或る告白
水穂の国を舞台に、今宵話すのはある老人から聞いた告白でした。
老人を知るその長閑な村の人々は彼を「とても良い人」と呼びます。
昔から幾度となく村の命運を救ってきた老人を、人々は尊敬していました。
しかし、なぜ彼はそんな人々と共にそばで暮しません。
彼は竹林の傍に、細工をこしらえながら息子と暮らしているそうです。
私は緊張交じりに老人を訪ねました。彼はいました。
その穏やかな人柄はきっと誰もが好感を持てる種類の人でしょう。
ですが言霊使いの私が感じたのは違います。
彼から感じたのは深い追慕の情。底知れぬ自責の情。
ゆえに私はここに来たのです。
心を言葉にし、祓うのが私の生業ゆえ。
***
奏通は生まれて16年経ってもこの村が大好きでした。
ただここに生まれた者が自然に持つ故郷への愛着に似たものでしょうか。
村に在る自然、営み、人々。
そして其処にある全てが好きでありました。昔から変わりません。
けれど変わったものができました。それは特別好きなものでした。
「カナツ!!下の方に筍生えてる!!採りにいくぞ!」
元気よく、号令をかける友の声に始まる一日の営み。
友の名前は椛といい、奏通にとっては兄のような人でありました。
「朝っぱらから大きな声出さない。迷惑でしょうが」
すかさず椛をはたいた後、笑顔で手を振って呼ぶのは鼓。
彼女は奏通よりも椛よりも二つ年上で、とても勝気な性格です。
喧嘩でも口芸でもなんでも、彼女に勝った試しがありませんでした。
ゆえに威勢のよい椛も、鼓には立つ瀬なく従う他ありません。
二人に振り回される毎日でした。
魚釣りに行けば、急に「主を釣る」と豪語して夜半まで付き合わされます。
朽ちた杜があると聞けば、「肝試し」と敢行し、道に迷って朝帰り。
木になる柿をとれば持主の村長に追いかけまわされる始末。
暴れ馬と有名な黒馬に跨り、度胸試し。
三人で過ごせば、ぬくもりの春も、暑い夏も、葉の色づく秋も、寒さ厳しい冬も、疾風のようにすぎていきます。
二人に振り回される毎日でした。
けれども奏通はその時間の一瞬一瞬がいつしか好きになりました。
特別に好きになっていたのでした。
しかし奏通にとって村を大好きなのは変わりませんでした。
***
「ごめんね、お邪魔するね」
不安な顔で入って来た鼓を、奏通と椛は迎えました。
ここはかつて肝試しで訪れた朽ちた神社の中。
見つかりにくく、雨露をしのげるここを少しずつ椛が修繕し秘密の場所としていました。もちろん隠れ家です。
普段は断じて鼓をいれませんでしたが、この日は特別。
「女は立ち入り禁止」と決めていた鉄則を破ったのは理由があります。
今日、鼓は得体のしれない流れ者に執拗に声をかけられたのでした。
鼓が家に帰ってそのことを話しても、誰も真面目に聞いてくれません。
不安を思った鼓は、椛を訪ねたのでした。次に奏通を。
「今夜は帰りたくないの…いやな予感がするの」
頑として家に帰らない鼓。
三人で相談し決め、今夜はもう此処で寝泊まろうと思い立ったのです。
少し狭い朽ちた神社の建物の中。
薄く月の光の射し込む中、ぽつりと鼓は話します。
「あいつ…私を…探してたみたい」
「深よみだろ??お前、おれという男がいながら…心変わりか…ひどいっ」
軽口を叩く椛の口を思いっきり、ひっぱられます。
ようやく離されても椛の頬は林檎のように膨れました。
