第7話:蒼氷の谷への道
風見の峠を後にした三人は、朝もやの中を北へ向かって歩き続けていた。
昨夜の予知夢の影響で、アルトの足取りには普段以上の急ぎが感じられる。
竜心石は胸の中で規則正しく脈動し続け、まるで時計のように彼らの歩調を刻んでいた。
「アルト、あまり急ぎすぎるでない。山では体力の配分が重要じゃ」
「分かっていますが、どうしても気持ちが焦ってしまって」
『私も同じ気持ちよ。でも、おじいさんの言う通りね。無理をして倒れたら、兄さんを助けることもできなくなる』
セレスがアルトの肩で羽を広げて、周囲の空気を確かめている。
『この辺りの魔力の流れが少し変よ。まるで何かが魔法のバランスを崩しているみたい』
「魔法のバランス?」
ガルムが立ち止まって、セレスの方を向いた。
「どういう意味じゃ?」
『自然界には魔力の流れがあるの。川の水のように、一定の方向に流れている。でも今は、その流れが乱れている』
アルトは周囲を見回した。
確かに、何となく違和感がある。
木々の葉が不自然な方向に揺れていたり、鳥たちの鳴き声が聞こえなかったり。
「忘却の霧の影響かもしれませんね」
「可能性はあるな。霧は古い魔法の封印を弱めるからな」
道は次第に険しくなっていく。岩だらけの山道から、氷河によって削られた急斜面へと変わっていった。
足元には小さな氷の欠片が散らばり、一歩一歩注意深く歩かなければならない。
「これが蒼氷の谷への入り口ですか?」
「そうじゃ。ここからが本格的な山登りになる」
眼前に現れたのは、まさに氷の世界だった。谷全体が青白い氷に覆われ、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。
しかし、その美しさの裏には、厳しい自然の試練が隠されていた。
『すごく美しい...でも、とても冷たい魔力を感じる』
「蒼氷の谷は、古代氷竜の住処だった場所じゃ。その力がまだ残っているのじゃろう」
「氷竜?」
「氷を操る力を持った竜族じゃ。しかし、数百年前に姿を消してしまった」
『私の姉さんのオーラも氷の魔法を使えたわ。もしかすると、この谷と何か関係があるのかもしれない』
谷の入り口には、古い石の標識が立っていた。
風化によって文字の大部分は読めなくなっているが、かすかに「警告」という文字が見える。
「昔の旅人への注意書きじゃな。この谷は美しいが、同時に多くの危険も潜んでいる」
「どんな危険ですか?」
「氷の魔法による幻覚、突然の吹雪、そして...氷獣じゃ」
「氷獣?」
『氷の魔力によって生まれた魔獣よ。普通の魔獣よりも知能が高く、巧妙な罠を仕掛けることもある』
谷に足を踏み入れると、気温が急激に下がった。
吐く息が白くなり、頬が冷たい風に刺される。しかし、不思議なことに竜心石が温かさを保ってくれているため、体の芯まで冷えることはなかった。
「この石のおかげで、寒さがあまり気になりませんね」
「竜心石には様々な保護効果があるからな。お前の父親も、この石に何度も助けられたじゃろう」
谷の底には小川が流れていた。
しかし、普通の水ではない。青白く光る水が、氷の河床の上をゆっくりと流れている。
『魔法の水ね。飲むと治癒効果があるけれど、普通の人間には毒になることもあるの』
「危険な水なんですか?」
「竜語りなら大丈夫じゃ。純粋な心を持つ者には害はない」
アルトは恐る恐る手を水につけてみた。
驚くほど冷たかったが、同時に清らかな力を感じる。竜心石が共鳴するように光り、水面に美しい青い光の輪が広がった。
『すごい...アルトの竜語りの力が、水の魔法と調和している』
「これも修行の一環じゃ。自然の魔力と心を通わせることができれば、竜語りとしてさらに成長できる」
川に沿って谷を進んでいくと、前方に奇妙な光景が現れた。氷でできた巨大な彫刻のようなものが、谷の中央に立っている。
「あれは...」
近づいてみると、それは氷に閉じ込められた古い建物だった。
石造りの塔が、透明な氷の中に完全に保存されている。
「氷竜の塔じゃ。昔、氷竜族の長老が住んでいた場所じゃ」
『中に何かいるわ...生きている気配を感じる』
