表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死燐集書  作者: 黒漆
1/13

冥令

 十四時二十分、死刑台の前で立ちつくす私の体と精神を強烈に圧迫し、轟音と共に通り過ぎて行く風と圧力の塊。私はじわりと滲む汗を拳の中に潜ませ、恐怖に必死に耐えていた。


 私は刑務官を職としていた。この刑務所には死刑執行が近づいた囚人だけが送られてくる。自分がいつ死ぬかわからない恐怖は塀の外と変わらなくとも、必然的に他人に与えられるものと、偶発的に神に与えられるものでは当然負担も変わる。当然死刑囚の彼等は自分達がこれから執行される刑の事を認識している訳なので、既に世捨て人のように達観しているものや、或いは極限まで死の恐怖に打ちひしがれ、正気を削られ精神のたがが外れてしまっている者も存在した。しかし、彼等には死刑の日付を正確に知らされる事が無いために、意外に平然としている者が多かった。


 特殊な環境下での責務に気負いがなかったと言えば嘘になる。しかし、私のすることと言えば、以前の勤め先、元刑務所とそれほど変わりがなかった。そうこうしてそんな囚人達と混じりあい、この刑務所に赴任して数日が過ぎて、ようやく身体が新しい環境に慣れ始めた頃、突然轟々と強風が吹き荒れるような強烈な音の波に襲われた。


 それは私の体を内側から震え上がらせ、建物の中を突き抜けるようにして通り過ぎていった。何が起きたのだと驚き、立ちすくむ私を余所に、刑務官の同僚は全く反応を見せていない。寧ろ私の姿を見て怪訝な表情を浮かべるばかりだった。私は動揺するも、その事を心の中に留め、平常心をどうにか取り戻すと、同僚には伝えずにおいた。


 恐れと共に沸きあがる疑問、私の僅かな持てる知識を活用したところで答えは得られず、この音の波の正体について、皆目見当もつかなかった。幻聴なのかと考えた事もあった、音の流れに巻かれたのは一度きりではなかった。一度の経験を得るとそれを皮切りに、何度も何度も私を襲い続けたのだ。だからこそ私は、同僚に私が幻聴癖がある狂人だと認識されるわけには行かないと思い聞き流し、なるべく平然とした様子をみせていた。


 何度その音の波を聞いても、一向に馴れる事は無かった。あの音を聞くと、存在そのものが揺さぶられ、私の内蔵を冷たい両手で絞め上げられるような恐怖を感じるのだ。それでも職を辞するわけには行かず、続けてゆく内に私はあることに気がついた。そう、私以外にも囚人全員ではないが、彼等の中に音の存在に気がついている者達がいたのだ。私があの恐ろしい音の波に襲われている際、同時に恐怖に駆られ顔を歪ませる囚人。それを知り、やっと音の存在が私だけの脅威ではなかったのだと知り、安心を得た。何人もの人間が、同時に幻聴を経験する事など有り得ないはずだ。しかし、彼等の中にも音の存在に直に気がつく者と、最後まで気がつかない者が存在していた。音が聞こえる者と聞こえない者の差、それはいったい何なのだろうか。


 おそらく一人では私は何も解明を果たせなかったであろう。しかし、私は幸運にも僅かではあるが、明るみに触れることができた。謎の音について詳しく知り、その名を聞いたのは三ヶ月が経つ頃だった。送られてくる死刑囚は当然凶悪犯ばかりだが、中には何故これ程できた人間が死刑になってしまうのか、と疑問を感じざるを得ないような囚人も存在した。彼等の内の一人、相田という八十を超える老人に、私はこの音の正体が冥界から流れ出す音なのだと聞いたのだ。


