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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【ネット小説大賞応募作】天使の皮

作者: 魔猫よあ



“薔薇寮の天使”ヘクセ・ドルミティオには噂がある。

それは彼が、とんでもなく淫蕩で残虐な、穢らわしい悪魔であるという噂だ。


「“悪魔の秘密の地下室”?」

「そうそう、そこに夜な夜な上級生とか先生とか神父様とか、あとは他のクラスのやつも連れ込んでるって噂だぜ」

「いやいや、俺が聞いたのはシスターや外の女を夜中に礼拝堂へ呼び出して……」

昼休み時。すぐ向かいのベンチで交わされる聞くに堪えない猥談を耳にして、俺はサンドイッチを頬張りながら眉をひそめていた。奴らはこの学院の神聖なる白い制服に、ぼろぼろと食べかすをこぼしながら、いつもくだらないお喋りに興じているような連中だ。言葉の一つ一つが、蠅の羽音にも劣る。女の肉体についての下品な話を身振り手振りを付けて話すグズリーという生徒は、この前の球技大会で優秀な成績を収め、英雄と持て囃されていた上級生だったが、何のことは無い。ただの、醜いけだものだ。その鳴き声の一音節すら、耳に入れる価値は無い。俺はサンドイッチのひとかけらを口に放り込み、さっさとその場を離れることにした。


ここは荘厳なる宗教国家ムソドが誇る、聖セバスティアヌス学院。“いと高き神”の教えの元に設立された、神聖なる中等教育機関(ギムナジウム)。国主である教皇猊下御自らが設立に携わったこのギムナジウムは、国中から教師として優秀な学者や聖職者を選定、招集し、彼らが定めた良質な教育カリキュラムに沿って“将来の希望(こどもたち)”に上質な生活と教育を提供する、まさに神に愛された学び舎だった。しかし、どれだけ貴い意思によって造られたものだとしても、そこに詰め込まれる者の多くは、所詮ただの人の子だ。少し目立つ者がいれば、すかさずいわれもない醜悪な噂を立てる。俺は奴らから目を逸らすように、そっと少し遠くの庭園の白いガゼボで本を読む“薔薇寮の天使”へと視線を向けた。

“薔薇寮の天使”ヘクセ・ドルミティオは、同性の目から見てもひときわ美しい少年だった。陽の煌きをそのまま紡いだような黄金色の髪は、降り注ぐ真昼の光を受けいっそう美しく輝き、長い睫毛に縁どられる、神秘的な伝説の湖のような色合いのアーモンド形の青緑の瞳は、醜い下界のことなどまるで目に入らないかのように開いた本の活字の上へ一心に注がれていた。乳色の肌はなめらかに艶めき、彼の纏う清潔な染みひとつない我が校の制服よりも、遥かに白く冴え冴えとしていた。ガゼボのベンチに澄まして腰かけ、ただ静かに読書に耽っているだけで、ヘクセはこの世の何よりも美しかった。巨匠による宗教画すら霞むその美しさに、他の生徒は皆その景色を穢すことを恐れ、ガゼボには近寄らず、ただただ感嘆の息を漏らしながら遠巻きに通りすぎて行くだけだった。

彼は、この学園で最も特別な少年だった。肩を過ぎるほど長く伸びた髪と性別すら曖昧になるその美貌は、異性と隔離されたむさくるしい校舎で暮らす者に聖女(マドンナ)の幻を見せ、崇拝や愛慕のみならず、教えを外れた欲すらも、生徒のみならず多くの人間から集めていた。「彼はその甘い美貌で教師陣を篭絡し、実質的なこの学園の支配者に収まっているのだ」というのも、彼についた醜悪な噂のひとつだ。馬鹿馬鹿しい。俺は自分の思考に浮かんだ噂を、すぐさま羽虫のように追い払う。奴らが、何を分かっていると言うのだ。彼はまさに、この下界に降り立った天使のような人間だと言うのに。  

百合(リーリエ)薔薇(ローゼ)林檎(ポウム)と三つに分かれた(ドミトリー)のうち、中等部の生徒が暮らす“薔薇寮(ローゼ・ドミトリー)”の寮長である彼は、どんなおちこぼれ下級生にも優しく、どんなに卑しい小間使いにも礼を失さず、週末の慈善活動には必ず姿を見せ、誰よりも勤勉に働いてみせる。“薔薇寮の天使”の名は、何もその清らかな外見だけで与えられたものではないのだ。文武両道、品行方正。全ての教科において優秀であり、特に理科、ことに薬草の知識においては、教師たちも舌を巻くほどの知識量を持つ。さらには少年聖歌隊のリーダーでもあり、彼の歌う讃美歌はどんな不心得者でもたちまち信仰に目覚めるであろうという美しさだった。彼はまさに地に降りた天使、神の落とし子、「完璧」という言葉をかたちにしたかのような少年。俺は初等部からのルームメイトとして、この学校の誰よりもそんな彼のことを知り、また誰よりも彼を愛していた。何を隠そう、俺自身が彼に救われた者の一人だから。……入学したころ、俺は同学年の奴らや上級生に虐められていた。今よりもずっと弱く、臆病で、間抜けだったのが災いしたのだろう。そいつらを諫めたうえ教師たちに報告して罰を与えさせ、傷ついた俺を慰めてくれ、友達になろうと言ってくれたのは、ヘクセだけだった。ヘクセのために俺は強くなろうと体を鍛え、心も鍛えた。美しく優しい彼を害する者が現れたのなら、今度は俺が彼を護るのだと。親友や恋人と呼べるような深い交友がある訳ではないが、俺はこの世の何よりも、彼を尊く思っていた。俺は彼を穢したくなくて、いつも俺は努めて彼との肌の接触を避けていた。俺の太い指、俺の産毛の生えた腕、俺の獣じみた息が、彼に触れるのを俺は恐れた。それなのに、ヘクセはいつも俺と対等に接してくれた。彼の持つ繊細な美とはかけ離れた、図体ばかりが大きい醜い俺のことも、彼は嫌な顔ひとつせずよく気にかけてくれた。中等部に上がり寮が変わってすぐのころ、俺がなかなか寝付けなくて困っていた時などは、彼自ら蜂蜜入りのハーブティーを淹れて持ってきてくれたのだ。その時に限らず……以来彼はほとんど毎日、寝る前にハーブティーを淹れてくれる。「自分の分のついでだから」と優美に微笑む彼の美貌に、俺は確かに神の寵愛を感じ取っていた。寮監たちの話によれば、卓越した薬草の知識を持つヘクセはそれを生かしてよく自分でハーブティーを作り、夜警担当の者にも差し入れてくれるのだと言う。それは俺に毎晩与えられるものと同じく、とても温かく味も香りも素晴らしいもので、彼らにとって辛い夜警の唯一の楽しみになっているらしい。彼の優しさは昼も夜も、場所や人を選ばずに輝いているのだ。太陽、あるいは月のように。

 「き、きみ、こんな所で、ぼうっとしていては、い、いけないよ」

ヘクセに見とれながら彼へ想いを馳せていた俺の肩を、そっと叩く人がいた。振り返ればそこには僧服を纏った見上げるような長身と霧色のやわらかな長髪、そして何よりも目を引く、左目と口とを残して顔全体を包帯に覆われた異貌を持つ男が佇んでいた。俺は一歩後ずさり、一礼をして彼の名を呼んだ。

「レライ神父、こんにちは」

挨拶をすれば、彼もまた吃りながら挨拶を返す。異様な容貌に反して、彼の声はいつも優しく、穏やかだった。上品で楚々とした立ち振る舞いは、まさに模範的な聖職者といった印象を抱く。 神父レライ・インクイジターは、去年からこの学園で中等部の歴史の授業を受け持つことになった教師であり、ムソドの中でも指折りに信心深いと言われる司祭だ。かつては絶世の美貌を持つ大商家の長男だったが、その美しさと地位ゆえに欲望を剝き出しにした人間に言い寄られ続け、ついに世俗に絶望して自ら顔に熱湯をかけ家を無理やり抜け出し両親の激怒を無視して教会に入ったというのは、この学園内外で有名な噂だった。彼の授業は分かりやすいが、そのどもりや顔の包帯のために、けだものどもからいつも馬鹿にされていた。俺が彼らを何回注意しても、いつも彼の授業はどことなく荒れていた。それでも彼は声を荒げないで、いつも気弱そうに微笑んでいる。その哀れな姿がどうしても初等部の時の俺と重なって、俺はこの人に何か愛情のような同情のような、奇妙に生暖かい感情を抱いていた。それがあってたびたび何かと気に掛け言葉を交わすうちに、俺とレライ神父の間には年齢を超えた友情のようなものが築かれていた。生徒と教師という関係だが、彼もまた交友の乏しい俺にとって貴重な話し相手だった。

「ま、またヘクセに見とれていたのかい、君は」

レライ神父は遠慮がちに、しかしどこか非難するような声色で俺にそう聞いた。俺は首を傾げながらも、正直に頷く。美しいヘクセに見とれることは、鳥が羽ばたき魚が泳ぐことと同じくらいに当たり前のことだ。何がおかしいことがあろう。だがレライ神父は、包帯の上からでも分かる渋面を浮かべて首を振り、こんなことを言った。

「い、いけないよ。目に見える美しいものは、こ、心を狂わせる。美しいものは、みな悪魔だ。彼は、ヘクセは特に……あ、あの子はなにか、隠し事をしている。完璧すぎるんだ、あの子の美しさは……私にはわかる。私には分かるんだ。ロト、あの子はきっと、きみを堕落させる。気を付けなさい、あの子は……」

そこまで言って、なぜかレライ神父はもごもごと口を噤む。なぜこの人まで、ヘクセを悪く言うのだろう!信仰篤い聖職者であり優しい教師であるはずの、レライ・インクイジターが?おれは戸惑いと怒りで頭にかっと血が上りそうになるのをどうにか抑えて、レライ神父に反論した。

「お言葉ですが、ヘクセはそんな人物ではありません。あなたのような人がなぜ、陰口など叩くのです?ヘクセは私の恩人です。清らかな心を持った、神の寵児です。どうか、下賤な噂になど惑わされないで頂きたい。俺はあなたを、きらいになりたくないのです」

それでも、まだレライ神父は渋面を浮かべたままだった。硝子玉のような美しい瞳で、じっと俺の顔を見つめている。その瞳には嘘偽りや計略のどす黒い影など微塵も無く、ただ親が子の行く末を心配するような、ただただ純粋でやさしい色しかそこには浮かんでいない。それがまた不可解で、恐ろしかった。

「そ、それが、罠だ。美しいものはみな、悪魔なのだ。悪魔の誘惑とはおしなべて美しいものだよ、ロト……ヘクセに、目を奪われるのは、やめなさい。その光は、きみの目を焼いてしまう……」

レライ神父の顔が、俺に近づいてくる。彼の長く柔らかく美しい霧色の髪が降りてきて、俺の頭を閉じ込める。彼の髪に染み付いた乳香のよい香りに責め立てられ、俺の心臓は早鐘を打つ。彼の霧色の髪、硝子の瞳、低く優しい声、羽ばたく細い睫毛がそよりと動き、俺を誘惑する。今まさにレライ神父は美の恐怖、蠱惑の恐ろしさを俺に味わわせようとしているのだ!ぞわぞわと全身を這いまわる恐怖に、思わず俺は彼の薄い身体を、渾身の力で突き飛ばしてしまった。ひょろりと頼りない体格をしている彼は、俺の力でも十分に引き剥がせてしまう。どっと彼が地面に尻もちをつく音と共に、噎せ返るような彼の髪の香りが掻き消えて庭園の青草と花と風の香りとが肺を満たし、俺の心をほんの僅かに落ち着けた。

「あなたが……っ、あなたが、ヘクセに、嫉妬しているだけじゃないですか。美しいまま、あなたのように美しさを倦むことなく生きている、あの人に……ッ」

俺はなんとかそれだけを吐き出して、尻もちをついたレライ神父から逃げ出した。俯き、地面を見詰めたまま動けないでいるその姿にちくりと胸が痛むも、気を許していた相手の口から吐き出されたヘクセへの悪罵に対するショックは、それをあっという間に塗りつぶした。彼ほどの人が、なぜ?あのいつも下品な話で盛り上がっている奴らならともかく、いつも優しく慎ましく静かに笑っているあのレライ神父が?俺は胸の中にもやもやと湧き上がる煤のような黒い感情を追放するために、またヘクセの姿を探した。ガゼボには、もういない。それならどこへ……あたりを見回せば、ちょうど校舎へ戻る小道をてくてくと歩く彼の姿を見つけた。俺はほっと胸を撫でおろし、そのあとにそっとついていく。気分を害さないように、三歩離れた後ろから。淑やかな歩みに合わせてさらさらと揺れる金の髪は、やはり天上からの光を物質化したかのように美しく、俺はただただそれに見とれていた。ああ、ああ。彼が、悪魔などであるものか。奴らは非人間的なほど完璧なヘクセを妬み、あんな酷い噂を立てるのだ。レライ神父もまた、美貌を失わずにはいられなかった境遇故にヘクセを妬んだ、きっとそうにちがいない。ヘクセは優しく、真面目で、賢く、信仰篤く、完璧な少年。昨日も、今日も、明日も、明後日も。きっと永遠に、彼は天使のままだろう。彼は天使として生まれ、天使として暮らし、天使として死ぬ。そう定められた人間なのだ。それが、神のご意思。そこには、一点の曇りもない。彼をちらとでも疑うことこそ不道徳であり、不信仰であり、罰当たりな行為。天使の偶像が崩れることなど、絶対にありはしない。

