幻肢
妊娠を知り一月が経った頃、就業中、耳元でカカカと乾いた打音が響き、突然パソコンのモニタ画面がガタガタと揺れ出した。キーボードの上で動かしていた手を反射的に止め、パソコンを押さえつけると辺りを見回す、すると今度はデスクの上のコーヒーカップがひとりでに飛び、床に落ちて粉々に砕けた。少し硬直するけれど、私自身には何も起こらない。けれど、何か途轍もなく厭な予感がした。これまでにも何度かこういったことがあって、その度に私か、そうでなければ父に異変が起きていた。私に何も無い以上、父に何かが起こったのかもしれない、そう感じて私は即座に自宅に電話をかける。けれど父は電話に出る事はなかった。冷たい汗が背筋をつたう、これはきっと、父に何かが起きているんだと私は確信する。慌ただしく立ち上がると、すぐに上司に体調が悪いので帰宅させて欲しいと伝え、顔色を見た上司から許可をもらうと、私は急いで自宅に向かった。
私が家に辿り着いた頃、父は既に玄関の框に倒れ込み、息をしていない状態だった。ああ、なんて事。混濁寸前の意識をどうにか正常に保ち、救急車を呼び、父の回復を祈る、けれど辿りついた救急隊員から告げられた言葉はこの状態から生命を取り戻すのは難しいという、私の希望を砕く厳しい言葉だった。
それでも私は諦められず懇願して、父を病院へと運んだのだけれど、結局父の呼吸は戻らなかった。告げられた死因は急性脳溢血、医師は頭の中で漏れ、染み出した血が脳の働きを阻害させて、生きてゆくのに必要な細胞を決定的に壊してしまったのだと感情の無い声で私に言い放った。
膝が落ちる、どうしたらいい、どうしたらいいのと私は自分を失って医師に縋りついていた。何も考えられなくなって、気がつけば目の前に警官が立っていた。なぜ警察が呼ばれているのか、私が彼等に何を話したのか、全く思い出せなかった。
時間が経ち、本当に父が死んでしまって今私はその後の手続きを行っているのだと認識が追いついた時、警官の男性に自宅で死亡した場合は不審死の可能性があるために医師の死亡診断書ではなく、警察による検案書が必要なのだと説明された。後から考えると私が父を殺したのだと疑われているようで腹が立ったけれど、その時は考える余裕が無かった。
私には父以外親族は居ないも同然だった。私が生まれた頃、父は何かの原因で親族から絶縁されたのだと聞かされていた。いつか聞こうと思っていたのに聞き難い事柄なだけに中々聞くことができなかった、そして遂に父が生きている内に詳しい内容を聞く事はできなかった。だから私は一人で父を弔った。葬儀社に連絡をつけ、本当に簡素な形式上での葬儀を行い、火葬を済ませた。数日前まで確かに存在していた父が灰に変わるのを目の当たりにして、本当に魂が抜けてしまったようになにもできず数日を過ごした。私に残されたのは一人では余りある大きな家と、自身の心中を占める父の存在の大きさが予想以上だったという事実、巨大な喪失感だった。私は幼い頃からずっと父の手一つで育てられてきていた、父がいたからこそ私はここまで生き抜く事ができていたんだ。
このままでは私は駄目になってしまう、そう気がついたのは父を火葬してから二日が過ぎようとしていた頃だった。父との思い出に溺れ、何もせずにただ佇んでいてばかりはいられない。それにもしかしたら、私と一緒にいてくれるこの背中の母と同様に、父も私の背についていてくれるのではないかとそう思って、体を奮い立たせた。私は思い起こす、初めて背中の母の存在に気がついたのはいつだったのだろうと。
