残雪
目の前には白銀の世界が広がっていた。森林限界を超えたため、自分の身長以上に丈がある木々の姿はもう見当たらない。二人でパーティを組み、綿密に組み上げた予定に狂い無く2400m地点まで達していた俺達は、なだらかな平原の中、張り出した巨大な岩の前に積もる雪をかき分け、雪洞を掘り下げていた。
その場は雪が深く、杭を固定させる事が難しい上に吹き抜ける風の勢いが強いため、テントを設置したとしても中にいる人ごと飛ばされてしまう危険があったからだ。降り積もったばかりの雪は簡単にかき分けることができ、それなりの深さまで達するのに、思う程時間はかからなかった。雪洞がある程度の形にまで整うと、携帯用ガス焜炉に雪洞の外で火を付け、小型の鍋型コッヘルにかき集めた雪を載せ火にかける。液化した雪にインスタントコーヒーを振り入れ、ブランデーを数滴混ぜた物をアルミ製のカップに注ぐと、俺と貝塚はやっと一息ついた。
ほぅとあげた息は、カップから立ち昇る湯気と交じり合い、ゆらゆらと揺れながら冷たく張り詰めた空気の中に溶けてゆく。
「ここまでは予定を狂わさず来る事ができた。明日はいよいよ頂上だ、尾賀」
隣に腰を下ろしている貝塚が、カップを手に白い息を立ち昇らせながら俺に話しかけた。
「ああ、いよいよだ。大学を卒業してからもう何年も経つが、俺達もまだまだ捨てたもんじゃあない」
「それはそうだろう、俺達はまだ三十代だからな、俺もお前も何の因果か営業廻り、体力には御互い自信を持っているだろう」
「確かにそうだな、だが俺もお前も登山同好会で鍛えた体が有るからこその営業だろ」
「そう言われると、営業やるために皆登山やっていたみたいじゃないか、それは間違いだぞ。俺やお前も不景気じゃなけりゃ他の職についてたはずさ。でもあの頃は後先考えず、何かにつけて山に出かけていたからなあ。体力のことなんぞ、考える必要もなかった。無駄に有り余る程あったんだからな」
「何で山岳部止めちまったのかねえ、俺達」
「わかってるだろ、あんな事が無けりゃ続けていたさ。こうしてあの時のままの山に登ってきたんだ、そろそろ俺達も過去を乗り越えなきゃあならない」
貝塚と会話を交わしながら、俺は大学時代の記憶を呼び起こしていた。大学時代、同期で同い年の俺と中村は山岳部に所属していた。高穂、八ヶ、白馬、剣、手当たり次第仲間と山に登った。人の侵入を拒む険しい山道を極め、山頂に立った時得られる感動は他では得がたいもので、そうした厳しい状況下で自然を克服した時、人を離れ、より大きな存在に近づけたような錯覚を抱く事ができた。すると、下の世界での出来事がとても遠い国で起きている事のように思え、人間同士の諍いが些細な事に感じられた。その達成感と感動を求めて山に入り、初登山時は慎重に足並みを揃えて登り、馴れた頃には登頂速度を競い合う。そんな日々を続けていた。
「そう言えば、雪山を登るのはあの日以来だったな」
貝塚がコーヒーを口にしながら俺から空に視線を動かし、ぼそりと呟くように言った。
「ああ、あの日以来だ。俺達が冬の山に登る事ができなくなった、あの日以来」
「なあ尾賀、俺達があの日に見たものは現実だったのか?」
「わからない、だがな貝塚。俺達は雪崩に飲み込まれながら奇跡的に助かった、その事実さえあればそれで良いじゃないか。もう二度とあんな事にはならないさ、いつまでも幻覚に悩まされているわけには行かない、克服しなけりゃならない。だからこそ俺達は今ここにいる訳だろ?」
「そうだな、坂下のためにも。あれから随分と経つが、花をそえてやる事も出来なかった。明日こそあいつのために、この山頂に花をそえてやらなきゃな」
貝塚はカップを持った右手を山頂に掲げ、湯気の上がるコーヒーの残りを一気に飲み干した。
七年前、俺と貝塚と坂下の三人はこの山の山頂を目指していた。夏の山とは違い、冬の山は倍以上に危険度が増す。雪に埋もれた山景は目印として憶えておけるものが少なく、足元も安定しないため滑落、遭難の危険が増す。そればかりか凍死のリスクも付いて来るからだ。
