第9話:氷の洞窟への最終行程
夜明け前、アルトは自然と目を覚ました。
外はまだ薄暗いが、東の空に淡いピンク色が差し始めている。今日は氷の洞窟に到達する最終日。
胸の竜心石がいつもより強く脈動していて、まるで重要な日の到来を告げているようだった。
『おはよう、アルト。今日はいよいよね』
セレスも既に起きていて、窓の外を見つめていた。その瞳には決意と、そして微かな不安が混じっている。
「おはよう、セレス。準備はできてる?」
『ええ。兄さんに会えると思うと、心臓が早鐘を打つみたい』
小屋の外では、グラシアが朝の冷たい空気の中で氷の魔法を練習していた。
美しい氷の結晶を空中に作り出し、それを様々な形に変化させている。
明らかに、今日の戦いに備えた準備運動だった。
「グラシア様、おはようございます」
『おはよう、アルト。よく眠れたか?』
「はい。グラシア様は?」
『私たち氷竜は、あまり睡眠を必要としない。夜通し瞑想をしていた』
グラシアの表情は平静だったが、その瞳の奥に深い決意が宿っているのを感じる。
『今日は多くの困難が待ち受けているじゃろう。しかし、恐れることはない』
ガルムも早起きして、最後の朝食を準備していた。
「今日は特別な日じゃからな。しっかりと腹ごしらえをしよう」
朝食はいつもより豪華だった。山菜のスープ、焼き魚、そして村から持参した特製のパン。
ガルムが心を込めて作ってくれた、励ましの食事だった。
「アルト、これを見ろ」
ガルムが古い地図を広げて見せた。
「氷の洞窟までの最終ルートじゃ。途中、三つの難所がある」
地図には詳細な道筋が描かれていて、危険な箇所に赤い印がつけられている。
「まず『風の試練』。強烈な突風が吹く峡谷を通らねばならん」
「風の試練...」
『私の兄さんは風竜だから、きっと何かヒントをくれるはずよ』
「次に『氷の迷宮』。複雑に入り組んだ氷の洞窟群じゃ。一度迷うと、二度と出られないと言われている」
グラシアが補足する。
『氷の迷宮は私の得意分野じゃ。氷の魔法で正しい道を見つけることができる』
「そして最後が『記憶の扉』。氷の洞窟への最終入口じゃが、特別な鍵が必要になる」
「特別な鍵?」
「蒼竜と竜語りの完璧な調和じゃ。お前とセレスの絆が試される場所じゃろう」
アルトは竜心石を握りしめた。
石は温かく、まるで「大丈夫」と励ましてくれているようだった。
朝食を終えると、一行は最後の準備を整えた。リュックサックに必要最小限の荷物を詰め、防寒具を身に着ける。
今日は特に寒くなることが予想されるからだ。
「アルト、これを持っていけ」
ガルムが美しく装飾された小さな鈴を手渡した。
「これは『絆の鈴』じゃ。お前の両親が結婚式で交換した記念品じゃ」
「両親の...」
「この鈴には、深い愛と絆の力が込められている。困った時に必ず助けになるじゃろう」
アルトは鈴を大切にポケットにしまった。
両親の愛が、彼を守ってくれるような気がした。
星降りの山小屋を出発すると、道は急激に険しくなった。岩だらけの急斜面を登り、狭い尾根を慎重に歩く。
足を滑らせれば、深い谷底まで落ちてしまいそうな危険な道のりだった。
しかし、グラシアの存在は心強かった。氷竜は空を飛ぶことができるため、危険な箇所では氷の橋を作ってくれる。おかげで、比較的安全に進むことができた。
「グラシア様の魔法は本当にすごいですね」
『長年の修行の賜物じゃ。氷の魔法は美しいが、同時に非常に繊細でもある』
二時間ほど歩いたところで、最初の難所『風の試練』に到着した。目の前には深い峡谷が横たわり、その向こう側に続く道が見える。
しかし、峡谷には凄まじい風が吹き荒れていて、普通に渡ることは不可能だった。
「これが風の試練ですか...」
風の音は轟音のように響き、立っているだけでも体がふらつく。とても人間が渡れるような状況ではない。
『この風...ただの自然現象じゃないわ』
セレスが羽を震わせながら言う。
『魔法的な風よ。でも、どこか懐かしい感じがする』
その時、峡谷の向こう側から美しい鳴き声が聞こえてきた。
それは確実に竜の声で、風に乗って響いてくる。
『この声...兄さんよ!』
セレスが興奮して羽をばたつかせる。
『ゼファー!私よ、セレス!』
セレスが精一杯の声で呼びかけると、風の音が一瞬止んだ。そして、峡谷の向こう側から美しい緑色の竜が現れた。
『セレス...本当にセレスなのか?』
ゼファーの声がテレパシーで響く。感動と驚きに満ちた声だった。
『兄さん!生きていてくれたのね!』
『妹よ...長い間探していた。よく無事でいてくれた』
兄妹の再会に、アルトも胸が熱くなった。
しかし、まだ峡谷を渡らなければ、本当の再会はできない。
『兄さん、風を止めて!』
『それが...できないんだ。この風は封印の一部で、私の力だけでは制御できない』
