第8話:氷竜グラシアの記憶
星降りの山小屋は、風見の峠の山小屋よりもさらに高い場所にあった。
標高が高いため、夜になると満天の星がまるで手に届きそうなほど近くに見える。
小屋の名前の由来がよく分かる光景だった。
グラシアは小屋の外で休んでいた。氷竜にとって、山の冷たい空気の方が心地よいのだろう。
月光を受けた彼女の白銀の鱗は、まるで星々の光を集めて輝いているようだった。
「グラシア様は本当に美しいですね」
『ありがとう、アルト。しかし、美しさよりも大切なものがある』
グラシアの声がテレパシーで響く。
『それは記憶じゃ。私たちが守り続けてきた、大切な記憶』
小屋の中では、ガルムが夕食の準備をしていた。しかし、アルトはグラシアとの会話に夢中で、外に留まっていた。
セレスも同じように、長老である氷竜の話に興味深く耳を傾けている。
『セレス、お前は自分の家族の記憶をどの程度覚えているか?』
『最後に会った日のことは鮮明に覚えています。でも、それより前のことは少しずつ曖昧になってきて...』
『それは自然なことじゃ。しかし、竜語りとの絆が深まれば、失われた記憶も蘇ってくる』
グラシアは優しい眼差しでアルトを見つめた。
『アルト、お前の竜語りとしての能力は、まだ発展途上じゃ。しかし、素質は父親以上のものを感じる』
「父以上ですか?」
『トーマスは優秀な竜語りだった。しかし、彼には一つ足りないものがあった』
「何が足りなかったんですか?」
『完全なる信頼じゃ。彼は自分の能力を疑うことがあった。お前にはその迷いがない』
アルトは自分でも気づかなかった特徴を指摘され、少し驚いた。
「僕は...ただセレスを信じているだけです」
『その純粋な信頼こそが、竜語りの最も大切な資質なのじゃ』
グラシアは空を見上げた。
『今夜は特別な夜じゃ。星々の配置が、古い記憶を呼び覚ますのに最適な状態にある』
「古い記憶?」
『私がセレスの一族と過ごした日々の記憶。それをお前たちと共有したいのじゃ』
グラシアの瞳が青白く光り始めた。
氷の魔法が発動している証拠だった。
『心を開いて、私の記憶の中へ入るのじゃ』
アルトとセレスは、グラシアの魔法に身を委ねた。
すると、意識が遠のいて、別の時代、別の場所へと導かれていく。
気がつくと、アルトは雲の上にある美しい島にいた。天空の島々と呼ばれる、竜族の故郷だった。
「ここが...」
周囲には色とりどりの竜たちが飛び交い、美しい建物が雲の上に浮かんでいる。
人間たちも一緒に暮らしていて、まさに調和の世界が広がっていた。
『これは五十年前の記憶じゃ』
グラシアの声が説明してくれる。
『あの頃は、人間と竜族が完全に調和して暮らしていた』
記憶の中で、若いセレスが他の竜の子供たちと遊んでいるのが見えた。まだ手のひらサイズだったが、今と同じように美しい蒼い鱗を持っている。
『私よ...小さい頃の私』
セレスが感動の声を上げる。
記憶の中のセレスは、兄のゼファーと一緒に空を飛ぶ練習をしていた。
ゼファーは美しい緑色の鱗を持つ風竜で、優しい兄の表情でセレスを見守っている。
『兄さん...』
そして、記憶の中に氷竜の若いグラシアが現れた。現在よりも小柄だが、既に氷の魔法の才能を発揮している。
記憶のグラシアは、セレスの姉であるオーラに氷の魔法を教えていた。
オーラは美しい水色の鱗を持つ竜で、グラシアの指導の下、見事に氷の結晶を作り出している。
『オーラは私の最も優秀な弟子だった』
現在のグラシアが懐かしそうに呟く。
『彼女の氷の魔法は、私以上の才能があった』
記憶は続いている。
セレスの両親、サイラスとルナも登場した。サイラスは威厳のある雷竜で、ルナは優しい治癒竜。完璧な家族の姿があった。
