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言葉くくり~とおりゃんせ~  作者: 遠野根っこ
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ゆびきりげんまん 上

ゆびきりげんまん


これは不肖長年この生業にいる者の記し事でございます。

もう幾人の人間が災いを言葉で祓い、祓った言葉に繰り言で治め、

ひと段落ついたあと言霊使いというこの生業から去った私が

徒然に記す戯言と思っていただければ結構。


私どもには用心しなくてはならない決まり事がございます。


一つ。いかなることにも心を不動にし、執着せぬこと。

一つ。呪わしい言葉を吐かぬこと。

一つ。虚言を重ねてはならないこと。


言葉を扱うゆえに、嘘を吐けば言葉に真が失われ、力を無くします。

呪わしい言葉を吐けば、私どもの言葉では強力な呪詛となりかねません。


一番恐ろしいのが執着でございます。


しかし私どもも所詮は人。慾を持つ生き物でございます。


いつか執着におちいることあれば、

この生業をたたんで何処か言葉の外れへ消える運命にあります。

誰も咎めはしません。

ただし、修め方を間違いさえしなければ。


                 『水穂異聞録より 記し人 「訪印僧 遼」


****



「月日が流れるのは早いって言うが…まぁ、本当に時間を感じるな」

「それはどういう意味やの?」

「……いやまぁなんだ。お前さんがそういう時期になったってぇことだよ」

言いにくそうに話す様子。

「ふふふっ」

女は面白そうに笑うのでした。


峠の茶屋で、二人は並んでおります。

一人は紺地の着物を纏い、笠を被って僧の格好をしている男。

伸びた黒髪はいろんな方向に奔放に伸びきっておりました。

背には包みにつつんで見えませんが、琵琶らしき曲線の形をした背負い物。

強面の顔から普段見られない優しい表情に、

瞳は感慨にふけ、口は茶をすすっている様子であります。

一人は女性。薄山吹色に染めた小袖に赤と緑の帯で締め、軽い荷を持っておりました。

柔和な顔立ちに、柔らかい物言いの彼女はなにも注文せず、

ただ男の隣に並んで座っているだけでございます。


「なぁ遼…うちがこの生業始めたの…なんでやった?」

「んなこと俺が覚えてるわけないだろ??いい男でも探す為じゃねぇのか?」

「冗談でいうたるけど、あんたみたいな?」

「俺はいい男だが…。いやいや命は惜しいから勘弁だ」


毎度のことならばここで手痛い仕返しがふるはずなのですが、

彼女―梅は何も言わずただ穏やかな様子でいるだけでありました。

遼は、梅のさする腹を見つめます。もう、懐妊と聞いて三月は経ちました。


「普段なら足蹴りするところやけどやめとくわ。お腹の子に障るかもやし」

「もう言霊で災いを縛る力はないんだな」

「まぁまだ少しはあるけど、これから消えてくやろうね…。栄養と一緒にこの子ゆき」

「じゃあお前さんの子がもし男児ならかわいいおべべ着せて女みたいにしなくちゃな。

 きっと強い力を備えて生まれてくるだろうよ。着物くらいこさえてやろうか?」

「そうやねぇ…おめでとうでも言いに来てもらおうかねぇ…言霊付きで」

「へっ………そんなのよ……今でも言ってやるよ………」


梅は少しだけ、その穏やかな顔が一瞬寂しくありますが、

遼はそれに気がつくこともなく、梅も気付かせる気などありませんでした。

ゆっくり立ち上がると、もう遼に向き直る顔は晴れやかでありました。

眩しそうに、けれども嬉しそうに遼は言葉を告げるのであります。


「…おめでとう……いつまでも息災でな」

「遼…あなたこそ。この生業にけじめをつけてね」

「ほんと言うと少々寂しいな…お前がいなくなるってのは」

「あれまぁ、人との交わりは訪れ去るもの。

 言霊使いはただ、そこにある禍が人に障らんように祓うことにのみ重きをおく、やろ?」

「わかってるよ。先輩…」遼は不敵に微笑む。

「よろしい…後輩」梅も負けじと、微笑みを作った。


梅は。


それ以上は何も言わず、茶店を去るのでした。

向かう場所は霊験あり梅に一番縁のある港の街―「逢坂」

言霊使いを修める社に向かうのでありました。


****


≪梅が逢坂につく二週間ほど前のことに遡ります≫


「逢坂」の賑わいを尻目に、ここにひとり無情に海をぼんやり眺めている者がおりました。


