそうに見ながらも、梅は周囲の弔問しにきた人々に目をやります。
耳を澄ませます。
亡くなったのは、この屋敷―奉行衆の家の三男坊らしく
急に倒れてそのままだったと聞こえました。
病などには無縁の、どちらかといえば悪評の目立つ男でありましたが
親にとってはそんな子であっても可愛いもの。
部屋の中で小さな背中を丸めて泣いている親の姿を見て、梅は胸が痛くなりました。
もしも子どもが親よりも、先に逝ってしまえばこれほど悲しい親不幸はないでしょう。
腹に手をやり、そっとさすれば梅のお腹にも子がいることがわかります。
ゆえに他人事とは少々思えませんでした。
「……………」
考え、そして座布団からすっと立ち上がり部屋から出てゆきました。
人の出入りの多い廊下を避け、梅は静かな角へいくと思わず両腕で両肩を抱きしめて震えを抑えました。
( 嫌な予感がする。不安がする。そして…今、感じることは…『聞きたくない』…)
その一言でありました。
字穢れなど、珍しい出来事なのです。起こっていいことではないのです。
平時なら起こらないのです。けれども起こってしまったということは…。
「梅姐さん!!」
朔が静かに、ですが急かすように…不安そうに梅の姿を見つけて、
その耳にささやきました。梅は、目を瞑りました。聞きたくなかったのです。
「聡さん…の手掛かりを見つけました」
***
暗い場所でした。光源はわずかな蜻蛉みたいに頼りない蝋燭二本だけでした。
そして窓の方から降り注ぐ、柔らかい月の光だけが射し込んだ部屋。
いえ狭い空間でした。狭い座敷牢でした。
「…………」
鍵束を握るその手が震え、止まりませんでした。
止まらない手を、そっと朔は握りました。
朔のその手が、梅を支える為ではなく朔自身の心に迫る恐怖から守りたい為の
握手でした。
転がっていたのは人形のように、けれどままごとで遊ぶ人形よりも、
ぞんざいに扱われ転がっています。
この子が、どんな声で話していたのか梅は知りません。
怒るのか、泣くのか、笑うのか、顰めるのか、寝る顔もなにも知りません。
胸の内になにを思い、なにを願い、なにを夢見ていたのか知りません。
それでも、生を受けた者が幸せを求めて生きていく権利があることくらいは知っています。
犠牲を払い、償いをして、赦し、赦され、前を向いて生きていくことを知っています。
個人には、人一人には、見守り、育て、繋がる人々がいて
彼らが大切にしたかけがえのない個人には敬意を払い、尊厳を大切にしなければならないことを
知っています。
この子は、その知っているあたりまえの常識をうち捨てられた様でした。
この子の名前を、知っています。
「……燕ちゃん…」
朔は鍵を梅からとると、座敷牢の南京錠を開けます。
中に入ると臭いのする酷い有様でした。吐くのをこらえて燕の身を抱き起こします。
最早見てもわかるとおり、息はありませんでした。
炎が揺れます。
梅は背後に誰かの気配を感じました。
振り向けば、そこには先程見かけた背を丸めた…母親の姿がありました。
「……その女は遊郭の中に押し込められたただの、女のくせに…。
籠の中の女のくせに。籠女風情のくせに。
所詮は卑しい女であるにも関わらず、息子は優しかった。
その優しさに自惚れたのです。嘆かわしい」
「…………そうですか」
梅の言葉は、梅自身でもまるで別人の、どこか知らない誰かが話しているように
聞こえます。
「息子は…信じられないけれど息子は、その女に関わって死にました。
…体中のイボを見てごらんなさい。きっと、その病気に知らない間に蝕まれたのでしょう。
それでも、優しいあの子は籠女を愛していると…」
「………そうですか。お悔やみ申し上げます」
「…言葉にできません。子に死なれるなんて……もう」
「………はい。わかります」
「………………誰もわかりはしないわ。子を失った親の気持ちなんて。誰にも」
「……」
何も言わないでいると、母親は言いました。
「ほら言葉も出ない。
…あなたもきっとあの男の子と同じことを言うのでしょうね」
「………」
耳を閉ざして、口を閉ざして、「誰もいない」と遊ぶ童遊び。
何も知りたくないものは知ろうとしなければいいだけのことです。
聡介はかつてそうしていました。