防備を固め、綿密に計画をたて、山を登り始めたその日は雲ひとつ無い晴天だった。思えば馬鹿な理由での決行だった。坂下の失恋が計画を立てた切っ掛けだったからだ。どこまでも恋人に対して真剣だった坂下にどうやら重さを感じたらしい彼女は遂にその冬、坂下をふった。
坂下は自暴自棄になり、死んでやるなどと口走るものだから、冗談交じりに俺と貝塚が山岳部たるもの、どうせ死ぬなら山の上で死ぬべきだなどと口上を述べたために、結果的に強引にじゃあお前らも付き合えと言われ、危険度が高い冬の山登りを決行する事になってしまった。
前日気落ちして暗い表情を浮かべていた坂下も、いざ山の中に足を踏み入れると普段の調子を取り戻した。俺達は意気揚々と、この分だったら思っていたより簡単に山頂に辿り着けるだろうなと言い合っていたのだが、二日目のキャンプが終わり、朝を迎えると予報とは全く違った空模様が顔を見せ始めた。
太陽が灰色の雲に遮られ、ちらちらと小雪が舞い始めている。それでも俺達は楽観的にここまで来たのならば一気に登頂を済ませてしまおうと登山を続行した。すぐに雪は晴れ、再び太陽が覗くと思っていたのだ。だが、それが拙かった、雪の上を二時間程歩いた頃、急速に辺りの景色が灰色に変わり、雪の勢いが増した。吹雪だ、吹雪が来るぞ。誰が先か、そう口を開くとすぐに景色が一変した。五分も経たずに強烈な風と雪が体を叩き始める。巻き上げられる地雪と、空から降り落ちる雪とが混じり合い、澄んで見通しの良い世界が、小麦粉を打ち撒けた視界、切りつける風音の騒々しい世界に変わった。
全てがおぼろげで方向感覚すら正常に保てない。俺達は一先ずかたまり合い、リング状のカラビナを御互いのベルトに付け、ロープを繋いだ。この雪の中で離ればなれになってしまえば御互い、二度と生きながら再開する事が出来なくなるかもしれない。
動く事も良くない、ただ、場所が悪かった。そこは尾根の下に広がる扇状の山肌で扇の要に位置するような場所だった。もし何かの拍子に雪崩でも起きたら三人はきっと助かる事は無いだろう、それが簡単にわかるほどの悪所だったのだ。俺達はなんとか、吹雪の中目を凝らし、尾根筋の方向を見上げ、遠くに見える黒い岩肌を確認しあい、這うようにして進んだ。
極寒の雪原をじりじりと進むが、どうにも距離は伸びて行かない。自然と呼吸が荒くなり、凍結作用を防ぐ自衛反応から瞳の潤いが増し、視界が滲み出す。先に見えるのは雪ばかりで先程目標にして進んでいた黒い岩肌も何時の間にか見失っていた。防備した服の中、背中に冷たい汗がつたい落ちた。
「おい、目標を見失った。どっちに進めばいい?」
「解らん、俺にも解らん、とにかく上だ、上に向え」
「これは、拙いんじゃないか、俺達、死ぬのか」
弱音が一旦口から出ると俺達は口々にそんな事を言い合っていた。
「動くな、聞こえるか、地鳴りだ」
貝塚が先に音に気がついた。風の音以外、何も聞こえなかったこれまでと打って変わり、地面の奥底から鳴り響く、重く低い音が尾根の方角からこちらに向かい、流されてくる。やがて微弱な振動が体を揺らし始めた。
「雪崩だ、どうする、どうするんだ」
「走れ、走るしかない、ここにいたらどの道助からんぞ」
坂下の言葉を遮って俺はそう大声を上げた、それを期に俺達は三人、必死に走り出した、だが、雪の上をそう簡単には走れはしない。尾根の方角を見上げると、強烈な存在感を纏い、濃厚な白の波が雪の飛沫を上げて重低音と共に俺達に迫りつつあった。
最初に誰が足をとられたのか、解らない。一人が雪庇を踏み抜いたのか体勢を崩し、山肌を転がり落ち始めると、俺達は三人ともロープで引かれ合い、団子になって下方へと落下をはじめた。声にならない叫びを上げ、縺れるようにして転がり落ちる。方向感覚が失われ、完全に体の制御は思惑から離れた。体のそこかしこに熱い痛みを感じていたがどうにもならなかった、くぐもった、雪を潰す音が鼓膜を揺らし続ける。視界は白と空の灰色が交互に展開され、やがて黒一色に統一された。
