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死燐集書  作者: 黒漆
11/13

惧箱

 六月末日、その日は、厚い雲が空を覆い、日の光は遮られ、夏の訪れを先延ばしさせるような嫌な天気だった。梅雨はまだ明けておらず、重苦しい、ゆだるような空気が体に纏わりつく。額を滑り落ちる汗をハンカチでふき取り、私はこの館の主人である男の、死体を見上げた。既に生物としての役目を果たしたそれは、梁からおろされたロープに首を通してぶら下っていた。


 私は刑事であり、事件性の高い件を捜査することが仕事だ。しかし、今回についてはどうにも判断がつかないという理由により私が仮で呼び出されたに過ぎない。現時点で見たままの状況を判断するとどうみても主人の自殺にしかつながらない訳だが、問題は彼の書斎が荒らされている事にあった。畳が切り裂かれ、書机は脚が折れていて、原形を留めない様々な陶器の破片が乱雑にばら撒かれていた。だが、それ以上に目を惹きつける物があった。


 書斎には後生、生前の間欠かさずつけていた日記が目をみはるる数存在していて、試にと一冊手に取り開くと、中にはそれこそ人生を凝縮させたと表現するに相応しい程、日々の内容が克明に記されていた。一目で数百冊に達っしているだろうと思える数が、綺麗に並べ置かれ、それだけは他と違い、何の異常も無く平然と整列していた。恐らく居間の座敷机の上に置かれているものはこの内の一冊なのだろう。主人はその居間の日記を目の前にしながら、梁から吊り下げた縄に首を通した状態で見つかった。そういった経緯であった。


 主人の死を発見したのはこの家の家政婦だ、彼女は毎日定時にこの家の掃除と食事を作りにやってくる。連日の予定に合わせ、八時の定刻に屋敷にやってきた彼女は挨拶をしても顔を見せない主人を不審に思い、居間へ上がる、とその先で雇い主の哀れな成れの果てを発見する事となった。


 家政婦の話を信じるとすれば、この家の主人は相当に変わった人間であったようだ。人付き合いが極度に苦手らしく、代々の先祖から受け継がれたこの広い家も持て余し気味だったらしい。しかし、彼は物の先見を計る才能に望まれていた。それを利用して株や投資を行い、この家を維持し、なんとか食べていく事が出来るくらいには稼いでいたとの事だった。家政婦の話では自殺するといったそぶりは全く見せてはおらず、自殺の理由も全く思いつかないらしい。そこで私は、この状況が自殺であるという確たる証拠を得るために、物証であるこの日記を読むに至った。


 手袋を装着し、黒皮のざらつく装丁に指をかけ、日記の項をめくる。細やかな文字列、水流に似た達筆の文字はこの屋敷の主人が精細な人物であった事を私に伝えた。月が今月に至るまで手早く読み流し、目的の項まで達すると、私は静かに集中をして文に目を通し始めた。



 六月六日


 長年の間、閉じ封じていた蔵をふと、開けたいと思う事がこれまでも有った。その度に私は欲求を抑えつけて来た。何故だろうか、歳を経て、不意に懐かしさに浸りたくなる事が時折あるのだ。幼き頃、私はあの蔵へ厳格な父に閉じ込められた事があった。当時の私はまだ物を知らぬ小僧であり、目に映る全てが興味の対象であった。一人子であった私は随分と贅沢が許されていた。只一人の跡取りゆえか、両親は二人とも私を猫可愛がりしていたのだ。


 それが原因か、私は随分と図に乗り、粗暴な行いを繰り返していた。この家の近辺をうろつき田畑を荒らし、見知らぬ人間に手当たり次第暴言を吐き、物の仕組みを知るために高価な物を叩き壊した、叱られる事が無いために増長した私はやりたい放題であった。今思えば自分は目もあてられぬ程の悪童であったのだろう。


 しかし、流石に悪戯が過ぎたのか、父の気に入りの骨董に手をかけた時、遂に私は罰を与えられる事となる。父がたしなめるために私を蔵へと閉じ込めたのだ。暗く、恐ろしく狭い蔵中は、桐の長持やら古書やらの骨董が積み置かれ、独特の空気を放っており、まだ体が小さかった私には、恐ろしく歪であやうい壁に囲われているようだった。そこかしこにできている物と物との合間の濃厚な闇に、何か得体の知れない生き物が潜んでいる気がした。恐ろしさと心細さで私は泣いた。それでも父は私を許さず、一晩そのまま蔵の中に捨て置いた。