しかし、記憶の中で空が突然暗くなった。黒い雲が島々を覆い始める。忘却の霧の到来だった。
『あの日...すべてが変わってしまった』
竜たちは必死に霧に対抗しようとしていた。
サイラスの雷、ルナの治癒の光、ゼファーの風、オーラの氷。
しかし、霧の力はあまりにも強大だった。
記憶の中で、幼いセレスが一人取り残される光景が映し出された。家族が次々と霧に飲み込まれていく中、セレスだけが小さな洞窟の中に隠れて難を逃れていた。
『つらい記憶じゃが、真実を知ることは大切じゃ』
涙を流すセレスを、アルトが優しく慰めた。
「セレス...」
『でも、家族は完全に消えたわけではないの』
グラシアが希望を込めて続ける。
『霧は破壊ではなく、封印の魔法じゃ。どこかで眠っているはずじゃ』
記憶が終わると、三人は現実の世界に戻った。
セレスは涙を流していたが、その瞳には新しい決意の光が宿っていた。
『家族を取り戻す...必ず』
「僕も手伝う。絶対に見つけ出そう」
『ありがとう、アルト』
グラシアが満足そうに頷く。
『良い絆じゃ。この絆があれば、きっと忘却の霧も打ち破れる』
小屋から、ガルムが夕食の準備ができたことを知らせる声が聞こえてきた。
「夕食にしましょう」
小屋の中では、温かいシチューと焼きたてのパンが用意されていた。
グラシアは食事の必要がないため、暖炉の前で休んでいる。
「グラシア様、明日の氷の洞窟について教えてください」
『氷の洞窟は古い封印の場所じゃ。そこに忘却の霧の源があると言われている』
「源?」
『霧を生み出している魔法装置のようなもの。それを破壊すれば、霧の影響を受けた者たちが解放される』
ガルムが興味深く聞いている。
「それなら、セレスの家族も...」
『可能性は高い。しかし、装置には強力な守護者がいる』
「守護者?」
『忘却の王と呼ばれる存在じゃ。霧の力で生まれた、邪悪な魔法生物』
セレスが不安そうに羽を震わせる。
『でも、蒼竜と竜語りの力があれば、倒すことができるはずよ』
「そうじゃ。お前たちの絆こそが、最大の武器なのじゃ」
グラシアが励ますように言う。
『ただし、忘却の王は狡猾じゃ。心の弱さにつけ込んで、幻覚を見せることもある』
「どんな幻覚ですか?」
『最も大切な人を失う幻、最も恐れていることが現実になる幻...様々じゃ』
アルトは竜心石を握りしめた。
石の温かさが、勇気を与えてくれる。
「でも僕には、セレスがいる。どんな幻覚にも負けません」
『その意気じゃ。信頼こそが、すべての魔法を打ち破る』
夜が更けると、四人はそれぞれ休息についた。
しかし、アルトはなかなか眠れずにいた。
明日の戦いを思うと、緊張で胸がドキドキしている。
『アルト、眠れないの?』
「ちょっと緊張してて」
『私も同じよ。でも、今まで一緒に乗り越えてきたじゃない』
「そうだね。君がいれば大丈夫」
窓の外では、グラシアが月光浴をしながら瞑想していた。
氷竜の美しいシルエットが、星空に映えている。
『明日はついに、長い旅の終わりが見えてくるのね』
「終わりであり、新しい始まりでもあるかもしれない」
『そうね。家族と再会できたら、みんなで新しい生活を始められる』
アルトはセレスの希望に満ちた声に、勇気をもらった。
「きっとうまくいく」
『ええ。私たちなら、どんな困難も乗り越えられる』
やがて、二人は穏やかな眠りについた。竜心石の温かい光に守られながら、明日への準備を整えるために。
外では、グラシアが洞窟の方角を見つめていた。古い友の救出と、忘却の霧との最終決戦が、ついに始まろうとしていた。
星々は静かに瞬き、まるで明日の戦いの勝利を祈っているかのようだった。
第8話 完