伸びた黒髪を一つに縛り、幼さの残る顔は年に似合わず難しい顔をしています。

言霊使いとして各地を彷徨する聡介は、呆けておりました。

灰青生地の着物に新調し、装いを涼しげにしたのにはわけがあります。

無性に、ただ持っているお金を使い果たしたかったのでした。

けれどもまだ懐にある銭袋の重みを、感じつつも

他に何に使えばいいのか途方に暮れておりました。


ここに来る前、聡介は町に立ち寄りました。


ありふれたその町の少し離れた山方から訪れた聡介は、足もとになにか石ではない

感触を踏み砕きます。目を凝らせば、それは骨で一本。

しかし、よく見渡せば累々広がる骨と布の切れ端。ひどい臭いのする一帯。

頭蓋骨はどれも小さいもの。

ところどころの骸骨からは頭髪らしき白髪が風にたなびいておりました。

見れば、骨には獣の歯や爪のあとが残っておりました。


町におりて、町人から聞いた話に耳を傾けると

よなよな幽鬼が界隈を歩きまわっているというのです。

聡介はその幽鬼の事をおさめようとする代わりに、ひとつ質問をしました。


「山にあった骨の山をみかけました…。あれはなんですか?」


町人は言いました。

「病で死んだ者達を葬っている場所でしょう。ここ続く日照りで、子供や老人といった

 弱い者たちがよく命をおとしてしまうのです」


聡介は笑顔で聞いておりました。


ことを果たした後、足早に去ろうとすれば高名な退治屋という輩と出会います。

「言霊使い」と名乗れば、いたく感動され、多額のお布施を無理やり渡されたのでした。

「要らない」と返すと、「そんなことより、私に祝福の言霊を紡いでくれ」と言われます。


聡介は微笑んで応えました。


事柄終えて末に流れ、この逢坂に着いた時、

なにか憑きものがついたように疲れが押し寄せてきたのです。


「…どうしようかな」


本当は……どうしてこうも倦怠感を感じているのか聡介自身どこかで分かっています。

しかし、分ったところで解決されるものでもなく、原因も無くなるわけではありません。

堪忍した聡介は、今はただ日にち薬を試しているのでありました。

貰った金銭で、必要なものを買いそろえ、寺社にやっかいになりながら

少し、腰を落ち着けて、生業から離れる時間を過ごす。

これが薬だと聡介は思い、試してきたのですが、治ったという実感はありません。

本来ならば、旅立つべきなのでしょうが仕事を成す気にもなれません。


だから毎日呆けておりました。


この、壮大な海の浜辺で行く船来る船を見つめながら、やがて漁火がともる頃まで。

そんな奇特な習慣を数日過ごした時、聡介にひとつの風車が渡されました。


***


「…………なんでしょう?」

「あんた変人」


第一声に、初対面の相手向かって言える言葉ではありません。

聡介は感心してその一声の主をまざまざと見つめ返しておりました。


歳の頃は同じくらいでしょうか。

見たことのない金色の髪が長く、

着物は白地に桜色の夕顔模様で赤帯にしめられておりました。

手には綾成す紅と蒼が交互に折られている風車を持っております。

きつくへの字に結んだ口と、眉間の皺から見てあまり友好的とは思いませんでした。

とりあえず笑顔で「ありがとう」と言えば

娘は「不細工!」と聡介に叫びます。


今までにない反応に…なぜか落ち込みはしませんでした。

妙に聡介が納得しておりますと、娘はますます怒色を濃くします。


「ごめん。怒らせるつもりはないんです。ただ…えぇ、これが…癖」

「はぁ?そういうこと?…ってか敬語も気味が悪い」

「…これも癖なんです」

「海ずっと眺めてるしなんなのあんた?家に帰れよ」

「生憎…帰れないです」

「馬鹿みたい。帰ればいいじゃん」

「そうだね」

「………変なやつ」

「ひどいな。変な奴な自覚はないんですけれど……」


物おじせず思ったことをそのまま言う彼女の気質に、聡介は呆気にとられながらも

心地よく思っていました。

風がそよぎ、彼女の手の中の風車はまわります。

風に遊ばれたなびく彼女の髪を、聡介は一房軽くつかみます。


「なによ。馬鹿にするつもり?」

金色の黄昏色の空の色に似たそれは、

幼い頃に見た風に波打つ稲の金色に見えたそれと同じように思いました。


「綺麗だね。って言いたいだけだよ」


そう言って、聡介は娘に興味を失い、髪を離すと、また海に視線を戻しました。

娘は押し黙ります。聡介は、今度は蹴りがとんでくるかな、と他人事のように