俺はずっと、そう思っていた。あの、運命の日が来るまでは。


 あの噂を聞いてから、約ひと月の後。その日は、やけに月の明るい夜だった。

俺は、ひどい頭痛で真夜中に目を覚ました。頭蓋骨を金づちで叩かれるような痛みと脳の表面を芋虫が這うような不快感が、俺の神経を苛立たせる。あのヘクセのハーブティーは、ベッドサイドのテーブルに置かれたティーポットの中にすら、一滴も残っていなかった。夕食に好物のチェリーパイが出て、それを調子に乗って食べすぎたのがいけなかったのだろうか?仕方なく、俺は身を起こす。窓を開けて外の空気でも吸えば、この頭痛も収まるだろう。そう思ってベッドを這い出したところで、俺はふと……ある事に気が付いた。 

向かいのベッドで寝ているはずのヘクセが、こつぜんと姿を消しているのだ。

「……ヘクセ?」

水でも飲みに行ったのかと思ったが、彼のシーツはすっかり冷え切っていた。彼は長時間、ベッドを留守にしているようだった。……こんな、真夜中に?俺は時計を見上げる。寮監ですら、この時間には眠りこけているだろう。しかし就寝時間を超えた時間に部屋の外をふらついているのを見つかれば、教師陣に大目玉を喰らうことは確実だった。それを寮長であるヘクセが知らないはずは無かろうに。彼はどこへ……。

……痛む頭が熱を持ち、よからぬことを、思い出す。いつか耳にしたまま忘れていたはずの、彼のふしだらな噂を。“薔薇寮の天使”ヘクセ・ドルミティオの噂。彼の本性はとんでもなく淫蕩で残虐な、穢らわしい悪魔であるという。彼は慈愛に溢れた皮の下に、どす黒い欲望を抱えていると。俺は痛む頭を壁にぶっつけて、その考えを追い払おうとする。そんなことはあり得ない。いかにも衆愚共が考える、下品で低俗な噂だと否定したのは自分ではないか。そんなものはあり得ない。きっと、どこかへ散歩にいったのだ。きっと、きっとそうだ。そうに違いない。天使だって出歩きたい夜くらいある。そのはずだ。……けれど一度首をもたげた黒い疑念は、べったりと泥のように俺の脳にこびり付いて、離れなかった。そうだ、レライ神父の口からも「悪魔」という言葉を聞いた時から、あの噂は胸に引っ掛かったままでいた。俺の心は、まだ良き友であったレライ神父の言葉をただの僻みと捨てられずにいた。果たしてこの世に、完璧な人間などいるのだろうか。醜悪な部分のない人間など。本当に天使など、ここにいたのだろうか?このひどい頭痛は、まさに聖者を試す悪魔のように、俺の信仰を揺さぶり続けた。ヘクセ・ドルミティオという天使に向けた、俺の純真な信仰を。ああ、よしんば頭痛が収まったとして、この嫌な気持ちに囚われたままでは、俺は到底眠りにつくことは出来ないだろう。確かめねばならない。拭い去らねばならない。頭痛と共に頭に忍び込んだ魔を、真実によって。俺は不道徳を、不信仰を、罰当たりを犯しに行くわけでは無いのだ。俺は確かな足取りで部屋を出て……噂の、地下室へと向かった。“悪魔の秘密の地下室”、すなわち、ごみ置き場同然の物置にされた、薔薇寮の地下懲罰室へ。

どの寮にも必ず、地下に懲罰室がある。正確には、「あった」と言うべきだろうか。かつては素行の悪い生徒や冒涜を犯したものをそこに閉じ込め、場合によっては鞭打ちや飯抜きなどの体罰を行っていたそうだ。しかしそんな苛烈な体罰が十数年前に問題とされ、懲罰室はお役御免となった。今ではすっかり放置され、地下室なんかがあることを知らない生徒や教員も多い。と、かつて怪談好きの上級生が言っていた。……懲罰室には過剰な体罰で死亡した生徒の霊が出る、というのが話のオチだったが、今はそんな事全くどうでも良かった。探しているのは幽霊ではなく、ヘクセなのだから。

 ランタンに火をつけ、頼りない明かりだけを頼りに冷たい石階段を下りる。長い間放置されたそこには分厚く埃が積もり、蜘蛛の巣がモビールのように垂れ、得体の知れない虫が俺の足のすぐ傍を駆け抜けていく。暮らし慣れた寮から一転、そこはまるで、不気味な怪物の住まう城のように思えた。その先に、俺の知らないヘクセがいるかもしれないのならば、なおさら……いや、いや。俺は彼が悪魔でないことを証明しに、この階段を下りるのだ。あと数段降りれば、件の懲罰室のはずだ。そこには誰もおらず、何もない。精々埃まみれのガラクタと、鼠や虫なんかがいるだけだ。そうして俺は安堵して、こんな薄気味悪いところまで降りてきて損したと笑い、自室に帰る。部屋にはヘクセが帰ってきていて、こんな夜中にどこへ行っていたんだいと微笑む。それに俺は、それはお互い様だと返すのだ。そんな心を安らげるための妄想を、なお喚きたてる酷い頭痛が邪魔をした。目の前の、ぎいと軋む古い木の扉も。

 懲罰室の、半ば朽ちかけた木の扉。板の間の隙間からは、微かに光が漏れていた。俺は扉の亀裂から、そっと中を覗き込む。みしみしと軋む頼りない扉になるべく体重をかけないようにしながら、目を凝らす。その奥に現れる真相を、決して逃がすものかと意気込んで。

廃城の地下牢を思わせる、陰鬱な懲罰室。俺が覗く扉から中型の犬一匹分ほど奥に、錆の浮かんだ鉄格子が無造作に立ち並ぶだけの、簡素な牢屋があった。風通しは悪く、かび臭い。どんよりとした空気が漂い、お世辞にも居心地が良さそうだとは言えなかった。昔はその重苦しい空気が充満した牢屋の中に、素行の悪い生徒を閉じ込め反省を促していたのだろう。今現在は放棄され、処分に困ったがらくたばかりがひしめくはずの懲罰室だったが、今その鉄格子のなかには、確かにふたりの人影があった。

ひとりは、逞しい筋肉に覆われた褐色の肉体を持った、グズリーという上級生だった。球技の大会で八面六臂の大活躍をしていた、ひと月前のベンチで女の下劣な話をしていた、あのけだもののような上級生。そのグズリーは今、上半身を裸に剥かれて、鎖で縛められ、冷たい石の床に転がっていた。彼の胸は激しく上下し、浅い呼吸を繰り返している。表情こそこちらからでは見えないが……彼の神経が、激しく興奮していることは確かだった。そして、その隣に立っているのは……ああ、見間違えようもない。蜜のような金髪を肩まで垂らし、黒いローブに身を包んだ小柄な人物は、間違いなく、ヘクセ・ドルミティオその人だった。手に、何か太い縄のようなものを持っている。不気味な黒い大蛇のようなそれを懲罰用の鞭だと理解するのに、俺の痛む鈍重な頭は数秒を要した。ヘクセは、さらけ出されたグズリーの背を見下ろしている。その表情は垂れた髪に隠されて、やはり俺からは見えなかった。 床に転がされた大男と、それを見下ろす黒装束のヘクセ。その取り合わせはまるで、邪なる神に生贄を捧げんとする異教の祭司のようで……その不吉な光景に、俺は縫い留められたようにその場に固まってしまった。

「ああ、悪魔さま……」

グズリーが、縛られたまま声を発する。その声は普段の粗暴なグズリーとはかけ離れて、恍惚として甘く蕩け、また同時に恐怖に怯え震えてもいた。まるでこれから、途方もない快楽と痛苦とが、同時にもたらされるとでも言うように。

「言っただろ、グズリー。贄は、声を上げないと」

ヘクセが口を開く。ヘクセの声もまた……普段の彼のものとは、まるきり違っていた。その声は氷のように冷え、同時に炎のような熱を持っていた。突き放すような残酷さと、絡みつくような欲望。背反するはずのそれが、ヘクセの声には籠っている。この世のものとは思えないその声に、ぞっと寒気が走る。その奇妙な甘い声に震えたのもつかの間、俺の耳はヒュッと鋭く風を切る音を捕らえた。次いで、グズリーの苦しげな呻き声が上がる。暗闇の中で、蝋燭の僅かな光を反射して照り輝く革の鞭が、夜闇に光る稲妻のように走り、グズリーの逞しい背を情け容赦なく打ち据える。ばちっ、ばちっ。ぴしゃっ、ぴしゃっ。鋭い音が鳴るたびに、グズリーの背に細い傷痕が増えていく。ミルクをふんだんに使ったチョコレートのような肌に、ミミズのような赤い線がおびただしく這う。それは、ひどく痛々しい折檻の光景だった。しかしヘクセの一方的な責めにも、グズリーは抵抗ひとつしない。いくら鎖で縛られているとはいえ、グズリーが本気で暴れれば、華奢なヘクセなど簡単に吹っ飛ばせてしまうだろう。それなのに、グズリーは老犬のように大人しく、なるべく声を上げないように、ヘクセの鞭を受けていた。その顔には苦痛の色など一切なく……いや、むしろ、心からの喜悦の色さえ浮かんでいる。彼はまるで干ばつに降った雨を喜ぶ農民のように、ヘクセの鞭を浴びていた。

「随分嬉しそうだね、グズリー。いつもきみが友人と大声で話している、胸と尻の大きい女にこういうことをされても喜ぶのかい」

ヘクセもまた、鞭で責めるだけではない。女物の真っ赤なハイヒールを履いた足で頭を踏んだり、素足を舐めさせたり、被虐を悦ぶグズリーを変態だ異端者だと詰ったりと、手を変え品を変えグズリーを入念に痛めつける。それは上級生が下級生を虐めるのとはまた違う残酷さと、倒錯的な歓喜があった。彼らは痛みを媒介に、快楽を共有している。丁度情欲の行き過ぎた恋人同士が、深いキスの中で飴玉をやり取りするように。

「いいえ、いいえ、あれは真っ赤な嘘なのです。全てあなた様のために、あなた様のお噂をかき消すために、わざと言って回っていることなのです。女など!あなたの蠱惑の前では、何になりましょう。おれにとって聖母も娼婦も、もはや全てはただの肉なのです。あなたの華奢な四肢、金の髪、そしてこの痛烈な罰こそが神聖なのです。故に、この遊戯を、知られてはなりません。おれ達だけの、秘密でなければ」

赤い爪先で顎を持ち上げられたグズリーが、坂を転がり落ちるように、太い声でべらべらとまくしたてる。粗野な顔立ちに全く似合わない悦楽に酔ったような言葉が、その厚い唇からつぎつぎに落ちる。それを聞いて、ヘクセは口元に虚ろな微笑みを浮かべて「そうかい」と一言呟いただけ。グズリーはなおも言葉を並べていたが、ヘクセの足に胸を蹴飛ばされて沈黙した。グズリーの胸には赤い痕ができたが、彼はそれをまるで聖痕のようにさも光栄だという目で眺めている。

 そうした背徳的な折檻は、およそ一時間ほどの間続いた。グズリーの褐色の肉体が赤い鞭の痕で埋め尽くされ、グズリーの上げる声も弱くなったころ、ヘクセは自分の腕時計を見て、溜息をついた。名残惜しそうに肩をすくめて、鞭をぽいとがらくたの中に放ってしまう。

「ああ、もうすぐ夜が明けてしまうね。そろそろ、今日はお開きにしよう。彼、今日は夕食でチェリーパイを沢山食べていたから、少し薬の効きが悪いかもしれない」

そう言ってヘクセは、何か命令をするようにグズリーの尻を蹴り上げた。こんなやり取りはもう何回も繰り返しているのだろう。グズリーは操り人形のように、慣れた動作でぬっと立ち上がった。その体躯はヘクセよりもはるかに大きく、まさに凶暴な灰色熊(グリズリー)のようで、奴は今にも折檻の報復に、ヘクセの小さな頭を嚙み砕いてしまうのではないかと思われた。けれど彼は、ただただ従順に頭を垂れているばかり。小さく華奢で硝子細工のような肉体を持つ、美しいヘクセ(魔女)の前に。

「さあ、肩を出して」

ヘクセはグズリーを見上げ、懐から何かを取り出した。それは薄闇の中でもなおぴかぴかと輝いて見える、柄に蛇と薔薇の艶めかしい装飾が施された短剣だった。蝋燭の光を受けてぎらりと光るその刀身を見た瞬間、グズリーはまるで猪のような荒い息を吐いた。黒装束のヘクセは俺が覗く扉に背を向け、立ち上がったグズリーは扉の真正面に立っている。故に、グズリーの表情は俺の方からとてもはっきりと見えた。嫌になるほど、はっきりと。