物心ついた頃には既に家族の席に母は居なかった。幼い頃、父の運転中の事故で母は亡くなってしまったのだと私は父に聞いていた。その時の傷が私の背中と肩、わき腹周辺にもある。何針も縫ったのだろうなと解る程に引き攣れた傷が体に残されていた。それが学生の時代、嫌で嫌で堪らなかった。傷が晒されるたびに、極度の恐怖が走った。幼い頃の私達はいつも自分とは違った外見や性格には敏感で、もし特殊な部分を曝してしまった時、少しでも隙を見せてしまえば確実に私は、クラスの友人という円の中から外されてしまうから。だから私は必要以上に明るく、気丈に振舞って身体の傷の事も笑って開け広げにして見せた。そんな私を友人達は強いんだね。きっと私達だったら耐えられないよ、だとか、自分もあなたの強さを分けて欲しいな、なんて私に言って笑って迎えてくれた。けれど、私は気がついていた。そんな私を影で継ぎ接ぎの怪物、フランケンシュタインに擬えて笑っていた事を。だから私はかつて、自宅と学校では全くの別人だった。家では悔しさと自己嫌悪から抜け殻になり、学校では明るく活発な自分を演出する。そんな日々を続けていく内に、私はすっかり疲れてしまった。気の抜けない緊張生活を何もなく長く続けられるはずがない。父は仕事に忙しく私の相手をしている暇など無くて、友人にも隙を見せる事ができない、張り詰められた糸がついに切れようとしていた。そうして追い詰められた私は、とても情緒不安定になって、ある日不意に飛び降りたくなった。どこか友人達の眼に触れられない場所で、飛び降りたかった。何故ならばこれ以上醜い私を見られたくなかったから。
電車を乗り継いで名前も知らない町で降りる。とても寂れていて廃屋ばかりが目立つ町だった。所々に煤がこびり付き、灰色で時代に取り残された風景、ゆっくりと歩いていると目の前に、巨大な生き物の屍骸に例えられてしまえるような、コンクリートの骨組みだけの崩れかけたマンションに気がついた。屋上にはフェンスは張られていない、あそこなら簡単に飛び降りられる。そう思い、私はたわんで錆付いた鎖を乗り越えて草の生えたコンクリートを蹴り、崩れかけた階段を一気に上ると屋上へと入り込む。そこは赤茶け、さび付いて穴の開いた貯水槽が横たわっていて所々コンクリートが腐食して穴が開いていた。下から見上げた通り、屋上の縁にはフェンスも何もついていなかった。
色が変わり、煮崩した豆腐のようになっているコンクリートの淵に立つ。そして私はゆっくりとその上を歩いた。私の人生、つまらなかったな。お母さんが生きていたなら頑張れたかな。そんな事を考えていたと思う。正直に言えば私はその時の事を余り憶えていない。ただ、印象深く憶えているのはそうして歩いていた時、突然足元が崩れ、体が重さを失ったという事だった。横倒しになった私はお腹を淵に打ち付けて、そのまま下へと落下するはずだった。
けれど何故か私は落ちなかった。背中から伸びた見えない手が崩れかかったコンクリートの中の露出した鉄筋を掴んで私を空中で留めたからだった。
何故それが手だと認識できたのだろう。多分背中の一部分の筋肉が何か引っ張られているような感覚をその時に感じていたからなのだと思う。私が始めて母を認識したのはその瞬間だった。やがて私は浮き上がると屋上に戻された。私を守ってくれている誰かがいたんだ。それに気がつくとこれまでに何度か不思議な事があったのだけれど、その全てに理由をつけられる事に気がついた。
例えば、石を投げられた時、何故か私の目の前で軌道が逸れてしまったり、車に轢かれそうになった時、体が後に引っ張られたり。思い起こせば幼い頃から私はこの手術痕以外、体に傷を負う事が一度も無かった。
それからの私は変わった、独りじゃないんだと知ったからなのだと思う。友人の陰口も気にならなくなり、どんな暴力にも屈しない自信がついた。なぜなら私は文字通り守られていたのだから。私は辛い時や悲しい時、背中の母に話しかけた。何日も何日も、そうする内にいつしか母は私に合図を送るようになってきた。歯をカチカチと素早く鳴らすと出るようなカカカという音。
