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優しい人

 

       ◯



 その日は一日中、母の言葉が頭から離れなかった。

 おかげで授業にも全く身が入らず、霧島は上の空のまま、教室の窓から見える外の景色ばかり眺めていた。


 ガラスを隔てた向こう側にはグラウンドが広がっている。よく晴れた青空の下で、どこかのクラスが体育の授業を受けている。


 と、そこに見えた教師の顔に、霧島は目を奪われた。


 黒いジャージに身を包んだその姿は、まさに渦中の狭野だった。彼は相変わらずの無表情のまま、自らの担当するクラスの生徒たちを見守っている。


(狭野先生は、悪い人じゃないもん……お母さんのばか)


 およそ愛想笑いすら浮かべる気配のない彼の顔は、初対面の人からすれば少し冷たい印象を受けるかもしれない。

 けれどその実、彼は他の誰よりも生徒思いの教師だった。


 現に霧島も、彼の言葉によって救われた。ありのままでいい、と言ってくれた彼のおかげで、こうしてクラスに打ち解けることができたのだ。


 むしろ彼と比べると、霧島の担任である教師の方がよほど問題ではないのか、という気持ちもあった。


 今も黒板の前で教鞭を執っている、まだ二十代半ばほどの、若くて美しい女教師。いつも明るくニコニコとしていて、男女問わず多くの児童から人気がある。


 誰に対しても優しいと専ら評判のその女教師は、しかしなぜか霧島に対してだけはどこか淡白だった。

 霧島がまだクラスに馴染めていなかった頃も、その様子を心配するどころか、意図的に見て見ぬフリをしているような節があった。


 あるいは、霧島がそう感じていただけなのかもしれない。


 けれどどちらにせよ、クラスで孤立していた霧島を救ったのは彼女ではなく、他でもない狭野だったのだ。


(……よし、決めた!)


 胸の内で、霧島は人知れず決意した。


 今日の放課後はあの河川敷で、狭野に会えるまでは絶対に帰らない。たとえどれだけ時間が遅くなろうとも、彼が来るまであの場所で待つ。


 もともと街灯の少ない場所であるため、日が暮れた後のそこはかなり暗いかもしれない。想像すると少し怖いけれど、それでもなお待ち続けるほどに狭野を信頼しているのだということを、母に見せつけてやりたかった。



       ◯



 結局、日没を迎えた後になっても、狭野はなかなかその場所へ現れなかった。


 例の河川敷。普段と何も変わらないはずのそこは、太陽の光を失っただけで全く別の様相を見せる。


 夕焼けの赤もいつのまにか消え、段々と闇の色を強めていく辺りの様子に、霧島は拭いきれない恐怖を覚えた。

 わかってはいたが、想像以上に暗い。自分の足元すら満足に確認できない。


 前方の、普段は透き通って見える川の水も、今はどす黒い色をしている。まるでその奥に何か得体の知れない化け物でも住んでいるような、そんな雰囲気があった。


 狭野は仕事が遅くなった日でも、変わらずここへ来ることが多いという。こんなにも不気味な場所へ来て、果たして心が休まるのかどうか、霧島は疑問だった。


(早く来て、先生)


 あまりの心細さに押しつぶされそうになりながら、彼のあの控えめな笑顔を思い出す。


 と、そこへ川の方から何か物音が聞こえて、霧島は反射的に顔を上げた。


 川の方、というよりは、川の向こう側からだった。

 甲高い、楽器のような音。おそらくは笛の音だった。


 一体どこから聞こえるのだろう、と霧島が視線を巡らせたとき、何気なく目に入ったのは、向かいの土手を登った先にある、あの赤い鳥居だった。

 

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