――おい、起きろ、おい、誰か、誰か他に居ないか
貝塚の声で目を覚ます、とそこは真っ暗な空間の中だった。どうやら体は横倒しになっているようだ。背中に違和感を感じる、どうやらバックパックを背負ったままのようだ。一先ず荷を失わなかった事は良かったと考えなければ。腰に手をやるとカラビナが折れ曲がり、ロープが消えていた。俺は痛む体をどうにか起こして、声に答える。
「ここは、どこだ、どうなったんだ俺達」
「お前、尾賀か、解らん、だが、どうやら俺達はクレバスのような裂け目の中にいるみたいだ」
「クレバスなんてあったか? 何も見えない、だが結構広い場所みたいだな」
そこで坂下の声が無い事に気がつく。
「おい、坂下はどうした? いないのか、ロープは、お前の腰のロープはどうした」
「あ、ああ。なんだ、ロープが切れてる。おかしい、そんなに簡単に切れる物じゃあないんだが。待て、今、なんとか明りをつけようと思う。左足のポケットに確か、携帯用の懐中電灯があった筈だ。壊れてなけりゃ良いが」
貝塚のその応答のあと、すぐにぼんやりと暗闇の中の空間が照らし出された。貝塚の姿が逆光の中照らし出され、ライトの伸びる光線が空間の壁を照らし出した。
「ひっ……」
貝塚がすぐに息を飲むような声を上げる。つられて俺もライトの先の壁に目を向けた。透明に近い青、不純物の無い清んだ氷壁の中に人間がいた。そいつは黄色の防寒服を着込んで驚愕の表情を浮かべ、閉ざされた空間の中でもがいた格好のまま凍りついていた。
「な、なんだ、これはいったい」
「し、知るかよ、それより坂下だ、坂下を探さないと」
どうなってる、ここはいったいどこなんだ、しかし、貝塚がいう事ももっともだ。先に坂下を探さないと。そうだ、確か背中のバックパックの中に俺もスティック型のケミカルライトを入れておいたはずだ。それを折ることができればこの空間内もそれなりに照らし出す事ができる。
「おい、頼む、俺を照らしてくれ。俺のパックの中にスティックライトが有るはずなんだ。こいつを折れば数時間はこの中を照らし出せる」
「あ、ああ。わかった、しかし、ここは……」
言いかけた言葉を尻すぼみに消しかけながら、貝塚は俺の手元を照らし出す。俺は背のパックを下ろすと中を確かめた。ランプはガラス部分が割れてしまっていた。だが、どの道閉鎖的な空間で酸素を消費するランプを使うのは良い事とは思えない。中の荷をかき分けると、スティックライトはバックパックの底に敷かれるようにして眠っていた。いつか使うと思って持っておいたスティックライトをこんな状況で役立てる事ができるとは思いもしなかった。
スティックを取り出して、それを折る。すると中の薬品が混じりあい、ぼんやりと空間内がオレンジ色に照らし出された。俺と貝塚の姿も闇の中から浮かび上がる。そこは直線的な谷底の行き止まりのような場所で、鍾乳石のような氷柱が下から競りあがるようにして何本も立っていた。俺と貝塚の間にも一つ、白く濁った巨大な氷筍が伸びている。上を見上げるとどうやら雪の蓋がついてしまっているのか、20m程上に真っ白な綿を敷き詰めたようなでこぼことした天井が照らし出された。
「おい、おかしいと思わないか。こんなクレバス、この山には無かったはずだろう?」
貝塚がそう俺に話しかける、わかっていた。こんな場所はこの山には無い。そもそもこれ程深く雪が積もるような場所があるとは思えない。それにもし、雪原の巨大な裂け目、クレバスがあったとしても、底には川があるはずだ。更には氷壁の透明度が高すぎる、それはまるで水中を思わせるほどだ。光が吸収されず、氷壁の随分奥まで照らし出す事ができた。
