第5話:旅立ちの朝
夜明け前、アルトは自然に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗いが、東の空がほんのりと赤みを帯び始めている。
今日は北の山への旅立ちの日。
胸の奥で竜心石が温かく脈動しているのを感じながら、彼は静かにベッドから起き上がった。
『おはよう、アルト。眠れた?』
セレスが小さくあくびをしながら羽を伸ばしている。
昨夜から彼女も興奮していたようで、時折寝言のように小さく鳴いていた。
「君も眠れなかったみたいだね」
『兄さんに会えるかもしれないと思うと、どうしても目が冴えてしまって』
アルトはセレスを優しく撫でた。
彼女の鱗は朝の光を受けて、美しく青く輝いている。
「大丈夫、きっと会えるよ」
階下からは既にガルムが動き回る音が聞こえてくる。
昨夜、旅の準備をほぼ終えていたが、最後の確認をしているのだろう。
アルトは旅装束に着替えた。
厚手の革製ベスト、丈夫な革のブーツ、そして防寒用のマント。
ガルムが用意してくれたもので、どれも実用的ながら品質の良いものだった。
「これで竜語りらしく見えるかな?」
『とてもかっこいいわ。本物の冒険者みたい』
胸元の竜心石は旅装束の上からでもはっきりと青く光り、まるでアルトの決意を表しているかのようだった。
居間に降りると、ガルムが大きな革製のリュックサックを二つ準備していた。
「おはよう、アルト。準備はできたか?」
「はい。でも少し緊張しています」
「それは当然じゃ。初めての本格的な旅じゃからな」
ガルムは一つのリュックサックをアルトに渡した。
「食料は三日分、水は四日分入っている。寝袋と防寒具、それに応急手当の道具も忘れずにな」
「ありがとうございます」
「そして、これを持っていけ」
ガルムが差し出したのは、美しく装飾された短剣だった。
鞘には風の文様が刻まれ、柄頭には小さな青い石がはめ込まれている。
「これは...」
「お前の父親が使っていたものじゃ。竜語りの護身用の武器で、普通の武器よりも魔獣に対して効果がある」
アルトは短剣を腰に帯びた。
ずっしりとした重みが、これから始まる冒険の現実味を増してくれる。
『その短剣...とても良い魔法が込められているわね』
「セレスにも分かるんですか?」
『ええ。竜族の祝福が込められている。きっとあなたのお父さんが、竜族から贈られたものね』
朝食は簡素だったが、ガルムが心を込めて作ってくれたものだった。
焼きたてのパン、チーズ、そして旅の無事を祈って特別に淹れてくれた薬草茶。
「アルト」
食事を終えるとガルムが真剣な表情で話し始めた。
「これから向かう北の山は、我々の村とは全く違う世界じゃ。危険も多いが、同時に多くのことを学べる場所でもある」
「はい」
「竜語りとして成長するためには、実際の体験が必要じゃ。本や話だけでは身につかないものがある」
ガルムは古い地図を広げて見せた。
「最初の目的地は『風見の峠』。ここで一泊する。二日目は『蒼氷の谷』を通って『星降りの山小屋』へ。そして三日目に『氷の洞窟』に到着する予定じゃ」
地図には詳細な道筋が記されていて、危険な場所や注意すべきポイントも書き込まれている。
「この地図も父さんが作ったものですか?」
「そうじゃ。トーマスは何度もこの道を通っていた。竜族との交流のためにな」
『お父さんは本当に素晴らしい人だったのね』
「セレス、君の家族についてもっと教えてくれる?道中で会話の種になるかもしれないし」
『私の家族は五人いたの。お父さんのサイラス、お母さんのルナ、兄さんのゼファー、姉さんのオーラ、それに私』
セレスの声に懐かしさがこもっている。
『みんなそれぞれ違う特技があったの。お父さんは雷を操る力、お母さんは治癒の魔法、兄さんは風の魔法、姉さんは氷の魔法』
「セレスは?」
『私はまだ小さかったから、特別な力は目覚めていなかった。でも、記憶を共有する力があると言われていたの』
「記憶の共有...それで僕の夢に君の記憶が流れ込んできたんだね」
『そう。竜語りとの絆が深まると、その力はもっと強くなるの』
準備を終えて家を出る時、村の何人かが見送りに来てくれた。
マリアも薬師店から駆けつけてくれている。
「アルト、気をつけてね。これを持っていって」
マリアが小さな袋を渡してくれた。
「万能薬よ。怪我や体調不良の時に役立つわ」
「ありがとうございます」