ふざけて笑わせようとしたのでしょうがその目論見は失敗。
暗む彼女の横顔を見て椛もついぞ真剣な面持ちで彼女を見つめます。
「…私の…妙な力のこと訊いてた……」
小さな消え入りそうな声。
「………あぁ…でももうほとんど聞こえないだろ?」
「うん…。目に見えない、もう死んだ人の声…小さい頃のようには上手に話せないわ」
「…消えていくのかも。相談した山のイタコ婆さんも言ってた…。そういうのは大きくなると無くなっていくって」
「うん、そうだね…だけど」
不安に曇る鼓の顔。
戸惑い、困り果てる椛の様子。
何も言わぬともりでした。
けれど、かたく沈黙を守っていた奏通は…口をあけていました。
「どんなことがあっても…ぼくらがいる………よ」
自分で話して置いて実に中身のない空っぽの言葉、を奏通は感じます。
されど顔をあげてこちらを見る彼女の、涙に濡れた瞳が優しく…。
顔に微笑みが戻っていくさまを見ますと、もう本当に何もいう言葉がありませんでした。
この夜、身を寄せ合って三人は眠りました。
鼓を守るように、左右に分かれて川の字で眠った奏通と椛。
不意に目を覚まし、見つめました。
鼓の左手をそっと握って眠る椛。安らかな寝息を立てて眠る鼓。
双方の寝顔を、眼に焼き付けるかのように見つめました。
やがて、安心させるように添えていた鼓の右掌から…奏通は掌を離しました。
あくる朝―鼓は都に送られて行きました。
***
天子様は辛い恋をなさっていました。
美しい神秘の姫君と相思相愛であったにも関わらず、結ばれることがなかったのです。
姫君は、この世の人ではなく、月からの流罪を受けた者でありました。
その罪が償われ、姫君は月に帰って行ったのです。
不老不死の薬を、愛する天子様に贈って。
けれども天子様は諦めきれませんでした。
なんとか、姫君と話をしたい一途な想いの一心でどんな方法も試したのです。
そんな時「この世ならざるものの声を聞く娘」の噂が天子の耳にはったのでした。
天子様は役人を派遣し、村の者に鼓を送るように申しつけました。
東北の地方であるこの村は、貧しく、にも関わらず税の取り立てが激しい。
鼓を売ることに決めた村の長は鼓の親しい者に声をかけました。
「協力しておくれ…。あの子は勘がいい。家族のものでもだめだろう。
だが…お前なら大丈夫だろうと思うのじゃ」
「椛でもいいじゃないですか」
「…あいつが駄目なのはお前が一番分かっていることじゃろ?」
「ぼくには………できません」
溜息をつき、重々しく村長は言います。
「ならばこの村は…仕舞いじゃ………なぁ…」
言葉が……耳に張り付く感覚を感じました。
***
朝焼けに、人影がありました。
照らされた日のもとから見えたのは見慣れた顔。
けれども衣もすり切れ、体中に打ちすえられた青痣が数か所、椛は痛めつけられていました。
反抗し、暴れ果てた椛を村の長は檻に押し込めたのでしょう。
そして目の前に現れた彼の表情を見れば、用件の察しは容易につきました。
「…なぜ裏切った」
「……」
「訊いている…なぜ…俺たちを裏切った……答えろ」
答えもありました。
ほかでもない奏通自身が、自身に繰り返し問うた問いでありました。
だから話します。
答えを、その友に渡します。
「…ぼくはこの村が大事だ。
鼓を渡さなければこの村は…あたりの集落のようにきっと滅びてしまう。
椛も訊いただろ?