その顔は……ああ。これがあの球技大会の英雄、粗暴な上級生、神聖なる学び舎聖セバスティアヌス学園の生徒、いや理性ある人間の顔だろうか。とても、そうは思えなかった。彼の顔は激しい期待とわずかな恐怖とで紅潮し、べとべとした涎がその厚い唇を伝っていた。その顔は人間というよりも、餌を前にした豚のようで。「欲望」という単語を顔の形に捏ねたならきっとこうなるであろうという、酷く汚らわしい顔をしていた。

「ああ……あぁあ、あ、悪魔さま、ヘクセさま、早く、早くおれに、“血のキス”を……」

グズリーが浅い息の下で、ヘクセに懇願する。はっはっはっ、と息を切らして犬のように舌を出し、ぎらぎらとした脂ぎった目で刃の輝きを見つめていた。そんな浅ましい姿のグズリーを見て、ヘクセはふふふっと笑う。まるで少女が子猫のじゃれ合いを見たような、可愛らしくてたまらないといったような笑い声だった。

「そんなに獣みたいにねだらなくたって、今してあげるよ……」

ヘクセはぐいとグズリーの腕を引いて跪かせると、彼の肩口に薔薇色の唇を触れさせた。ほんの軽い、小鳥のようなキス。これが彼の言う“血のキス”なのだろうか?俺が首を傾げた、次の瞬間──グズリーの呻き声がして、彼の胸に、ぼたりと一筋鮮やかな赤い血が伝い落ちた。

「……え?」

間抜けな声を漏らして、俺は目を瞬いた。ヘクセの頭が動き、隠れていたグズリーの肩が再び俺から見えるようになる。さきほどミルクをふんだんに使ったチョコレートのよう、と表現したグズリーの褐色の肌に、一本の赤い線が走っていた。そこからとろとろと、赤い血が滴り落ちている。ヘクセが……あの美しいナイフで、グズリーの肩を、切り裂いたのだ。しかも、ヘクセの凶行はそれで終わらなかった。ヘクセはグズリーの傷ついた肩に再び口づけを落とし、あまつさえその花びらのような舌で、ちろちろとグズリーの血を舐めとり、傷口に歯を立て舌を這わせてじゅうじゅうと彼の血を吸っていた。それはまるで、お伽噺のヴァンパイアのように。血を啜られているグズリーの顔は白目を剥き、舌を垂らして、今にも昇天しそうな有様だった。血を吸われるという、異常な行為を受けているにも関わらず───ああ、違う。彼は、血液のみを啜られているのではない。今まさに、魂を啜られているのだ。天使の皮を被った悪魔、ヘクセ・ドルミティオによって。虫も殺さないような優しい少年、血肉どころか下界の物質さえ口にするものかという妄想を抱かせる、現実と乖離した美しさの少年が、逞しい肉体を持つ年上の少年を痛めつけ、そして血を、魂を啜っている。ヘクセの潔白を探し求めて階段を降りた先にあったのは、こんな想像力の埒外にある真実だった。これならば、男や女を連れ込んで淫らな遊びに耽っていたほうが、受け入れられるかは別として、まだ俺も理解が及んだだろう。くらっ、とひどい眩暈がした。ただでさえがんがんと痛む頭が、理解不能の現実を叩き込まれて動きを止める。目の前の光景から、自我を遮断しようとする。俺の意識を奪うという、強引に過ぎる方法で。俺はそれに抗おうとして───つい、目の前の扉に、思い切り強く手をついてしまった。

「あっ」

バキッ、と乾いた音がして、俺の太い腕が木の扉を突き抜ける。腐っていた木から、小さな虫がわらわらと俺の皮膚を踏みつけて逃げていく。その虫どものぞわぞわするような無数の肢の感触、突き刺さった木の棘の痛みと、血が流れていく感覚。その先に、ぬるりとした懲罰室の異様な空気を感じる。突然の闖入者に悲鳴をあげた、ふたりの不道徳な少年の視線も。

「……ロト?」

俺の名を紡ぐヘクセの唇は固く蒼褪め、巣穴の子兎のように震えていた。


 蒼褪めた顔で黙りこくるヘクセの細腕を捕まえて、俺は彼を引きずるようにして階段を上る。拾い上げた装飾ナイフは、俺の手の中でずしりと不吉な重みを持っていた。拘束を自分で解いたグズリーもまた、絶対言いふらすなよと叫びながら高等部の生徒の寮である百合寮に戻っていく。しかしもはや、グズリーの嗜癖などどうでも良い。言いふらしたところで、誰が信じるというのだろう。あの大熊のようなグズリーが“薔薇寮の天使”にぶたれて喜んでいたなんて。それよりも、その天使のことが俺にとって大きな問題だった。俺は自室に戻るなり、ヘクセをベッドへ押し込めると、扉に鍵をかけて自分の図体でそこを塞いでしまった。これですっかり、ヘクセは無力な虜囚という訳である。

「きみにだけは、見られたくなかったな」

ヘクセは蒼褪めた顔のまま、唇の端をひきつらせる。その顔からは普段の神々しさが失せ、いつも体中にみなぎっている誇り高い自信はすっかり鳴りを潜めていた。黒いローブに身を包み、ベッドの端に腰かける彼は、普段より一回りも二回りも小さく細く見え、ひどく弱弱しく思えた。ヘクセはしばらく俯いたまま震え、かたく沈黙していたが、やがておもむろに顔を上げる。湖の色をした美しい瞳が、明け方の薄暗い部屋の中で奇妙な光を放っていた。

「……まず、僕は君に謝らないといけないね。実は、君のお茶には毎晩、睡眠薬を混ぜていたんだ。君が今日みたいに起きてしまうと、困るから。寮監たちにも、同じことをしたよ……頭が痛くて気持ち悪いだろう、今日君はチェリーパイを沢山食べていたから、吸収されにくいだろうと思って薬の分量を適量より少し多めにしてしまったんだ。それは、本当にすまないと思っている」

もはや、真実を話すよりほかは無い。きっと、彼はそう思ったのだろう。震える唇から紡がれた第一声は、そんな唐突に過ぎる余罪の告白だった。 俺は何も言わず、顎をしゃくって続きを促す。ヘクセは意外なほど気弱に微笑んで、話を続けた。

「最初は、アバタ神父の要求だったんだ。ほら……覚えてる?僕たちが初等部の頃に、聖歌隊の指導をしていた神父さま。もう遠くの教会へ転任してしまっていないけれど」

ああ、覚えている。若いがにきびだらけの顔をした、ヒキガエルのように醜い神父だ。ヘクセのことをいつも嫌な目で見て、ヘクセに“教えを外れた欲”を抱いていた者のひとり。

「あの人、僕を夜中に礼拝堂に呼びつけて……自分を鞭でぶつように、僕に命令したんだ。小児性愛者でマゾヒストだったんだよ、あの人。神様に見られながら、自分が情欲を抱いた子供にぶたれるのが好きだったんだ。言うことを聞かなければ、母さんを邪悪な異端者として告発するって脅された」

君は部屋でぐっすりだったから知らないだろうけどね、と少し棘のある声色でヘクセは付け加えた。確かにその頃、図体に反して体力のない俺は慣れない日々の勉学に疲れ、夜になるとすぐ眠くなり早々にベッドに潜り込んで朝まで起きることはなかった。その間に彼が部屋から消えても、全く気付くことが出来なかったのだ。

「僕の母さんは、少し変わった人でね。ひとところに留まらず、旅をしながら暮らしてるんだ。旅の薬師として、神様が救えない人を救いたいんだって。でも夏や冬のホリデーには帰ってきて、僕や父さんの誕生日とか、記念日とかを祝ってくれる。それでも毎年必ずじゃないし、帰ってきても二日くらいしかいないんだけどね……でも、その代わり手紙をたくさん寄越してくれる。大半は、自分が研究しているものや旅先で見つけたものの話だけど」

なるほど、彼の優れた薬草の知識は母親からもたらされたものらしい。ヘクセは母との思い出を愛しむように目を細めたが、すぐに暗い影を瞳に落とした。

「そんな母さんを、アバタ神父は怪しげな治療法で民を惑わす魔女として告発するって言ったんだ。……あんな奴でも、それなりに権威ある聖職者だから、もしかしたら告発が通ってしまうかもしれない。それに、別に体を差し出せって言ってる訳じゃなかったしね。ただ、奴を鞭でぶちさえすればいいんだ。だから僕は、了承した」

ヘクセは暗い顔をして膝を抱える。差し込む朝日に照らし出された露わな白い膝も、今は心なしかくすんで見えた。

「奴が上げる声は気持ち悪いけど、嫌いなやつをぶっ叩いていいっていうのはそりゃあ気持ちいいものさ。僕は奴に呼び出されるたび、気持ち悪いなあと思いつつもぶっ叩いてぶっ叩いてぶっ叩いてやった。最初は間違って自分に当てちゃったりした鞭も、すっかり上手くなった。それほど続けているうちに……僕はね。嫌いなやつを鞭で叩くのが楽しいのか、それとも人体を鞭打つ暴力自体が楽しいのか、分かんなくなっちゃったんだ」

ヘクセは膝に顔を埋めながら、くつくつと空虚に笑う。

「そして、その答えは嫌になるほどすぐに出た。奴が猊下のご命令で転任してすぐ、僕は人を鞭で打ちたくてしょうがなくなった。嫌いなやつじゃなくても、誰でも良かったよ。流れる血液、鞭がしなる音、皮膚に浮かぶ赤い傷痕、苦悶にうねる筋肉、痛みを逃がすための声……その全てが、恋しくて堪らなくなった。僕はね、ロト……人に痛みを与えるのが好きな、残酷な嗜癖を隠し持った人間だったんだよ。アバタ神父が、それを目覚めさせてしまったんだ」

ヘクセは少し顔を上げて、俺に向かって微笑んだ。ああ、その目の色といったら。伝説の湖のようだと思った青緑の瞳は奇妙な感情に濁り、毒蛇の住まう暗く不気味な沼のようですらあった。けれど、なぜだか目が離せない。自嘲するように歪められた唇のかたち、普段の煌くような優雅さとはかけ離れた陰鬱な微笑みもまた、常日頃彼が纏っていた神聖な美しさとはまた別の、謂わば穢れた美しさとでも言うべきものを持っていた。ぞく、と背中に悪寒が走る。道を外れた美に、魂が惹きつけられる感覚。俺は喉元を撫でるそれを唾と共に飲み下して、ヘクセの続きの言葉を待った。

「それでも、まさか人を捕まえて鞭で打たせてくださいなんて頼み込む訳にはいかない。それじゃあアバタ神父と一緒だ。だから、躍起になって隠したよ。より優しく、より真面目に、より賢く、より信仰篤く、より完璧に振舞った。僕が邪悪な嗜癖を抱えていることに、決して誰も辿り着かないように。辛かったよ……抑えれば抑えるほど、僕はその嗜癖を拗らせていく。もはや血や傷痕を見てすら、それが生まれる過程をあれこれと空想して、得も言われぬ興奮や恍惚を得てしまうようになったんだからね」

ヘクセは一度そこで言葉を切り、ゆるやかに首を振った。

「でも、だめだね。僕は人間のことが、何にも分かっちゃいなかった。僕が完璧になればなるほど、みんな汚い側面を求めたがるんだ。口では天使だなんだと言いながら、みんな僕に不完全で、人間でいてほしかったのさ。だから先生や神父さまたちと寝ているとか、こっそり娼婦を呼んでるとか、あれこれ好き勝手噂を立てて、僕を完璧じゃなくしようとした……

君以外はね。君だけは、僕を完璧な天使として愛そうとしていたけれど」

ヘクセはそう言いながら、俺から顔を背けた。朝日が差しこむ窓を、ただ虚ろに眺めていた。

「けれどそのうち、“真実”に近いことを言い当てる奴が出てきた。ほら、あのグズリーだよ。奴は僕が本当は、人の血を飲むヴァンパイアなんじゃないかと言い始めた。僕が、球技大会で怪我をした子が流した血を……あの鮮やかな赤を……思わず、うっとりと見つめてしまったからだ。まずい、と思った。どうにかして早く発散しなければならない、と思った。このままではきっと、抑えが利かなくなる。このことが露見すれば僕はおぞましい嗜癖を持った異常者として扱われるだろうし、そうなれば父さんにも母さんにも迷惑がかかる。もちろん、ここにもいられない。それに……きみの持つ天使の偶像を、粉々に破壊してしまうことになる。それはあまりにも忍びないと、そう思ったんだよ。もっとも、それは今回のことで意味がなくなってしまったけれど……」

彼の顔に落ちる影が強くなる。もうすっかり朝になり、窓から差し込む陽光で部屋は明るくなっていたけれど、彼の座るベッドだけが未だに夜のどす黒い闇の中に沈んでいるように俺には思えた。

「僕は、グズリーを協力者にした。奴はいつもギムナジウムの清廉な生活に飽き飽きして、邪悪で刺激的な遊びに飢えていたからね。この悪魔みたいな、黒いローブを着て異端者ごっこをしようと誘惑すれば、奴は簡単に堕ちた。口止めの対価として、日曜の夜は体を奴の好きにさせることになってしまったけれど……結果として僕は好きな時に、自分の嗜癖の生贄にしていい人間を手に入れたんだよ」