心を閉ざし、目に映るものを嘘だと思っていました。
そんな聡介に、梅と遼は…葦比良は、あそこにいるみんなは何をしたでしょう。
あたたかい優しさをありったけ、出来うるだけ注ぎました。
間違っているとは思ったことがありませんでした。
今日この時までは。
あの頃の聡介はこれ以上傷つきたくなかったからではないのでしょうか。
見たくなかったからなのではないしょうか。
生きる為に、世界を生き抜く為にあの子が選んだ方法ではないでしょうか。
心を守る、最後の鎧だったのではないのでしょうか。
「…こう言ってましたか…」
梅は言います。
「見えなければなにも知ることがない…って」
暗闇を怖がる聡介に、葦比良が言った言葉でした。
かつて梅は明るく何か励まして聡介に言い換えていたように思います。
「ぬくもりを知らなければ……傷つくこともない…って」
遼が、それとも梅自身が言った言葉かもしれません。
続けていた言葉は前向きにする為に選んだものですがどんな言葉だったか
思い出せません。
梅の言葉に母親は忌々しげに頷きました。
聡介は、ここに来たのでしょう。
彼女を見たのでしょう。
そして思ったのでしょう。
ありったけの、世界への諦めを込めて。
「…知ら……」「でも知っていてよかった……って言ってたわね」
梅の言葉は阻まれ、母親の言葉が続きます。
「知っていたから優しくすることができたって…」
****
目を覚ますと、そこは宿の一室でした。
梅はようやく全てに合点がいくのです。
「そうか、全部は夢やね」
梅が言霊使いをやめることも、聡介が燕と出会ったことも、
すべてみんななかったことだと思えば、肩の荷が下りたようにほっとしました。
「なに寝ぼけてる」
傍らにこれまた都合のよいように、遼が座っております。
仏頂面は相変わらずで、梅はそれだけは夢の中でみた遼の顔の方がいいと思います。
あのように優しく微笑まれたら、きっと何もかも、納得してしまうでしょう。
「ねぇ、遼。夢見たんだけど…」
「はぁ…どんなんだい」
「………聡介に言おうと思うわ。あんたに言われると笑われそう…」
梅の変わらぬ悪戯っぽく微笑む顔を、遼は見つめます。
手元に何かをとって、梅に差し出しました。
梅が持つ龍笛でした。
不思議に思っていますと、もう傍らから朔が心配そうに水をすすめてくるのです。
上体を起こし、水をのみ込むと、はじめて窓の向こう側が見えました。
「今、夜やの?」
曇天と曇る黒い空と、止まった風。静かに凍る静寂と、動が感じられない雰囲気。
夜ならば灯火があってもいいと思いますが、どこにも見当たりません。
遼は黙って、背の琵琶を朔に渡し、
代わりに朔の手から、久しく見なかった笙が遼の手に渡りました。
意味がわからぬ梅に、遼は分かりやすく言葉短く言います。
「………梅、夢じゃない。みんな現実で、事実だ。
倒れたお前を朔が運んだんだ。俺は…烏に呼ばれて逢坂にやって来た」
「なんで烏なんて…」
「考えろ。お前なら…本当はわかるだろ。
烏が使われる意味。
今のこの逢坂の街の雰囲気。
字の穢れに、奉行所の家で見た光景。
その全てとあと俺の見たことを合わせれば、全部説明合点つくだろうが。
梅、語るには長いし、時間が惜しい」
龍笛が輝き、遼の持つ笙も輝きます。淡く、仄かに輝くそれに
呼応するように、楽器は音を出しました。
揃って三音が重なります。
いつのまにか、篳篥等を持って佇む残りの楽器の三人もおりました。
そういえば、遼の髭はそられ、身なりも整えられ
普段の小汚さから逸脱しておりました。
「……お見合いなん?」
「冗談の時と場合を考えろ。それとも…受け入れたくないのか」
「………さぁ…」
(そう、そうや…とおもう…)
まざまざと蘇ってくる出来事を、すべて忘れてしまえばと思います。
ぎゅっと布団を掴み、また潜って夢の中にいけらならどれほどいいでしょう。
今度こそ、甘く、心地の良い安らいが夢の中にゆきたいと。
梅は想うだけに、留めました。
遼は、肩を叩きます―その意味が励ましではなく、「切り替えろ」という
仕草であることを梅は分かっておりました。
「大祓いをしなければならない状況になった。
梅、かごめをやらなくちゃいけない…お前の最後の大仕事だ」