思っておりますと、風車が砂浜に落ちました。

「落ちたよ」拾い上げて彼女を見上げると、娘は下を向いております。


「ねぇ」

「………っ!!!」


風車を渡そうと重い腰をあげ、彼女の肩を叩こうとしました。

すると物凄い勢いで娘は聡介の手を払いのけます。

娘と目が合いました。怒り満面の表情に、似合わない涙がありました。


「泣きたいの?怒りたいの??」

「嫌い嫌い!!やっぱり大嫌いっ!!!」


言い捨てられ、娘は一目散にどこかに走ってゆきます。

足早に去っていく娘を、まるで突然来た嵐のように思いながら見送りました。

落し物の風車を、かかげて、一息吹きます。

すると、紅と蒼は風で回って溶け合い、紫色に見えました。


「あっちゃ…お兄さん、あんなのほっといたほうがいいよ。久しぶりに見たが…

お兄さんには手の余る娘だってことだ」

漁師の男が苦笑いを浮かべながら娘が行った方を見つめました。

「ほっといてますよ…?なにもかまってないでしょう」

「そりゃ嘘だ。あの子は……めんこいからな、無理もねぇがいれ込むなよ」

「だからかまってないです」

「ほんじゃその風車、おらによこしな。それか捨てちまえ」

聡介は風に回る風車に視線を落とすと、漁師の男の手に渡らぬように

しっかり握るのでした。

漁師の男は「ほらみろ」とさも言うとおりになったとゆうように笑います。

聡介はなにかからかわれたのが面白くなく立ち上がります。

「ならどうするんだい?あの子と知り合うきっかけつくりにでもするのかい?」

「渡したらすぐ帰ってきます」


****


娘の目立つ特徴は、人に聞けばすぐ行方を指示してくれるほどでした。

金色の髪の女の子-と言えば「あぁ、鬼の子ね」と蔑み気味悪そうにはき捨てます。

順を追って追えば、彼女がいる場所へ行きつきました。

遊郭の一角で、鳥籠の中にいる女たちが聡介を見ると妖艶に笑み、甘ったるい声で

呼びかけます。聡介はその一人に尋ねました。


「金色の髪の、ちょっと気が強い感じの子…ここにいるんですか?」

「あぁ、あれね」


居る場所ですら、彼女は指示語で呼ばれていました。


「名前は…」

「はい?」

愛想よく声音を柔らかく、女は応えます。

「その子の名前はなんていうんですか?」

「さぁ、呼んだことないから……ごめんなさい」

「…ならいいです。彼女に直接訊きます」


女に背を向けて、その店の入り口の敷居をまたぎました。

男主人が機嫌よさそうに両手をさすって出迎えます。


「金髪の女の子で口が悪くて、初対面でも気味悪いとか言ってくる子知りません?」

すると主人の眼は泳ぎます。

「えっ…あれは…お勧めしません。よければサユという方が…。

 あとはえっと松佳などいい塩梅の…」


聡介は懐に余った金袋を掴むと、男主人に突き出します。

法外な金袋に肝を抜かれた主人は、唖然と聡介を見つめ返します。

どこかの身分のものか、はたまた武士の家の息子か庄屋の跡取りか。

身なりを見つめてきました。


「早く。会って渡し物を渡すだけですから」

「あっ、いえどうぞ!!!どうぞ!!!!!!」


低い姿勢で聡介を案内し、先の廊下を歩きます。

店の中は広く、何本か渡り廊下を右往左往し、高い階段を上へと登ります。

襖を何枚か開け、辿り着いた先は明るい部屋でした。

香をしきつめられた部屋で、窓は閉めきっています。

金色の長い髪が畳一面に広がっております。

眼下には、青い瞳を瞬かせず、天井を見るだけの白い顔がありました。

その白い顔は無数の、無数の赤黒いできものが這う様に首から浸食していました。


店の主人は言います。申し訳なさそうに、聡介に申し開きます。


「すみません…。その娘は確かに評判の…うちの評判の遊女でしたが

なにせ人気なのもんで…まぁお客さん相手してるうちに、ご贔屓と同時に病気まで貰っちまってるんです。

今月に入って一度も外に出しておりません…。

だから…お客さんのいうことはちょっとおかしいです。

まぁ、相手もおやめになった方がいいかと…。貴方様まで病にかかっちゃいけねぇです。はい」

「ご主人…謝る人は僕であってるんですか」

「はい?」


主人は手を擦りながら笑顔をもって年若い奇特な客に向けます。

聡介も、能面の笑顔を持って申します。


「いえ、なんでもありません。彼女になにもしません。ただ……渡し物したらすぐ帰りますので」

「はぁ、責任持ちませんのであまり長居はしないように。…ってまぁ、そんな女を抱きたいとは思いませんでしょうが」