 私が偶然相田死刑囚の牢の前を歩いている時、あの音の波に襲われ、私は立ち止まり、迂闊にも顔を歪め、警棒を落としてしまう。それに気がついた相田死刑囚は私の姿をその目に捉え、まるで何事も無かったかのように平静を保ち、私に話しかけた。彼はとても慇懃で含蓄のある人物であるようで、私にもこの音が聞こえていると知ると興味深げに私の顔を覗き込み、私もいずれあの音の元にさらわれる事になるのでしょうと手を合わせながら言い、この音が聞こえる人物は冥界に引かれている、あなたも気をつけると良い、そういって意味深げな表情を浮かべ私に静かに会釈をした。それを見た私はこの囚人は音の正体を知っているのだと知り、衝撃を受け、職務の隙を見ては相田老に話しかけ、様々な事を聞いた。彼の話によると、この音、冥令は囚人の中である種の伝説として語り継がれていたというのだ。


 相田死刑囚は人道的に反する商売を繰り返したためにここに送られたのだと聞いていたが、明確な犯歴については遂に私には知る事が出来なかった。どうやら彼の犯した犯罪は私のような一介の刑務官には知る事が出来ない程に深いものだったらしい。相田老は最後まで潔く、静かなまま取り乱す事も無く、刑の執行を受けたようだ。そうして彼はこの刑務所から姿を消した。


 彼が亡くなってから私は不安で堪らなかった、未だ音の正体についてはさわり程度でほぼも解ってはいない。唯一知っていたであろう相田老も執行を受け、死してしまった。そうした事も有り、私は冥令を耳にした時、同僚の前でその言葉を口に出してしまう。同僚は驚きもせず、君も聞いたのか、彼等もきっと死が恐ろしいのだろうなと、平然と言葉を返した。私はどうしてそれを、と聞き返すと同僚は答える。君も聞いたんだろう、この刑務所じゃ有名な話だ。ここじゃ幻聴を聞く囚人が多いんだ。誰がいい始めたのか知らないが、その幻聴を総じて冥令と呼んでいるんだよ、と私に説明した。刑務官の中では私にしか聞こえない幻聴、しかし、私は認められない、信じられない。この圧倒的な恐怖が、震えが、幻聴から来るものなのだとは。


 なぜなのか、この刑務所内では死の数週間前に送られてくる死刑囚の幻聴として、或いは伝説として語られていた冥令の存在を、囚人ではない私が確証を得てしまっている。刑務官の側でなく、なぜ私は囚人の側なのか、そして囚人の中に、なぜこの音を聞く事ができない人間が存在するのか。


 私と同様に冥令を聞いた囚人達は当然怯え始める。彼等はどこで聞いたのか、何故かこの音の存在を知っているようだった。その音を聞いたらそこは死刑が執行される刑務所なのだ、と。伝説を知らない囚人もいずれは恐慌に至る。あの音を聞いて、湧き出す恐怖を押えられる人間など存在しないように思えた。そうして平然としていた強靭な死刑囚もいずれ恐れに打ちひしがれる事になる。私が知る限り、あの音に耐えられていたのは相田老以外存在しなかった。


 どうにか耐えてきた私だったが、それも遂に限界が訪れる、切っ掛けは相田老が逝ってから数ヵ月後、この刑務所の独房に黒田と言う男が送られてきた事にあった。黒田は精神的な病に冒されているらしく、突然女の幻覚をみて暴れだすと聞いていた。長い間刑務所と言う閉鎖空間の中で独房で暮らし続けてきた囚人には精神に異常をきたす者は少なくはなく、刑務所の収容量を超えて囚人が押し込められている現在、囚人の精神のケアまでを行う余裕は当然金銭的にも人員的にも不可能と言われている。死刑囚の中には突発的な怒りに任せて人を殺してしまう人間もいた、彼等の様なタイプの囚人は後から自責と罪の重みに耐え切れず、幻覚に常時襲われたり、執行前に自傷行為を繰り返し、拘束具を装着させられた上で心身衰弱で逝ってしまう者もいたのだ。この黒田という男も、自責の念から殺害した女性の幻覚を作り出して恐れているのだと同僚達は考えていたのだろう。けれど黒田の場合に限り様子が違っていた。


 黒田は送られて来た初日、早速独房で暴れ始めた。女が、あいつが俺を見下ろしているんだ、そいつをどけてくれ。俺を一人にしてくれ。黒田はそう言って天井の斜め上を見つめ喚き散らす。私は当然幻覚を見ているのだろうと思い、黒田の視線を辿ると、確かにそこには見下ろす女性が存在していた。私はばかなと狼狽うろたえてしまった、同僚の刑務官は視線を上に向けるもすぐに黒田に戻し、全く取り乱しもせず、黒田をなだめている。それを見て私は気がついた。どうやら女性の姿は私と黒田にしか見えないようだ。


