潮騒
夜を通して歩き続け、朝を向かえ、白んだ空を仰ぎ見て、静かに絶え間なく耳を打つ潮騒に耳を傾け、海辺の砂上をただ只管進んでいた。行く当てもない旅に出て、随分と日が経っている。旅装束に身を包み、次の目的地に思いを馳せ、朧気に地平に目を向けながら海岸を行くと、波打ち際に潮が立てた泡を抱いた、稚児程の奇怪な屍骸が見当たった。
一目で総毛立ち、それが忌わしいものだと直感を得るが、辺りにはおれしかおらず、恐る恐る足を進ませ、横たわる屍骸を杖で突いた。生きていられては堪らない、それは明らかに人では無く、魚でもなく、両者の特徴を持ち合わせた姿をしていた。下半身には鱗と巨大な鰭がつき、上半身は痩身の果てを行くような骨身。鱗と人肌が混じりあい、青白い皮膚には滑り気が残っている。頭は坊主に近く、産毛が有り、顔面の大半を占める巨大な口には針のような歯が隙間無く並んでいた。どうやら既に事切れて久しいらしく、その体は硬く強張り、海から打ち上げられ死した魚と変わりは無いように思われた。
おれは旅の地で耳にした人魚の伝説を思い出す。かの肉を食らわば、人は死ぬ事のない永遠と若さと得られる、といった話だ。所詮は噂よと高を括っていたが、この奇怪な生き物を前にしては聊かそれもただの噂だとは言いがたく思える。
だが、このような気味の悪いものの肉を簡単になど食らえる筈もない。おれは暫く手にした杖で押し、それの体の向きを変え、仔細に眺めるうち、右下腹に深い噛み傷があるのに気がついた。青白く透けた皮膚から覗く肉は意外にも桜色で美しく、中に覗く肝は若葉に似た鮮やかな緑に染まって弾力が有り、艶かしい光沢があった。おれはなぜかそれから目が離せず、とても美味そうに思えた。
唾が口の中で溢れ出し、湧き出す食い気にあがなえず、遂には我慢を越え、おれはそれを口にした。両手で掴みあげ、傷口に食らいつくと、えもいわれぬ味が口の中に広がり、それを食らう行為を止める事ができなくなっていた。硬さを想像していた骨は柔らかく、鱗や鰭すらも容易に噛み砕く事ができた。気がつけば日が随分と昇り、それを丸ごと一匹、残さず綺麗に平らげていた。
砂だらけの口、歯には産毛が絡みつき、口元や体には薄い鱗や肉片が付いている、それを目にしておれはどうかしていたのだと気がついた。全てを払い落とし、塩水で口元を洗うとこれ程にも時が立つ間、なぜ誰一人おれに気がつかぬのだとおかしさに気が行った。
急ぐようその場を後にすると、近場の村へと足を進め、村の男に話を聞くと、その男は面を歪め、朝歩いた海辺は村の人間ですら容易に足を近づけぬ恐ろしい忌地なのだと聞かされた。その海で何人もの漁師が海底に攫われ、帰っては来なかったと言うのだ。
おれは悔いていた、あの化け物は一体なんであったのか。本当に人魚なるものであったのか、そんなものを食らったおれは果たしてこの身を危ぶまずにいられるものかと。だが、その後何事も無く数年を経ると恐れも薄れてゆき、そんな心配など無用であったのだ、あれは何でもない、只の魚の奇種であったのだと、そう楽観していた。
数十年の時が流れた頃、おれは嫁を娶り、子をなして、いざ死を迎えようとしていた。寝たきりで病魔に襲われた、そんな状態の中、海岸の潮騒の音揺れの中で、目にしたあの化け物について思いを過らせていた。老いは確実におれの身に訪れ、死はそこまでやってきている。何も無かった、あれはきっと人魚などでは無かったのだ。しかし、おれはこれで良かったのだとも思っていた。こうして歳をとり、愛する者たちに囲まれて逝く事は、それはそれで幸せである。とうとう自身の心臓の鼓動が弱まり、死ぬのだ、終わるのだなと己で覚悟をした時、どこからともなくあの潮騒の音が耳元で鳴り始めた。そこに奇妙な音が加わり、やがておれの意識は宵闇に落ちた。
目を開く、と、そこにはおれの死体が横たわっていた。なんだ、何が起きた、おれの死体に嫁が泣きついている、しばらくおれはそれを呆然と眺めていた。嫁はやがて、ひとしきり泣き終えると今度はあんたが父ちゃんの変わりにがんばらなけりゃならないんだよとおれに言った。そこでおれは自分の身体が若返っている事に気がついた。いや、違う、これはおれの息子の体だ。
おれはおれの肉体が死んだ時、息子の身体に入っていた。それだとおれの息子の魂はどこに抜けたのか、それは解らなかった。おれは息子の魂を犠牲にして息子の体を得たのだ。こんな事が起こる理由はあの化け物の肉を食らった事が原因に違いない。だが、これが不死身だと言えるのか、おれが想像していた不死とは随分と違っているではないか。
