第50話 毎日、少しずつ違います
峠を発ったのは、翌朝だった。
ハルムまで七日。
マルタと二人で、馬を並べて走った。この子は乗馬が下手で、二日目には腿を痛がっていた。三日目には慣れた。
道中、ほとんど喋らなかった。
喋らなかったのは、話すことがないからではない。
*
三日目の夕方、宿場でラウル様に追いつかれた。
峠には、いらしていなかった。領務があって、ハルムに残っていらした。私が発ったと聞いて、途中まで迎えに出られたのだという。
厩のところで、顔を合わせた。
「オルデン嬢」
「……閣下」
「終わりましたか」
「終わりました」
それきり、言葉が続かなかった。
*
その晩、宿の裏に川があった。
浅くて、速い。ハルムの川に似ている。
夕餉のあと、私はそこへ降りていった。降りていったら、先に立っていらした。
声をかけるべきか迷って、迷っているうちに、向こうが振り返られた。
「歩きますか」
「はい」
*
川沿いを、少し歩いた。
夏の川は、水が温い。石の上を歩くと、足の裏に日中の熱が残っている。
「四月に、伺うと申し上げました」
「はい」
「王家を断った理由でございます」
「覚えております」
私は、そこで足を止めた。
止めて、しばらく川を見ていた。
*
「三月三十日の夕方に、街道で追いつかれました」
「はい」
「三枚ございました。名跡の回復、王家による再承認、それから、東の二領の買い戻し」
「……三枚目は、重うございますね」
「重うございました」
私は、そう申し上げた。
「四つの村がございます。石屋根が二つ、藁が二つ。藁のほうは三年に一度、葺き替えの費えが要ります。上が三十一戸、下が二十四戸」
*
「五十五戸でございます」
「はい」
「三年後に困るはずだったものを、わたくしが来年に早めました」
「それを、戻せる紙だった」
「戻せる紙でございました」
*
私は、川の音を聞いていた。
「不備は、ございませんでした。四回読みました」
「では、なぜ」
「……理由は、三つ考えました」
*
ひとつ。三派の同意を王家が取り付けると書いてある。取り付けられるなら、半年前に取り付けていた。
ふたつ。二領を買い戻す銭が、いまの王家にない。
みっつ。回復した名跡が、いつまでもつかわからない。
「三つとも、正しゅうございます」
「では、それが理由ですか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「三つとも、断る理由になります。ただ、わたくしが断ったのは、そのどれでもございません」
*
「では、何ですか」
私は、答えるまでに少しかかった。
言葉を探したのではない。言うと、こちらが崩れるのがわかっていたからだ。
「……戻りますと」
声が、少し掠れた。
「戻りますと、また、書斎に座ります」
*
「座って、三つの束を、日付の順に開けます。返事を書いて、片付けて、また明日の分が届きます。名は書きません。書くと狙われますので」
「はい」
「十一年、そうしておりました。もう十一年やれば、二十二年でございます。二十二年やって、その次は」
私は、そこで言葉を切った。
切って、続けられなかった。
*
しばらく、川の音だけになった。
「オルデン嬢」
「はい」
「その次は、どうなりますか」
私は、下を向いた。
「……誰かに、渡さねばなりません」
「はい」
「渡す先を、二十二年かけて作っていなければ、渡せません」
「作っていなければ」
「作れません」
私は、そう申し上げた。
「守るために隠しますので。隠したものは、残りません。残らないものは、渡せません」
*
言い終えて、私は自分の声が震えていることに気づいた。
気づいて、止めようとした。
止まらなかった。
「四百年、誰もそこを解いておりません。父も、祖父も、その前も。みな、隠して、守って、それで、次の者に渡すところで死にました」
「はい」
「わたくしも、そうなります。戻れば、そうなります」
*
「だから、断りました」
私は、そう申し上げた。
「五十五戸を、断りました」
*
そこで、こらえきれなくなった。
両手で顔を覆った。
覆ってから、しゃがみ込んだ。川の石が、掌に触れた。まだ温かい。
声が出た。
出したくなかったので、口を押さえた。押さえたら、余計に出た。
*
どれくらいそうしていたかは、わからない。
顔を上げたとき、その方は、少し離れたところにしゃがんでいらした。
触れてはいらっしゃらなかった。
立ってもいらっしゃらなかった。
同じ高さで、待っていらした。
*
「……申し訳ございません」
「なぜ謝るのですか」
「人前で」
「私しかおりません」
「……はい」
その方は、石をひとつ拾って、川に投げられた。
浅いので、跳ねずに沈んだ。
*
「オルデン嬢」
「はい」
「五十五戸は、まだ困っておりません」
私は、顔を上げた。