主人は丁寧に頭をさげて退出するのを視線の端で見届けて、襖の静かに閉まる音を

聞き届けると、一息溜め息をつきました。

窓際へ歩き、そのこもった香の香りを外気に逃がします。

腰をおろし、静かに座っていました。

彼女はただ、呆然とそこに寝転がるだけでした。

海辺であったあの束の間の問答が嘘のように、娘はただ黙する壊れた糸人形のように

此処に在るだけであります。


前にも一度、こんな店が立ち並ぶ界隈を歩いたことがあります。

夜鷹の、男を呼びこむ声とともに聡介の耳に木霊したのは

ただ何度も繰り返す、「帰りたい」という言葉でした。

「逢いたい」と漏らした娘と目が合い、その人はやさしく微笑んでいます。

悲しい笑顔に引き寄せられて話をしに部屋にあがると、

女性は丁寧に迎えました。

「帰りたくないんですか」と問えば、その女性は首を横に振りました。

「帰れないことを知りましたから…」

誰に逢いたいのかと訊けば、女性の弟と妹にあたる者でした。


北陸を歩くと言えば、女性の諦観に沈んだ目が瞬き、聡介の両手を取るのです。

「佐彦と明を…」と頼まれ、最後には女性の瞳に涙が溢れておりました。


( 遼さんと遭って…もうあれからひと月以上…か )


あの女性はどうなったのでしょう。聡介には預かり知れません。

もしかしたら、この目の前の娘のような状態になったのでしょうか。


「どうしてあんたみたいなのが来るの、気色悪い…!」


聡介の横に現れたのは先程の海辺で出会った娘そのものでした。

けれども、その娘の姿は今二つ。

畳の上に無造作に転がる姿と、その姿を忌々しそうに見つめ立つ姿。

二つの同じ娘の姿がありました。

別段驚きもせず、聡介は隣の娘を見上げ、話します。


「こんなにも妄執と慾、芥にまぎれながらもよく憑かれなかったですね」

「……はぁ?」

「これ…渡しに来ただけだから」


風車を、寝転がる娘の赤黒い掌に握らせます。

手にある風車を、娘は気付いたのか動かなかった様子から変わって、

片腕を少し上げました。

風に踊り、風車はくるくる回ります。青と赤がとけあって、紫の色に見えるほど

くるくる回っておりました。


「………それだけ?」

「はい」

「助けるわけでもなく……?あたしを……このまま…ここに?」

「…ここに縛り付けている情念は重いし、第一意味がないです。

 いずれ諦めの境地を悟っていくこういう場所に僕らの生業が動く意味がありません。

 僕らのようなものに用があるとすれば亡くなり、死にきれぬ想いが

 他者を苦しめる時、言葉を持って祓うだけです。戦場では仕方がありませんが…本来

 この類は僕らではなく、寺の僧にでも頼めばいい」

「本気で言ってるの?」

「……僕は僕の生業を話しただけ。ひどいことは言ってないです」

「でもあたし、まだ生きてるよ!!!生きてんのよ!!!」


娘の青い眼には大粒の涙がたまっておりますが、それを必死に流れぬよう、

むしろ怒りを顕わに示し、対する娘。

逆に、聡介はただなんの感情もなく、風車から目を離しません。

聡介は手を伸ばし、寝転がる娘の風車を持つ袖口からあらわになった腕に触れました。

まるで海の岩のふじつぼのようなできものが、並ぶ白い肌にそっと触れました。

温かさが確かに聡介に伝わるのです。


「生きてるけど、もうすぐ死んじゃう。このままほっとかれたら死んじゃう!!!

 あんた、あたしのこと見殺しにするの?!」

「荒らぶれば苦しむのはあなたです。

 もうやめた方がいい…ここは一縷の希望と諦める場所が在るだけです。では、僕はこれで」


立ち上がり、部屋を出て行くその歩みを前に娘は立ち塞がりました。

鬼気に迫る迫力で娘は申します。


「もしあたしをここで見捨てたらあたしはこの街を滅ぼすほどの憎悪と怨嗟を残してやる」

「……そしたら鎮めるだけ。僕で足りなかったら、きっとだれもがここに辿り着く。

 そしたら言葉、言葉で絡め捕り、くくりつけます」

「そんなもの引きちぎってやる。……みんなみんな…」

「さようなら」


娘をすり抜けて、歩いていく聡介の歩みには躊躇もありません。

その微塵のない迷いを一回止めたのは娘の最後の問いでした。


「どうにもしてくれないなら…なんで風車届けに来たのよ…」


つま先を娘の方に返すことなく、淡々と、しかし一間をあけて聡介は答えました。


「迎えに来てほしい人は、僕じゃないでしょう?