それでもおれは結局、嫁に真実を話す事無くこの体でもう一度の人生を楽しんだ。そして新たな嫁を娶り、子をなして生命を終え、次の人生を歩む、そうして長い時間を過ごしている内、おれの精神は徐々に削られていった。おれが精神を十度程入れ替えた頃だったように思う。過去の記憶は徐々に薄れ、薄ら寒くなるようなあの奇怪な化け物がうようよと棲む、海底の記憶が徐々に夢として現れ始めたのだ。
その化け物は夢の中で思い出す事も憚られる、深海の不気味な軟体生物と海底の穴倉の中で共に共生していて海に流れ行く人間や様々な魚をその鋭い歯で食らっていた。どうやら人の肉が気に入っているらしく、時折、浅い海に群れで上がってきては人を攫い、海に沈めて食料にしていた。そいつらはには目が無く、巨大な口だけが頭の顔にあたる場所についていた、言葉を話すことが無い変わりに、歯を鳴らして御互いに連絡を取り合っており、群れで歯を鳴らしあいながら自分達の何倍も巨大な獲物を追い込み、貪欲に食らいつく、そんな生々しい夢が徐々にはっきりと見え出したのだ。
やがておれが生ませた子に恐るべき変化が起こり始めた、きまってそれらは双子で、体が交じり合い、時折水掻きのような鰭が指の間にあるもの、歯が通常とは違うものが通常の人間と変わりの無い子に融合した形で産まれ始めたのだ。
おれは決心した、止めなければならない。これ以上精神を生きながらえさせた所で、向かう先は破滅しかないと、そう気がついたのだ。徐々に体を入れ替えるうちに、おれは確実にあの化け物に近づいている。海に親しみが沸き、海から離れた土地に住むことができなくなっていた。海から遠く離れると耳鳴りがおき、凶悪な頭痛に苛まれるのだ。おれ自身、生きている間やりたい事などもう、当にやりつくしてしまった。これ以上行き続けることなど意味が無い。そうしておれは子を作る事を止めた、だが、それも遅すぎた。その時には既にもう、おれの半身はあの化け物に乗っ取られていたのだ。
その頃から見ず知らずの女に唐突に好意を表される事が多くなった。おれが断ったとしても、記憶が抜け落ち、気がつけば女は子を成していた。やがて気を抜けば数日に一度、半日程の時間の記憶が抜け落ちる頃に達すると。おれは親族同士での行為を進めるようになっていた。より濃い血を残すために、一刻も早くあの化け物の姿に戻るために。
おれは最後の持てる精神力を振り絞って乗っ取られる事を押えきり、一族郎党全てを殺しきる事に決めた。おれは親族を片端から殺し始めた。そうして解りうる限りの親族を両手で数えられる程に減らす事に成功した頃、既におれは何度、精神を入れ替えたのか憶えられなくなっていた、だが、このままではおれはあれに混じり合いきっと消える、それだけは解っていた。どうせ消えるならば、自身で消える道を選びたい。
だが最後の一家族まで親族を減らし、自分の子を殺そうと何度もあがいたが、何かにその度に阻まれ、結局功を成す事は無かった。
遂にはおれが生ませた息子と娘が交わり、子を生んでしまう。生んだ子のあの化け物に恐ろしい程似た姿を確認した時、おれのその時の妻は気を狂わせた、俺はその隙を見て娘の首を絞め、殺しにかかる。だがその間に息子に赤子は攫われ、娘は歯を鳴らしながら笑い、事切れた。
息子の姿が消え、随分と長い間息子の行方を捜した。だが一年が過ぎ、二年が過ぎ、徐々に時が過ぎ行く内、おれのなかで膨れ上がる夢がおれの精神を押しつぶしていった。夢がおれの中でより具体化するうちに、日が落ち、母屋が暗闇に包まれ、潮騒を耳にすると家中にあの化け物の気配が濃厚に現れるようになったのだ。
目に映らない奴らの気配は常におれの周りに現れ、歯を鳴らす乾いた音をしきりにおれの周りで繰り返す。今のおれにはその意味が解っていた。
帰れ、帰って来い、故郷に帰るのだ
幾日も幾日も同様の事を経験する度に精神は削られて、最後にはおれの精神は破綻した、このまま混じり合うくらいならば狂った方がましだと気を緩めた時、これまでの数百年の記憶が薄れ、一度目の死が訪れるあの時の記憶が浮かび上がり、未だ嘗て経験した事のない輝きに包まれ、おれの意識は消えた。
気がつけば、おれの耳にあの潮騒の音が聞こえてくる、それと同時に何かを打ち鳴す乾いた打音が鼓膜を打ち始めた……
カカカ…… カカカ……