 それ以来、私は蔵が大の苦手となった。あの蔵に閉じ込められるくらいならばとこれまでの行動を改め、性格が変わったように冷静さを努めた。思い出したくも無い記憶があの蔵の中に埋もれているのだ。私が十八の頃、父が亡くなり、どこへとも無く母は姿を消した。そういった忌まわしい記憶も私はこの蔵の中に閉じ込めていた。


 だが、こうして晩年を迎えた頃、私はどうしてもあの蔵に足を踏み入れてみたくなった。そこには私の思い出と共に、代々私の先祖が託した数多くの遺産が眠っているはずである。それを見ずしてあの世に逝くわけには行かぬ。父が死して以来、あの蔵を開ける者はいなかった。私は明日、蔵を開ける、そう決心した。


 六月七日


 開けた蔵の中は夥しい程の数の桐箱とうずたかく降り積もった埃に覆われていた。梁からは目を逸らし、蔵の中を見渡す。すると、数々の箱の中で異彩を放つものが一つ有る事に気がついた。私の目は部屋の端、一箇所へと吸い込まれるように固定された。そこには全く埃が積もっておらず、鈍く黒光りする漆塗りの箱が鎮座していた。何十年間も眠り続けているにも拘らず、鈍い光沢を保ち続ける黒蓋には薄らと梁の姿が映し出されていた。一度目を逸らすも、興味を引かれた私はその箱を自宅へともって帰り、中身を確かめる事とした。


 夜、座敷にて箱を開ける。箱には内蓋がついており、蓋にはしっかりと札で目張りが施されていた。それだけに何か開けてはならぬものなのではないかというおそれが私の中に生まれた。私はこれまで好奇心とは無縁の生活を続けてきた、それは好奇心によって滅ぼされるもの達の姿を何度も目にしてきたからだ。私の父も骨董で随分と損を繰り返していた。


 しかし、今の私は既に失うものは無い、この程度の好奇心を沸かせた所で何が有るものか、そう思い切り、目張りを剥がした所で、私はこの楽しみを明日のために取っておこうと思い直す。一日延ばしたくらいで私から箱は逃げて行きはしまい。今日の所は箱と共に持ち帰った皿や壷を磨き、汚れを落とす事としよう。長い間、蔵の中に安置され続けた骨董品の数々は、くすみ、かつての鮮やかさを曇らせている。私はそれらを磨きあげ、父との思い出に浸っていた。だが、どうにも気になっている、誰も入る事ができぬ蔵の中で、なぜあの箱だけに埃が寄り付かなかったのか、特異な含量でも漆の中に含まれているのか、或いは中に保存されている物の影響なのか。明日、その答えに近づく事ができるに違いない。


 六月八日


 私は、箱を開けた。あれは開けてはならぬ箱であったのだ。父はあの箱の存在を知らぬまま逝ったのであろうか、私の父は蔵で首を吊った。それを私は、母の執拗な責苦による精神疲労と、骨董での失敗が重なったためだと思い違いしていたのであろうか。今日まで薄れていた私の、幼少期のあの蔵にまつわる嫌な思い出が、当時の鮮やかさを取り戻し、重い蓋をこじ開けて顔を覗かせ始めた。


 私があの蔵に閉じ込められた前日の夜、母と父は私の深い眠りを妨げるほどの声を張り上げ大喧嘩をしていた、当時の記憶を繋ぎ合わせ、その口調からどうやら私のしつけと、母の父の骨董についての不満からの口論であったのだろうと今では思う。


 私は不安を感じ、それを増幅させる暗い天井をまぶたの中に押し込め、負の感情を追いやり、どうせ何も変わりはしない、明日の楽しみを想像するのだと布団の中で空想を駆け巡らせ、やがて眠りについた。翌日の朝、目を赤くした父に私が、姿を消した母の事を訝しげに思い問うと、母は実家に帰したと一言私に言い放した、そして私はあの蔵に閉じ込められる事となったのだ。


 数日後、母が舞い戻ったが、その日から執拗な言葉の責めを、父に繰り返した。幼い私にもわかっていた、あの夜、父と母の間に決定的なひびが入ってしまったのだろう。今になって何故これ程鮮明に当時の記憶を思い返す事が叶ったのか。それも恐らく、私があの箱の怪異に触れ、刺激を受けたからに違いないはずだ。


 六月九日


 先日開けた箱の中身が頭から離れない。箱を蔵へと戻そうと何度も考えはしたが、私は私の中で沸き続ける奇妙な好奇心に打ち勝つ事ができずにいる。昨夜、箱を開けると中には何も無かった。本当に何も無いのだ、真っ暗な底なしの暗闇が箱の底にわだかまるばかりで、箱の高さが私の手首ほどまでにも関わらず、腕を差し入れても肩までが闇に飲み込まれ、底に指先が触れる事もない。あれは私の理解を超える代物なのだ。