 貴方が本当に迎えに来てほしい人はその風車を、貴方に渡した人だ」


娘は黙りこみました。

聡介はその様子を背中で見守ると、再び足を動かします。


「…………来ないもん」


小さく、はっきりと娘はつぶやきました。

強気も、憤怒も表情にはなく、満ちていたのは心細さでありました。


「来ないんだもん!!待っても、待っても…どんだけ待っても。

 ここから居なくなろうとしたよ?でも……もしかしたらって……もしかしたら

 迎えに来てくれるかもしれないって…あたしは心のどこかで期待してる」

「………」

「だから……あたしはこんなにになっても未練たらしく寝転がっているの。

 動かないの…!!父を信じていたい!!!でもね、でも…死にたくないの!!!!!!!」

「……………」

「こんなところに閉じ込められなくない。ここで終わりたくない。

 迎えに来てほしいよ?でもそれは、ただそれは……会いたいの…会いたいの!!」

「…………………」

「どうして…どうして迎えに来てくれないの…?」

「………………………」

「こんなに待ってるのに…こんなに……我慢してるのに…お父さん……」

「…………」

「お父さん………」



どんどん、と狭い暗闇の中。

底を、側面を、蓋を、聡介は何度叩いたでしょう。

一人ぼっち。暗い土の中に埋められて、一人ぼっち。


― 開けて…開けて!!開けて!!! ―


声を。

声を…。

声を上げておりました。泣き叫んでおりました。


聡介の胸に去来したのは、心の中できつくしめた蓋の中での幼い体験でした。


振り向くと、娘の姿はどこにもありません。

最初からそこになかったように、跡形もなくなっておりました。

襖の向こうの畳に、彼女の体だけが転がっているだけでありました。


掌の中にある風車は、くるくる、まわり…やがてその動きが止まります。

止まるのを見届けた後、聡介は階段をくだり、歩いて行くだけでした。


****


眺めていました。

ただ、青く最果てなんてないような錯覚を思う海と空の境界線を、娘は眺めておりました。

父が迎えに来るその船影をいち早く見つけられるように。


娘の父は、幼い頃にこの店の主人に娘を預けました。

漁師だった娘の父と、店の主人は腐れ縁の仲で知己でありました。


預けられ、約束の年月はとうに過ぎたある日から娘は店に並び立つようになりました。


生来の金色の髪が目をひき、白磁の肌に魅了され、青い瞳に侵しがたい神秘に魅入られ

惹かれた娘は、どんどん尋ねる客が増えていきました。

慰め、求め、苛まれ…繰り返される夜毎を、娘はただ数えておりました。

いく夜と、香の本数を数え数えて待つのは、青い空のある朝でありました。


待ち続けておりました。


体が痛んで海辺によることができない日は、窓から見える青空を見て、

その青空に続く海を想いました。海から帰ってくる、迎えに来てくれる父を

信じておりました。

身動きすらままならなくなった娘は、天井を仰ぐことしかできません。

その娘を眼下に見下ろし、男主人と女主人は口々に言いました。


「もう売れないなぁ…くそ、せっかくまだまだなのに。

 誰が病持ちだったのか…」

「無理やりやって来た素行の悪そうな男じゃないかい?あいつは結構長く居座るし。

 この子も、あいつが来て明けた朝はぼろぼろで動けなかったじゃないか」

「……ちっ…でもあの方は育ちは悪くないぞ」

「同じことだよ。とにかく、この子どうするんだい?病なんて噂あっちゃ、

 うちの女の子はみんな病持ちの不潔な店って思われちまう。売れないよ」

「じゃあ、どうする?」

「適当に面倒見て、死んで行くのを待つしかないでしょう」

「その間この…臭いはどうする」

「香をたけばいいよ。安物ならたんとあるしね」

「そうだな……」

「今までありがとうねぇ。でもまぁ、異人の父親の子どもなんて普通に生きちゃいられない。

 迫害されんのがおち。

 だけど拾って育ててやったんだ…恨まないことだね」


二人がいなくなりました。

それから毎日、むせかえるような香の匂いが部屋を満たします。

周期的に人が来て、体を拭いてくれていましたがやがて誰も来なくなりました。

来る人来る人が言うのです。


「気持ち悪い…」


けれどそんなことはどうでもよかったのでした。