天子様のお望みを断れるわけではない。ならこうするしかない。納得できなくても、理解してほしい」
「俺もこの村が大事だ…。
この村は俺にとっても…お前にとっても鼓にしても…親みたいなものだからな…親無しの…俺らにとっては。
お前の気持ちはわかる。
だがな、あいつ…このままだと死ぬ。
それがわからないほど…馬鹿じゃないだろ!!」
(うん…わかる)
「俺達聞いた!!もうあいつにそんな不思議な力はないって。
都から離れたこんな村の噂、きっと数年前のもんが都の天子様の耳にはいったんだろ!」
「…………」
「だとしたら、運ばれた先であいつはどんな目に遭う…!虚言だのなんだの言われ、果てには天子を謀った罪で死罪だ…。
お前…自分がやったことがわかんないのか!この村だってもしかしたらとばっちりあうんだ!」
「村は守る。これからどんなことがあっても。ぼくの…大事な場所。ぼくには…ここしかない」
「あいつはどうなってもいいっていうのか?!」
「……」
「あいつはどうなってもいいのか…?」
「鼓ひとりの命と、村のみんなの命。比べるまでも…ないと思う」
「…もうわかったよ。なら…あいつは俺が守る。…俺は守る」
奏通の渡した答えの椛の返答は言葉通り、まっすぐでありました。
踵を返し、走る去る椛の姿を。
友だった者の姿をいつまでも、姿が無くなるまで見送りました。
***
のちに風の便りが報せます。
死霊の声をきく娘は虚言を働き、天子を惑わした為に死罪。
娘を奪いにきた男もまた、水穂の国の一等高い山「富士の山」にて磔刑。
奏通は一度も村から離れることがありませんでした。
村を守る為に、ただずっと働き続けました。
そんな奏通はやがて、村人から尊敬を集め、昔伝わる英雄の唄も
彼を讃えるものへと変わっていきました。娘たちも彼を慕い、子も、老人も誰もが
彼を愛しました。
けれども奏通は決して彼らと交わる生活をしなかったのです。
時折、村で見かける彼はいつも遠い西を見ておりました。
***
話し終えた老人の顔は、西をむいていました。
もう物語ることはない、というように無言になる老人に、かける言葉は見当たりません。
記すことをやめた筆をおき、なにか話そうとも思いましたが無駄だと思いなおします。
老人にとって、私のかける言葉は無意味。
本当の意味で彼を救えるのは私ではないでしょう。
やるべきことはもう、ありません。
「聴いてくれてありがとう」
人々の、敬愛を集めた老人は微笑みました。
語る言葉に耳を傾け、全てを書に記した私は、立って深くお辞儀をしました。
去る私に、老人は静かに見送り続けておりました。
これが私の知る彼の最期の姿であります。
******
さてお話しはこれにておしまい。
もしかすれば月の姫君と天子様の恋物語、
果ては不老不死の薬なる話が日本列島の皆様のところにもあるやもしれません。
薬は燃えた、と私も伝え聞いております。
その煙が今も、天高く昇っているのが証拠。
ですがもしかすると私の預かりしれない真実が、隠れているやもしれません。
物語の主軸は終わっていても、終わらないものがどこかに在るのかもしれません。
あなたのそばにはそんな欠片が落ちていますでしょうか。
最後に稚拙乱文、真にお詫び申し上げます。
「風土口伝集3」 ―記し人 聡介―
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それから数カ月のちのお話。
「童たち。富士の山がどうしてそんな名前付いたか知ってるか?」
村の童の顔を一人一人見つめながら訊きます。
けれど小首を傾げ、童は「知らない」と言いました。
物語ることを期待され、童の視線が集まります。
堪忍し、ついぞ口から漏れたのは都のお話でありました。
「………昔々、月のお姫様が置き土産に愛する人に贈ったのが死なないし年をとらない薬でした。
けれど愛する人は、その薬を燃やしたのです」
「どうして?」
「愛した人のいないこの世で、永らえ続けても意味がないからだとよ」
「よくわかんない」「つまんねぇー」
不満そうに子どもら口を尖らせると、また遊びに戻っていきました。
ただ一人、小さな女の子をのぞいて。
「そのお薬、なくなってよかった…」
「…なんで?無敵だぞ?」
「だって……あいするって…大好きってことでしょう?飲んじゃったら大好きな人いないんでしょ??