それは母が手を使う時の合図だった。その合図があった時、私に危険が起こるか、父に何か起きた時だった。そう、何故か父の危険も後ろの誰かが私に知らせてくれる。だからこそ、私は背中の誰かがきっと母なのだと確信している。合図が聞こえるようになって数ヵ月後、私自体には何も危険が無いにも拘らず、カカカという合図の後、校舎のガラスが思い切り割られた事があった。学校の授業中、見えない母の手がガラスを叩き割ったのだ。なぜなのかと私は母に聞いたのだけれど、その答えは返らない。学校を終えて自宅に帰ると、丁度合図を受けた時間に父が足を骨折していた事を知った。
それからは随分と母に救われていた。それなのに、今回私は知らせを聞いていながら、父の危険を知っていながら助ける事ができなかった。遅すぎた、もっと近い会社に就職するべきだったのに。だけど、もう遅すぎる。父は死んでしまったんだ。
でも、私は生きていかなければならないんだ、たった一人でも。お腹の子を生んで育てて行かなければならないのだから。私は重く、だるい体をどうにか動かして父の部屋を片付ける事にした。まだ遺産手続きなども済ませてはいない、やるべき事が数多く残されている。それに父の思い出が詰まった部屋、もしかしたらそこに私の記憶に無い母や親戚の存在を明確にするものや私に宛てたメッセージや遺書などが残されているかもしれない。そうして私は部屋へと向かい、父の遺品を片付け始めた。そうしている内に父の文机に触れた時、ある事を思い出した。生前父はこの文机を愛用していたけれど、一つだけいつも鍵をかけて厳重に閉じていた抽斗があった事を。私は父が死の際まで身につけていた遺品の中に小さな鍵が存在していて、それがこの抽斗の鍵なのだと今更ながら気がついた。
私はすぐに鍵を取って部屋へと返ると早速鍵を開け、抽斗を引いた。そこに残されていた物は三枚の写真だった。二枚の別々の女性の写真、それと赤ん坊の写真だ。私はその写真を見て、私がこれまでとんでもない勘違いをしていたんだと気がついた。
赤ん坊の写真、そこに写されている赤ん坊は畸形だった。赤ん坊には四本の腕、三本の足、その上肩には頭が二つ付いていた。しかし、その頭は首から上が奇妙にねじくれていて、斜めに皮膚が裂けるように開いた口の上は何も無かった、目鼻も脳が有るべき部分も何も。写真の裏にはしっかりと私の名前が刻まれている。これは、紛れも無い、私だ……
私は急に恐ろしくなった。私が母だと思い込んでいたものは何だったのだろう、私の姉妹? 私を助け続けてくれる理由は? 父の危険を知らせてくれた理由は? けれど解っている事が一つある。彼女は私が生きるためにきっと、殺されたのだ。私の体から切り離されて。それでも魂までは切り離せなかった。それできっと私を守ってくれているのだろう。そう納得する事しか、今の私にはできない。
後の二枚の写真に写る女性についても私は知らなかった。恐らくどちらかが母なのだろう。父は思い出す事が辛いから写真は全て捨ててしまったと私に言っていた。だけれど、やはり父は一枚だけ母の写真を残していたんだ。その女性の一方を見ると、目元や輪郭が良く私に似ている。きっとこの女性が私の母なのだろう。裏には電話番号と住所が記されていた。もう一人の女性の写真の裏にも電話番号が記されている。この人達が誰なのか、父の人生に大きく関係している人達である事は間違いないと思う。私は私の出生と血筋を知るためには良い機会だと思って電話をかける事にした。