思うに、本物のクレバスに落ちたのならば俺達は生き残ってはいなかったはずだ。ところがここはどうだ、まるで人工的な地下施設のように均等に両端に氷壁が続き、自然界ではまず見る事ができない氷筍が生えている。しかも、こんな有り得ない場所でだ。
「とりあえず、この空間の地形はつかめたじゃないか、それよりも坂上を探さなけりゃあな」
そうだ、まずは仲間の生死を確認しなければ。俺と貝塚は方位磁石を確認するが、すぐに無意味だと知る。磁石が定まらない、仕方ないので壁際に寄り、貝塚のライトを頼りに進んだ。進むべき場所は黒々とした口を開く洞窟の先にしかない。逆側は氷壁が塞いでしまっていた。俺はまだ十数本有るスティックライトを30m程進むにつれて一本づつ折り、氷の回廊を照らし出していた。そうする内に自然と氷壁に目が行く。
「お前、見えてるよな。俺だけじゃあないよな。あれはたしかにお前の目にも映ってるだろ?」
貝塚が俺の視線の先を追って同意を求めようとする。
「言うな、わかってる、わかってるさ。だが、言わないでくれ。俺だって信じたくないんだ、怖いんだよ」
氷壁の中に眠っているのはあの黄色の防寒服の男だけではなかった。赤いダウンジャケットを着込んで両足を抱え、眠るように目を瞑る女性。ヘルメットをかぶり、必死に何か、ロープを掴むようにして上を見上げたまま静止する壮年の男性。恐慌に陥って何かを訴えるように大きく口を開き、手の平を上に掲げ、氷結している男女三人。指を強張らせ、手の平で何かを持ち上げる格好のまま動かない軽装の女性。誰もが何か抜き差しならないような状況を表現したまま、氷の中に閉じ込められていた。
「おい、こいつら。もう死んじまってるんだよな。死体だよな、どうなったらこんな事になるんだ。おかしいだろ、こんな格好で氷の中に閉じ込められるもんなのかよ」
「知るか、俺に聞くな、こんなの聞いた事が無い、俺だって知りたい。とにかく落ち着け、まずは坂上だ。坂上を探すんだよ。あいつを連れてこんな所はさっさと脱出するべきだ、そうだろ?」
そうだ、こんな所どう考えても生きている人間が居て良い場所なわけが無い。俺は自分に対してもそう言い聞かせ、冷静に努めようと必死になっていた。
「わかった、わかったよ。このまま壁伝いに進めばいいんだな」
貝塚は冷静さを取り戻すと回廊の壁の先を照らし出して再び、少しずつ足を進め始める。俺はその背中を追い、スティックライトを折り置く作業を再開させた。始めの内は坂上の名前を二人で呼び合いながら進んでみてはいたものの、それも意味が無い上に、天井が崩れるのではないかという恐ろしさから止めてしまった。
二人とも無言で、歩く音だけが二人が存在している証に思えていた。凍りついた床に、登山靴に装着した鉄の牙のアイゼンが食い込み、ざりりと音を響かせる。
暗闇が濃くなると立ち止まり、ぱきんという音が静寂の世界を音で揺らし、オレンジの光が死者の姿を浮かび上がらせた。その度に見たくも無い情景が網膜に焼付いた。出発点にはいくつも存在していた氷筍の姿が徐々に減り始め、100mほど進むとその姿は完全に消えてしまっていた。
邪魔な障害物が無くなったお陰で、進行速度が少し速くなる。200m程奥に進んだ頃だろうか、やがて少しずつではあるが、壁の中の人間に変化が訪れ始めている事に気がついた。
「おい、壁の中の奴ら」
「今更なんだよ、俺はそんな奴らの姿なんざ見たくねえよ」
「違う、なにか、おかしいと思わないか」
「あ、何が?」
貝塚がうんざりとした顔を見せ、氷の壁に目を向けた。視線の先には凍り付いた死体、だがその姿は先程の連中とは違って、前時代的な服装に変わっていた。厚い、布で編まれた重そうな袢纏。綿の詰まった頭巾。
「これは、なんだ、今の時代の人間じゃないな」
「そうだろ、という事はだ、このまま先に進んだらこの壁の中の人間は古い時代のやつらに変わるんじゃないか」