ヘクセは俺から顔を背けたまま、老女のようなくたびれた笑みを浮かべる。その歪んだ口元から放たれる「きみが起きてしまったのが、次の夜じゃなくて良かったよ」という言葉に、俺はぞっと身震いをした。そうして、すぐさまその場面を……ヘクセがグズリーに“対価を支払う”場面を想像してしまった自分が恥ずかしくて、思わずかあっと顔を火照らせた。

「人間ってやつは不思議なものでね。ごっこ遊びを長く続けているうちに、だんだんその役目が心にも浸食してくるようなんだ。最初は演技していたグズリーも、だんだん本当に僕にされる事を喜ぶようになっていった。最近じゃ自分が好きにしていい日曜の夜も、僕の前に土下座して、床に頭をこすりつけて、どうか足を舐めさせてくださいなんて頼むんだ。想像できるかい……」

そこで、やっとヘクセは再び俺の方を向いた。ヘクセは、沼のような瞳を細めて、穢れに満ちた笑みを浮かべていた。「役目が心にも浸食してくる」というのは、何もグズリーだけの話ではないのだろう。礼拝堂や懲罰室で悪魔の役を演じ続けた彼もまた、邪悦が心に染み付いてしまっていた。はじめに守ろうとした純潔をいとも容易く手放し、自らの肉体を銀貨のように扱っても、何も感じなくなっている。柔らかだった頬に嘲るような笑みを浮かべる彼に、もはやあの天使のような美しさはなかった。

「これで、僕の告解は終わりだよ、ロト。僕とグズリーは聖なる学び舎で、道義を外れた遊びをしていた。ルームメイトであるきみや寮監たちに薬を盛ってまで、ね。きみは僕を罰する権利があるし、先生にこのことを言いつけることも出来るだろう。いくら僕が日の下で完璧な天使を演じていると言っても、愚直で嘘の付けない君の言うことだ。誰かが探りくらいは入れて……露見するのは、時間の問題になるだろうね」

おもむろに、ヘクセは立ち上がる。立ち上がって、ふらふらと俺の方に歩いてくる。

「だから、僕はきみのことも誘惑するよ。……お願い。何でもするから、今日見たこと、今日聞いたことは黙っておいてくれないか。誰にも言わず、墓まで持っていってくれないか」

嗚呼。ヘクセは扉を塞ぐ俺の体に弱々しくしなだれかかり、潤んだ美しい瞳で俺の顔を見上げ、甘く儚い声で俺に囁いた。ヘクセは自らの美しさでもって、俺を支配しようとしている。恐らくは、グズリーにしたのと、同じように。俺は何も言わず、一回りほど小さなヘクセを見下ろす。そして、ぎょっとした。ヘクセがあまりにも、か弱く細く小さく見えたからだ。無論、不健康に痩せているわけではない。彼の体は華奢ながら程よく柔らかな肉がついており、白い肌はなおつやつやと輝いて張りに満ちていた。黄金の毛髪も、青緑の瞳も、現実味のない美貌も、何一つとして失われてはいない……いや、ひとつだけ。彼の目の下にはわずかに、隈が浮かんでいた。それが今日ついたものか、それとも前からあったものか、判別はできない。それでも、ゆっくりと眠れば消えてなくなるものだ。彼の美しさは、物理的には全く損なわれていないはずなのだ。それなのに、俺は、この腕の中にすっぽりと納まってしまう少年を、今まで天使と振り仰いでいた人物と同一だとは、全く感じられなくなっていた。今俺の胸にもたれているのは、ただの人間の子供だった。天使も悪魔もそこにはいない、ただ、やせっぽちの少年だけが俺の前に存在していた。俺は、そのやせっぽちの少年を胸から引きはがす。不安に揺れる彼の瞳を真っ直ぐと見つめて、俺は口を開いた。

「分かった、誰にも言わない。ただし、条件がある」

彼の顔が、ぱっと輝いた。媚びるような瞳が、俺の口を見つめる。どんな辱めが飛び出すのかと、恐れと侮りを持って注目している。だから俺は、望みそのままを口にした。

「グズリーとは、今後一切手を切ってくれ。それで、“生贄”を俺だけにするんだ」

へ、と間抜けた声が彼の唇からこぼれる。反論を許さないように、俺は続けて畳みかけた。

「お前は、誰でもいいんだろう。傷つけさせてくれるなら、悲鳴を上げてくれるなら、血を流してくれるなら。だったら、俺でもいいじゃないか。俺にしてくれよ。あんな粗野な愚物に、お前をくれてやる必要なんかないんだ」

俺は、ヘクセの細い手を強く握った。氷のように冷たい、雪を欺く白さの手を。ああ、この美しい手が、俺以外の醜い肉の塊に触れることなど、あってはならない。清らかな天使でなくなっても、穢らわしい悪魔になったとしても、天使でも悪魔でもない、ただの人間だったとしても、彼は紛れもなく、俺の好きな人だった。虐められていた俺に手を差し伸べてくれた、眠れない俺のためにお茶を淹れてくれた、優しいヘクセだった。たとえそれが、睡眠薬を盛るためだけだったとしても。俺はあのとき、とても、とても嬉しかったから。

だから、俺はヘクセの装飾ナイフで、腕の表皮を切り裂いた。

「さ、さあどうだ。俺の血は、グズリーの血と殆ど同じだろう。味だって、きっと変わらない」

鋭い、焼けるような痛みと共に、溢れ出た赤い血が俺の浅黒い肌を滑り落ちていく。

ヘクセの動揺した瞳は、一瞬でそのひとすじの鮮烈な赤に釘付けになった。

「本当に、きみはそれでいいの……」

震える手で俺の腕を掴むヘクセに、俺ははっきりと頷いた。

「構わない……俺はこの血によって、この痛みによって、お前を繋ぎ留め、お前を支配するんだ。俺も、他の奴らと一緒だよ。俺はお前が欲しいから、こんなことを言うんだ。だから、さあ。どうかアバタ神父やグズリーと同じように、ヘクセ。俺をどうか、欲望のままに苛んでくれ」

ヘクセは暫く、俺の顔を見つめていた。不審、不可解、不安。曇った色をしたそれが、ヘクセの顔に浮かぶ。しかし、それらの感情が過ぎ去ったあと……ヘクセは、乾き始めた俺の血に舌を這わせた。小さな舌先、生暖かい肉、ぬめる唾液、吸い取られる血液、傷口を舐められる痛み。それらが過ぎ去った後の、液体が外気で冷えるつめたい感触……。その全てが、ヘクセが俺の条件を飲んだことを示していた。

「きみは本当に馬鹿だ。あの扉から見ていたはずなのに、自らこの悪徳の輪に足を踏み入れた。ねえロト、きみは逃げ出すべきだったんだ。きみもどうせ、僕たちのようなけだものになるよ」

窓から差す光が強くなり、ヘクセの顔を逆光に変えた。後光のように差す日光とは裏腹に、彼の顔は暗い影の中で表情を失っていた。後悔、侮蔑、悲しみ、怒り。そのどれでも無いようにも、どれでもあるようにも、どちらにも見えた。

「それが一体……何だって言うんだ」

俺が愛した天使の皮は、もう既に跡形もなく崩れ落ちた。

ならば俺は次なる彼を、けだものとしてのヘクセ・ドルミティオを愛そう。

ヘクセが唇に付いた俺の血を舐めとり、その鉄臭い味に蕩けた笑みを浮かべる。

俺だけのものになったその顔を眺めながら、強い葡萄酒を飲んだときはこんな心地になるのだろうかと呟いた。頭ががんがん痛んで、くらくらする。心臓がどくどくと脈打って、うるさかった。それは、あの日レライ神父の髪の香りに囚われた時よりも、遥かに心臓そのものをちぎり取ってしまいそうな激しさで。

「やけくそだね……それで、グズリーをどうにかする手立てはあるのかい」

ヘクセのその言葉で、俺ははっと我に返る。そうだ、まずは奴をなんとかしなければ、俺はヘクセを護ることなどできやしないのだ。

「言っておくけれど、僕が別れてって言っても多分無理だよ。グズリーは、すっかり僕に心酔している。奴の好む“刺激的な遊び”を提供できるのは、今のところ僕だけだからね。きっと僕がやめるなんて言い出したら……少なくとも、殴られるだけじゃ済まないよ」

俺は、グズリーの姿を想像する。大熊のような肉体を持つ彼はそれに見合う頑丈な腕と太い手とを持っていた。あの粗野な筋肉から放たれる暴力に晒されるヘクセなど、ちらとでも想像しただけで涙がこぼれそうになる。この白百合のような少年を、そんな嵐のような暴力の中に投げ込んでいいはずがない。しかし、俺の頭ではすぐに上手い案が浮かばない。首を右に捻り、左に捻り、足りない頭を巡らせて、やっと絞りだせたのはごく単純な愚策のみ。それはもう、「何も思い浮かばない」と言っているも同じだった。

「……殺すとか」

「あのね、僕が言うのも何だけど法を何だと思ってるのさ。それに僕たちただの学生だ、仮に二人がかりで殺せたとしてすぐに露見する。神は見ているのさ、今日僕の不道徳が君にばれたように」

そうしてヘクセもまた俺と同じように、首を左右に捻る。しかしヘクセの頭は俺と違い、みっちりと詰まった優秀な頭だ。何か思いついた顔をして、首をあげた。

「……いや、殺すというのはいい案かもしれないね。耳を貸してくれるかな」

彼は悪戯な微笑みで、俺の耳に口を近づけた。薄紅色の唇、花の香のような息がすぐ傍まで近づいて、俺はどぎまぎとしながら彼の囁きを一言も逃すまいと、必死に耳を傾けた。



 さて、時間は過ぎて日曜の夜。グズリーはひとり、自室のベッドに腰かけそわそわと落ち着きなく来客を待っていた。グズリーほどの乱暴者は、同室の生徒をお楽しみの夜だけどこかへ追いやるなどお茶の子さいさい。そしてその来客とは勿論、ヘクセである。日曜日の夜だけ、ヘクセの肉体はグズリーのものだった。陽の下では清廉で高潔、穢れを知らない完璧な“薔薇寮の天使”が、自分にだけその皮の下に周到に隠された残虐な嗜癖を見せてくれ、その犠牲になる対価に誰もが手を伸ばす神聖な肉体を任せてくれる。それは平和に倦んでいたグズリーにとって、ある日突然降って湧いた最高の刺激だった。美しい吸血鬼の爪牙にかけられ、またその肉体を暴くことは、下級生を虐めるより、夜中に脱走するより、こっそり娼婦と遊ぶより、怪しい売人から買った薬を使ってみるより……いずれの何よりも刺激的で、背徳的で、官能的で、子供が味わうには贅沢に過ぎる快楽だった。昨日は思わぬ邪魔が入ったが、同室の愚鈍な同級生ごとき、どうとでも誤魔化してくるだろうとグズリーは踏んでいた。それくらいですっぱりと「遊び」を我慢できるなら、そもそも自分などに声なんぞかけずに済んだだろう、と。

「お待たせ、入ってもいいかい」

控えめに部屋の扉がノックされ、蜜のような甘い声が聞こえる。ああ俺の悪魔さまがやっとやってきた、とグズリーは歓喜に呻き、入ってくれと即座に返事をした。カチャッと僅かな音がして、滑るようにドアが開かれる。入ってきたのはやはり、ヘクセだった。あの黒いローブに身を包み、媚びた艶やかな微笑みを浮かべている。夜の彼は天使と言うよりも魔女に近いとグズリーは思う。色香で男を惑わす、魔性の女。そういった雰囲気を、今日はいつになく色濃くこの美しい少年は纏っていた。グズリーの褐色の皮膚は興奮に粟立ち、目はぎらぎらと獣のように輝いている。これからする行為を思い描くグズリーの厚ぼったい唇を、涎が汚らしく滑り落ちていった。そんなグズリーの醜態にもヘクセは聖母のごとく慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、ベッドに腰かけたグズリーの首へ腕を回し、向かい合わせになる形で膝の上へ座った。ぺろりと捲れたローブからはみ出した細い脚は魚の腹のように白く、照明で銀色に光っているようにさえ思えた。自らの膝に感じる柔らかな臀の感触、付け根のほうにまで布地に覆い隠されることなく曝された脚が、ヘクセがこの邪教の祭司じみた黒いローブの下に一糸をも纏っていないことを、何よりも雄弁に語っていた。その淫靡に、グズリーは今更ながらにごくりと唾を飲む。ヘクセと枕を交わすのは初めてではないが、今日の彼はどこか違う。語彙に乏しいグズリーには上手く言い表せなかったが、拭えない違和感のようなものを、彼は鋭敏に感じ取っていた。