 やがて箱の底から、落ち葉をかき分けるようなかさかさといったこそばゆい音が聞こえ始め、箱が振動を始めた。やがて闇から小枝に似た黒い足が伸び出はじめた。一匹が姿を見せると、わらわらと際限が無くそれらは沸き出でてくる。私は恐れおののき、箱を閉じた。そんな箱を私はまた開こうとしている……


 六月十日


 箱から湧き出したものは大量の蜘蛛であった。私が大の苦手である、あの八本足の気味の悪い昆虫だ。それらが部屋中を占領しはじめ、黒の絨毯が出来上がる寸前で私は動かなくなる体を強引に動かし逃げようと腕を持ち上げる、途中、箱の上に半分のみ開けた状態にしたまま乗せていた蓋に私の手が触れて、偶然箱が閉じた。途端に露が畳に沁みこむように蜘蛛は忽然と消えた。


 そして、今日。湧き出したのは巨大な百足むかでであった。身体の多くの足を波うたせ、次々に這い出す百足は私の脚を、手を、顔を這い上がり私の怖気を余す所無く放出させる。私はしびれる腕をなんとか動かし、蓋を閉じた。


 六月二十日


 私はあれから、何度か箱を開け続けている。徐々に湧き出る物の大きさが増してきている。それでも私は止める事が、抗する事ができずにいた。昨日は遂に私が幼き頃、嫌っていた子供があの時代、そのままの姿で現れた。友人だと思っていたその子供は、私が悪童である行いを止めた時、突然私が嫌いだと告げた。その日から会う度に私にうんざりとするような嫌味を言ってのけた。私は罰を受ける苦を思い、必死に耐え続けていた。それが今になって何人もあの、箱から抜け出して私に対してかつてと同じ言葉を吐きかける。私の記憶はいやがおうにも悪童時代に押し戻され、苦い唾液が口の中に溢れ出た。私は反抗すべくそれらに手を出すも、ことごとく手は空をきり、それをまたその子供が笑うのだ。


 恐らくはもう、次に開けたら私は戻れないだろう。私は恐ろしい、私自身の好奇心の大きさが、そして次に現れる私の恐怖の対象が何で有るのかと思い浮かべている私自身が。


 六月二十八日


 私は開けてしまった、もう戻ることはできない。沸き出でたあれらに堪らず蓋を投げつけてしまった。蓋は簡単に砕けて散った。もう元に戻す事など私にできはしない。父が見たものが何であったか、私はやっと知る事ができた。思えば幼き頃、私と共にいた母は本当の母であったか。恐らく病弱ゆえに顔色が悪いのだろうと思っていた。


 しかし、今思えばあの母は、どこかがおかしかった。顔色に変化が訪れたのはいつの頃か。そうだ、私が蔵に閉じ込められた以降からだ。それからの母は、いつも父を責めるばかりであった。なぜ殺めたのですか、わたくしよりも骨董が大事なのですか、そればかりを口にしていた。そうであったのに父は何も言わず、笑みを浮かべていた。


 あの日からの母は私には優しかった、父の目の前では特に、嫉妬深い父には苦痛であっただろう。それ以上に父は母の事を恐れていたのだ。私はあの、口論の夜の出来事をすっかりと忘れていた。数日後、母が戻ってきた事により無かった事、或いは夢中の出来事としていたのだ。


 だが、あれが現実であったとするならば、口論の後の絹を裂くような悲鳴、翌日の蔵中で耳にした庭土をざくりと掘り返す音、それらが夢でなかったとするならば、母は或いはあの夜に。そして、その当時、父は自身が何を一番に惧れていたのかを知っていたのだろう。


 父は耐えて待っていてくれたのだ。私が十八を向かえる時を、父はあれに苛まれながらもなお、長年耐え続けていたのだと言う事実が、私の父への尊敬を蘇らせた。だがそれとて今更、既にどうでも良い事なのだ。大量に涌き出たあれは私しか知らぬ過ちを責め、私が苦手とする言葉を吐き、私の弱味を延々と責め続けた。私が惧れていたのはこれまでに閉じ込めてきた自分自身だったのだ。最早、私の希望や好奇心は失われたに等しい。私はもう死ぬ事しかできない、できないのだ。あれらが早くしろ、早くしろと責めたてる。願わくばこの日記を読む事が出来た方に頼みたい。箱を処分して欲しい、私の代わりに処分して欲しい……



 日記はそこで途切れていた、意味が解らないがそんな箱が本当に存在するのだろうか、存在などするはずが無い。そう思ったところで奥の座敷の襖が開いた。奥に並ぶのは全身が青く変色している死んだはずの何人もの屋敷の主人だった。


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