「だからなんだってんだ。今の俺たちには前に進むしか道は無いだろ」
「それはそうなんだが」
「だったら気にするべきじゃない、さっさと進むぞ」
貝塚は先を急いでいるのか、それとも焦りを感じているのかそう言い捨てて。体を暗闇の中へと進ませた。
「待ってくれ、スティックライトも残り僅かだ。慎重に進むべきじゃないか」
「そんな事言ってたら俺達が生き延びられる確率はどんどん薄くなっていくだろうが、もしかしたらこの先は出口かもしれない、だとしたら今すぐ、走ってでもここから出るべきだ」
「わかった、待ってくれ、俺を置いていくな。一人にしないでくれ」
こんな場所で一人残されたらたまったものではない。俺はとりあえず、貝塚の焦りに合わせる事にした。いつの間にやら趣旨が坂上を発見する事からこの空間から脱出する事に変わっていた。俺も貝塚も恐ろしかったのだ。この異常な状況から、空間から、一刻も早く脱したかった。
更に100m程進むと壁の中の人間は藁の塊のような蓑と獣の皮を纏った者の姿に変わっていた。やはり、何かおかしい。
「おい、一旦戻らないか? この先に向うのはなんだか良くない気がするんだ」
「今更腰を引かせてどうするんだ。もう少しで外に辿り着けるかも知れんじゃないか」
俺の言葉に貝塚がそう返した時だった。冷たく張り詰めた空間を一陣の風が凪いだ。空気を裂く鋭敏な風が俺と貝塚の頬を切りつけるようにして通り過ぎた。
「風……、風だ。おい、空気の流れを感じただろ」
「よし、外に出られる、出られるぞ」
喜び勇んだ俺と貝塚は足を速めて洞窟を進む、すると目前の闇先に青い光が揺れているのを視界に捉えた。出口かとはっとするが、よく見直すとそれはどこかおかしな光だ、まるで青く弱々しい炎がちろちろと右に左に揺られて、風に靡いているようだ。出口にしては弱々しく小さすぎる明り、人、一人分の大きさの光。それはゆらゆらと揺れながらこちらに向って来ていた。
「なんだありゃ……」
貝塚がそう呟くと、揺れていた光が止った。すぐに、滑るようにしてこちらに向けて迫ってくる。近づくにつれ、それの明確な姿が俺達に示された。
人だ、全身が白い人、長い髪も体も瞳も、身に着けている着物も、何もかも雪のように白い女。闇の中で浮かび上がる、青く淡い光を身に纏ったそれが前屈みに足を動かす事無く、地面の上を滑るように移動している。張り付いた無表情、何の感情も見当たらないその顔を見ると体が凍りつき怖気が奔った。
「に、逃げろ」
貝塚の声を期に俺は走った。ざくざくと鳴ってしまう音を気にしながらも、後ろを振り返らずスティックライトの光を頼りに必死で回廊の奥へと引き返す、だがその先は行き止まりだ、無意味な想像が頭の中を回っていた。どうする、どうする。
やがて、俺達は奥まで戻ると氷筍の陰に身を隠した。貝塚はライトの光を消し、体を抱え込んで震えていた。俺は氷筍の陰からそっと逃げてきた方向を覗く、するとスティックライトの光が奥から順に消されてきていた。あの得体の知れない女がこっちに向ってきている。洞窟が元あるべき、静寂と暗闇を取り戻しつつあった。
女が地面を滑る度、風が生まれ、鋭い寒冷風が俺の体を吹きつけてゆく。俺は氷筍に組み付いて体を寄せ、片手で心臓を抑え、早まる動悸をどうにか落着けようとしていた。氷を掴む右手の指先に何かが触れた。氷筍の表面に僅かに突起が生えている。その部分を良く触り、調べてみると形状から第一関節部までの三本の指先だと言う事に気がついた。まさかと思って氷筍の表面をごしごしと擦り上げる、すると表面が溶け、下の氷結部が少しずつ姿を現した。逆側からライトの淡い光に照らし出されたシルエットはやはり、人間の形をしていた。胸騒ぎが起きる、これは、きっと、いや、まさか。俺は身振り手振りで貝塚に合図を送る。これを見ろ、少しで良い、ここをライトで照らしてくれと。