セレスが塔の方向を見つめて、羽を小刻みに震わせる。
「生きている気配?」
アルトは竜心石に集中してみた。
すると、塔の中から微かな魔力の波動が感じられる。それは確かに、生命体のものだった。
「氷竜が生きているのですか?」
「可能性はある。氷の魔法には、時間を止める力もあるからな」
『でも、氷が厚すぎて中に入れない』
その時、アルトの竜心石が急に強く光り始めた。
光は塔の氷に向かって放射され、氷の表面に美しい模様を描き出す。
すると、塔の入り口部分の氷が、ゆっくりと溶け始めた。
「すごい...竜心石が氷を溶かしている」
「お前の竜語りの力が覚醒しているのじゃ」
氷が完全に溶けると、古い木製の扉が現れた。
扉にはセレスの鱗と同じような蒼い石がはめ込まれている。
『これは蒼竜の印...私たちの一族の紋章よ』
「セレスの家族と関係があるのかな?」
扉に手を触れると、温かい感覚が指先に伝わってきた。
そして、扉がゆっくりと開いた。
中は意外に温かく、氷の魔法によって完璧に保存された空間だった。古い家具や書物、そして壁には美しい絵画が飾られている。
「まるで時が止まったみたいですね」
塔の中央には螺旋階段があり、上階へと続いている。
三人は慎重に階段を登った。
二階は図書室になっていた。古代竜語で書かれた大量の書物が、整然と棚に並べられている。
『これは...竜族の歴史書ね。とても貴重な文献よ』
「セレス、読めるの?」
『少しなら。これは氷竜族の記録書...そして、こちらは蒼竜族についての記述があるわ』
セレスが一冊の本を示した。
アルトがページを開くと、美しい挿絵と共に古代の物語が記されている。
『「蒼竜一族は記憶の守護者なり。過去と未来を繋ぐ橋渡しの役目を負う」...これは私たちの使命について書かれているの』
「記憶の守護者?」
『そう。大切な記憶を保存し、必要な時に人々に伝える役割。忘れてはいけないことを、決して忘れないようにするの』
さらに階段を登ると、最上階には美しい氷竜が眠っていた。
透明な氷のベッドの上で、優雅な姿のまま深い眠りについている。
『グラシア様...氷竜族の長老よ』
「知っているの?」
『記憶の中で。とても優しい方で、私の姉さんに氷の魔法を教えてくださった』
アルトが近づくと、氷竜の瞳がゆっくりと開いた。
深い青色の美しい瞳が、アルトを見つめる。
『久しいな...竜語りよ』
氷竜グラシアが、テレパシーで話しかけてきた。その声は氷のように澄んでいて、同時に温かさも感じられる。
「グラシア様、お久しぶりです」
アルトは直感的に、丁寧に挨拶した。
『汝は...トーマスの息子か』
「はい、アルト・ウィンドブレイカーです」
『そして、小さきセレス。よく無事でいてくれた』
『グラシア様!本当にお元気で良かった』
セレスが嬉しそうに鳴いて、グラシアに近づく。
『私は長い間、この時を待っていた。蒼竜と竜語りが再び出会い、失われた絆を取り戻すその時を』
「僕たちに何かできることがありますか?」
『まずは、汝の兄セレスの救出じゃ。ゼファーは氷の洞窟で待っているが、状況は芳しくない』
「やはり危険な状況なんですね」
『忘却の霧の力が強まっている。このままでは、氷の洞窟の封印も破られてしまう』
グラシアは氷のベッドからゆっくりと立ち上がった。
美しい白銀の鱗が、氷の魔法の光を反射してキラキラと輝いている。
『私も共に行こう。氷竜の力が必要になるはずじゃ』
「本当ですか?ありがとうございます」
『ただし、道のりは険しい。最後の試練が待っているじゃろう』
グラシアの警告にも関わらず、アルトは決意を新たにした。
セレスの家族を救い、失われた絆を取り戻すために、どんな困難にも立ち向かう覚悟ができていた。
塔を出る時、グラシアは氷の魔法で谷に橋を架けてくれた。これで、より安全に谷を渡ることができる。
『明日の夜明けに、氷の洞窟に到着する予定じゃ。それまでに心と体を整えよ』
夕方、一行は星降りの山小屋に到着した。
今夜は最後の夜営となる。
明日はいよいよ、ゼファーとの再会、そして本格的な試練の始まりだ。
第7話 完