ただ、また海に迎えにいけないことが口惜しかったのです。


しかし、数日後―娘は自由に出歩くことができました。

娘の眼下には、自分自身が寝転がっているのです。

深く考えることをせず、ただ娘は外に出て行きました。

もちろん娘はこっそり出てゆきます。

誰にもばれないようにこっそり裏路地を走ります。

ついたところは変わらない海と空が、海辺が娘を迎えてくれました。


娘は時間を忘れ、そこに居続けました。

潮風に、うっとりと高揚しながら、その港に夜が訪れる際まで座っておりました。

変わらないものを見るのが、娘は好きでした。

気持ちが落ち着き、こう思えるのです。

時間は、父と別れたあの時のままのようだ、と。


そんな娘の変わらない風景に、変わった者が入り込んだのが気に入りません。


潮風にさらされ、呆然と座る少年が現れました。

黒髪を一つに束ね、娘と歳が近い容貌に見えました。

灰青の涼しげな衣を着た軽装の、旅装束の少年は、歳不相応に無情の顔で

海の果てを見つめているのでした。

連日、その暇を持て余し少年はやって来ておりました。

毎日は来ないだろうと高をくくっていた娘にとって意外にもこの割り込み者は

娘の愛する変わらぬ風景に入り込んで来たのです。


声をかければ微笑みかけてきました。

その笑顔が、上っ面だけのものだとすぐに看破した娘は反吐がでるほど

罵声をあびせました。それでも少年は妙に納得した顔をして、

特別憤りもせず平常に、海辺を見つめるばかりでした。


不思議な、変わった気風の少年。同じ、海に惹かれるように来る少年。

同じ風景を見る者。

話しかければ、少年が「帰る場所」がないことを察することができました。


娘は、少しだけ期待を持ちます。

この少年は娘が今まで関わった男とは違うのではないか、と考えます。

変わらぬことに安心を感じながら、娘は寸前の先にある己の死への運命に

震えているのも娘の現実でありました。


(もしかしたら…あたしを助けてくれる……?)


不意に少年は娘のその髪に触れました。

乱暴に引っ張られるのかと思えば梳くように触れるだけの手つき。


異人と馬鹿にされると予期した娘は、怒る剣幕を用意しましたが空振りました。


褒めるのです。ただ、綺麗だね、と目を細めるのでした。

その笑顔は、上っ面ではなくどこかなにかを愛しむ情を感じました。


娘にとっては久しぶりの、褒める。

娘を見つめ、「珍しい」でも「気持ち悪い」でもなく、「褒めた」のです。

嬉しさを噛みしめながら、不意すぎたので言葉を思う様に言えずに

戸惑っていると。

少年はまた事も無げに、海に興味を向けるのです。

勝手に腹が立って娘は少年に力いっぱい言いました。


「嫌い嫌い嫌い!大嫌い!」

呆気にとられた少年の顔から、見事に娘は自分が嫌われたと察します。

これ以上海すら見たいとも思わずに、娘は全速力で駆けて行きました。


帰って来て気がつきます。

手にあった大事な、父から貰った大事な風車がなくなっていました。


別れの時―この風車が勢いよく回っている時に「帰ってくるよ」と笑った

父の顔を思えば、娘はすぐにでも取り戻したく感じていました。

しかし…まだあの少年がいるやもしれません。


二度とあいたくはありませんでした。

ですが願い虚しく、少年は普通に店にやってきました。


普通に襖をあけ、通された少年は、普通に男主人の言葉を聞いていました。

そして普通に男主人はいなくなりました。


「はぁ…」


一つ溜め息をつかれます。

二人っきりになった時、少年はまず窓を開けました。

次に座り込んでは、しげしげと娘を眺めていました。

醜く思っているに違いない、感じた娘は腹立たしく思います。

話しかけてみますと、少年の調子は相変わらず淡々としたものでした。

その眼にはただ映るものを移すだけのガラス玉でした。

されど娘の体のできものを気にする様子もなく触れてくれました。

その手には、わざわざ風車を持たせてくれました。

信じられない光景でした。


娘は、両手で口を押さえて喜んで声を出しそうな調子を、なんとか抑えました。

わずかな、ほんとうにわずかな期待が生まれました。


(迎えに来てくれる人がいるかもしれない。…父ではない。それでも…うれしい…)