「どうしたの。キスをしようよ、いつもみたいに」

そんなグズリーの僅かな疑念をかき消すように、ヘクセは柔らかに微笑んで顔を近づけ、いつもより数段赤く見える薔薇色の唇を、グズリーのがさがさした唇へそっと重ねた。その唇のあまりの甘さに、グズリーの現実は一瞬で儚く吹き飛ぶ。抱いたわずかな疑念を、彼は一片も残らず忘却した。グズリーは蜂蜜を貪る熊のように、ヘクセの唇を夢中で貪る。甘い。あまりにも甘い。彼の唇は今までも蕩けるように甘かったが、こんなに甘いことは今まであっただろうか。お互いに息が切れるほどの激しいディープ・キスを終えた後で、グズリーは子熊のように首を傾げながら、何か甘いものでも食べてきたのかと言った。大柄で筋骨隆々の乱暴者から出た言葉とは思えないその無邪気な言葉に、ヘクセは思わずぷっと噴き出し、腹を抱えて大笑いした。怪訝な顔を浮かべるグズリーを放って年相応に笑い転げたあと、唇を歪めて艶麗に微笑んだ。その十四の少年とは思えぬ色香に、グズリーは思わずひゅっと息を飲む。やはり、今日のヘクセはどこかおかしい。

「ふふ……どうだろうねえ。すぐに分かるよ」

意味深長なその囁きに、グズリーの神経はぞわぞわと逆立つ。しかし、利害の完全に一致したこの少年が一体何を企むことがあるんだと、グズリーは自分の弱腰を鼻で笑った。きっとこれもヘクセの嗜癖のひとつ、この“遊び”に飽きが来ないようにと忍ばせた悪戯で、意味なんかないのだ。何か唇に、シロップでも塗ってきたのだろう。そう単純に片づけて、グズリーは膝の上のヘクセをベッドの上へと放った。その上に伸し掛かり、ヘクセが逃げられないようにしてしまう。それでも余裕たっぷりに微笑むヘクセの美しい顔に、グズリーはぞくぞくと震えた。ああ、この天使と悪魔を内包した、清廉かつ妖艶なこの世にふたつとない美貌……。跪きたくも、蹂躙したくもなるその顔を眺めながら、グズリーは今日は奴隷になろうか主人になろうかと思案した。どちらでも最後には、自らの肉欲の餌食にするのに変わりはないのだが。鼻息を荒くしながらヘクセの蜥蜴のように白い喉に顔を埋め、薬草の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、乱暴な手つきでローブのボタンを外そうとするグズリーに、ヘクセはくすくすと笑いながら、こう囁いた。

「おや、いいのかい。今日は君の人生最後の日なのに、そんなありふれた行為の始め方をして……」

毒気をたっぷりと孕んだその言葉に、グズリーの興奮に火照った体が一瞬にして凍り付く。グズリーが覗き込んだヘクセの瞳は、まるで妖魔の灯す鬼火のようにぎらぎらと気味の悪い緑色に輝いて、その緑がグズリーの頭に、自然に「毒」というひと単語を浮かべさせた。

「君はねえ、もう毒を飲んでしまっているんだよ。唇に塗ってあった、甘い甘いシロップがそれさ。この毒は興奮で全身に回り、心臓を異常に動かして、やがて血管を破裂させる。僕に興奮した時点で、君の死はもう覆せない。……ほら、もうこんなに心臓が煩いだろう?」

ヘクセのほっそりした手が、グズリーの厚い胸板に触れる。グズリーは確かに異様に跳ねる己の心臓を自覚して、地を這うような恐怖の叫び声を上げた。そしてすぐに、吼えるような怒声を上げた。

「なんで、どうして俺に毒を盛ったッ……俺は今までお前の変態性欲に付き合ってやっただろ……ッ!」

自分に覆いかぶさる大柄な少年に顔色ひとつ変えることなく、ヘクセは笑みを浮かべる。その笑みは、勝利を確信した邪悪な妖婦のようで……グズリーはぞっと怖気を震う。冷たい汗が、全身をぼたぼたと滝のように滑り落ちていくのをグズリーは克明に感じていた。

「簡単だよ。……飽きちゃったのさ、君に」

鉛筆を転がすような、ほんの気軽な調子で吐かれたその言葉に、グズリーの感情は爆弾のように弾けた。与えられた死の恐怖が、悔しさや怒りを異常に膨れ上がらせる。グズリーは我を忘れて、今まで吸い付いていたヘクセの細い首をその大造りな手で締め上げた。

「てめえっ、この野郎ッ……!謀った、謀ったんだな、この俺を……っ!」

ぎちぎちぎち、と音を立てて締め上げられる首に、ヘクセは苦悶の声を上げた。途端、グズリーの部屋の扉が勢いよく開く。入って来たのは、顔を真っ青にしたロトだった。ヘクセを注視していて侵入者への反応が一拍遅れたグズリーの横面を、ロトは思い切り容赦なくぶん殴る。鼻血を出しながらベッドにどうと倒れ、ちかちかと眩む視界に呻きながらグズリーは叫んだ。

「ちくしょう、ちくしょうッ、やっぱりそいつが新しい情夫か!結局誰でもいいのか、この魔女、毒婦、淫売ッ……!!殺してやる、殺してやるからなお前ら……!」

グズリーはその彫刻のように逞しい腕に唸りをつけて、咳き込むヘクセと彼を抱きとめるロトに殴りかかる。完全に理性を失った彼の拳は、しかしロトにもヘクセにも当たらなかった。寸前でグズリーの巨躯は力を失い、ドズゥンと重い音を立てて床に崩れ落ちる。彼はぴくぴくと陸に打ち上げられた魚のように痙攣し、やがて口から泡を噴いて動かなくなった。



「……死んだ、のか?」

俺たちは動かなくなったグズリーをベッドの上に横たえて、闇夜に紛れて百合寮を出た。寮監室をそっと覗けば、夜警の寮監はすっかり高いびきをかいて眠りこけている。彼らが突っ伏すテーブルの上には、やはりヘクセのハーブティーがあった。

「まさか、作戦は伝えたじゃないか。あれはただの弱い麻酔薬だよ、効きすぎたって死にやしない……ああ、唇がぴりぴりする。後でお茶にしようよ、ロト」

ヘクセは平然とした様子で洗面室に入り、蛇口を捻って唇を洗った。まるで口紅を塗ったような艶めかしい唇の赤は徐々に薄れ、彼本来の美しい薔薇色を取り戻してゆく。

 俺たちの作戦と言うのは、こうだった。まず、いつも通りヘクセは日曜の夜にグズリーに“報酬”を支払いに行く。その際唇に、ヘクセが調合した麻酔薬を塗る。こうすれば有事の際、体格に優れたグズリーの動きを鈍らせることができるから。俺は役立つ場面が来てほしくはなかったが……ヘクセの慧眼にはさすがと言わざるを得ない。

 それからヘクセがわざとグズリーの「毒殺計画」を明かす。いくら刺激を求めているとはいえ、グズリーもまた平和で安全な生活に慣れた「お坊ちゃま」に過ぎない。ヘクセは薬草知識の豊富さで有名だから、より言葉に真実味が増したのだろう。その死への恐怖そのものが、心臓に否応なく早鐘を打たせる。それをグズリーが毒の作用と勘違いした。いや、他でもないヘクセの言葉が、彼に勘違いをさせたのだ。流石に殺されかければ、グズリーといえど諦めるだろう。真実彼の顔は、激怒しているにも関わらず死人のように青ざめていた。恐怖と言う感情が全身に回って、グズリーの理性を失わせていた。

「……。」

「上手くいったって言うのに、不満そうだね。何か気に入らないことでも?」

ある。大ありだ。俺はぐしゃぐしゃと頭を掻いて、溜息をついた。

「……結局、貴方を危険に晒してしまった。貴方はグズリーに殺されかけたし、あいつは、殺してやると……」

確かにグズリーと手を切れたかもしれないが、より危険な状況にヘクセを置いてしまったのではなかろうか。頭を抱える俺を尻目に、ヘクセは笑った。

「けれど、あれよりいい案を君は思いついたかい?結局代案を出せなかったんだから、文句は言わせないよ」

ぐぅ、と唸る。確かにその通りだ。その通りだが、理屈と反するところで俺の心が納得してくれないで、困る。 それに、とヘクセは容赦なく続けた。

「それに、グズリーとの関係は僕が抱え込んだ問題だからね。僕自身がケジメを付けないじゃすっきりしないよ。何もかもを君任せにはしたくない」

蛇口を捻って水を止めながら、ヘクセはしっかりとした声でそう言った。鏡の向こうには、昼間のヘクセに近い姿が映っている。誇り高く清廉な、学園の天使。幽霊でも出そうな夜中の陰鬱な洗面室には不釣り合いな、清らかな白が。

「それよりも」

きゅッ。蛇口がしっかりと固く締められる音が、鋭く響く。ヘクセは重い吐息を吐きながら、こちらへゆっくりと振り返った。ぽつっ、ぽつっ、と雫の垂れる音が静かな洗面室に響く。

「それよりも……ああ、いけない。また僕は興奮してしまった……君やグズリーが、あんなに可愛い顔を見せてくれるんだもの」

振り返ったヘクセの顔は……ああ。先ほどグズリーに見せた、毒を纏う妖婦、血に飢えた吸血鬼のそれだった。妖しく、おぞましく、美しい。清らかな天使の美しさから一転、妖艶な魔女の美しさを以て、ヘクセは俺の胸へしなだれかかる。

「“毒殺”がこんなに興奮するものだとは思わなかった……あのグズリーの、恐怖に青ざめた顔……体内からやってくる死に怯える、あの表情……ふふ。こんなことなら、もっと早く“毒殺ごっこ”を試してみれば良かったかな」

くすくすくす、とヘクセは可笑しそうに笑い、それから俺の頬にその白く細い手を伸ばす。その様はさながら、真夜中の森に潜む悪戯な妖精のようで。

「それに、ドアから覗いていた君の顔。嫉妬と嫌悪でぐちゃぐちゃになって、それでも見ているしかできない君の顔……ああほら、今もそんな顔をしている。……君も、毒殺されたかったかい?グズリーのように」

それ以上喋ってほしくなくて、俺は噛みつくようにヘクセの唇を奪った。驚き固まる彼の唇を舌で割り、口内に侵入して歯列をなぞり、舌を絡めて蹂躙する。暴力的なキスに息が続かなくなったヘクセが俺の背中をばんばんと叩く感覚で、俺は我に返って彼を離した。

「はあっ……全く、乱暴なんだから……こんなこと、どこで覚えてきたんだい。いけない子だね」

荒い息を吐きながら垂れた唾液を拭うヘクセに、俺はそっぽを向いた。知識の出所を言うのも嫌で、俺はむっつりと黙り込む。

「さては悪い先輩に官能小説でも借りたかな。君も清廉に見えて隅に置けないね」

しかしそう思ったのもつかの間、ヘクセににやにやと笑いながらそう言われて、俺はつい口が滑ってしまう。

「あんたが!……あんたがグズリーとしてるの真似したんだよ……」

ああ。こんなみっともないこと言いたくないのに。確かに、俺はグズリーに嫉妬した。ヘクセの体を我が物顔で味わおうとするグズリーに嫌悪を抱いた。俺の方が先に好きだったのに。俺の方が、お前なんかよりも、万倍ヘクセを愛しているのに。……だから、上書きしたかったのだ。あんな獣の欲に汚された彼を、俺が。

「……君はまだ、綺麗な頃の僕に執着しているんだね。でも、もう後戻りはできないよ。貴重な生贄だったグズリーと、手を切らせたんだもの」

俺の心を読んだような呟きが、ヘクセの唇から零れる。呆れたような、憐れむような微笑みが彼の顔に浮かんだ瞬間、俺の唇は彼のそれによって支配されていた。彼の舌が蛇のような滑らかさで俺の口内へと滑り込んだ時……ああ、やはり彼は俺よりも数段上手だと当たり前のことながら気が付いた。俺の乱暴で性急な責めとは違い、ヘクセのそれは柔らかく、丁寧で、上品で、それでいて確実に快楽を与えてくる。技巧に優れた舌が俺の口の中を這いまわり、俺の分厚い舌をお返しとばかりに愛撫していった。膝から力が抜け、座り込みそうになる。ああ、俺は、この人に敵わない。守るなんて、烏滸がましいことだったんじゃないだろうか。蕩けるような甘い快楽の端に苦い思いを抱きながら、俺は離れていく彼の唇を名残惜しく見送った。

「続きは、部屋でしようか……ふふふ、僕の身を案じてくれて嬉しかったよ、ロト。正直、僕はグズリーに殺されても文句は言えないからね」

軽やかな蝶のように洗面室を出ていくヘクセの背を、俺は火照った体を引きずりながらのろのろと追いかけた。


 そんな危険で刺激的な日曜日から、数週間が経った。

意外にも……その後グズリーの報復は、一切見られなかった。どこかから視線を感じることはあるものの、明確な攻撃がグズリーないしその手下らしき人物から飛ばされることは、今の今まで一度も無い。それが、余計に不気味だった。俺は一歩距離を置いていた以前とは違い、常にヘクセの傍に番犬のように控えるようにしていた。寮からの登下校は勿論、授業中も教師の話そっちのけで彼を見守り、休み時間も常に隣にいた。クラスメイトにそれをからかわれて恥ずかしく思ったとしても、仕方のないことだ。少しでも目を離せばいつ何時グズリーの報復があるか分からない。最悪俺一人が報復を受けるならいいが、か弱く美しいヘクセは何をされるか分かったものではない。あのグズリーの目のぎらつきは、ただのはったりや空威張りでは決してなかった。最悪あらんかぎりの凌辱を加えられて、殺されることだってあり得るのだ。一秒たりとも、油断はできない。