ひとりぼっちになるんでしょ?」
言って女の子は逃げるように村の子の中に入って行った。
思わず小さく笑い、笠を深くかぶります。
***
竹林のそばの家へ歩みを進めました。
人がその家にはたくさん詰めかけ、涙をながしております。
その中で若い男はこちらを見ると、走って来ては袖を掴み、「早く中へ」と急かすのです。
「僧がまだ来ないのです!!お願いです!!もう……御爺は……どうか代わり!!」
招かれるままに家屋に入り、通されたのは布団がしかれ、老いた男が眠っております。
高齢のその老人は誰もが慕う尊敬を集める老人。
わずかに息をしていましたが、もう天寿でありました。
「…息子さんですか?」尋ねると
「…いえ俺は捨て子でした…。でも御爺は俺を拾って…」と若い男は答えます。
「…?…このご老人の奥さんとかご家族は」
「俺一人です」
「結婚もされていないのですか…?」
「御爺は…俺を拾うまで…ずっと一人です」
「…………わかりました」
本業でもなく、まだ修行中の身の上です。
けれども僧としての仕事は熟知しておりました。見送るのは慣れていましたゆえ。
決められた言葉を唱え、最後に、かの者に問います。
最後にその者の、罪を言葉にておとす。
「天津原に還る、この今際の刻にてその魂に、つきし咎めを清めよう…」
わずかに動いたしわがれた唇に、耳を当てます。
小さくか細く、けれど繰り返し話しています。
聞こえてきたのは罪の告白ではありませんでした。
「…いい人じゃない…」
「……」
「………たくさんのいのちを…たすけることが…だいじだ…でも……ほんとうは……」
「………」
「いいひとなんか…じゃない。………ひとりだ。…………なくした…だい…すきだったのに」
蒲団の中から皺だらけの腕を掴み出します。
そして、僧は、かつての旧友のその手を握りしめます。
手順どおりを…やめていました。
「馬鹿だおまえは………なにひとりぼっちになってるんだよ。…なに……ずっとずっとなに自分苦しめてるんだよ」
「…………」
「…聞こえてくれ……頼む。俺も、鼓も!お前のこと………大好きなんだ」
「…………」
「…聞いてるか…聞こえているか??!!…奏通」
弱弱しく、わずかに握り返す皺深い手にまだぬくもりがありました。
思わず必死に握り返します。
けれど老人の手は、次第に静かに冷たくなっていきました。
***
「ありがとうございました。
僧が間に合わないかと思って…。 けれど御爺も静かに安らかに身罷ったと思います。
でも……御爺に友達がいるなんて…知りませんでした」
若い男は玄関先に、もう草鞋をはく僧の背中にむかって言います。
けれどすぐに不可思議な顔になり、疑問を投げかけました。
「いえ、すみません。御爺の…友達の………血縁の方ですよね」
「……??あぁ、なるほど。じゃあそういうことで」
「ですよね。御爺は今年で七八歳。あなたは…どう見ても一七かそこら…」
「はぁ、これでも八〇歳」
「またまた…へんなことを」
「だな…言っても詮無いことだ」
「…???えっと…あのお名前は。なんとお礼を…申し上げていいか」
傘を深くかぶった僧は、深くお辞儀をして名乗ります。
「……椛だ。礼はいらない。昔のよしみだからな」
***
ひとつ崖を見下ろせば先ほどまでいた村があります。
遠くなる昔の故郷だった村を、もう一度だけ振り返しました。
もしかしたらこれから長く生きていく生涯。二度と見られない村になるやもしません。
「赦すつもりなんかなかったんだけどな……」
手の握ると今でも、冷たくなっていく感触を感じます。
眼下にあるのは、訪れるつもりは毛頭なかった故郷。
移ろうときは確実に、記憶の中の故郷から色褪せていくように思いました。
それでも、どこか似ているような、懐かしく、切ない想いがこみ上げてはくるのであります。
嫌悪と、追慕の矛盾でありました。
苦笑交じりに、ふと脳裏に浮かんだのは此処に来て初めの頃に出会った女の子が
無邪気に言った言葉。
「ひとりぼっちに…なっちゃう薬…ね上手いことを言われたかもしれない」
大きくため息をつき、けれど背筋を伸ばして…また歩き出します。
別れと出会いの繰り返しを、ひとりの僧は歩いて行きました。