少年は意識のない娘の体でも、その風車を持たせると動いてくれました。

しかしそれだけでした。


喋る口は少年が持つ生業と使命を語るだけの録音みたいな言葉しか発しません。

浮かべる能面の笑顔はなく、無感情な無興味の面持ちをかかげるだけでした。

世捨て人のように、この世のものに興味を失せた冷めた目をしておりました。


そして今―こうやって立ち留めさせようとする娘の魂の姿をすり抜けていくのです。


娘と同じ海を見ていた少年はいとも容易く娘を見捨てます。

歩いていく、遠ざかっていく…その背中を娘は見つめました。

なにか呼びかけました。言葉しか、少年をひきとめる術がありませんでした。


それでも、少年は構わず歩いていきます。

きっとこのまま二度と娘の前には現れないでしょう。


だったらどうして風車を持ってきたのでしょう。

関わらないのならば、本当に関わらなければいいのになぜ、もう一度会いに来たのでしょう。


少年は問いに答えました。

その風車を預けた人に迎えに来てもらえ、と言い渡しました。


まごうことのない娘の切なる願いでした。

同時にかなうことのない娘の夢でもありました。


父は貿易で来た外国の者で母はそんな父に恋い焦がれ、生まれたのが娘でした。

母は雨音(アマネ)といい、美しいけれど体の脆い人でした。

出産して産後の経過が悪く、若くして亡くなりました。

父と暮らし父と生きてきた七つの歳のこと、父は母国に帰らねばならないのでした。

帰る父は「戻る」と約束して海を渡って行きました。


帰らないかもしれない―不安は年ごとに増していました。

それでも信じたかったのです。娘には父しか「帰る場所」がありませんでしたから。


少年の心を殴りつけるように娘は、自分の気持ちを晒し吐きました。

吐き終えた後―娘の意識は暗転して露散しました。


気がつけば―娘の魂は寝転がるその娘自身の体の中に戻っていました。

あれほど自由になっていた足も、声すらもままならない状態でした。

体中が痒くて、痛くて、赤黒い様子でした。

首を動かすだけでも痛くてたまりませんでした。


少年がこちらを見ているのに気がつきました。

視線だけしか送ることができず、声がでません。

娘は、藁にもすがる思いで言葉を、ただ口から音に絞り出しました。


「生きていたい……」


少年の視線は逸れ、襖の開いた狭い隙間から見えなくなりました。


****


襖が開きました。

現れたのは女主人でした。手の持っているのは訊かなくてもなにかわかりました。

劇薬でしょう。


「悪く思わないでくれよ」


自由のきかない娘にはどうしようもありません。なにをしようにもありません。

逃げ出したい手はただれて動かず、腕はゆっくりとしか動けない。

首は痛い、声もでません。

眼だけが、恐怖であふれていきました。


(どうしてこんなめにあわなくちゃいけないんだろう…)