「だからってトイレにまで付いてくるのはどうかと思うよ。えっち」

呆れた顔でヘクセ本人にそう言われても、離れるわけには、いかないのだ。

 

 そして、俺の不安は的中してしまう。しかしそれは、俺の予想を裏切る形での的中だった。

「ああ、ロト。悪いけど今日は一人で寮に帰ってくれるかな。ちょっと用事があるんだ」

昼休みの食堂、さっきまで教鞭を執っていた教師からの呼び出しを受けて帰ってきたヘクセは、軽い調子でそんなことを言った。どうして、と聞けば、ヘクセは少し前のめりになってしまった俺の体を押し戻しながらため息をついた。

「レライ神父が、歴史の成績のことで話があるみたい。悪い点は取っていないはずだけど、何か不都合でもあったのかな。すぐ終わるらしいから、ちょっと行ってくるよ」

レライ神父。その名前に、俺は背中がヒヤリとした。随分久しぶりに、その名を聞いた気がする。前はあれだけ、よい話友達だったのに! ……あの日、レライ神父にヘクセのことを謗られて以来、俺達はすっかり交友を断ってしまっていた。向こうは話しかけたそうにしていた気もするが、俺が徹底的に無視を決め込んだのだ。だから向こうも、すうっと煙のように俺の生活から消え失せてしまったように思う。これはいわゆる、絶交状態と言うのだろう。関係の修復は望むべくもなく、ひと月と数週間が経過していた。あの時あんな風に突き放してしまったのは少し可哀想だったかという秋風のような後悔。しかしそれを塗りつぶす、嫌な予感が俺の頭を支配していた。

「や、やめた方がいい。行くな。レライ神父は、あなたを敵視しているんだ」

俺が慌ててそう言うも、ヘクセは訝し気な顔をして首を傾げるばかりだった。

「敵視?どうしてさ。レライ神父はあんなにも穏やかで、信心深くて、善い人じゃないか。その人が何で、“清廉に生きている”僕を敵視するって言うんだい?」

じゃがいものマッシュを挟んだサンドイッチを食べながら、ヘクセはそう言った。彼の疑問はもっともで、穏やかで信心深く、善き人であるはずのレライ神父が敵視するとすればそれは信仰を脅かす存在や堕落した人々のはずだ。……「悪魔」のヘクセならともかく、陽の下の、表向きの、「天使」のヘクセなら、彼が敵視するはずはないと。

「……例の“儀式”が見られていたってことは」

「そしたら止めるために部屋に入って来るなり他の教師や神父たちを呼んでくるなりするだろう。彼の信仰心なら、少なくとも見て見ぬふりはしない」

それもそうだ。しかし彼は確かに、ヘクセの本質を言い当てていたのだ。彼は何かを隠している、彼の美しさはお前を堕落に導く───と。ヘクセの秘密、ヘクセと過ごした夜、昼夜でくるりくるりと入れ替わるヘクセの魅惑を思い浮かべ、俺はバゲットを頬張りながら顔に皺を寄せた。レライ神父は知っていたのだろうか。この薔薇寮の天使の、皮の下を───。

「ともかく」

ヘクセの声で、はっと我に返る。

「ともかく、君は心配しすぎだ。グズリーのこともそうだよ。衆人環境に身を置いていれば、いくらグズリーといえど手は出してこられない。だからそれよりも君は学業に集中した方がいい。身が入っていないのがバレバレだよ」

痛いところを突かれ、ぐさりと音がする。確かにヘクセの言うことは正しいと、俺も思うのだ。しかし、やはり俺たちの危機が去ったとはどうしても思えなかった。彼は鼠のように地下に潜み、蜘蛛のように罠を張っている気がする。どうしても、そう思えてならないのだ。

未だにレライ神父への疑いが晴れずにもやもやと頭を抱えながら昼食を頬張っていると、ヘクセは俺を諭すようにその湖畔のような瞳で俺の目を真っ直ぐと見た。

「ロト、君もあの包帯に心を惑わされてしまったのかい。あの人の容姿は確かに異様だけれど、あれは高潔さと純潔の現れであり、覚悟の証だ。とても神聖な傷のはずだよ。恐れて妙な幻を見てはいけない。たとえ彼が僕の容姿を危険視しているのだとしても───それは君への親切心からのはずだ」

ヘクセに静かな落ち着いた声でそう説かれて、俺はいよいよ言葉に詰まってしまう。レライ神父が自分を害するはずはないのだと、彼は疑いもしないようだった。たとえ自分のふしだらが彼に見抜かれているのだとしても、グズリーのように暴力に訴えてくることはないだろう、と。彼の静かな自信に満ちた澄んだ声で言われると、ひと月前味わったはずの恐怖や疑念も薄れ、全てが夢幻だったようにすら思えてくる。しかしあれは、確かに現実だったのだ。レライ神父は確かに、ヘクセを悪魔だと言った。ヘクセと俺を、引き裂こうとしたのだ。何の証拠も、無いうちに。

「……分かった。でも近くで待たせてくれ。何かあったら、どうかすぐに俺を」

最後の念押しをする俺の頭を犬のようにぽんぽんと撫でて、ヘクセは仕方なさそうに笑った。

「分かった分かった、そうしておくれ。君はすっかり、僕の騎士だね。それとも犬かな。それじゃあ念のため、僕はナイフでも忍ばせておこうかな」

ヘクセはからかうようにそう言って、ふわりと上品な香りを纏った風をそよがせながら、いつの間にか食べ終わった昼食のトレイを手に返却口へと歩き去ってしまう。金色の髪が魚のように揺らめいて、俺を誘った。騎士でも犬でも、どっちだっていい。ただ彼を守り、彼を独占できるなら、何だって。俺はバゲットの最後のひと切れを口に放り込むと、慌てて彼を追いかけた。



 ヘクセ・ドルミティオは極めて優秀な生徒であった。「天使」の呼び名に相応しく、容姿にも所作にも成績にも欠落がない。だがしかし、多くの者が口にする「完璧」という評価には誤りがある。彼は天使でも悪魔でもなく、ただの人間の少年だ。故に、常に全てを見通しているなどという事はあり得ない。彼の見通せない暗闇も、この学園には確かに存在する。それも、ほんの靴先ほどの距離に。

 さてその日の放課後、ヘクセは言われた通りにレライ神父の待つ第四礼拝堂へと向かった。学園内に作られた小さな森の中にある、人気のない礼拝堂だ。他人に聞かせたくない話をするには、十分すぎる場所だろう。中等部いちの優等生であるヘクセが教師の呼び出しに従ってそこへ入るのは自然なことであり、その信仰心の厚さはムソド随一と囁かれるレライ神父が礼拝堂の神像へ向かって“いと高き神”への祈りを捧げているのも自然なことだった。しかし、この礼拝堂内でただひとつ、白い法衣に染みた一点の汚れのような、圧倒的な違和感を放つ存在がいた。それはミルクをふんだんに使ったチョコレートのような肌を白い制服で覆い隠し、筋肉質の巨躯を丸めて、礼拝堂の最前のベンチに腰かけて神像を拝みながら涙を流す、グズリーの姿だった。よく似た別人としか思えないその奇妙な光景に、さしものヘクセも足がぴたりと止まる。彼はお世辞にも信心深い性格ではなかった。彼が礼拝堂にいたというだけで、彼を知る生徒は口を揃えてじゃあ明日は槍でも振るなと笑い飛ばすはずだ。そんな彼が、祈りながら涙を?別人を見間違えでもしたのだろうとヘクセは彼に近寄ってみるも、やはりその英雄的な逞しい体つきと獣のような顔つきは確かにグズリーとしか思えず、ヘクセはただ困惑に息を飲むだけだった。

「ああ、来たのですね。中等部二年Cクラス6番、ヘクセ・ドルミティオ」

その声に、ヘクセは思わず驚愕の声を漏らす。その声を発したのは、祈りをやめヘクセに向き直ったレライ神父のようだった。しかし、彼の声はこんなにも、はっきりとはしていなかったはずだ。ヘクセが知る彼の声は、吃り、震えて、亡霊の囁きのように聞き取りづらい。故に彼は話すときに顔を近づける癖があるのだが……今、ヘクセとレライ神父との間は大型の蛇一匹分ほども離れていた。それなのに、まるで歌うような美しい響きを持つその声は、確かにはっきりとヘクセの耳に届いていた。ヘクセは目を細めて、レライ神父の顔を見る。霧色の長髪に見上げるような長身、焼け爛れた美醜綯い交ぜの異貌とそれを覆い隠す包帯。この異様な風貌を、別人と見間違えるはずがないのだ。しかし今、清潔な黒いカソックを纏い、胸を控えめに反らし、粛々と聖職者らしい風格で薄暗がりの礼拝堂に立つ彼は、どう考えてもあの気弱な教師然としたレライ神父と同一人物とは思えなかった。誰かがレライ神父に扮したのだろうか?いいや、いや。彼の異貌を真似られるものなどそうはいまい。ヘクセの戸惑いを踏み荒らすように、レライ神父は革靴をこつこつと響かせながら硬直する彼に歩み寄った。

「まず、謝罪します。歴史の成績で話があるというのは、嘘です。あなたの歴史の成績は、何も問題なく満点でしたからね。……あなたと、ふたりきりで話したかった」

ふたりきり?何を言っているんだとヘクセの頭はさらに混乱する。あの最前列のベンチで泣いているグズリーが、レライ神父には見えていないかのような言い草だ。あるいは、ひとりの人間として、彼を数えていないかのような……。彼の言葉は、彼の声は、何かがおかしい。ヘクセはそう訝った。

「なぜ……そんな嘘を?」

ヘクセは礼拝堂の奥から湧き出す嫌な気配から遠ざかろうとするように、じりじりと後退する。しかしレライ神父はそれに構わず、さらに距離を詰めた。

「簡単ですよ。理由はただ、ひとつきりです」

レライ神父の顔が、ヘクセの眼前に迫る。その硝子玉のようなぼやけた瞳に不気味な光が宿っているのを見てヘクセは得体の知れない恐怖に襲われた。明らかに正気の瞳ではない。ヘクセの知っている穏やかな教師、模範的な聖職者であったレライ神父の瞳ではない。ヘクセはロトの言葉を信じなかった自分を呪いながら、どうにかして逃げ出そうと出入り口の木扉を振り返る。……そして、絶句した。

「薔薇寮の悪魔、淫らな魔女、汚らわしい異端者。お前に、逃げられないためですよ」

さっきまでベンチで泣いていたはずのグズリーが、出入り口をその熊のような巨体で塞いでいる。ヘクセが見上げた彼の瞳は……あらゆる意思を奪われたかのように、虚ろな色を映していた。


 時は数週間前、グズリーの“毒殺”の日の翌日朝に遡る。

自室のベッドの上で目を覚ましたグズリーは、自分の身体がしっかりと動くことを確かめてほっと息を吐いた。と、同時にグズリーは怒りの咆哮をあげる。やられた、一杯食わされた!ちくしょうあの売女め、新しい情夫を咥えこんで俺をお払い箱にしやがった!そんなお決まりの怒りの台詞を地団太踏みながら散々吐き散らしたあとに、グズリーは疲れ果てたように床にしなしなと座り込み、それから膝を抱えて子供のように泣きだした。

「畜生ッ……ちくしょうあいつは、あいつは俺のものなのに、折角俺のものになったのに、神のクソッタレ、あんな間男を遣わしやがって!」

グズリーは野太い声で、おんおんと泣いた。大きな魚に、背徳的な愛人に逃げられたのがそんなに悔しいのか?否、グズリーもまた、密かにヘクセを恋い慕う者の一人だった。それは乱暴者の灰色熊が抱くには、あまりにも純な恋心。ただ肉体を手に入れたいというのではなく、ただ彼と同じ時間を過ごしたかった。けれど彼は自らの裡にそんないじらしい感情があるなどどは思わなかった。故に……ヘクセが魔性の顔を見せ、「悪魔」として彼を誘った時、その純粋な感情はいともたやすく轢き殺された。彼は想い人の「裏面」が放つ毒香に惑わされ、不気味な儀式めいた遊びに心を狂わせた。故に、ヘクセに従う対価として「なんでも好きなことをしてあげる」と言われた時……背徳に毒された彼は、安易にその美しい肉体を望んだ。憧れたその身を、自分の欲に任せろと。ほんとうは、ただ一緒に昼食を食べたいだけだったはずなのに。しかし全ては、グズリーすら知る余地のないことである。

「随分お嘆きですね」

急に扉の方から声がして、グズリーは飛び上がった。慌てて涙を太い腕で拭いつつそちらを振り返れば、そこには静かに佇むレライ神父がいた。後ろには、怯えた様子のルームメイトがびくびくと縮こまって神父の長身に身を隠している。おおかた、自分の機嫌が悪いので部屋に帰りづらくて仕方なく神父を呼んできたのだろう。グズリーはそう推測して、ふたりをぎろりと睨んだ。