ゼファーが苦しそうに説明する。
『でも、方法がある。竜語りと蒼竜の力を合わせれば、風を鎮めることができるかもしれない』
アルトは竜心石を取り出した。
「セレス、一緒にやろう」
『もちろん!』
二人は手を取り合い、心を一つにした。
竜心石が強く光り、その光がセレスの鱗にも映る。
すると、不思議なことが起こった。峡谷を吹き抜ける風が、徐々に穏やかになっていく。
『すごい...二人の絆の力が風を鎮めている』
ゼファーが驚きの声を上げる。
風が完全に止むと、グラシアが氷の橋を架けてくれた。
一行は無事に峡谷を渡ることができた。
峡谷の向こう側で、ついにセレスとゼファーの本当の再会が実現した。
『セレス...』
『兄さん...』
二匹の竜は抱き合って、長い間離れ離れだった悲しみと、再会の喜びを分かち合った。
ゼファーは美しい風竜だった。
緑色の鱗は風に揺れるように輝き、その瞳には優しさと知性が宿っている。体格はセレスよりもかなり大きく、既に成竜としての威厳を備えていた。
『君が竜語りのアルトか?』
ゼファーがアルトに向き直る。
「はい、アルト・ウィンドブレイカーです」
『トーマスの息子...父上によく似ている。そして、セレスとの絆も素晴らしい』
「ありがとうございます。セレスを助けていただいて」
『いや、助けられたのは私の方じゃ。セレスとの再会が、希望を与えてくれた』
ガルムも感動的な再会に心を打たれていた。
「美しい竜じゃな。セレスと瓜二つじゃ」
『こちらはアルトの祖父、ガルムじゃ』
『ガルム殿、お世話になっております』
ゼファーは丁寧に挨拶した。
再会の喜びもつかの間、一行は次の難所に向かわなければならなかった。
ゼファーも一緒に来てくれることになり、心強い仲間が増えた。
「次は氷の迷宮ですね」
『そうじゃ。そこが最も危険な場所かもしれん』
ゼファーが警告する。
『迷宮の中には、忘却の霧の影響を受けた氷の魔物たちが住んでいる』
「氷の魔物?」
『氷で作られた戦士のような存在じゃ。非常に強力で、普通の武器では歯が立たない』
グラシアが補足する。
『しかし、純粋な魔法の力なら対抗できる。私とゼファーが先頭に立って戦おう』
一時間ほど歩くと、氷の迷宮の入口が見えてきた。巨大な氷の壁で囲まれた複雑な構造で、一目見ただけで迷子になりそうな複雑さだった。
『ここからが本当の試練じゃ』
グラシアが氷の迷宮を見上げる。
『迷宮の中心部に『記憶の扉』がある。そこが氷の洞窟への入口じゃ』
「どのくらい時間がかかりますか?」
『順調にいけば二時間。しかし、魔物との戦闘があれば、もっと長くかかるかもしれん』
迷宮に足を踏み入れると、気温が急激に下がった。
吐く息は白く凍り、足音は氷の壁に反響して不気味に響く。
『みんな、離れ離れにならないように』
ゼファーが注意を促す。
迷宮は想像以上に複雑だった。左右に分かれ道があり、上下にも通路が続いている。
三次元的に入り組んだ構造で、方向感覚を完全に失ってしまいそうだった。
しかし、グラシアの氷の魔法が道案内をしてくれる。彼女は氷の結晶を作り出し、それを正しい道の方向に飛ばして教えてくれるのだ。
『この迷宮は、氷竜族の先祖が作ったものじゃ。侵入者を阻むための防御施設じゃった』
途中、氷でできた戦士の像がいくつも現れた。最初は単なる装飾かと思ったが、一行が通り過ぎようとすると、像が動き始めた。
「氷の魔物ですね」
氷の戦士は剣と盾を持ち、機械的な動きでアルトたちに向かってくる。
『私が相手をする!』
グラシアが氷の魔法で応戦した。氷の戦士同士の戦いは圧巻で、氷の欠片が飛び散る激しいバトルだった。
ゼファーも風の魔法で援護する。
竜巻を起こして氷の戦士を吹き飛ばし、グラシアの攻撃をサポートした。
アルトとセレスも負けてはいられない。竜心石の力を使って、氷の戦士の動きを封じる光の縄を作り出した。
『みんなで協力すれば、どんな敵も倒せるのね』
戦闘を終えた一行は、迷宮の奥へと進んだ。そして、ついに中心部にある『記憶の扉』に到着した。
扉は巨大で、美しい蒼い石で装飾されている。しかし、鍵穴らしきものは見当たらない。
『この扉を開くには、蒼竜と竜語りの完璧な調和が必要じゃ』
「どうすればいいんですか?」
『心を完全に一つにするのじゃ。お互いの魂を共鳴させる』
アルトとセレスは扉の前に立った。
竜心石を握り、セレスと手を繋ぐ。
そして、二人は心の奥底で語り合った。言葉ではなく、純粋な想いで。
すると、扉がゆっくりと開き始めた。その向こうには、氷の洞窟への入口が見えている。
『やったね、アルト』
『セレス...僕たちの絆が扉を開いたんだ』
ついに、最終目的地である氷の洞窟に到達する時が来た。
そこで待ち受けているのは、忘却の王との最終決戦。
そして、セレスの家族との再会だった。
第9話 完