貝塚は恐怖で歪む顔を俺に隠そうともせずに俺に懐中電灯を投げ渡した。俺は光源を悟られないように氷筍に顔を寄せ、薄明かりで中の人間の顔を照らし出した。
坂下……
坂下は両手両足をばらばらの方向に放りだしたまま凍りついていた。あの転げ落ちてゆく瞬間を写真に収めたような状態で。俺は懐中電灯を貝塚に投げ返そうとすると、氷筍の5m先に折り置いた最後のスティックライトの明りが消えた。
すぐに恐怖で震える顔が浮かび上がった。貝塚は声が出したいのに出せないのか、口をぱくぱくと開け閉めを繰り返している。あの女だ、真っ白で冷気と燐光を纏う雪の女、着物から伸びる滑らかな肌をしたその手が貝塚に伸びようとしていた……
気がつけば俺は病院のベッドに寝かされていた。計器の音が耳元で鳴り響いている。体中が包帯に巻かれ、手足は吊られている。痒みと疼き、それに痛みが同時に体中で声を発し始めていた。身もだえする俺に縋るように泣き声を発しながら抱きついてくる両親の姿が目に映り、ああ、俺はまだ生きているんだと実感した。
俺は全く憶えてはいなかったが、どうやらあの雪崩の後、雪の中に埋もれた俺と貝塚を山岳救助隊の方達が救い出してくれたらしい。あの状況で助かったのは奇跡だよと、後から礼を伝えに言った際、彼等に言われた。だが、やはり坂下は助からなかった。雪に埋もれた坂下の遺体は冬の間は発見は難しいとされて捜索は打ち切られた。だが、春になり、いくら年月が過ぎようとも、坂下の遺体は見つかる事がなかった。
あの洞窟で起きた事は、果たして夢だったのだろうか、俺一人が見た夢ならば納得できた。けれど、細部まで同じ内容の夢を貝塚も見ていた。けれど、実際にそんな場所は無く、結局のところ俺と貝塚は夢だったとしてその内容を誰にも話す事はなかった。
それが七年前に起きた事の全てだ、後日俺と貝塚は坂下の両親に謝りに向かった。両親の悲しみは計りきれないもので、俺と貝塚は随分と責められた。理不尽な罵倒もあったが、彼らの悲しみの大きさにしたら当然だろうと思う。俺達は項垂れ、ただ頭を下げ続ける事しかできなかった。しかし、坂下の両親はどこかで、未だに上がらない坂下の死体の事を考え、どこかで生きているという希望を捨てずにいるようだった。そんな彼等を目の当りにする事で、俺の心には更なる重みが圧し掛かっていた。
俺達はその後、山岳部を辞めてしまった。貝塚と俺との間柄も、その日からぎくしゃくとしてしまい。顔を合わせても余り話さなくなった。御互いに罪悪感を感じていたのかもしれない。油断すれば責任の押し付け合いに発展してしまいそうで怖かったのだ。そしてそんな弱さのある自分も許せなかった。あの日起きた事が、ずっと俺の中でしこりのように形を残し続けていた。降り積もった罪悪感は随分と溶けて消えてゆくのに、どうしても一部、溶け残らず、より硬く、凍りついて存在し続けていた。それが原因なのか、俺にはどこか影のように暗い部分が付き纏っているようだ。
それから七年、大学を卒業し、影に惹かれたという妻と結婚を果たし、企業に就き、そこを辞め事業を起こして何とかやってきた。今年、俺の人生のうちで節目となる出来事が起き、あの山にもう一度登らなければという思いに駆られた。友人から貝塚の近況を聞いていた俺は、七年ぶりに貝塚に連絡を取り合った。随分と久し振りにも拘らず、思う以上にあの頃と変わらず、平然としたやり取りをとる事ができた。なぜなら俺は自分の事以上に、貝塚の足取りを気にしていたからだ。それは貝塚も同じらしく、共通の友人になんで御互いそんなに気にしあってるのに連絡取り合わないんだよと言われた事もある。
俺達が顔を合わせるには切っ掛けが必要だったんだ。偶々これまでにその切っ掛けが得られなかったに過ぎない。俺も貝塚も、体だけは鍛え続けてきていた。偶然ではない、あの日の記憶が俺達の体の衰えを許さなかったんだろう。すぐに俺達はあの山にもう一度、登る計画を立てると、それを実行に移した。