「……なんだよ、見世物じゃねえぞブス」

グズリーが腕を振り回して威嚇すれば、ルームメイトはヒイッと泣きながら一目散に逃げていった。しかしレライ神父は動かずに、じっとその硝子玉のような目でグズリーを見つめている。 グズリーはこの目が、嫌いだった。この神父が、嫌いだった。吃った情けない声のくせに、焼け爛れた醜い顔のくせに、生白い枯れ木のような身体のくせに、嫌がらせをしても怒鳴ることも嘆くこともしないでただ微笑んでいるだけなのに、どこか自分を見下しているようなその目が嫌いだった。よりにもよってそいつがなぜ自分の人生最悪の日に部屋を訪れているのかと、グズリーは憤る。今は自分の傍に、誰も居てほしくなかった。だからグズリーは暴力的な表情を浮かべ、べきべきと指を鳴らしながらレライ神父に迫る。

「出てけ、つってんのが分かんねえのかよこのミイラ野郎が……キモいんだよてめえ」

グズリーは恐ろしい顔で凄む。けれどもやはり、レライ神父は動かなかった。まるでそこに生えた木のように、言葉すら一言も発さずにそこにいる。まるでグズリーを、脅威でもなんでもない存在だとでも言うように。グズリーはそれに腹を立て、レライ神父に向かって腕を振り上げた。この生意気な神父の顔を粉砕するつもりで、ぶうんと激しい音を立てて殴りかかる。数秒後には彼の高い鼻がひしゃげ、情けなく鼻血を流しながらひいひいと泣いて自分に謝る姿を想像しながら───しかし、それはただ夢幻としてグズリーの頭の中で消えていく。

「……は?」

何が起こったかわからない、という表情でグズリーは固まる。レライ神父に殴りかかったはずのグズリーの巨体は、音も無く床に転がされ身動きの一切を封じられていた。枯れ枝のような細腕が、グズリーの熊のような巨体を押さえつけている。それは、誰の目から見ても信じがたい冗談のような光景だった。ましてや、自分の肉体に絶対の自信を誇るグズリーの驚愕は、くだくだしく書くまでもない。グズリーは釣り上げられた魚のようにばたばたと暴れる。しかしその細腕による拘束はびくともせず、グズリーの頭はどんどん混乱と焦燥の中に沈んでいく。

「あなたは、本当に可哀想な子ですね」

レライ神父が、歌うようにそう言った。神経を逆撫でるようなその言葉に、グズリーの怒りはますます膨れ上がっていく。しかし、なぜだかその言葉はグズリーの胸に染み渡って離れなかった。グズリーは訝る、レライ神父はなぜ、急に吃らなくなったのだろう?いやそもそも、レライ神父の声とはこんなに美しかっただろうか?大嫌いなはずの神父の声に、ひどく心が惹きつけられる。一刻も早く自室からいなくなってほしいのに、その声をもっと聴いていたいような気がする。それはまるで、水精の歌声のように───

「私が、救ってあげましょう。あなたは、誰かの唯一になりたかったのでしょう?棄てられるだけの当て馬、哀れな生贄。私が、その唯一にしてあげます。さあ、私の目を見て───」

グズリーは思わず、レライ神父の目を直視してしまう。硝子玉。そこに嵌っているのは硝子玉。濁っていてでも透明な硝子玉。部屋の照明や家具や窓の外の景色や困惑するグズリーを飲み込んで万華鏡のようにゆらめきぐるぐると廻る摩訶不思議な硝子玉。きれいな硝子玉。おぞましい硝子玉。人の目ではない、とグズリーはそう思った。それを最後に───ぶつんとグズリーの自我は切断された。


 「くっ……グズリーに、何をしたのですか、レライ神父……」

ぼんやりとした人形のような顔のグズリーに成す術もなく手足を縛り上げられながら、ヘクセはレライ神父を睨み上げた。容赦のないグズリーの拘束は、ヘクセのような華奢な少年が暴れてもびくともしない。そもあのような仕打ちをしたグズリーが、首謀者であるヘクセに容赦などするはずないのだ。しかし彼の手つきに復讐してやろうという手荒さは無く、ただ作業のように淡々としていて……そのことが、ヘクセには不気味でならなかった。レライ神父は質問には答えず、その黒いカソックから何かを取り出した。

「これが何か分かりますか、魔女よ」

ヘクセは、思わずそれに目を凝らす。レライ神父が持っているのは、何か金属製の器具のようだった。大きな回しねじがついた、小さな梨のような……ヘクセの回答を待たず、レライ神父は続ける。

「これは“苦悩の梨”といって、大昔に使われていた拷問器具です。異端者や魔女といった、淫らな悦楽に浸るものに使用されていたものでしてね……使い方はとても簡単です。知りたいですか?」

そう言ってレライ神父は見せつけるようにねじを回して見せる。ゆっくりとした、わざとらしい動作で、小さな梨を構成していた四枚の葉がくぱりと開いていく。その動きを見るだけで、ヘクセの賢い頭はそれの“用途”をなんとなく想像する。

「……それを僕に突っ込んで、悪魔を祓おうっていうんですね。魔女裁判や異端審問なんてもう大昔の出来事だ、あなたはイカれてる……!こんなの、体罰どころじゃない。貴方はこの学園を追い出され、子供を虐待した罪で教会からも破門されるぞ!」

ヘクセは叫んだ。声の限り叫んだ。近くにいるであろうロトが感づいて助けてくれることを祈りながら。ヘクセは、ロトの肉体の強さを信用していた。本人は謙遜するが、なかなかどうしてグズリーにも劣らない英傑の才のある逞しい肉体だと思っていた。グズリーに力勝負で勝てずとも、痩躯のレライ神父くらいは抑え込めるはずだ。そうすれば、レライ神父に付き従っているグズリーも抑えられるとヘクセは踏んでいた。その意図にレライ神父が気付かないように、あえて名前を呼ばずに彼はロトを呼ぶ。しかし……グズリーが、その意図に獣のような勘で気付いてしまった。真っ先に、彼はその巨大な図体全てで扉を塞ぎにかかる。数秒の差で間に合わなかったロトの拳が、むなしく扉に打ち付けられる音が教会に響く。当てにしていた計略を崩され、ヘクセは焦りと驚きと悔しさに唇を噛む。しかしもう少しで裏を掻かれるところだったはずのレライ神父は、グズリーに微笑んでなぜかこう言った。

「ああ、グズリー。構いませんよ、通してあげなさい。私が招いた客です」

その言葉はまるで、この状況を予期していたかのようで。



 「……レライ神父。これは一体どういう事ですか」

俺はまるで侍従のように恭しく扉を解放するグズリーの横を、恐る恐る通り抜けた。あれだけひどい仕打ちをして、あれだけの剣幕で彼は憤っていたのだ。出会い頭に顔をぶん殴られても全くおかしくないというのに、彼はただ静かに扉を支えている。何か異常なことが起こっていることは、言うまでもない。縛り上げられ教会の床に転がされたヘクセ、おぞましい気配を放つ金属器を持って微笑むレライ神父の姿が語るように。

「ああ、待っていましたよ。やはり、魔女に魅入られていましたか」

 レライ神父は、恍惚とした顔で俺に微笑む。その声にあの吃りはなく、声質さえも変化している。美しい、甘い声。しかし聞いているだけで頭痛がしてくるような声。彼の声をまともに聞いてはいけない、と本能が警告を発する。ぐわんぐわんと揺れる脳みそを抑えようと頭を振る俺に構わず、レライ神父は滔々と語る。その様子は人に話しかけているようには全く見えず───何か別の、そう、役者が舞台の観客にでも語り掛けるような、ひどく大仰な仕草だった。

「ロト・ゴモル。私は君をここへ招くために、この魔女を誘い出したのです。ひと月前に、私と君は、絶交してしまった。この魔女の、忌まわしい美しさが原因で……そして君は、またこの魔女のために、道を踏み外そうとしている。ああ、そんな怖い顔をしないで。私は、あなたのために、今日この日今この舞台を仕立てたのです」

彼のその長台詞は、俺にはまるで支離滅裂な妄言を言っているようにしか思えなかった。言語は確かに慣れ親しんだ母国語なのに、その意味が全く掴めない。何を、と喘鳴じみた声を返すのがやっとで、そんな俺の声を飛び石にレライ神父はさらに陶酔した妄言を続ける。

「ああ、ロト。優しい、清らかな、真の薔薇寮の天使。あの日、初めての授業の日、生徒にからかわれる私を気遣ってくれた……私はあなたに、清らかでいてほしい、私のこの“声”にすら侵されずに、永遠に清らかでいてほしいのです。そのために、この魔女は邪魔なのです。いいですね。彼は悪しきものです。この美しさに、惑わされてはなりません」

 彼の声を聞いていると、目が回ってくる。なにをしたかったのかも、分からなくなってくる。俺はいつしかただ立ちすくみ、彼の妄言に耳を傾けてしまっている。最後に残った理性だけがわずかに警告を発し、彼の言葉に頷いてはいけないとがなり立てていた。

「……やはり、その声に何か秘密があるのですね。吃音はわざとですか?レライ神父」

混乱する俺の代わりに、鋭い声でヘクセが問いかける。その声にレライ神父はぴたりと長口上をやめ、しかしヘクセに視線すら向けないまま、何故か俺の方を見て再び話し始めた。

「賢しい子。そうです、私の本名は“ローレライ”・インクイジター。私の声は生まれつき、呪われていた。私の声をまともに聞いたものは、私に惹きつけられ、私の声と容貌とに魅入られ、やがては言いなりになってしまう。まさに名前の如く、水辺で漁師を破滅させる水精のように……この声は数多欲望を引き寄せた。私の顔に見惚れ、私の声を聞いた孤独な者は、誰もが浅ましい獣になってしまう。だから私は顔を焼いて醜男になり、家を出て教会に入り、世俗の欲望からわが身を遠ざけようとした。吃音を装い、気弱な教師を装って……しかし、やはり、神のための学び舎であるここにも、欲望ははびこっていた。私がこの声を使わずとも、堕落の種はそこかしこにあった」

レライ神父はそこで一旦言葉を切り、大仰に溜息をついた。手には、苦悩の梨が握られたままで。

 「怠惰や無信仰から来る退屈は人を迷わせ、背徳的な快楽は人を腐らせ、そして美は人を惑わせる。それらは全て、人の欲望から生じるもの。欲望を断ち切るのは何か?恐怖と、切除です。ロト。あなたには、その二つを授けましょう。まずは恐怖、あなたを迷わせた魔女を今ここで苦悩の梨により裁き、美しさのうちに堕落した者の末路をお見せしましょう。それから、魔女に穢されてしまった部位、罪を犯す部位を切り落とすのです。大丈夫、手を尽くします。痛みはあるかもしれませんが、一瞬ですよ。私もそうでしたので」

 やはり、彼の言っていることはまったくもって理解が出来ない。これならば、まだ異国の言葉のほうがいくらか易しいだろう。けれど、これだけは分かった。言葉の意味も意図も図れずとも、その常軌を逸した瞳とおぞましい手元で分かるのだ。 彼は、ヘクセと自分に危害を加えるつもりなのだと!

「……止まって、ください、レライ神父」

俺は震える手を抑え、彼に従いたくなる心を叱咤しながら、懐からそれを取り出した。

あの日ヘクセから取り上げた、鋭く光る装飾ナイフ。刃物特有のぞっとするような冷たさを持つそれは、教会のステンドグラスから漏れる鮮やかな光に照らされて、毒々しく輝いていた。そんな不気味なものでも……ヘクセを守れるのならば、構わなかった。

「……ああ、そんなもので、私を抑えようと言うんですね。かわいい子……でも脅しなど効きませんよ。私には神が付いておられる。何も、怖いものはないのです。そんな小さな刃物など、刺す気も無い腕など、恐れるはずもない」

レライ神父はまるでいとし子を抱きしめるかのように、微笑みながら俺に歩み寄る。確かに、刺す気はなかった。こんなおぞましい本性を現したとしても、確かに彼は俺の友人だった。その穏やかな気性と硬い信仰心を尊敬していた。それなのに……。俺の頭の中にある、よき友人であった彼の姿と、今目の前で拷問具を手に俺の愛しい人を縛り上げ生徒のひとりを洗脳して微笑む彼の姿は、どうしても同じ人物のものとは思えなかった。ああ、神よ。どうか、どうか目の前の人は、悪魔が化けた姿だと言ってください! 思わず俺はそう叫ぶも、目の前の怪神父は薄い唇を引いてくつくつと笑うだけだった。

「私は正真正銘、私ですよ。さあ共に、欲のない世界へ行きましょう、ロト───」

彼に手首を、掴まれる。その手の冷たさと、見た目に反する力の強さは……ああ、言い表しようもなく、恐ろしかった。まるで死神に掴まれたように、その手は死人のように骨も凍るほど冷たく、その細長い指の力は俺を地獄へ引き摺って行こうとする刑吏のように強く抗い難かった。耳を通して脳に滑り込んでくるレライ神父の柔らかい声は、もはや俺を死の恐怖へと駆り立てるだけだった。ああ、埋まっていく。俺の脳が、恐怖と混乱とで蹂躙されていく。ヘクセが何事かを叫んでいるが、もう頭の言語を理解する機能が馬鹿になって上手くその意味を捉えられない。こわい。こわい。目の前の狂った神父が怖い。離してくれ。これ以上何も囁かないでくれ。ヘクセに、何もしないでくれ。どうかその口を、閉じてくれ!俺は叫びながら、半狂乱で暴れた。もうなにもかもめちゃくちゃだった。俺は赤子のように、何も分かっていなかった。とにかく、この腕を、恐ろしい死神の腕を、振り払おうとした。振り払おうとした、だけだった。自分が右手に、何を握っているかも忘れて。