まずはわたしの母だと思われる女性の写真の電話番号に電話をかけ、しわがれた男性の声を聞く。彼は電話で私と同じ苗字を告げ、用件は何かと聞いた。私は自分の名前と父の名前、今回の電話の経緯と父が死んでしまった事を伝えた上で、私の母は何故死んでしまったのかと訊いた。
「何でお前はそんな事知りたい? お前の親はけだものだよ。本当の事知ったって良い事なんざありゃしないんだ」
「それでも、私は知りたいんです。私の母の事や、なんで父が家族の人達から絶縁されてしまったのか」
「そんなに知りたいのか……」
そのまま相手は黙り込んでしまう、私が口を開こうとすると、少し考えていたのか再び声が返ってきた。
「不躾で悪かった、だがね。どうにも俺も思い出したくないことも有る。お前の親父の事も、な。だが俺もばあさんも死ぬ前に一目孫に会ってみたい、だから明日、ここで会えんか」
「解りました。私もお爺さんやお婆さんにお会いしたいです」
私には願っても無い言葉だった、明日、祖父と祖母に会える。今まで願って止まなかった私の秘密に触れることができる。私は住所を聞き、それが写真の裏に記された住所と違いの無い事を知った。きっとそこが母の実家なのだろう。電話を切り終えると、私は再び、今度はもう一枚の女性の写真裏に記された電話番号に電話をかけた。
その電話に出た男性は日向と名乗って、父の名前を私が告げると急に黙ってしまった。少し間をおいて声が返ってくる。
「君は誰だ?」
「私は娘です。父の遺品を整理している内に、見ず知らずの女性の写真が見つかって、その写真の裏にそちらの電話番号が記されていたんです」
「すると、君は姉さんの……、そうか、君は姉さんの顔を忘れてしまったのか、尤も姉さんが死んだのは君がとても幼い頃だから、憶えていなくても無理は無い」
この人は何を言っているの? 私は幼い頃この女性に会っていたのだろうか。
「私をご存知なのですか?」
「知っているさ、姉さんの唯一の娘だからね。そうか、彼は亡くなったのか。君のお父さんはね。君がまだ一歳を向かえる前に結婚したんだ」
目が眩んだ、どういう事なのだろう? この写真の女性が私の母? 私に似付かないこの女性が。
「そんな、では、私は貴方のお姉さんの娘なのでしょうか」
「そうか、君はそれも知らされていないんだね、可哀想に。君は姉さんと血の繋がりが有るわけじゃないんだ。君のお父さんの連れ子だよ、君には戸籍が無かった。どういった事情からかは知らない、君のお父さんはそんな君に手術を受けさせるために病院に連れてきた。その時、君の呼吸は弱々しくて、きっと限界だったんだろう。けれどね、戸籍の無い人間に手術なんて受けさせられない。そこで僕の父が条件を提示したんだ」
「どういう事なんですか? 私は一体……」
「君が誰の子供なのか、それは僕にも解らないよ。けれど、君の体には相当無理がかかっていたのは間違いない、有るべきでない余分なものが沢山付いていたからね、そこで僕の父は末期癌で先が短い姉さんとの結婚を条件に出したんだ。幼い頃から病弱だった姉さんの夢が結婚だった。父はその夢を果たしてやりたかったんだ。勿論誰でも良かったわけじゃない、君のお父さんはね、その頃病院の近くに家を借りていた。僕の姉さんは数ヶ月間病室の窓から君のお父さんの生活する姿を見ていたんだ。そして君のお父さんに惚れた。当然父は反対した、僕もね。だけれど、姉の命はもう長くなかった、だから関係を姉が生きているだけ持つ、という条件をつけて姉さんと君のお父さんは結婚したんだよ。その時、君も晴れて戸籍を得た」
それでは私は誰の子供なのだろう、そこで私は先程の違和感の正体に行き当たる。私が母だと思っていた女性の連絡先、そこに繋いだ時、あのお爺さんは私と同じ苗字を名乗った、父と同じ苗字を、そう考えるとその写真の女性と父には僅かながら似ている部分が確かにある。おぞましさが私の体を這い回った、虫が身体の表面を這い回るような感覚。