「来年でございます」
「来年です。来年までに、なんとかできませんか」
「……できません。わたくしには、あの領に手が届きません」
「私にも届きません」
その方は、そう仰った。
「ですが、商会には届きます」
*
「商会」
「東の二領は、いまヴァレン商会のものです。商会は、いま困っております。倉が空で、抱えを損で吐いて、王家への貸付も焦げついている」
「はい」
「困っている者は、話を聞きます」
*
私は、その方の顔を見た。
「……藁屋根の葺き替えを、商会に出させると」
「出させるのではありません。出したほうが得だと、示すのです」
「示せますか」
「あなたなら示せるでしょう」
その方は、立ち上がられた。
「三年に一度の葺き替えを止めると、五年で村が空きます。空いた村からは、何も取れません。取れないものを持っているのは、商会にとって損です」
「……計算が要ります」
「四月の合議で、三方は同じ卓に着きました。次は八月です」
*
「八月に、それを出せと」
「出すかどうかは、あなたが決めることです」
その方は、そう仰った。
「私は、できるかどうかを申し上げただけです」
*
私は、立ち上がった。
立ち上がって、川を見た。
浅くて、速い。石が全部見える。
——できる。
計算は、たぶん一月かかる。戸数と、屋根の面積と、藁の値と、人手の日当。それから、村が空いたときに商会が失うものの見積もり。
資料は、ハルムにある。十一箱と、南の綴りと、越えてきた方々が書いたもの。
三列の棚が、埋まっている。
*
「閣下」
「はい」
「ひとつ、お願いがございます」
「どうぞ」
「三月三十日に、契約が切れました」
「切れました」
「わたくしは、いま、どこの者でもございません」
私は、そう申し上げた。
「城に部屋がございます。給金もいただいております。領主である閣下が認めてくださっておりますから、領内に留まること自体に問題はございません」
「はい」
「ですが、それだけでは、わたくしが何としてここにいるのかが、書面には残りません」
*
「書面が要りますか」
「要ります」
「では、作りましょう」
「いいえ」
私は、首を振った。
「わたくしが作ります」
*
その晩、宿の部屋で、私は紙を一枚出した。
書式は、ない。
領内に留まる許しを得るための書類ではない。それなら、すでに足りている。
これは、その先のための紙だった。
私は何としてここにいて、いつまでいるのか。
誰かに決めてもらうのではなく、自分で書くための紙だった。
ないので、作った。
*
一枚に、三行書いた。
——リディア・オルデンは、アーレンス辺境伯領に留まる。期限を定めない。
——本書は、いずれの側からも解除できる。解除に、理由も、違約も、引き継ぎも要さない。
——本書は、更新を要しない。
三行目が、いちばん大事だった。
*
更新を要しない。
更新の条項があると、更新のたびに、続けるかどうかを誰かが判じる。判じる者が要る。判じる者がいなくなれば、切れる。
半年前の契約が、そうだった。
今度は、置かない。
置かないので、切れない。
切りたいときは、どちらかが切る。
*
いちばん下に、名を書く欄を二つ作った。
私の名を、先に書いた。
書いてから、紙を持って、階下へ降りた。
*
その方は、宿の卓のところにいらした。
私は、紙を差し出した。
「これに、ご署名いただけますか」
受け取って、読まれた。
読んで、二度目を読まれた。
「……三行目は」
「更新を要しない、でございます」
「なぜ」
「更新を待つのが、厭だからでございます」
*
その方が、こちらを見られた。
「厭ですか」
「厭でございます」
私は、そう申し上げた。
「三月に、待ちました。待っているあいだ、こわうございました。もう、いたしません」
*
その方は、しばらく紙を見ていらした。
見て、それから、宿の主人にペンを借りられた。
署名された。
私の名の、隣に。
*
インクを乾かすあいだ、二人とも黙っていた。
乾いてから、私はそれを二つに折った。
「写しを、お作りしましょうか」
「要りません」
その方は、そう仰った。
「一枚で足ります」
「通常の契約であれば、二通を残します」
「これは通常の契約ですか」
私は、答えられなかった。
領内に滞在するための許可証ではない。
雇用を定める書面でもない。
婚姻を証するものでもない。
どの書式にも属さない。
ただ、二人が、これからもここにいることを決めた紙だった。
*
「……いいえ」
「では、一枚で」
その方は、そう仰って、紙をこちらへ返された。
「お持ちください。あなたのほうが、なくしません」
私は、それを受け取った。
受け取って、外套の内側に入れた。
鍵の入っている、いちばん深いところに。
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