 黒田は私の狼狽える姿を見て、私にもそれが見えている事を悟ったようで、あんた、あんた見えるんだろ? 居るだろうそこに、何とかしてくれと私に喚き散らすが、私にはそれをどうにかする事などできない。しかし、黒田は自分が見ている物、否定され続けていたその存在を確認できる人間が他にも居たのだと言う事を知って落ち着いたのか、喚く事を止めた。それから数日間、黒田は私が勤務中の時間内を狙ったように問題を起こし、その度に私に女性の姿を確認させるようになった。


 黒田は麻薬の常習者だった。これまで何度と無く出所入所を繰り返し、出所するたびに人傷沙汰を繰り返していた。その内殺人までも犯してしまい、結果この刑務所に送られて来たのだと言う。黒田は私の前で決まって同じ事をわめいた。「俺は今まで確かに何人も殺してる。だけどこいつだけは俺、殺した所を覚えてないんですよ。これまで殺した奴に関しちゃ、一人も忘れた事なんざなかった。他に俺を恨む奴なんて数多く居るはずなのに、なんでこいつなんです? 他のやつらに恨まれて見つめられるなら俺はまだ耐えられる。だけど、こいつは何なんです? 確かに俺は薬やってて記憶飛んだ事もしょっちゅうだった。けどこいつに限っては全く憶えてないんです。気がついたら部屋にこいつの死体が転がってた。俺は本当にこいつ殺したんですか? ああ、俺をそんな眼で見るのは止めろ。止めてくれ」


 黒田を独房の高い天井から見下ろす女性は、確かに哀れみの眼で見つめていた。黒田は恨みや怒りに対する免疫はあるのだろう。しかし、あの目線には僅かに優しさのような面が見え隠れしている。それを少なからず感じ取った黒田はそれに耐えられないのやも知れない。


 黒田が現れてから、私の生活は一層荒れた。身の毛がよだつ冥令を浴び、さらに見たくも無い女性の幽霊にも毎日出会わされ、それに耐えなければならない。私は彼女が恐ろしかった。時折私に、白く濁った眼球を見開いて黒田に向けるのとは真逆の強烈な怒りを帯びた視線を向けるからだ。私の精神は掻き乱され、荒れ果てていた。黒田は私の鏡だ、目が落ち窪み頬はこけ、顔色はすこぶる悪い。だが、それは私も同じだ。黒田と同じ脅威を、私も同じ様に体感していたのだから。


 しかし、もう少しの辛抱だ、黒田が刑の執行を受け、少しすれば私もこの苦しみから解放されると信じていた。限界を悟り、私は体調の悪化を理由に転任願いを出した、それが受理された事で数ヵ月後には私はこの刑務所から去ることができる。そうなれば私の恐れるものはもう何も無いのだ。


 私は耐え抜いた、遂に黒田に死刑執行の日がやって来たのだ。その日、本来ならば私は黒田の執行には立ち会わないはずであった。何故ならば死刑の立会いは私達刑務官にとっても精神的に多大な負荷を受ける要因になりうるために刑務官の中でも特別な者にしか、就くことが出来ないからだ。ところがその日に限り、立ち会うはずだった刑務官が同時に二人体調を崩し、代役を勤められる者が私以外にいなくなってしまった。なぜこんな事にと後悔と恐れが湧き上がるも、後数時間もすれば私の悩みはこれまでよりも随分と軽くなるはずだと信じ、私は代役を引き受けた。