「そんな、それじゃあ私は父さんと」
「姉さんが死んでその後は一度も君のお父さんとも会っていない、今でも解らないんだ、なんで姉さんは君のお父さんを好きになったのか、きっと死の間際になって心細くなったのかもしれない。もう、話すことも無いだろうけど、君と話せて良かった。そう言えば、そのカカカって歯を鳴らす癖、君もなのかい? 姉さんもあの頃、良くその癖を出していたからな。その度に癇癪を起こして花瓶や皿を割ってしまっていた、きっと死の恐怖に怯えていたんだろう。それでも君のお父さんといる時だけは穏やかだったよ」
「有り難う、ございました……」
私はそう言って電話を切ってしまった、今まで無理に結んでいた糸が全てばらばらに解けてしまっていた。私はきっと父の姉妹と誰かと父の子供なのだ。だから父は実家や親族からも絶縁を迫られたんだ。そんな事が有っても、なぜお爺さんは私に会いたいんだろう、歳をとって寂しくなったのだろうか。どちらにしても私は明日、父さんの両親に会う、そこで全てを訊き出さなければ。
次の日、私はタクシーに乗り、住所を提示して父の実家へと向かった。父の実家は私の家からはとても離れた、海辺の近くにあるらしい。寒々しい空、閑散とした海辺の横を走り抜けていると一人だけ男性が浜辺に座り込み、波を眺めているのが印象的だった。
やがて、ブロック塀にかこまれた純和風の邸宅に辿り着く。父の実家はとても大きくて厳かな趣を出していた。私は戸を叩いて来訪を伝えると、中から髪がすっかり白くなってしまって厳しい顔をしている矍鑠そうなお爺さんが現れ、私の顔を見て一瞬固まったように行動を止めた。
「やはり親子だな、似ているわ。お前を見るときっとあれらを思い出す。さあ、遠慮しなくていい、入りなさい」
「有り難うございます。それではお邪魔します」
お爺さんはそう声をかけるので、私は緊張しながらもお礼をいい、靴を脱ぎ、先を行く彼に続いて畳の居間へと足を進めた。
「今日はこんな所まで来てもらって悪い事をした、しかし、俺もあいつもももう歳でな、余り無理をできない体なんだ。それで、お前はどこまで知っているんだ」
「私が知っているのは、私がここで生まれた時、私には戸籍が無くて、きっと私は父の姉妹にあたる人の子なのじゃないか、という所までです」
「そうか、そこまで知っているのか。そうだ、お前の母親はな、お前の親父の妹だよ。全く大変な事をしてくれた。思えば、声帯が弱くて話せないあれに必要以上にお前の親父に世話をさせたのが良くなかった。だが、あの頃は俺も婆さんもそれどころじゃあなかった。生きてゆくのに必死でな」
そこにお婆さんが静々と現れると私の前とお爺さんの前、その横にそれぞれ御茶が入った湯のみを置き、お爺さんの横に座った。私が湯飲みを手にとって御茶を飲もうとすると、途端に私の手元の湯飲みが
飛んだ。それは壁に当たると砕け散った。
何が起きたのかと思い、壁からお爺さんに視線を戻すと。二人は暗い相貌で私を見つめている。
「やはり、忌むべき子だった」
「そうでしょう、だから言ったんですよ。堕した方が良いって」
「それは違う、堕せといったのはおれが先だ、だがなお前、何とかすると言ったのはお前じゃないか」
「私も何とかなると思ったんですよあなた。鬼灯を食事に混ぜたり、私も努力したんですよ」
「だがな、どうだ、それでも流れなかったじゃないか。一人は潰せたが、産まれて来たのは化け物だ」
「知りませんよ。私も試した事が無かったんですもの。でも良いじゃない、ここに戻って来てくれたんですもの」