 「……え?」

レライ神父の、間の抜けた声が耳に届く。次いで、俺の顔に何か生暖かいものが掛かった。

状況を理解する前に、グズリーの地を引き裂くような悲鳴が上がり、ヘクセの驚愕に目を見開いた顔が目に入る。彼の顔は、何か、赤い液体が飛び散っていて。

「ぁ、あぁああ、殺しやがった!こいつ、神父様を、殺しやがったぁああ!!!」

グズリーの悲鳴に、やっと目の前の光景にピントが合う。認めたくない現実が、そこに転がっていて、俺は思わず顔を覆う。

教会の床にはレライ神父が、血を流しながら倒れていた。その顔は驚愕の表情で固まり、あの恐ろしい硝子玉のような瞳は宙空で固定され……包帯で覆われた方の眼孔に、深々と、ヘクセの装飾ナイフが突き刺さっていた。俺は慌てて、ナイフを彼から抜く。それも、無駄なことだった。レライ神父は悲鳴ひとつ上げなかった。ただ、ナイフから血が滴り落ちるだけだった。

「……その深さだと、脳まで到達してしまっただろうね。息も、していなさそうだ」

縛られたまま身を起こしたヘクセは、震える声でそう言った。彼は三度深呼吸をすると、冷静な眼つきであたりを見回した。

「人が来る様子は、無さそうだね。恐らく僕たちが暴れるのを見越して人払いをしてあったんだろう。……こう言うのもなんだけど、好都合だった。目撃者は僕と、グズリーしかいない」

俺は荒い呼吸をなんとか整えながら、ヘクセの冷静に過ぎる言葉にぞっとした。今目の前で人が死んだというのに、彼はどうしてこんなにも冷静なんだろう? 礼拝堂で、神の御前で、神父を、教師を殺してしまったというのに? 彼は、こんなにも血の通っていない人間だったというのか? いや、そんなはずはない───俺はもう一度ヘクセの顔を見て、その美しい顔が青ざめ、唇が震えていることに安堵した。彼は恐怖を押し殺して、この状況をどうにかするために務めて冷静に振舞っているだけなのだ。

「……どうしよう、俺……」

俺も、冷静にこの状況に対処しなくてはならない。そう思うのに。口から出たのはそんな情けない嘆きだけだった。今更ながらに吐き気が込み上げてきて、次に何か話したら胃の中のものを全て出してしまいそうだ。そんな俺を見越したのか、ヘクセはただ一言縄を解いてくれと言った。俺は言われるがままに、血の付いた装飾ナイフで彼の縄を切る。何も考えたくなくて、ひたすらに無心で硬い縄に刃をこすり付けていると、ほんの少しだけ心が楽になった。やがて縄が切れて両手が自由になると、ヘクセは真っ先に俺の背をさすってくれた。

「……大丈夫、大丈夫さ。僕が、なんとかしてあげる」

俺の背をさすり、優しい声を掛けながら、ヘクセはちらりとグズリーに視線を向ける。俺もまたその視線を追いかければ……グズリーは、有り体に言えば、発狂していた。大粒の涙を流しながら頭を掻きむしり、自らの髪を引きちぎり、獣のように荒れ狂い、礼拝堂の壁に体をぶつけていた。その姿はまるで、目の前で信仰する神や愛する配偶者を惨殺された者のようで……。それがレライ神父に魅入られた者の末路であり、あのままでは自分達もああなっていたのだと、俺達はふたり揃ってぞっと身を震わせた。もはや妖神父は甘い声で囁かず、あの無間地獄を閉じ込めた硝子玉のような瞳も、今ではただの白く濁った球体だ。もう彼の水精の声に操られる危険はない。なれば今一番恐ろしいのは……俺の身に降りかかった、殺人の罪である。

「……正直に、告白するしかないだろうな」

俺は自分の掌を見つめながら、そう呟いた。掌はレライ神父の血液で真っ赤に染まり、ぬるぬると気持ちの悪い感触で支配されていた。俺はこの手を、犯してしまった罪を、隠しおおせられるのだろうか?いや、俺は馬鹿だ。どうしようもなく馬鹿で、隠し事などできる気がしない。ならば正直に告解し、この身を裁いてもらうのが一番いいのではないだろうか。

しかしヘクセは静かに首を振り、俺をそっと抱きしめた。

「いいや、そんなことをすれば、君の人生は狂ってしまう。君はとってもいいやつなのに、一生人殺しの汚名を背負ってしまう。悪いのは、狂気に呑まれて僕たちを傷つけようとした、レライ神父じゃないか……大丈夫、彼のお膳立てが、全て僕たちに有利に働いてくれる。全てを、闇に隠してしまおう……そのために僕は、悪魔にでも、魔女にでもなるよ」

ヘクセは呆然とする俺の頭を撫で、母が子にするように口づける。額に掛かった、その息が……なぜ、興奮に熱く湿っていたのかを……俺は努めて、考えないようにした。


 俺たちはレライ神父の死体を、森の中へ隠すことにした。

俺たちが思うよりも時間が経過していて、外はすっかり真っ暗闇になっていた。元々人気のほとんど無い第四礼拝堂とその周辺の森は、夜闇に閉ざされ更に不気味に見える。しかし、今はそれが、俺たちを守ってくれる。神からも人からも、俺たちの姿を優しく覆い隠してくれる。

「……こんなもので大丈夫そうだね。お疲れ様」

庭師の用具入れからこっそりと大きなスコップを拝借し、それで森の奥深くに深い穴を掘り、そこにレライ神父の死体を、俺達は凶器のナイフと共に埋めた。随分と深く掘ったので、雨や迷い犬に掘り返される心配も無いだろう。礼拝堂の床やベンチに散った血も、残らず拭きとったはずだ。発狂したグズリーも、俺が頭を殴って気絶させた。……事は、思ったよりも早く済んだ。そのことが、殺人の隠蔽などという恐ろしいことをこんなにもスムーズに成し遂げられてしまう自分が恐ろしくて、俺は今にも叫びだしそうだった。今すぐ告解室に飛び込んで、一切合切を打ち明けてしまいそうだった。そんなことをすれば、今の骨折りが全くの無駄になるというのに。

「そんな不安そうな顔しないで、大丈夫だよ」

やさしい手のひらが、俺の冷え切った硬い手に触れる。ヘクセの百合のように白い手が、俺の汚れてしまった手にそっと触れていた。花に留まる蝶のように軽やかなその手のぬくもりに、俺の心を気遣うようにふわりとかけられたヘクセの微笑みに、俺の胸の中で何かが決壊した。堰を切ったように、ぼろぼろと涙が次から次へと俺の目から零れ落ちてくる。拭っても拭っても、収まる気配がない。そんな情けない俺の背をさすり、ヘクセはやはり優しく俺に笑いかける。清らかな天使の笑みが、目の前にあった。

「大丈夫さ、僕にいい考えがあるんだ。……僕を守ろうとしてくれた君を、鉄格子の向こうに渡しやしない。僕が絶対に、君を守ってあげるからね」

俺はヘクセにまるで幼児のように手を引かれ、しんと静まり返った寮への道へ歩を進めた。「清らかであれ」と願われたこの学園の純白の制服は、ひどく汚れが目立つ。レライ神父から飛び散った血も、死体を埋めた泥汚れも、決して取れはしないだろう。

「その制服は、もう捨てるしかないね……。替えの制服はあるかい?」

俺は力なく頷いた。もう一組、クローゼットに予備が入ってはいる。制服の汚れで、怪しまれることはないはずだ。それを聞いて、良かったとヘクセは呟く。

「幸い、君のお陰で僕はそんなに汚れていない。僕が寮監を誤魔化すから、君は急いで部屋に入るんだ。それで……大人に何か聞かれたら、今夜は図書室で本を夢中で読んでいて遅くなってしまったと言うんだ。いいね?」

俺は唇を噛み締めながら頷いた。ああ、俺はまたヘクセを頼ってしまう。闇の中にある彼を、頼もしいと思ってしまう。俺は彼を……救いたかったはずなのに。逆にまた、こうして守られている。悪魔である彼、魔女であるヘクセに。それは何と、情けないことだろう。

「君は何にも、悪くないさ」

ヘクセは俺に背を向けたまま、歩みを止めないまま、そう言った。

「寮に帰ったら……うん、ふたりでシャワーを浴びようか。それで……一緒に寝よう。君はきっと寝付けないだろうから……僕が疲れさせてあげるよ」

ヘクセの表情は、夜風にふわりと舞った長髪に隠されて、見えなかった。

ただ、俺の手の中にある細い手だけが……熱く、炎のように火照っていた。


 俺は、人を殺してしまった。そしてその罪を、今も告白できずにいる。

あの悪夢の夜から、三か月が経った。レライ神父の突然の失踪は、あの後学園内で少なからず事件になったものの……今ではもはや、半ば忘れられかけている。信心深い神父だと言ってはいても、皆どこかであの異貌を気味が悪いと思っていたのだろう。彼が消えたことに安堵すらするような雰囲気をそこかしこで感じ、俺はその度に激しい嫌悪に包まれた。けれど、俺は何も言えない。ただ気持ちを押し殺して、この胸の中に罪を秘めるだけだった。

 グズリーの存在も、問題にはならなかった。彼は未だ狂気の中にあり、“妄言”を繰り返すだけの異様な精神状態にあるとして、遠方の精神病院へと送られた。彼の部屋から薬物も発見されたらしく、元々の素行の悪さもあり、退院と同時に退学処分になると風の噂で聞いた。

そして、俺たちは。

「やあ、ロト。今日も難しい顔だね。そんなにしかめっ面をしていては、皺が取れなくなってしまうよ」

俺たちは、何も疑われることもなく、平和な生活を送っていた。今も白いガゼボのベンチに腰掛け、優しく微笑むヘクセの姿は、たった今天国から降りてきたかのように清らかで。……とても、俺と一緒に死体を埋めた少年とは思えなかった。彼はアップルパイを食べながら、俺に手招きをしている。口の端に食べかすが付いているのが、なんだか可笑しくてかわいらしかった。俺は誘われるまま、彼のいるガゼボへ入りこみ、隣へ座る。アップルパイの香ばしく甘酸っぱい香りと、彼の纏う薬草と蜂蜜の香りが混ざって、嗅覚から俺を夢心地に誘う。彼の隣にいると、甘美な気持ちになってあらゆることを忘れてしまいそうで、俺はそれが怖かった。天使であろうが悪魔であろうが、彼の周りには常に楽園があるのだ。

「言っただろう。何も、心配することは無いと」

耳元でそう囁かれ、俺はびくりと肩を跳ねさせる。子兎みたい、とくすくす笑う彼の顔は、やはり、美しくて、可愛らしい。それしか思えない自分自身が、恐ろしかった。彼は俺の罪を隠すために、どんな魔術を使ったのだろう。俺の知らない闇が、彼の中にはまだ隠されているのだろうか。俺の手の届かない、暗黒の貌が。

「……」

それでも、俺はやはり彼に強く惹きつけられていた。天使であった彼に差した影は、しかし彼を醜くはしていなかった。天使と悪魔、綯い交ぜの美。聖性と魔性の入り乱れる、ヘクセの二つとない美貌……。完璧な天使であったヘクセの残虐な嗜癖、邪悪な闇を垣間見てますます、彼の纏う美しさは増していくようだった。天使の皮の下に隠されていた、黒々とした醜い肉。俺は、それを見たはずなのに……あの日、ヘクセに救われた日よりも、完璧な天使であるヘクセをただただ離れて信仰していた日々よりも、俺はよりヘクセを深く愛していた。それは親近感、とも違う。秘密を知った優越感、も何だか違う。それでは罪を共有する背徳感?彼の嗜癖を暴いた、征服の悦び?それとも彼に隣と体を許された、恋と肉欲の悦びか?いいや、そのどれとも違う。……あるいは、その全てであるような気がする。なんにせよ……俺の心は、ヘクセから離れられないだろう。もし、彼がこの先、どんな罪悪を犯しても、どんな悪事を囁いても、俺は彼に失望することができないのだ。彼は俺の恩人であり、恋人だ。それだけは、永久不変の事実なのだから。

「今日の夜、開けておいてくれるかい。……また、血が見たくなっちゃった」

少し恥ずかしげに囁かれたその誘いに、俺は一も二も無く頷いた。快い返事に頬をほころばせるヘクセとそれを笑って見下ろす俺の姿は、外からは仲睦まじく微笑ましい恋人たちの語らいに見えるだろうか。そうであってくれれば、嬉しい。


俺たちはこうして、天使の皮を被り続ける。

この聖なる学び舎の暗がりに、おぞましい罪を隠したままで。



-fin-


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