父は約束を違え、体は蝕まれ、意識だけがある飼い殺しの毎日。

なぜ娘は自分がこんな不遇になったかわかりませんでした。

父を信じて待っていただけなのに。

この世を怨嗟呪ってやろう、と思いました。

人の幸せが憎くて仕方がありませんでした。

不幸に胡坐をかいて笑う人、見捨てる人、睦まじく生きる人に虫唾がわきました。


少年の義務的な言葉を思い起こすと、娘自身が言い放ったように

呪ってやろうと思いもしました。


でも無理でした。特記な理由もありません。

憎さも怒りもありましたが、在るだけでした。荒波が、平静と凪ぐように

娘の心は静かでした。


もう幸せになるのは諦めました。


「待ちなさい…!」


男主人が怒鳴りこむ勢いで飛び込んできました。

何事かと思えば女主人となにか言い争っておりました。

気が立ってまとまりのなさそうな話をなにか、話しているようでした。


その間を割って、入ってくる人がいました。

無遠慮に入って来ては屈みこんで、見つめてくるその視線を、娘は睨みました。

言ってやりたいことは五万とありますが生憎、言葉が思う様に話せません。


掌を娘に向けて、少年は…心外そうにしております。



「……行こうか?」



少年の言葉に腹が煮えくりかえしました。

今更どうしてやってくる少年の神経に、娘は理解できませんでした。

しかし、その掌へ弱弱しくも娘は伸ばしました。

手を握ると、丁寧に娘の体を抱き起こします。それから背に背負ったものを器用に片腕で取り出すと、広げました。

真っ白い布地に、美しい薄紅と瑠璃色の蝶がとんだ柄の織物があらわれたのでした。

娘に羽織らせると、少年は両腕で今度は娘を抱き抱えました。


「じゃあ、この娘を身請けさせてもらいますね」


丁寧に、しかしきっぱりと言い切ると慌てる女主人と頭を下げる男主人をあとにしました。

香でたきこめられた部屋も、どんどん遠ざかっていきます。

一階には呆気にとられた者。何か口やかましく喋る者とごった返しておりました。

無いように少年は無視してそのまま通り過ぎていくのでした。


「あっ、忘れてた…ちょっとすみません」


一度、娘をおろすと、そっと壁を背にもたれさせます。

足首に結んである鈴を結わえた足輪を手にとりました。

遊女の証を―少年は男主人から金と引き替えに貰った鍵で、解錠します。


足輪はチリン、となって落ちました。


少年はまた娘を抱えていきます。

店を出て、それから街すら抜けて…長い間抱えて…運んでゆきました。

息が上がって下ろしたさきは、森深い蔭の囲う寺社。

長い石階段の下でした。


「ど…う…し…て」


本当はもっと勢いよく攻めたてたかったのですが言葉がうまく操れません。

少年は言いました。なにか探りながらの物言いで話します。


「昔、助けてもらったから…助けたくなっただけ…」


****


言えば娘は無言になります。

娘がこの先を不安に思ったのか、聡介は娘が安心するように説明します。


「僕の縁のある人に貴方を預けます。

その慾と芥で降り積もったものも……きっと祓ってくれると思います。

信頼できる人です。

僕も…結果的に荒事を立てぬ為に買い取っただけですから

だから貴方に無体なことは誓ってしません」


娘の青い瞳が虚か真か見極めるように聡介を見つめました。

見つめ返す真実を、聡介は持っておらず、視線を逸らしました。


同情かもしれません。

聡介自身、深く沈めた過去を思い起こされました。

過去―父が迎えにくることを待ち、己が天神様の雨乞いの人身御供養だと知ったのは

助けられて落ち着いた後でした。

遼にありったけの悲しみをぶつけ、梅に怒りを叩きつけ、果てに泣いて彷徨う

無為の時間を思い起こしました。


同じ境遇に同情する―心を揺らいでしまう…この楔から

どうやって解放されればいいか聡介にはわかりません。


「…………ありが…とう…ね……」

「別に要りません」

「……わ…た…し…生きて……いいの…ね」

「僕がそう言ったからですか?」

「そう…あなた…は…あたし…に……死…と…言った……と…かな…しかった…」

「………」

「…でも…違う…よ…ね」

「どうしてそう思うんですか?僕、言いましたよ。

 あそこは諦めていく場所です。だから、人を呪うような憑き事は起こらない。

 貴方がもし人に危害を加えるようになったら…死んだあとそうなったら…

 僕は…言霊使いとしてくくって、祓います」


聡介はずっと言われてきたことがありました。

自分の過去に執着する傾向があると諭されて、生業とするには向いてないと。

以来―この手のことには心動かないようにしていたはずでありました。

それでも、この水穂の国を巡ると同じような境遇が多すぎました。

間引かれる子ども。生贄とされる弱きもの。

世の芥と汚濁に傷つき、病んでしまっていく者たちを目にしていました。

いつの間にか、少し疲れていたのでしょう。

もう関わることに億劫になっていました。見捨てようとしたのは変わりません。


「触れ…て…くれ…た…ね…」

「それはそうするしかなかったからで」

「抱き…あげて…くれた…ね…」

「その方が早かったからで…」

「………迎え……来てくれた…ね………」

「………」


怒った顔しか見たことがありませんでした。泣いた顔も見ました。

この時、初めて娘の笑った顔を聡介は見ました。


思い知りました。

どうして聡介はこの「言霊使い」になったのか。


「………な…ま…え……は…?」

「………聡介………」

「そ…う……す…け………」

「…はい………。うん…………そうだよ」


醜くて、利己的で、我儘で、意地汚い、残酷で、怖いそんな生き物です。

けれどあたたかい、人が好きでした。

人の、ぬくもりも、感謝も…なによりも笑顔が愛しかったのを思い出しました。

人の、笑顔に会いたかったのです。


「名前は?教えてくれる?」


娘は言いました。

「つ…ば…め……」


久しく思い出さなかったことがありました。

それが、ゆっくり蓋をあけて出てきます。


稲穂がまだ緑色の頃―風が吹き抜ける稲穂の中。

雨を告げる鳥のだと、もうすぐきっと日照りは終わり雨が降るよ、と

父は笑っていました。


「雨を告げる鳥………」


懐かしく愛しき過去の記憶を想い、聡介は言いました。


娘はうなづきます。


「はぁ…」


深い一息つきました。

それから急に伸びをして「よぉし」と気合をいれると


聡介は燕を抱きかかえました。

長い石の階段を、ゆっくりとしっかり登って行きました。



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