私は何が話されているのか解らなかった。何で私の前でこんな話ができるのか、ただ、唖然としていた。
「俺達はな、お前の母親を説得したんだが、頑として首を立てには振らなんだわ、だからこいつに任せたが、それも失敗だった。結局潰せずお前の母親は自力でお前を生んだ、だがお前を生んですぐに逝った。その後は随分と世話を焼かされたんだ。こんな事、周りに知られるわけにはいかんからな」
「当たり前ですよあなた。あんな人でないものを生んだら誰だって助かりはしない、良かったんですよあの子も、その後の苦しみに比べたらあの時死んでおいて良かった」
「俺はお前を殺そうとした。どの道戸籍など無かった。殺したところで誰にも解りはしない、だがお前の親父はそれを拒んでお前を連れて逃げたんだ」
二人とも眼があらぬ方向を向いていた。狂っているんだ、そう気がついた。長い時間が少しずつこの人達を狂わせたのかもしれない、このままだと殺されてしまう、何とか逃げなければ、けれどそう考えていても足が震えて立ち上がれない。
「なあ、お前、死んでくれんか、俺達ももう長くない、とっくにお前は死んだものだと思っていたが、このままでは死にきれんよ」
「ねえ、あなた。楽に死なせてあげようとしたのに、湯のみ払われてしまいましたよ。行儀がなってない。少し痛いかもしれないけど、我慢して欲しいの」
二人が私に近づく、二人の手が私の首に伸び、指が触れる瞬間、合図がなった、見えない手が二人の喉を掴み、体を持ち上げる。喉に食い込んだ指の形がはっきりと確認できる。
「か、か。お前は、その歯を鳴らす癖、それはあれの」
「あ、は、は。あの子が戻ってきた、戻ってきたのね」
口から泡を洩して顔を青くした二人がバタバタと足を振る、そうしている間にも指の形が首の内側により深く食い込んでいっていた。やがて二人がうな垂れて痙攣を始めるとボールのように軽々と飛ばされ、襖を音をたてて突き破って奥へと消えた。と、緊張で動かなかった身体が動いた。襖の奥からずりずりと這いずる音が追ってくる、私は家から出て海岸線を走り、家から離れた。カカカカ、という打音が耳元でずっと鳴り続けていた。
それから二ヶ月が経った、父の両親にはあれきり連絡をとっていないし、どうなったのかも解らないし、知りたくも無かった。私はかつての家を売り払い、新しい家を借り、一人で生活を続けている。私のお腹は徐々に大きくなり始めていた。それにつれて合図が聞こえなくなり、手が現れる事も無くなってきていた。
私は知るべきではなかったのかもしれない、全てを知ったところで残ったのは後悔でしかなかった。私は父を愛していた、家族としてではなく、一人の男として。だからこそ父の死を知った時、私の喪失感は耐え切れないほどだった。けれど、お腹が大きくなるにつれて、何故か私の父への愛は薄まってゆくのを感じていた。なぜあれ程に父の事が好きだと思っていたのか、今ではもう解らない。
父への愛が希薄になるにつれ、恐ろしい事が私の頭の中を過り始めた、私の感情の流れは果たして本当に私が生み出していたのか、私の戸籍上の母であるあの女は本当に父を愛していたのだろうか、そして私も本当に父が好きだったのだろうか。もしかしたならば、私達は後にいる誰かに感情を操られていたのではないだろうか。そうだ、思春期の頃、合図が聞こえるように成りだしてから、私は急速に父の事が愛おしいと思い始めたのだ。
私の後にいたのはきっと私の姉妹などではない、父の妹だ。徐々に薄れていく私の後の父の妹、その理由がどこにあるのかと考えると恐ろしい。私は赤ちゃんは双子だと言う事を数日前、検査で知った。頭の中に不快な想像が浮かび上がる、私は父が亡くなった時期と、消え行く父の妹の存在を考えると私が産む赤ちゃんは本当に純粋な私の子供なのだろうか……