 十四時十五分、黒田の姿が執行台の上に現れる。頭には袋のような白頭巾が被せられ、両手は後ろ手に回されきっちりと縄で固定されていた。黒田が縄で作られた輪に首を通す。すると徐々にあの音が聞こえ始めた。轟々という、あの風の音だ。続いてブツリブツリと妙な音が黒田の頭上で音を上げ始めた。私が見上げるとあの女性の姿が見えた、黒田をいつもの表情で見下ろしている。ブツリ、最後に一際大きな音がすると固定されていた縄が分断されて床に落ちてきた。黒田の首に通された縄は意味を無くしてしまった。同僚の刑務官も唖然として立ち尽くしている。同時に黒田の足元から怒号のような集団の叫び声が風に乗って吹き上がり始めた。執行台の下にはいつの間にやら漆黒の巨大な穴が出来上がっていて、そこから何本もの人間の腕が生え始める。やがて穴から鎖のように絡まりあった裸の幾人もの人間の塊が黒田の足を掴む、と同時に執行台の床が呆然と立ち尽くす私達刑務官の前で突然開いた。落下する黒田に群がる人の塊、それらが黒田を包み込むと穴の奥深くへと連れ去った。


 共に見ていた刑務官が穴の上を歩き出す。吹き荒れる風をいともせず歩くと何時の間にか浮かび上がっていた黒田の体の脈をとり、首を振った。


 私は恐怖で足を踏み出すことができない。すると徐々に私の体が穴に吸い寄せられるようにずるずると引き摺られ始めていた。私が足元を見るとそこにはあの女性がいた。そう、あの黒田を見下ろし続けた女性だ。強烈な怒りと恨みの目線で私を焼きつけ、痺れ上がる程に私の足に両の手の指を食い込ませている。私は彼女の存在を知っていた、彼女が誰であるのかを。


 私にはかつて、恋人が居た。彼女には性質の悪い癖があったのだ、それは酔うと誰とでも寝てしまうという癖だった。ある日私は彼女が他人の男と逢瀬をしている所を見てしまう。当時から刑務官であった私はその男が入所と出所を繰り返しているどうしようもない犯罪者だと言う事がすぐに解った。暫く耐え続けていた私だったが、それを知りながら何も言わない私に対しての当て付けか、いつしか彼女は私にこれ見よがしに平然と逢瀬を繰り返すようになる。


 我慢も限界だった私は彼女が寝ている隙に黒田の部屋の合鍵を用意すると職務中に囚人に対して使用される睡眠薬を僅かばかり盗み、黒田の留守中に部屋に忍び込むと、ビニールに包まれた得体の知れない錠剤薬の中に混ぜ込んだ。しかし、その姿を私は彼女に発見されてしまう。私は彼女に黒田を殺す事を打ち明けた、彼女はもし刑務官の貴方が黒田を殺す事ができたならば貴方の元に戻ると約束し、その後黒田に睡眠薬と麻薬を同時に飲ませる事を成功させた。


 だが、私は元から殺す相手は彼女一人と決めていた。私の精神はとっくに擦り切れて限界を超えてしまって彼女には殺意以外抱けずにいたのだ。私は彼女に別人の犯罪に見せる為にと全身を完全に防護した姿で現れると、用意したバットで彼女の首筋を後から強烈に殴打し、彼女の死を確認した。すぐにバットを眠り続ける黒田に握らせて部屋を後にした。前科が数多くある黒田はその後の裁判で死刑が確定したのだ。


 徐々に穴の上に引き摺られてきた私が穴の底を見ると暗闇の底から再び絡まりあった人の塊が私に向けて伸びてきているのが解った。様々な人々の呻きや叫び声が風に変わり、私の体に強烈に吹き付ける、塊を良く見つめるとその中にはこれまで死刑が執行された囚人の姿が何人も含まれている事がわかった、その中には既に黒田の姿も含まれている、そして相田老の姿も見えた。相田老の足には幾人もの幼い子供達がしがみ付いていた。私は理解する、人殺しにしか冥令は聞こえないのだ。私は穴の淵から滑り落ちると彼女に体を絡め取られ人の重なり合う海の中へと落下してゆく、漆黒の空を丸く縁取りされた原色の世界が浮いていて、それが徐々に遠ざかってゆく。穴の上には倒れこむ私の姿が見えた。私が断末魔の悲鳴をあげると、それは下からの怒号に飲み込まれ、吹き上がる風となって、倒れこんだ私自身の体の指を揺らした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