「それと、これも」
もう一つの小袋には、キラキラと光る粉が入っている。
「魔獣除けの粉よ。危険を感じた時に周囲に撒けば、一時的に魔獣を遠ざけることができる」
村の子供たちも集まってきて、口々に「頑張って」「気をつけて」と声をかけてくれる。
「みんな、ありがとう。必ず無事に帰ってきます」
村外れまで見送ってくれた人々に手を振って、アルトとガルムは本格的な旅路についた。
最初の道のりは、普段の放牧で通り慣れた場所だった。
しかし、目的が違うと同じ景色も新鮮に見える。
「じいちゃん、昔はよくこの道を通ったんですか?」
「そうじゃな。若い頃は商売で近隣の村を回っていた。その時にトーマスと出会ったのじゃ」
「父さんとの出会い?」
「お前の父親は、傷ついた風竜を助けていた青年だった。その優しさと、竜に対する深い理解に感動してな」
歩きながら、ガルムは昔話を聞かせてくれた。
「トーマスは村に定住する前、各地を旅していた。竜族と人間の関係を研究し、古い知識を集めるためじゃ」
『お父さんも旅をしていたのね。私たちと同じように』
「そして、我々の村で出会ったのがお前の母親、マリアじゃ」
「え?マリアさんが母親?」
アルトは驚いて立ち止まった。
「いや、違う。薬師のマリアではない。お前の母親の名前もマリアだったのじゃ。マリア・ムーンライトという美しい女性じゃった」
「そうだったんですか...」
「彼女は村一番の織物職人だった。竜族の伝統的な模様を人間の服に取り入れる技術を持っていてな。トーマスは一目で恋に落ちた」
歩き続けていると、だんだんと道が険しくなってきた。
平坦な村道から、岩だらけの山道へと変わっていく。
『この辺りから、空気が変わってきたわね』
セレスがアルトの肩で羽を震わせる。
「どんな風に?」
『魔力がより濃くなっている。きっと山の奥に、古い魔法の源があるのね』
確かに、アルトも何となく違いを感じていた。
竜心石の輝きが強くなり、肌がピリピリとするような感覚がある。
「これが魔力というものなんですね」
「そうじゃ。山に近づくにつれて、もっと強くなるじゃろう」
午前中の歩行で、彼らは村から十キロほど離れた地点に到着した。
ここで最初の休憩を取ることにする。
大きな岩の陰に腰を下ろして、水筒から水を飲みながら、アルトは改めて周囲を見回した。
もう村は見えない。
代わりに、雄大な山々が連なっている。
「あの一番高い山が目的地ですか?」
「そうじゃ。『白銀峰』と呼ばれる山じゃ。一年中雪に覆われている」
『とても美しい山ね。でも、確かに厳しそう』
「大丈夫、氷の洞窟はそれほど高い場所にはない。山腹の比較的アクセスしやすい位置にある」
休憩中、ガルムは旅の心得を教えてくれた。
「山では天候の変化に注意しろ。晴れていても、急に嵐になることがある」
「はい」
「それと、野生動物に遭遇した時は、慌てずに距離を置け。特に子連れの動物は危険じゃ」
「魔獣についてはどうですか?」
「魔獣は普通の動物とは違う。歪んだ魔力に影響されているから、予想外の行動を取ることがある」
『でも、竜族の存在を感じると、逃げていくことが多いの』
セレスが補足してくれる。
『魔獣は本能的に、純粋な魔力を恐れるの』
「それは心強いね」
休憩を終えて再び歩き始めると、道はさらに急峻になった。
時折、小さな川を渡ったり、岩場をよじ登ったりしなければならない。
しかし、アルトは疲労よりも興奮を感じていた。
竜心石の導きを感じながら、一歩一歩目的地に近づいている実感があった。
『アルト、あそこを見て』
セレスが前方を指さす。遠くに、小さな建物が見えた。
「あれが風見の峠の山小屋ですね」
「そうじゃ。今夜はあそこで休む。明日に備えて、しっかりと体力を回復させよう」
夕方、彼らは無事に最初の目的地に到着した。
山小屋は古いが頑丈で、旅人が利用できるように整備されている。
「今日は良いペースで歩けたな」
「はい。思っていたより楽しかったです」
『明日はもっと険しい道のりになるけれど、きっと大丈夫』
夕食の準備をしながら、アルトは明日への期待と不安を胸に抱いていた。
しかし、セレスとガルムがいれば、どんな困難も乗り越えられる気がした。
山小屋の窓から見える星空は、村で見るよりもはるかに美しく輝いていた。
そして、北の空には例の青い星が、一際明るく瞬いていた。
まるで、彼らの冒険を祝福するかのように。
第5話 完