日が山稜を超え、夜が降りた。澄んだ空気の下、空は満天の星が瞬いている。俺達は簡単な携帯食を口にして、コーヒーでそれを流し込むと、就寝の準備を始める。雪洞の中で蓑虫を連想させる寝袋をひき、俺と貝塚は横になった。明日は山頂を目指す、だが、俺の目的はそれとは別にあった。俺にはどうしても、貝塚に確認したい事が有った。あれ程恐ろしい目にあいながらもなぜ、この雪山に戻ってきたのか。貝塚には、必ず俺と同じ理由を持っているはずだ。これまでの世渡りに必要となるような茶番な会話では無く、確信をついた話がしたかった。決心をつけて俺は切り出した。
「なあ、貝塚。寝てたら返事は要らない。お前の会社、倒産したんだってな。お前、今は無職なんだろ?」
「起きてるさ、寝られるわけが無いだろう。そう言うお前だって、結婚してから無茶をして随分と借金作ったそうじゃないか。営業辞めて自営業か、思い切ったな」
「はは、自営業だって営業と似たようなもんさ。有力なコネが無い分きついけどな」
「だが、相当に会社の状態、厳しいんだろう? 前に同級の奴に、既に自転車操業なんじゃないかって聞いたぞ」
「俺はさ、あの時、生きてあの氷の地獄を出られたら、なんだってやれると思ってたんだよ。実際、かなり無茶をしながらもやってこれていたんだ。だがね、頼みの綱の取引先が不渡りを出してな、夜逃げしちまったのさ。俺の会社はその煽りで倒産だ、後に残ったのは借金だけだ。嫁は子供を連れて出て行ったよ」
「俺はお前みたいに必死になれなかった。ずっとあの日から自問自答の毎日だったからな。本当にあの選択肢はあってたのかってさ」
「じゃあやっぱり憶えているんだな」
「忘れるわけ無いだろう。俺はお前にこの話を振られた時、やっと決心がついたかと思ったよ。俺はここへきてもう、迷う理由なんて無かった、お前から話が振られなければ一人でも登ってたさ」
「そうか、じゃあ俺二人とも結局あの日、助かった意味なんてなかったんじゃないか」
「本当に助かったと思っているのか? 考えても見ろ、この七年、本当に幸せだったか? 本当の地獄は現実の方じゃあなかったか? 俺は後悔しているんだ、あの時の選択は間違いだったと、坂下は利口だったんだ。あの時、選択を間違えなかったんだからな」
「そうか、はは、そうかもな。この七年いったいなんだったんだ」
俺達は明日、あの平原へ向かい、再びあの空間を探すのだろう、明日、答えが解るはずだ、あの時の出来事が夢だったのか、現実だったのか。どちらにせよ俺達にはもう帰る場所など無い、この雪山以外に、帰る場所など無いんだ。そう考えた時、俺と貝塚はあの時のままの状況に引き戻されていた。雪洞が巨大な空間に変わり、俺は氷筍を背にしている。凍りついた記憶の底の雪が息を吹き返し、風が雪を巻き上げる。
繊細で透き通る真っ白な指先が貝塚の頬に伸びる。すると女から発せられた風に声が乗り、俺の耳に届いた。風音に似た聞き取り難い声が鼓膜を揺らす。
我、山神の使いなり、其方、山神に選ばれし者共なりて、機を得たり、我、強要せず、下界へ下るも、山にて永久を得るも、其方の自由、永久を望むれば、山麓下るは許されぬ、されど、此れにて自由を得れり、山にての死は失はれ、数多の岳を望むも、荘厳たる岸壁を制すも、其方の欲する儘となる
下るか、残るか、どちらか、答えよ
――未明、大雪により大荒れの天候となっていた 山にて、行方不明とされていました大学生三人の、山岳救助隊による捜索が打ち切りとなりました。雪崩に巻き込まれたと思われる三人は……
ここまでお目通し頂けた皆様方へ、どうも有り難う御座いました、かたく感謝いたします。ひとまずこれにて、死燐集書は終わりとさせて頂きます。
純然な、これぞホラーとした作品を書き上げたかったのですが、いかがでしたでしょうか。
この作品がホラーを愛する方のお目に留まりますよう願っております。
それではまたいつか。